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第十三章
ドル買い
(1931-32年)
(その4)
事前の政治駆け引き
全満州を奪い、それを傀儡政府のもとに置こうとする、陸軍のそうした準備がすすむなか、東京の裕仁の大兄たちは、ドル買いの責任を取らそうと、適当な政治力の結託作りに精を出していた。ドル買い、すなわち三段階の陰謀のうちの第一弾は、だましの戦争用の資金作りのためであり、その第二弾は、次に、国際連盟を混迷させ、その面子を立てようとするものであった。大兄たちは、北進派の陸軍将校、政友会の政治家、そして三井財閥の経営者を合体させることに成功していた。南進派との折衝は、裕仁の弟の秩父親王が独自にこなしていた
(51)
。
奉天攻略以来、若槻首相は自らの辞職を繰り返し裕仁に表明していた。彼と彼の反政友会政党の立憲民政党は、三段階の陰謀の最中、政権からは距離をとることを望んでおり、次の選挙でも敗北することを公然の秘密とさせていた。野党の政友会
〔犬養 毅が総裁〕
も権力奪取に乗り気でなかったが、資金源の三井の大所との、日本を金本位制から離脱させるとの約束のために、彼らにはそれ以外の選択はなかった。三井の首脳は、十億ドルをアメリカの銀行に眠らせていた。彼らは、利益をかき集め、それを実用に役立てさせうる政権交代を待ち切れなくなっていた。
(52)
裕仁は、若槻首相に国際連盟がその決定を下ろすまで政権に留まるよう求めていた。待たされる日々が数週間となるにつれ、三井の金庫番たちは次第に苛立ち始めていた。そこで彼らに一息入れさせるため、政友会の総裁
〔の犬飼〕
は、1931年11月11日の集会において、金本位制を止める
〔金輸出の(再)禁止〕
公約を表明した。その発表で、公開市場の円の価値は下落し、三井が海外に抱えていたドルの価値の相対的に上昇させた。そして三井が取っていたリスクを実利に換えさせ、後からドル買いに参入した三井の競争相手が得るはずの利益を削り取らさせた。首相奏薦者の西園寺はその発表を聞き、いかにも理解できないと表すかのように頭を振ってこう言った。 「これではまるで、開店前から破産宣告する銀行じゃないか」
(53)
。
連盟の決定
11月16日、国際連盟がスイスのジュネーブで開会した後、会議の議論は満州問題にかかりきりとなり、それに一ヶ月間を要した
(54)
。一方、東京では、裕仁は長引く緊張にさらされ、宮廷関係者が彼の健康を危ぶむまでになっていた。11月19日、年次陸軍大演習から自艦での帰路、夕闇せまる中を、彼は甲板に上がって手すりの脇に立ち、暗い海に向かって手を降りはじめた。ちょっと離れて裕仁の後を追っていた侍従の一人は、心配と驚きで彼の脇に駆け寄った。
裕仁は笑いながら 「大丈夫だ」 と言った。 「暗闇の向こうの岬で、今夜の私の通過をほまれとして、何千もの焚き火を燃やしているのが蛍のように見えるだろう。私はただ、彼らの敬意に返礼しているだけだ。」
(55)
連盟の論争がしだいに反日的に傾き始めるにつれて、東京の政治家たちはしだいに、若槻政府の崩壊も間近と期待するようになった。やがて取り掛かられる組閣をめぐる憶測で、多くは、各派閥が今後の責任を分かち合った連合体制を予想していた。黒龍会首領の頭山は、彼の手下の地下世界のボスたちによる 「闇の内閣」 のみが愛国心を満身に担うことが可能だと主張していた。裕仁や廷臣たちは、それぞれに計画を進めながら、連盟が決定を下すのを待っていた
(56)
。
1932年
〔ママ〕
12月10日、連盟は投票を行い、日本の侵略を非難するでもなく、また容認するでもない決定をおこなった
(57)
。つまり、非難に代わり、ニューヨークの 『ヘラルド・トリビューン』
(58)
が言うように、 「上手に上演されて印象深いが、事実上の無条件」 降伏状態の中で、連盟は、現地で事の正悪を判定するため、東洋へと 「調査委員会」を派遣するよう決議した。非難決議よりはましではあるものの、連盟のこの一時しのぎな決議は、裕仁と廷臣には新たな頭痛の種であった。東洋で詮索しまわるだろう反日的な委員会を迎えることは、公共の眼にもさらされ、専制的な日本政府のすべての格式に沿わないものであった。その委員会は国内の政治的問題をかき乱し、中国の好戦性に火を注ぐ恐れもあった。それはまた、日本と連盟との危機的関係を永続化させかねなかった。
連盟の投票日、裕仁は、ついに若槻政府に印籠をわたすため、黒龍会出身の内務大臣
〔安達謙蔵〕
に閣議を48時間にわたり欠席することを許した
(59)
。そして裕仁は、総辞職に至った内閣を承認し、他方、スパイ秘書の原田を、新政府を指名する式典に西園寺が出席するよう興津へ迎えに行かせた。西園寺は原田に、すでに11人クラブではどういう選択がされているのかと、皮肉を交えて尋ねた。それに原田が、政友会の犬養首相と答えると、西園寺は 「そうであるなら、犬飼しかないだろう」 とため息をついた
(60)
。
日本人の中でも小柄で、中国人の中においても政治的深謀に如実に長けた犬飼は、蒋介石との親しい仲も買われて、だましの戦争――陰謀の第2弾――の指導者の適任者とされた。それに犬飼は、黒龍会の頭山や松井大将――後に南京虐殺の責任を着せられる――とともに、三人の興亜主義主導者の一人だった。彼は孫文と蒋介石に、彼らが日本で亡命生活を送っている間、援助を与えた。もし犬飼が蒋介石に、計画されている上海での戦争はやらせで、国際連盟の面子を立てるように計られているものであると告げたなら、蒋は彼を信じるかもしれなかった。また、もし彼が、その戦争は日本がロシアへと北進する準備をまぎらわす煙幕だと告げたなら、蒋はその見せ掛けに協力したいとすら望むかもしれなかった。
(61)
裕仁が若槻内閣の総辞職を受け入れた翌日の12月12日午後2時23分、西園寺は、次期内閣を選定する儀式に出席する面倒な義務を果たすため、東京の新橋駅に到着した。彼の秘書原田は、西園寺を迎えるため駅のホームを埋めていた高官たちの群れをかわし、駅長室に飛び込んで電話を借りた。彼は、牧野内大臣の秘書で彼と親しい大兄の木戸侯爵に電話を入れた。
「確信を持って申し上げますが、西園寺親王が天皇に奏薦しようとしている名は、犬養です」 と木戸につげた。
「それは結構」 と木戸は言い、いつもの用心深さを表して続けた。 「犬養への反対はあるまい。しかし、内大臣は、財政問題に、それとも外交問題とも言うべきか、大いに頭をいためておられる。よって、大蔵大臣にその旨を伝えてもらえればさらに結構なことだ。そして彼にこう言ってくれたまえ――それは犬養で、内閣総辞職が公表される前に、いろいろな事に手を打っておかれるように。」
(62)
ドルで稼ぐ
(63)
ニューヨーク、ロンドン、パリの証券取引所がすべて閉店しているある土曜日の夕、大蔵大臣井上準之助は海外駐在の日本人ビジネスマンに対し、間もなくやってこようとしている好機について情報を流した。通貨の 「短期売り」 や商品の 「短期買い」 での複雑多種な未解決取引は、急遽、各々の資本のもとで決済された。また、日本の百貨店の店員たちは、予想される円価値の急落に備えて、その週末を返上して、値上げした新値札に付け替える作業に追われた。明けて月曜日、各家庭の主婦たちは、先週末と比べ、食料品価格が三割も、四割も高騰していることに愕然とさせられた。
まだドル買いが行われていなかったその年の9月、日本には、8億7千万円の金で裏打ちされた9億円
〔現在価値ではおよそ2兆円〕
相当の通貨が流通していた。その一円は、二分の一米ドルの価値を持っていた。それが今や、その9億円分の通貨は3億7千万円分の金でしか裏打ちされておらず、一円も0.32米ドルの価値で見積もられようとしていた。5億円以上の金が、下落した西洋通貨への巨額のひそかな日本の投機を償うために、海外へと輸出された。理論上では、円は以前の価値の43パーセント分下落しているはずだった。だが実際では、そうした通貨売買は巧みに秘密のうちに行われ、円の価値は以前の64パーセント分を切り下げていた。円がインフレ化した価値に維持されていたため、海外の日本の投機家たちは、最初、まず手持ちのドルを現物商品に換え、次にそれを円に換えた。例えば、三井の線維部門の担当役は、1931年の豊作のアメリカの綿を大量に買い付けた。そしてそれを日本に輸送し、日本の安い労働力を使って綿布に織り上げ、そしてそれをインドや中東の市場に洪水のように放出した。英国の織物工場は倒産し、そして日本は安物品商人としての名を広めることとなった。日本の事業家は、こうした通貨売買で資金を倍増し、さらに国内のインフレと賃金との格差から、膨大な利益を獲得した。日本の財閥と政府の横浜正金銀行は、合わせて、直接の帳簿上の利益として六千万ドルを生み、そしてそれを現金化することにより、2億ドルの利益を稼ぎ出したのであった。
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