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第十二章
奉天占領(1931年)
(その3)
行動開始
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本庄中将は、東京から閑院親王の使者をその前夜に迎え、その翌日の1931年9月17日の朝、遼陽の公園に出向いた。そこで彼は、翌日の夜に予定されている進攻戦の口火となる、日本の部隊による鉄道 「事故」 の最終演習を観閲した。その日、本庄は、日露戦争の戦場跡のひとつを訪れる予定を取り止め、野戦司令官らとともに、午前と午後の一部を費やし、全ての計画を詳細に通し演習させた。そして午後2時、彼は、旅順の部隊本部に戻るまでの6時間、快適な睡眠をとるための寝台付特別車両に乗り込んだ。
本庄の乗る寝台車が奉天を後にして南西に向っている頃、名高い幇間(たいこもち)の建川の乗る列車は、南東から朝鮮国境を越えて奉天に向かっていた。この列車が、5時18分、本渓湖という田舎駅に給水のため停車した。そこで、関東軍の円熟政治家、板垣が乗車した。彼は、愛想のよい建川の乗る特別車両に案内され、性分相似た二人の将校は供に座席に着き、奉天到着までの1時間47分を、慎重にではありながら内心を明かし会って過ごした。後に彼らが友人に話した内容によると、互いの会話の切り出しは、以下のようであったらしい。
板垣 「閣下、お元気のようでなによりです」
建川 「いやあ、本当のことを言うと、私は車中ではよく眠れなくてね。君のような元気な若手には精一杯働いてもらいたいが、今日のところは、一晩良く休んでからにしたいね」
板垣 「閣下、若いといっても我々もこのところの奮闘で疲れ気味です。ですが、我々のことはご安心頂くとして、奉天に着きましたら良いお宿にご案内いたしますから、用件は明朝にお話するということに」
列車が午後7時5分に到着した時、将校専用車が彼らを迎えて待っており、三日前、パナイ号撃沈司令者の橋本からの電報を受け取った若い少佐がその運転手を勤めていた。彼は建川と板垣を日本人街にある最高級の待合、
「文菊」 〔「菊水」 の誤りか〕へと運んで行った。そしてその後は、選り抜きの芸子と酒による供宴となった。だが板垣は酒を一杯飲み干すと、特務機関に極めて重要な電話が入るはずであるからと訳を言って、その若い少佐や芸子に建川の世話をまかせ、入浴や飲み食いをする彼のもとを去った。(96)
特務機関の事務所は、二階建ての鉄筋コンクリートの建物で、その夜の作戦のための通信中枢となっていた。南満州鉄道の保線技師が、権益鉄道沿線のすべての日本軍駐屯部隊と結んだ交換機の設置を終わらせていた。中尉や大尉が係官として、地図を用意し、時刻を合わせた時計を手にして、電話への対応に着いていた。その特務機関の指揮に当たる
「満州のロレンス」 こと土肥原賢二大佐は、翌朝には自分を 「奉天市長」 にさせようと、市の中国人知人をめぐって政治工作に出ていた。その定例の夜間任務中との口実の彼の留守を、板垣大佐が代わることになっていた。(97)
「文菊」 から駆けつけた板垣は、奉天の土肥原の私設事務所からの電話と、旅順に近接する港町、大連にいる一人の肖像画家からの電話をつないだ。本庄中将は、そのわずか前の午後8時、大連のその画家のもとを訪れていた。彼は、演習視察と移動の多忙な一日を終え、旅順への帰路の途中、その画家のもとに立ち寄り、その画家が描いている自分の肖像画の進捗具合を確かめてみるつもりだった。本庄は、長電話にならねばなかった板垣との話を終え、午後9時過ぎにその画家のもとを後にし、車で旅順に着き、熱い日本式の湯船に身を沈めて消耗気味の鋭気の回復をはかった。(98)
一方、奉天では、板垣は電話を終わらせ、自分の事務室から満面に笑みを浮かべて出てきた。それは、すべてはうまく進行していると彼の部下たちに知らるサインとなった。そして彼は長いすに身をまかせ、その後の長い夜に備えて仮眠を始めた。(99)
奉天の北 〔約7.5kmの柳条溝(湖)〕 の南満州鉄道の線路上では、特務機関の工作員# 3が、長春の町から南の奉天を結んでいる鉄道線路から5フィート〔1.5m〕西側の土手上で、42筒の黄色火薬に配線をつなげていた。彼は、大量の土は吹き飛ばすものの、日本が所有の線路そのものは破損させないように、その火薬を注意深く土中に埋めた。(100) 後に、日本の外務省は、中国兵がその爆破をし、線路を1ヤード〔91cm〕以上破壊し、その鉄道の運行を著しく乱したと言い張った。そしてその修復をしている間、日本軍は辺りに非常線を張って立ち入り禁止とし、中国人による損害の調査をできなくさせた。
「公式の現場検証」 の後、日本軍は、長春発10:40急行列車が、どのように爆発の数分後にその現場を通過し、しかもその乗客が何の衝撃も感じずに奉天に到着したことを、どうにか説明しなければならなかった。日本軍は起こるべき脱線の
「目撃者」 を一人用意し、次のようにその発言を引用した。 「急行列車が爆破現場に達した時、それは揺れ一方に傾いたように見えたが、それは元に戻り、止まらずに通り過ぎた」。(101)
- # 3 河本末守中尉。彼は、1928年、類似した状況のもとで張作霖を爆殺した河本大作大佐とは、同じ神戸の河本家の出身。
謀略の線路爆破の点火装置が押されたのは、午後10時20分ごろだった。その区域で 「夜間演習を行うため」 ――中国人にはそう説明していた――一週間待機してきた日本軍線路守備隊は、最初、彼らを監視するために配置されていた中国の警察パトロール隊に襲いかかった。それに、付近で宿営していた関東軍の正規軍の二個歩兵中隊が、即座にその掃討戦に加わった。(102)
軌道にいた日本の爆破担当は、奉天の特務機関に電話をかけた。そこでは、板垣大佐が目覚めたばかりのところで、時計にひと目眼をやり、あくびをしながら上着を着、そして、宿舎にもどって寝ると告げて部下たちを驚かせていたところだった。しかし、その電話を受け取ると、彼は冷静に電話の向こうの爆破担当に、爆破現場から300ヤード〔270m〕ほどのところにある中国人守備隊の兵営「北大営」に直ちに攻撃をしかけるように告げた。
彼がこの命令を伝えると直ちに、交換台はその回線を切り替え、隠されてきたロシア9.5インチ砲の砲兵中隊につないだ。彼は砲兵将校に砲撃開始を命じた。さらに特務機関の交換係官は、板垣を南満州鉄道の権益路線上の日本守備隊に次々とつないだ。そして板垣は繰り返し、
「こちらは板垣。計画に従って直ちに行動せよ」 と命令を発した。こうして満州中南部の中継駅の小さな町のほとんどは、二時間以内に日本の手に落ちた。(103)
午後9時、「文菊」の建川少将はあてがわれた芸子の一人と、 「俺は愛国的な若手将校たちのじゃまをする積もりはないのでね」 と言いつつ床についた。午後10時30分頃、9.5インチ砲が中国人の飛行場や警察宿舎に砲撃を始めると、彼と寝ていた芸子が、爆発音が恐ろしいと彼を揺り起こした。彼が寝間着のままで宿の玄関まで行くと、そこで一団の兵士に遭遇した。兵士は彼に、
「我々は貴殿を護衛し、危険な場所へは外出されないよう命令されております」 と安全を保障した。
「それは大変結構だ。私と女は寝室にもどり、手荒な仕事は君ら若者たちにまかせよう」 と建川は彼らに言った。だが建川は部屋に戻ると、服を着け、裏口から抜け出し、別の一団の兵士に護衛させて、作戦を遂行している一部隊の司令部へと向かった。その夜遅く、その芸子が彼女の脇で彼が赤子のように眠っていたと口裏を合わせたにも拘わらず、彼が抜き身のサーベルをかざして、奉天城への攻撃を指揮している姿が見かけられた。(104)
大砲の砲弾が中国警察隊の兵舎区画へと通じる頑丈な門へと降りそそぐと、その区画にいた一万人の中国人は、裏門から整然と撤退を開始した。彼らは、日本軍の砲撃を引き付けるため、使ってきた建物内の灯りをつけたままで退去し、また世界に向けて、自分たちは何の予期もなく、普段の夕時の暮らしをしていたところであることを示そうとした。戦闘装備を着けた500人の日本軍兵士が、空っぽとなった兵舎区画を一歩々々占領し、一名の犠牲者を出すことなく、全区画を掌握した。(105)
「兵舎区画への襲撃」 が始まった午後11時頃、250マイル〔400km〕南の旅順では、本庄中将がまだ熱い風呂につかっていた。そこに彼の参謀長が、
「板垣から電話です。彼は閣下の明示許可なく守備隊を動かしました」 と叫びながら飛び込んできた。(106)
「何事か」 と本庄は怒鳴った。そして悠々と風呂から上がると、服を着け、部下の将校たちが電話を取り囲んで彼を待つ隣室へと大股で入っていった。戦略家の石原が彼らに代わって言った。
「我々の勝算# 4は微妙です。やがて現地全体が蜂起するでしょう。我々にとって、攻撃こそが唯一の防御です。司令官、すでに態勢の整ったその緊急時対応計画を発動させる許可を、是非、板垣に与えて頂きたい。」
- # 4 後に、日本人はその比率は、20万対1万だったとした。実際には、本庄の指揮下にあったのは2万人――1増強分隊と鉄道守備隊5大隊――だった。それに対して中国側は、新徴募兵、非正規軍、不完全武装兵、未訓練兵などの20万人が配置されていた。彼らは、衝突を避け、もし戦闘に遭遇しても整然と退去するよう命令されていた。
本庄中将は電話を脇に座布団に大仰にあぐらをかいて座ると、しばし禅式に黙想した。やがて 「よかろう」 と言って眼を開き、 「進めたまえ、その責任は私が取ろう」
と宣した。彼は電話を取り上げ、無許可の行動について板垣を大声で叱責したものの、その後は、時折 「ふん、そうか」 と相づちを入れながら、ただ聞いていた。
本庄は午後11時30分、奉天城壁内の旧市を攻撃する板垣の計画に許可を与えた。一個連隊が攻撃のための結集をすでに終了している、と板垣は伝えた。お忍びだった建川少将も、部隊に
「戦闘精神」 を鼓舞しようと、その連隊の大佐に付き添っていた。市の北方の線路脇では、日本の部隊が警察隊兵営の大半を占拠していた。張学良の飛行場に向けられた9.5インチ砲の砲弾は標的に命中し、格納庫と飛行機を破壊したと報告されてきていた。中国人飛行士は誰一人として、闇夜へと離陸を試みようとはしなかった。
本庄は顔をほころばせて電話を切り、関東軍司令部を奉天へと移転させる準備に直ちに入るよう部下に命令した。9月19日午前1時30分、彼はソウルの朝鮮軍の司令官に電話し、支援を依頼した。同司令官は朝鮮の日本部隊を可能な限り支援に振り向けることを確約した。朝鮮に基地をおく日本の航空隊が、夜明けと供に、奉天に着陸する用意を整えていた。板垣大佐のこうした措置の通知を受けて、本庄中将は午前3時30分、奉天に向けた列車に乗った。(107)
その10分後、奉天城内の制圧が宣言され、建川少将はやすむために、「文菊」に戻った。そのほぼ一時間後、奉天の北、190マイル〔304km〕の長春の中心部を長谷部旅団が占拠した。午前5時までには、旅順の北500マイル〔800km〕までの南満州鉄道に沿ったすべての中国の町は、日本人の掌中に入った。朝鮮を飛立った最初の日本軍軽爆撃機編隊が、占拠された張学良の飛行場に着陸した。
本庄中将が奉天に到着した正午までには、南満州の戦闘は事実上終息していた。長春ではまだ激しい戦いが続けられていたが、夜までにはそれも終了した。こうして、中国軍は、松花江方面へと総退却した。同江は、満州を南北に分け、そして、奉天の中国人商工界全体を北部県首都のハルピンの白系ロシア人材木商、鉱業者、金貸し業者から分けていた。こうして、戦略家石原が二年以上も前から構想してきた計画は、彼が惜しみなく描いた詳細へのその憑かれたような忍耐と献身の成果をみのらせることとなった。この作戦では、400人ほどの中国人と、正確に二人の日本人が犠牲となったのみだった。(108)
建川少将の奉天到着から24時間が経過した9月19日の宵、その名高い幇間は宿の「文菊」を出て、平定された町の通りを散策した。彼は北方の夏の長い夕暮時を満喫し、通常通りに店を開けておくようにと憲兵に強制されて怯えている中国人店番に陽気に声をかけた。そして特務機関を訪れ、自らを名のり、二階の司令官室へと階段を上っていった。そこでは〔旅順から到着したばかりの〕本庄中将が彼を待っており、関東軍は
「慎重さと注意深さをもって」 行動せねばならないという首相奏薦者西園寺の言葉を、少なくとも形の上では建川に伝えた。(109)
本庄は、建川の見え透いた丁重さの態度に腹を据えかねていた。その朝――本庄はそれを建川がまだ寝ているうちに知ったのだが――、天皇は、満州からのニュースに夜明け前に眼を醒まされていた。そして天皇は、若槻首相との謁見をもってその日を開始していた。若槻は最初、通常な様子である天皇から特に配慮することなく、単刀直入に、許可のない
「冒険」 をする陸軍を縮小すること、ならびに、陸軍の作戦の 「不拡大」 を求めることは政府方針であると述べた。それに応えて天皇は、 「政府の立場は至極妥当と思われます」(111) と返答した。これに力をえて若槻は、参謀本部が全日本軍は関東租借地区へ引き返すように命令することを陸軍大臣に要請した。だが参謀本部はそれを拒否し、裕仁からの何らの新たな命令のないことがゆえ、それを維持しようとした。だからこそ、本庄には率直に懸念することがあった。国際連盟の日本大使は政府を代表して、関東軍は自兵営に呼び戻されると確約していた。果たして天皇はそうした対外的約束にどう取り組み、どう献身されるのであろうか。
「ご安心なされよ」、 「現在のところ、南満州には限定された作戦が展開されているのみで、すべて首尾よくゆく」(112) と建川は答えた。さらに彼が説きつづけたことはこうだった。天皇裕仁は、これから為されること以前に、すでに為されたことに関し、国民と内閣に陸軍を支持することを望んでおいでだ。 陛下は、残りの満州の掌握へと出る前に、世界の銀行と大使館の反応を調べたいとされている。陛下の政治顧問が、〔この軍事的行動の〕国内的および国際的受容を工作している間、獲得したものを保持し、辛抱強く待つことが、本庄の責務である。だが本庄は、そうした話に疑いをもって頭を横に振った。現在の〔日本にまつわる〕情勢は防衛困難だった。ここで躊躇していれば、敵が松花江の北で再結集することを許すこととなる。それに、この戦争への天皇認証というお墨付きなしに防御の体勢に入らねばならないとするなら、日本軍の士気は急速に低下する。〔そうした本庄の態度に〕業を煮やした建川は、本庄を司令官室から連れ出し、戦勝を祝う夜宴へと誘った。しかし本庄は、どこの料亭においても、どんな女給や芸子が寄り添おうとも、電話から片時も離れようとはせず、東京や戦場での政治的、軍事的進展の掌握を第一としていた。(113)
本庄と建川が会って話を始めた午後6時30分ころ、東京では、若槻首相が自邸に西園寺の原田秘書を呼んでいた。彼は原田に、内閣の文官大臣たちが天皇に直訴するとの決定をしたと西園寺に伝えるように依頼した。彼らは裕仁に、陸軍が内閣の指令に従い、作戦規模の拡大をひかえるよう命令する旨、訴えるつもりだった。本庄と建川の祝宴が終わった午後8時30分ころ、裕仁の主席顧問たちは、皇居の杜に新設された皇室図書館の控えの間で、内閣の指令について協議に取りかかった。そこに集まった者らは、牧野内大臣、その秘書官長で大兄の木戸卿、侍従長鈴木貫太郎総督(葉巻の道教家で14年後の地下壕で日本の降伏を取りまとめる)、そして宮内大臣一木喜徳郎(宮中官僚の出身で明治天皇時代から内務省と警察の間の微妙な連絡関係を扱ってきた)であった。これら四者は、若槻首相の指令をめぐって、午後11時まで協議した。そこで彼らがともに認識した実情は、首相は、日本の文民政治家ばかりでなく、西園寺、住友財閥、ならびに知識人、産業家、専門職らを代表しなくてはならないことだった。だが空しいことに、四人の宮廷人たちは、誰をも満足させる玉虫色の言葉を探す妥協に終始した。陸軍は天皇のお墨付きを望み、内閣は天皇がお墨付きを出さないことを望み、そして裕仁は、戦場の兵士たちのために、内閣が財政支出と戦意鼓舞に同意し、国家をあげた結束を形成することを望んでいた。(114)
2時間半も頭を悩ましたあげく、裕仁の侍従重鎮三人が木戸卿も含めて決めえたことは、首相に、 「余りに多くを他者頼みとするのは、そういう首相がゆえに天皇を立腹させ」、天皇に
「内閣の全的一致の欠如」 を知らせるに等しいと、警告す ることであった。つまり、もし首相が未許可の軍事行動を止めさせたいと願うのなら、 「彼はそれを自らの責任において為しとげるべきだ」
ということだった。こうした決定もって、裕仁の承諾をえた後、翌日9月20日の朝、それは若槻首相に伝達された。
その朝にはまた、陸軍の幹部将校が、満州の本庄中将からの要望について協議するため、皇居の堀外の旧陸軍省に集まった。本庄は、朝鮮軍から補強部隊を送ってもらいたいと要望していた。南陸軍大臣は、内閣の政策は、裕仁が
「妥当」 とした、 「事変の不拡大」 が柱だと指摘した。
その補強とは、作戦規模の拡大を可能にすることを意味していた。南陸相は、これが 「事変の拡大」 に相当するかどうかを決定するのは、出席している将校しだいだ、と言った。そこで協議の結果に南が見たものは、その多数が自分に反対していることだった。ことに、先にその朝、裕仁の侍従長の奈良大将と会ってきた上位将官たちは、特務集団の若手たちの側に立ち、その補強に賛成する発言をした。そして最後に南陸相は、 「今や、事態の不拡大は必ずしも作戦規模の不拡大を意味しないと了解する」(115) と、大いに威厳をこめつつ容認することとなった。
閑院親王の寵臣、陸軍軍務局の小磯少将は、同様に威厳を含めて、陸相と内閣全体の承認が無い場合、もちろん補強の実行はない。だが憲法上、そうした承認を必要とはしていない。部隊の移動の権限は、参謀の助言に基づき、天皇に独占的に属していることだ、と付け加えた。しかし、戦争のような国家的一大事の場合、天皇にとっては、官僚や政治家を含む、政府のあらゆる構成者の全員一致の支持があることが望ましかった。出席した将校たちは、そうした全会一致が求められていることに同意した。彼らは、朝鮮軍の司令官に、次のような電報を打つことを承認した。
「もし、東京からの許可が間に合って得られない場合、適切な手段をとる権利が(貴殿に)与えられる」。(116)
朝鮮軍の司令官# 5は、東京といろいろ電話連絡をとり、その電文の意味をさぐった。そのため、彼はその日丸一日を費やし、予定されていた朝鮮総督の宇垣大将との連絡会議をわざわざ取り止めた。そして9月21日の正午、彼は、配下の第39混成旅団に行動を起こし約24時間以内に満州へと越境するよう命令を出したと、参謀本部に報告した。この時間的に余裕をもった行動は、内閣にその総意の変更に時間をあたえる配慮を意味したものだった。しかるべき立場の人なら誰もが知っていたように、朝鮮の日本軍の飛行機がすでに二日間にわたって満州内で行動し、総朝鮮軍が朝満国境にそって結集し、もし本庄中将が実際に支援を必要とした場合、5分で越境できる準備が整っていた。
- # 5 林銑十郎中将、後の陸軍大臣、あるいは、首相。
若槻首相は、部隊行動については内閣の関知しない事項であることを堅持するかもしれなかったし、将官たちは、通常、それに同意するのが常だった。しかし、現在の段階にあっては、将官たちは、戦場にいる日本兵士の命は、誰しもの、ことに政治家全体の問題であるとしている裕仁を支持していた。9月21日、本庄中将は、幇間の建川と閑院親王の私設密使を東京に送り、政府議会に圧力を加えた。それと同時に、本庄は自分の兵力の大半を北方の松花江方面へと移動させ、奉天は、増強部隊が到着するまで、無防備のままにおかれた。(117)
9月22日、海外の兵士たちを思いやる国民感情の高まりに、裕仁は首相に、彼の面子をたてる妥協を申し入れた。即ち、内閣に派兵のための支出を通させる一方、裕仁は自ら朝鮮軍への命令の責任をとる(118) というものだった。若槻首相はそれに黙従し、老西園寺の愛想を尽きさせた。9月23日の朝、内閣は派兵支出を認め、裕仁は朝鮮軍が満州領内へと越境する命令に署名した。
日本の対敵諜報活動は、天皇を掩護する動きの一環として、後になって、日本の朝鮮軍の一個大隊が天皇の命令以前に朝満国境を越えたとの話を作りあげた。そのねらいは、既成事実の重さに裕仁が追随したと見せかけるためのものだった。だがそこにまつわる事実は、熱意にはやる陸軍将校たちがたとえ公式の命令の前に行動をとったとしても、それがいつかを〔天皇が〕知っていたほどに、皇位との密接な連絡体制が築かれていたということである。
こうした小馬鹿にしたような芝居に、世界が反応しはじめた。あらゆる欧米列強は、かれらの東洋諸国の大使からの報告をもとに、関東軍は命令なしに行動し、すぐに戦列を形成するだろうと気付きはじめた。だがそれまで数ヶ月、そうした大使たちは、欧米の記者や事業家たちの警告を無視し、日本の外務省官僚による安心させる話を信用していた。だが今や、そうした大使たちはその面子を失いながらも、一夜にはそのしみ込んだ考えを変えられないでいた。例えば、北京駐在アメリカ公使、ネルソン・T・ジョンソンは、奉天攻落の24時間前、蒋介石のアメリカ人顧問より、一通のメモを受け取った。そのメモは、日本軍が満州を占領しようとしているとのみ鈍直に知らせていた。ジョンソン公使は、それに
「信用できない空論」 との付箋をつけ、その到着が日本による奉天奪取の後となる、通常の外交郵便袋でワシントンへと送った。(119)
東京では、アメリカ大使、W・キャメロン・フォーブス――ラルフ・ヴァルド・エマーソン〔米国の評論家、詩人、哲学者(1803−82)〕のポロ好きな孫――は、同じような警告に、ほとんど関心を寄せておらず、9月19日のその当日には、定例報告のため米国へ出航する手配を整えていた。その朝、奉天攻落のニュースが伝わると、彼はワシントンに打電し、その船出をキャンセルすべきかどうか問い合わせた。国務次官のスティムソン――後にトルーマン大統領に広島への原爆投下を強いた人物――は、フォーブス大使に、予定通り帰国するように指示した。スティムソンにしてみれれば、海外に配置された彼の有能な部下の誰もがだまされ、かつ、日本の外交官があらゆる方面で平静をとりつくろい、すべてを舞台裏で神経尖らせてささやき通せるとなどということは、とても信じられないことだった。(120)
そこでスティムソンは、1931年9月22日、スイスの国際連盟の米国代表に電報を打った。 「日本軍が周到な準備を行き渡らせ、大規模に侵略行動に乗り出したのは明らかだ。・・・軍首脳と外交当局は、意図と見解において、明らかかつ鋭く、矛盾し合うものだ。・・・だが、国粋主義感情こそが、外交当局と矛盾なく軍部を支持しうる、ということに留意されたい」。
同じような指令が、欧米各国政府から連盟代表にあてて発信された。すなわち、日本に対抗する軍事力は誰によっても用意されていなかった。米国海軍の図体は大きかったが、その半分は旧式だった。スティムソンは、日本を相手とする戦争を準備するには、5年間を要すると述べた。(121)
同じ日の午後、国際連盟の理事会は、 「日本と中国の政府に、事態を悪化させる行動を自粛するように」 と要請する決議を行った。偶然にも、その数時間前、英国は金本位制から離脱することを表明していた。英国ポンド経済圏――当時の世界経済の半分――の全体が、もはや、その発行する通貨を金に結びつけることをしないとした。明らかに、弱体化し浮き足立った欧米諸国は、東洋へ部隊を派遣しえるどころではなかった。ソ連さえ、介入の何らの準備もなかった。
裕仁と宮中の助言者たちにとって、もし日本がそれを十分丁寧にさえ扱えば、アジアは日本のものになりそうに見えた。日本人の誰も、裕仁が偉大な勝利を勝ち取っていることを否定しなかった。関東軍内の彼の信奉者は、とるに足らぬ損害しか出さずに、危うい勝算をものにしていた。違う見方の日本人大衆も、軍事的勝利の浮きうきした気分に酔い始めていた。選挙で選ばれた政府も、その責任の一部を背負っていた。中庸派は黙って従った。裕仁は、聖なる菊紋の御簾の背後から、一本の指すら見せることなく、彼の真の力を発揮し始めていた。
裕仁の直近の家臣たちのみが、早すぎる戦争祝賀であり、まだ多くの難題が潜んでいることを知っていた。陸軍内のもっとも精鋭の特務集団メンバー――ロシア征服を目指す空論派――は、南部ばかりでなく、北部の満州の征服も当然としていた。西園寺、産業界、そして穏健な宇垣派陸軍将校たちは、北満州へのさらなる進攻が始まる前に、再考のための国家的休息を確約していた。
海外では、国際連盟は、事態の成り行きを見るため、10月13日まで休会としていたが、その後、経済制裁と日貨ボイコットを課すかも知れなかった。たとえ戦艦や大砲によってではないとしても、連盟は、日本の財布くらいには触れ、裕仁に抵抗し西園寺を助ける日本国内勢力に加担する程度の力量はそなえていた。誇りをもち、物腰柔らかく、腹蔵ある多くの日本の事業家は、彼らの欧米人同業者にできるかぎりを話してはいたが、欧米人はほとんど、その緊急性を認識しないでいた。
国際連盟が 「事態悪化の自粛」 の決定をした日、裕仁のもっとも忠誠な側近たちは、直ちに、問題塗りつぶしこそが危急の課題と覚った。即ち、欧米にできる限り段階的に穏やかに現実を認めさせる方法を見つけねばならなかった。また、老いた元首相奏薦者の西園寺や、特務集団の北進派の顔もつぶしてはならなかった。こうした諸困難に対処するため、近衛親王、牧野伯爵、木戸侯爵、そしてその他の助言者たちは、翌年に向けて――1932年は申年の凶年だった――、三度の陰謀と三度の暗殺を企てる。これまで英語で書かれた文献の対象外であったそれらのたくらみは、手段を選ばぬマキャベリズム(権謀術数政治)の繰り出す悪魔の操りの典型作品とでも言えるものであった。
つづき
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