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第十三章
ドル買い(1931-32年)
(その3)



満州での陽動作戦

 本庄中将は10月30日、奉天において、北満州への進軍を命令した。その進撃は、特務集団による母計画の一部をなすもので、国際連盟を意識したものだった。その目的は、はるかに遠い北西満州の町チチハルを確保し、そして、連盟へのみせかけとして、総会が再開される11月16日に、これ見よがしにその町より撤退することだった。チチハルが標的として選ばれた理由は、北満州のすべての町の中で、奉天から最も遠い町で、その作戦行動はきわめて目立つものであった。加えて、張学良軍の最大部隊が、チチハル地域に再結集していた。それに今ここで打撃を加えておけば、北満州の奪取は、国際連盟の顔を立てた後のその冬、より安易に展開するはずであった。
 その侵略の突破口を開くため、本庄中将は、松花江を渡って北へと伸びる鉄道橋を復旧する工兵部隊編成の任を負う幹部を派遣した
(41)。かれらには、凍結した川の北岸に陣取る満州軍を壊滅せよとの命令が与えられていた。その工兵部隊は、取り急ぎ集められた傀儡の満州人傭兵――土着満州人の独立運動であるかに見せかけた関東軍のやらせ――によって支援されていた。そして、その傭兵部隊の背後に続いて、関東軍の正規部隊を乗せた列車が、本当の戦いのため、北方に向かっていた。
 暖かい毛布地の濃黄緑色の軍服に、ヤギ毛皮のチョッキ、綿入りのストームコート、耳覆い付きで毛皮の内張りのヘルメットを付けた関東軍兵士は、ぼろをまとった空腹の張学良軍の地域召集兵を、四日もあれば蹴散らせると見積もっていた。しかしながら、中国軍司令官の馬将軍は、もし11月16日の国際連盟の会議まで持ちこたえれば、日本軍の面目を丸つぶしにできる、と自軍兵たちに告げた。この限定的ながら小規模な復讐の目的に燃えて、中国軍は龍の群れのように戦い、日本軍の予定を、血に染めさせて二週間も狂わせてしまった。日本軍がチチハルを掌握したのは11月18日だった。そして、その町が、雇われた満州人からなる傀儡軍に引き渡され、約束通り日本軍が引き上げたのは11月26日になってからだった。こうして、日本の連盟に対する礼節を伴う振る舞いも、立腹した連盟の要求を前に、見苦しい譲歩に変貌したのだった。(42)


溥儀誘拐

 西園寺が東京へ行くと譲り、また、本庄中将が北満州への侵略を開始したのに日を合わせ、日本のスパイ機関の集合的な指揮系統は、少年皇帝、ヘンリー・溥儀を満州の傀儡統治者にすえる計画を発動させた。その朝、土肥原大佐――今や奉天市長で満州の特務機関長――は、天津の 「静寂苑」に溥儀を訪ねた(43)。そこで土肥原は、少年皇帝が妻や宦官がもつ懸念に屈服させられていることに気づいた。溥儀はなおも祖先よりの皇位を再興することを切望していたが、自分の宮廷を奉天に移すことは、日本が満州征服を完了し、国際連盟との悶着に決着をつける以前では、いかにも順序が逆であると言い含められていた。土肥原が甘言でさそい、議論をふっかけてもそれは無駄で、溥儀は岩のように動かなかった。昼前、土肥原は天津特務機関に戻り、男を惑わす満州皇女、東洋の宝石に動いてもらおうと、上海に電報を打った。
 東洋の宝石の上海のアパートにその呼び出し命令を伝える電話が鳴った時、彼女はまだベッドの中だった。彼女は、さっそく知人の日本人操縦士に電話を入れ、急いで自分を空路、天津へと運んでくれるよう頼んだ。そしてベッドを出て結んだ髪を帽子の中にたくし込み、中国人紳士が着るだぶだぶの外套をはおった。彼女はこの変装姿で、その日の夕方には、天津に到着していた。そして彼女とその友人操縦士はホテルでのチェックインを手早く済ませ、深夜前、彼女は土肥原のいる天津特務機関本部を訪ねた。彼女は受付の兵士に、わざともったいをつけて、土肥原以外には名は明かせないと告げた。彼女の到着は少なくとも翌日にはなると予想していた土肥原は、急ぎの書類仕事にいそしんでいるところだった。彼はひと区切りがつくまで彼女を待たした後、軍用拳銃を自分の前の机上に置き、その不可解な客を案内させた。
  「お名前は何と」 と、彼はそっけなく会釈して尋ねた。 
  「私の名は重要ではありません。私はあなたを助けに来ました」 と自分の最も低い声で返答した。
  「あなたは宦官のようなしゃべり方をされますな。溥儀の家臣の方ですな」、と土肥原は推測して言った。
 彼女は頭を振って、彼を一笑にふした。
  「それなら結構」 と土肥原は言い、後に彼が友人にもらしたところでは、 「もし自分の名前を明かさないのなら、貴殿が誰か、見させてもらおう」 と言って刀を抜いて彼女の眼前に掲げ、そしてその切先で器用に彼女の外套の留め金を次々と外していった。だが彼女は一歩もひるまず、挑発するかのように彼を無視し続けた。すると彼は外套を払いのけ、近づき、その肩をつかんだ。そして一声のもと、胸を覆っていた絹のスカーフを切り裂いた。後に、彼が好んで語ったところでは、 「それは女だったよ。次にね、俺はくまなくやつを検分をしてみて、彼女の白い肌のどこにも、小さな傷ひとつすら負わせていないことを確かめたのさ」。(44)
 翌日、東洋の宝石は、溥儀の 「静寂苑」 を訪ねた。最近の上海のうわさ話に長ける彼女は、その午後中をそこですごし、神経症でアヘンに狂う溥儀の妻、エリザベスとの交友をよみがえらせた。その夕、エリザベスは一度のかんしゃくをぶつけることもなく、彼女と夕食を共にした。 「 『静寂苑』 が文字通り、静寂となりましたね」 と、溥儀の家臣の一人が感嘆した。溥儀は東洋の宝石に、天津にいる限り、自分の家だと思って滞在してほしいと彼女への歓待を表した。
 エリザベスが東洋の宝石との友情を楽しんだほどには、どんな甘言も、予期されている奉天への移転に対する彼女の好意を引き出せたわけではなかった。それから四日間が過ぎると、土肥原大佐は辛抱が仕切れなくなり、溥儀ひとりで奉天へと行くよう脅しをかけることに決心した。土肥原は地元の喫茶店のウエイターを買収し、静寂苑に電話をかけ、前満州軍閥の張学良の一味によって溥儀が暗殺されようとしている、と警告させた。土肥原は、その後毎日のように、不安な少年皇帝が旧友からの手紙や、旧敵から脅しの電話を受け取ったりしていることを確かめた(45)。だが溥儀がなおも躊躇しているので、東洋の宝石は指図して、無毒だが気持ちの悪い二匹の蛇を彼の就寝の前にベッドに忍び込ませた。また11月8日には、満州人のある旧友から溥儀に贈られた果物籠の中に、彼女は二発の爆弾を発見した。彼女に呼ばれた日本の憲兵の一隊は、空騒ぎの芝居を演じつつ、その爆発物を撤去した。日本の犯罪捜査係は、たいして時間もかけずに、 「二発の爆弾は、張学良の武器庫で製造されたものであると証明された」 と発表した。(46)
 11月8日の夜、土肥原は工作して、天津の中国人地区での一連の夜間暴動の最初の騒ぎを起こさせた(47)。そして、この騒動を口実に、11月10日、日本の駐屯軍司令官は日本租界に戒厳令をしき、 「静寂苑」 を護衛部隊と武装車両で取り巻いた。かくして、恐れをなした溥儀はようやく、満州へ避難することに同意した。東洋の宝石はその夜、もし彼が一人でゆくなら、それが最も安全であり、残された妻のエリザベスは後から彼を追うにちがいないと、溥儀を安心させた。
 溥儀は、彼の車のトランクに押し込まれ、 「静寂苑」 から誘拐された(48)。屋敷の外の日本軍の見張り番や予防線は、その車のお抱え運転手を動転させ、間違って曲がってバックしたり、電柱にぶつけたりまでした。トランクの中の溥儀は、それで頭をひどくぶつけ、そのドライブが終わるまで朦朧としていた。車はやがて、暗闇のなかを日本租界の外のレストランに着けられた。溥儀はトランクから引き出され、日本軍の外套と帽子を着けさせられた。その変装姿で、彼は日本軍の将校専用車に乗せられて脱出し、英国租界にある桟橋へと運ばれた。そこには、一隻のランチが彼を待っていた。
 そのランチの船底――脇にはハイオクタンのガソリン缶があり、もし事が悪く運べば、彼は丸焼けとなりかねなかった――に押し込まれて、溥儀は川を下り、中国軍の沿岸防衛線を越え、そしてシナ海へと向かった。一度、そのランチは中国軍の見張りに警戒され、検査のために着岸を命じられた。操舵手は言われた通りにエンジンを止め、岸へ向けて船を流れにまかせた。岸の見張り兵が油断し、また、水流が船を少し下流へと運んだ時、操舵手はすかさずエンジンをかけ、散発する銃撃音の中を、安全圏へと走り去った。
 その河口で、一隻の商船、淡路丸が蒸気を満たして投錨していた。溥儀は甲板長の椅子にくくられて乗り移り、そして淡路丸は関東軍租借地に向け、湾を横切る航行を始めた。翌日、日本の南満州鉄道が所有する営口波止場で、溥儀は、名うての憲兵、甘粕正彦率いる一団によってその上陸を歓迎された。それは数年先、皇帝溥儀を取り囲む、傀儡宮廷のひとつの前兆だった。(49)
 その後の5週間、溥儀はまるで甘やかされた囚人だった。最初は、旅順郊外の温泉に、そして次は、奉天の大和ホテルの最高級スイート室に皇帝らしく逗留した。しかし彼は、いずれの場所でも、他の宿泊客との接触は許されなかった。12月半ば、彼の妻エリザベスが、東洋の宝石になだめすかされ、ついに彼のもとにやってきた。二人は、奉天の邸宅――かって、鉄冑親王で東洋の宝石の父、粛の所有であった――に、それぞれ違った夢を抱きつつ、ともに居住することとなった。翌年の三月、溥儀は、新たな傀儡国、満州の、皇帝ではなく、元首への就任を宣言することとなる。(50)


 つづき
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