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第十二章
奉天占領(1931年)(62)
(その1)



態勢準備

 不穏な三月事件のうわさや予算削減への不満、そして将来の計画における軍の役割への警戒は、春の国会審議を混乱に落し入れた。そして1931年4月の閉会をもって内閣は総辞職し、重傷を負った浜口首相は沈黙のうちに冥土へと旅立った。裕仁は後継首相に、浜口の政党の副党首で1930年の海軍軍縮会議への主席代表だった若槻礼次郎を任命した。前陸軍大臣の宇垣は、それまでの皇位への献身にも拘わらず、政治に関わり続けようとの執念と大逆罪への一時的関わりがゆえに、国内政界から放逐され朝鮮総督に就任することとなった。
 若槻首相は従順を表し、裁判官を除き月50ドル以上をかせぐ公務員の給料を10パーセント削減する布告を裕仁に提出した(63)。裁判官の報酬は、法規の特令によって、裁判官自身によってのみ引き下げることが可能だった。その布告の法案作成の期間、家柄のよい若手官僚をはじめ、愛国心あふれながら俸給の低い軍将校の中からも、強い苦情が噴出した。しかし、1931年5月27日、裕仁がその布告に署名すると、その国の公僕たちは「心機一転」、沈黙して自己犠牲にいそしむという、驚くべき日本人らしさを発揮した。法曹協会は、裁判官は自主的に全体に従い、個々の裁判官も例外となることのないようにとの決議を採択した。
 かくして裕仁にとって、いまや、アジア大陸への自らの計画を実行に移す、政治的、財政的な準備が整うこととなった。1931年の夏を通し、彼は用意済みの軍事的計画をさらに詳細に検討することに専念した。彼の目的は彼の軍事顧問の持つそれとは異なっていた。彼は満州に根拠地を獲得することを、将来、中国沿岸からシンガポールへと戦略的な足がかりを獲得するために必要としていた。彼は、満州自体の即座の征服や植民地化を最優先事項とは考えていなかった。明治天皇による朝鮮の併合は、日本の大きすぎる人口のもたらす問題が北への拡大によっては解決されないことをすでに証明していた。日本の大衆は、そこがいかに肥沃であろうとも、北方の寒冷な耕作地へと移民してゆくことに関心などなかった。数世紀昔に摂取されたアイヌの北海道でさえ、まだ人口は希薄だった。日本がいかにも必要であったのは、植民地に適した温暖な土地や、東南アジアの石油やゴムや鉱産物といった産業発展のための資源であった。だが、陸軍の単純な頭脳のみが、満州を自身の目標として必要としていた。
 裕仁には、当面、二つの計画があった。ひとつは、陸軍の人員規模を削り、陸軍予算を増加させないまま、機動部隊を増強し、朝鮮駐留師団を増やすことだった。それは、いざという時のために備え、陸軍力を増強するものであった。裕仁はその計画を、1931年7月15日、公式に承認した。(64)
 第二の、そしてより重要な計画は、満州獲得のための作戦上の青写真で、1928年、裕仁が、毒舌でならした軍事的天才、石原寛治中佐に委託して作らせていたものだった。石原が完成させたその青写真は、完璧かつ構想力に富むものだった。それは、あらゆる軍事的突発性にも備えたもので、さらには、その作戦があたかも偶発的であるかに内外に見せかける幾つかの政治的策謀すらをも巧みに含めたものだった。裕仁は、石原が満州を 「天国」 にしたいと自身の期待を述べた末尾数ページの観念的な部分を除き、その青写真に感服させられていた。
 1930年末より、裕仁は石原の創作を公式には「付随計画、極秘」の事項にファイルしていた。だが彼は非公式に、計画を実行に移す用意として、1931年8月までには必要とするあらゆる軍事的準備を完了させておくようにと、伯父の陸軍元帥の閑院親王に伝えていた。また裕仁は、牧野伯爵とともに秘密裏な政治的工作にも乗り出し、時が到来した際、いかなる行動をもとれるよう、気運を高める方法も決めていた。
 裕仁が非公式の許可を与えるやいなや、陸軍諜報部や憲兵隊内の特務集団の工作員は、満州に介入する挑発に入る準備に取り掛かった。1931年6月、東モンゴルを「農業専門家」として旅行中の一人の日本人諜報員が逮捕され、中国兵によりスパイの疑いで銃殺された。7月、関東軍は、中国人農民によって用水路の掘削を邪魔されている朝鮮籍移民の権利を保護するためとして、満蒙国境地域へ軍を進めた。(65)


司令官の選任

 7月13日から17日の間、やがて満州に駐留することとなる第10師団の連隊司令官たちは、 「図上演習」 や 「作戦研究」 と取り組んでいた(66)。彼らの総司令官は本庄繁中将で、理論上の作戦を進めるには最適の指導者だった。55歳の彼は、政治色のないもっとも有能な熟練専業軍人として、一般兵卒から尊敬されていた。中国駐屯部隊で訓練を受けた彼は、暗殺された張作霖を永年の友人とし、流暢に中国語をあやつり、終局的な日中共同体構想の確固な信奉者だった。だが、中国との高まる緊張関係を理由に、彼は、蒋介石に酷似する自分の風貌を隠すために、ひげを生やしていた(67)
 7月13日、本庄中将が自分の師団を統括し、図上演習を開始していた時、宇垣大将は新総督として朝鮮への赴任の途上で下車し、大阪南西の第10師団基地に立ち寄って本庄に挨拶し、会話を交わした。二人の間には7年の年齢差があり、日本陸軍の厳格な身分関係が両者を隔てていたが、後輩である本庄は親しみをもって宇垣を迎えた。彼はそれまで宇垣による厚遇に恩義を感じており、また、宇垣の新任務が、先輩大将の望むものでは決してないことを彼は知っていた。
 二人は、線路際の休息所で会って茶を飲んだ。宇垣は、会話の要点を遠まわしにめぐりながらとゆっくりと話を進めた。要点というのは、彼の大逆罪に関しての皇位に対する罪ほろぼし――身分上の名誉を保つために彼が払いつつある部分的犠牲――についてであり、彼は自分の部下である本庄に、満州を征服するために彼の名前と力を貸してくれるようにと依頼することだった。事の詳細には触れなかったが、宇垣は本庄に、蒋介石との交渉が進行中で、ロシアの革命派の軍事力が強化されているとの観点から、日本の満州獲得が必要不可欠である、と説いた。彼は、満州が日本と中国の間の橋となり友好の絆として役立つ、アジア的国家のモデルとなることを漠然ながら望んでいた。そしてむしろ唐突に宇垣は本庄に、満州における日本租借地に陣取る関東軍の次期総司令官になるようにとの 「陸軍中央の選択」 があると告げた。本庄は、そう期待されていると知り、ただちに、もし陸軍の多数派で分別ある宇垣派の将校たちがこの任命を支持するのであるならば、それは大いに名誉なことであると返答した。(68)
 宇垣はそれに感謝する言葉を述べながら列車にもどった。そして次の駅から、閑院親王の部下で、東京の軍務局の小磯少将に、本庄受諾、との電報を打った(69)。その二日後、裕仁は本庄の再任辞令に玉印を押し、特務集団の鈴木貞一中佐が本庄の司令部に現れ、天皇が彼に期待している大きな信頼について、内々に彼に伝えた(70)
 さらに鈴木は、天皇が土肥原賢二大佐を奉天の特務機関――陸軍の政治工作組織――の長に任命したことを伝えた。本庄は、1918年に北京で一緒に働いたことから、土肥原を良く知っていた。土肥原は、バーデン・バーデンで選ばれた11人の選良の一人だった。彼は、1913年より、ほとんど連続して中国に勤務し、小軍閥、役人中の不満勢力、権力を奪われた満州皇室といった人々を掌握していた。彼が持つ、中国で通用する――女や爆弾や麻薬といった――不正規な通貨についての知識は、彼を 「満州のロレンス」 と呼ばせるものとなっていた。その特務機関の奉天支所は、少数の工作員で運営されてきていたが、少なくとも土肥原の就任が意味することは、満州の張学良政権の変化を表していた。
 そして最後に鈴木は、天皇が東条英機大佐――後の二次大戦時の軍事的親玉――を参謀本部一般幕僚の、組織・動員部長に任命したことを伝えた。本庄は東条をあまりよくは知っていなかったが、有能な実務処理者であり、事の詳細や能率に長けた人物であるとは受け止めていた。
 本庄は深々とため息をつき、自分のその後の責務が何であるかをよく承知したと鈴木に告げた。だが胸の内では、彼が日記に記したように、たくさんの疑問、不審、および異論を抱いていた。(71)


不気味な静穏

 7月なかば、老いた西園寺は、中国での戦争計画について様々な方面からのうわさを耳にしていると、若槻首相に打ち明けて警告を与えた。そこで若槻は、朝鮮と中国における最近の 「諸事件」 をかんがみ、日中間の高まる緊張について天皇に特別の報告をした(72)。その中で彼は、蒋介石が最近の演説で、日本軍が広東地域の反蒋介石暴徒に資金と銃を提供していると非難しているのは正確であると述べた。国民党の広東派の代表が東京に到着し、日本が彼らの政権を認めそれを支援するようにとの交渉を求めた(73)。外務省の担当官は、彼らに友好的に接したものの、日本側からのいかなる言質も与えなかった。裕仁は〔そう報告する若槻に〕満足そうにうなずきながらも、日中関係の悪化を遺憾とした。そして彼は、 「日中親善を維持することを、我国の政策の要とするようあなたも考えていると思うが、そうではないのか」 と尋ね返した。
 謁見の間から出てきた若槻首相は原田男爵に、天皇の言わんとすることは 「日中親善か、それともその逆なのか」 と尋ねた。そしてその言が西園寺に伝えられると、西園寺は牧野内大臣に、天皇のあいまいさを明快にするべきと述べた書簡を送った。すると直ちに海辺の興津を副侍従長が訪れ、天皇が 「日中親善」 を口にされる時は、それだけの意味であり、それ以上のものは何もない、と伝えた。
 西園寺は、 「彼らが副侍従長しかよこさなかったことを、よく肝に銘じておこう」 と、特務集団との間を仲介する彼の政治秘書にあてつけて言った。つまり言外に、事態に精通したより高位の侍従なら、恥を感じるか嘘をつかないでは、そうした言葉を伝えることはできまい、と西園寺は述べたのだった。(74)
 貴族階級ならば誰しも、また中産階級なら多くが、そして、歩兵をなす下層階級ならほんの一握りが、満州出兵がすでに進行中でありながら、その進行の様子の一言すら報道されず、また公の場で議論もされていないことを知っていた。天皇にとっての秘密は、全国民にとっての秘密となっていた。その首長の計画がそれほどにその民族全体の胸のうちにも内密にされる国は、日本以外、どこにも見られなかった。太平洋の未開の孤島で、アメリカの人類学者が同じような秘密行動を発見したことがあった。しかし、日本のような大産業国では、そうした振る舞いはきちがい沙汰として唾棄されるべきことだった。東京のアメリカ大使館の諜報員は、極東での緊張についてはワシントンに警告していたが、戦争の可能性については察知できていなかった。
 中国政府でさえ、警戒すべき異常事態とは見ていなかった。蒋介石は、共産主義者毛沢東の 「下層農民」 に対して、お決まりな 「暴徒撲滅作戦」 を展開はしていた。蒋は満州軍の全体を、その首領であり、彼が信頼する弟子である張学良ともども、彼の側につけていた。西洋の軍事監視家にとっても、蒋と張が満州の防備を未経験な徴収兵のみに任せている現状から、彼らが日本には何ら心配も抱いていないとしか考えられなかった。しかし、日本が中国本土での国民党の統一に介入しないことを約束するなら、蒋介石と先の孫文が、ほんの表面上の交戦と引き換えに、満州を犠牲に捧げることに合意していたことを、西洋軍事監視家は知らなかった。
 関東軍が日本が所有する南満州鉄道権益の全線にわたって野戦砲を設置していることは、1931年7月22日までに、満州駐在のアメリカの記者たちには明らかなこととなっていた。だが、蒋介石はそれに何らの抗議も表さず、張学良も、アヘン中毒の引き続く治療のため、北京のアメリカン・ロックフェラー病院に入院していた(75)


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