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第六部


アジアの枢軸国





第二十三章
枢軸国への加盟 (1940)



ヒットラーのせきたて

 1939年8月から月1940年8月まで、日本の愛国者たちは、ドイツが参戦し勝利する前に、自国を第二次大戦への準備に総力をあげたお陰で、お得意の国内政治上の策謀をほとんど忘れていた。その戦争準備は、一千機の軍用機および125万トンを越える新造ないし改造艦船の建造から始められた。さらに新たな12個師団と25万名の兵士が陸軍に加えられた# 1(1)
 国内の大衆紙は、米国と英国による蒋介石の支援を偽善的で利己的で、行き過ぎですらあると、くどくどと非難した。だがそうした大衆紙は、日本人のもつ劣等感と民族的不満を煽り立ててはいたが、外交官や英字紙の社説が語る公式対米政策は、どこまでも低姿勢だった。陸軍も海軍も、国内では得られない軍事物資の備蓄に余念がなかった。石油、屑鉄、機械工具のために、結構な値段がアメリカの事業家に支払われていた。アメリカの駐日大使のグリューは、中国でのアメリカのビジネスへの苦情について 「直接に聞いた」 話をするよう勧められたことがあったが(2)、その後、その話が天皇の側近の人たちから内々にほめそやされているので、以後、心得ておくように言われた(3)
 1939年8月30日、法務官僚、平沼騏一郎男爵の首相職を継いだのは「陸軍穏健派」の阿部信行大将だった。阿部大将は、実のところ、もっとも才能に乏しい、大正天皇に付いた「三羽烏」
# 2のうちの極めて貴族的な人物だった。1939年11月、裕仁の大兄たちは、海軍内閣の方が米国には歓迎され、国内の軍備増強にもより刺激となるだろうと考えた。そして1940年1月、阿部大将の首相職はさらに、米内光政海軍大将――前海軍大臣でヒットラーとの時期尚早な同盟を受け入れることに反対して裕仁の目を覚まさせた――にすげ替えられた。
 日本が注目する重要な出来事が海外で相次いで発生した。スターリンは、分割されたポーランドの半分を併合した後、1939年11月から1940年3月までフィンランドと戦って、大した派遣軍や栄光もなく勝利した。他方ヒットラーは、ポーランドの別の半分を獲得した後、冬の間、ドイツ西境のジークフロイト線の背後に塹壕を掘って待機し、フランス東境にそうマジノ線の向こう側のフランスと対峙していた。
 1940年3月25日、近衛親王が選任し、建前上は全党派を代表した百名からなる国会は、無理をおして聖戦貫徹議員連盟を結成した(4)。同連盟の目的は、近衛親王を支持し、ドイツとイタリーに協力し、日本より自由放任主義、共産主義、自由主義、そして功利主義を追放し、東亜新秩序の構築に献身することだった。
 翌月の4月、ヒットラーはデンマークとノルウェーを征服した。さらに5月初め、ベルギーとオランダを戦車部隊と落下傘部隊をもって電撃攻撃し、マジノ線の側面を包囲した。



木戸内大臣

 1940年3月25日、ヒットラーの北海沿岸諸国攻撃の命令が下ったとのニュースが東京の宮廷に届いた日、裕仁は、大兄の筆頭者、木戸幸一 ――天皇の養育者の息子――に密使# 3を遣わした(5)。その密使は木戸に、皇位への民間顧問の長であるで内大臣に就くように求めた。木戸はすでに9ヶ月間、公職には就かず、挙国政党、大政翼賛会を主体とする新全体主義体制を形成するため、舞台裏から近衛親王に助言を与えていた(6)木戸は、最初にそうした政治的合唱を作り上げなければならならず、それでもなお、彼は、それがまず近衛親王に提供されるまでは、自分は宮廷の職に就くことは考えられないと主張した。二日後、彼は日記の中で、その道はもう整ったので、新たな挙国政党の副会長になる計画を断念する、と記録した(7)
 次の二週間、木戸は、そのいわゆる新体制に日本の政治家を取り込むよう、彼らへの説得と脅しを加えるために、自らの全力をそそいだ(8)。5月26日、彼は近衛と皇室の有馬伯爵と晩餐を共にし、手配はほぼ完了したと述べた。三人はそこで、従来の政党には、解体と合同のためにしばしの時間があたえられて体裁を維持し、実際の新体制の発足は、近衛親王が再び首相に就くまではなされるべきではないことに合意した(9)。こうした意見の一致の上に立って、その三日後、木戸は、新体制に全面的に協力し、「国防を固め」 「外交活動の拡大」に献身する誓約に日本の主要な政治家の署名を入れさせることで、彼の政治工作を固めた。その誓約はさらに、「大政翼賛会に加わらない者は、政治家とは扱われない」、と謳われていた。
 木戸侯爵は、ついに1940年6月1日の昼食の際、その新体制の完成した計画を実行に移した。そして、横浜
〔東京杉並の誤り〕 の近衛の荻外荘より、正装した侯爵は宮廷に車で直行し、午後3時、彼は簡単な儀式の後、裕仁によって、内大臣の地位が授けられた# 4(10)


フランス降伏

 その一ヶ月は、木戸が数年にわたる補佐時代をへて、ついに天皇に仕える公職に就く一方、世界にとっては決定的な時であった。ドイツ軍は、防御の手薄なベルギー国境を越えてフランスに侵攻し、急きょ組織されたにわか仕込みの英国派遣隊を、またたくうちにダンケルクの海岸へと退却させた。6月4日、その英国軍の後方守備隊の残余部隊が、その海辺をかろうじて脱出した。6月10日、ムッソリーニが連合軍に対して宣戦布告し、南フランスに侵攻した。国土を分断されたフランス政府は、閑院親王の旧友、ペタン将軍のもとで再構成されたが、6月22日、枢軸側に降伏した。
 フランスと北海沿岸諸国の崩壊は、東南アジアの資源豊富な植民地であるフランス領インドシナおよびオランダ領東インドを孤立させる結果となった。また、英国の東岸を防衛するために、同国艦隊がシンガポールから引き揚げたため、極東における英国の力が減退した。かくして、アジアの真珠は殻を半開きにしたまま残され、裕仁の取り巻き立ちは、もし日本がその速やかな掌握に失敗すれば、それらは、ドイツか米国によって奪取されてしまうことを恐れた。そしてもし日本が、英国に敵対する欧州の戦闘へ協力すれば、情況はヒットラーを利すると考えられた。しかし、米国の重要さはいまだ計りしれなかった。同国はまだ安泰のなかに眠っており、インドシナ地域の日本の侵攻をけん制していた。また、日本海軍は、米国と交戦するに必要な準備を整えるまでに、まだ2年から3年を要していた。
 裕仁は、侍従武官を通じて受け取った、陸海軍両省の若手将校らが書き上げた多数の情勢分析報告を読んだ(11)。あるものは、日本の地位は、「生死の分かれ目」と論じ、あるものは「絶好の機会にある」と分析していた。また別の報告書は、日本の経済力は米国のそれとは比べものにならないほど弱いと述べていた。あるいは、日本帝国は、オーストラリア、インドはおろか、西カナダを含むアラスカやワシントン州地帯までにも及ぶと論じていた。
 あまりに多くの可能性を前にしながら、その決断の重さに苦悶して、裕仁は、思いついたように、大和という古代日本の中心地にある皇祖の墳墓を訪れた(12)。その訪問には、新たな内大臣、木戸侯爵が同行した。明治天皇の時代に作成された宮内省の公式年紀によると、日本の初代天皇、神武は、紀元前660年の2月11日に即位したとあった。すなわち、1940年2月11日は、日本建国の2600年目の記念日にあたった。そこで裕仁は、遅ればせながら、この記念日を、古都京都を訪れる理由にあげた。
 6月10日、京都巡幸の最初の訪問地として、裕仁は、伊勢半島――祖先が渡来した海を見渡す――の森に囲まれた古色帯びた天照大神の神社に参拝した。木戸は木々の陰に立ち、裕仁が白木の社――聖域のなかの聖域で、新たに選ばれた天皇が日本民族の母と交信ができるとされる、古代よりの神器の鏡が納められている――の中に姿を消すのを見つめていた。木戸は、自分の日記に、 「我が気持ちは大いに高揚し、涙があふれた。私は、天皇家の今後の僥倖を祈り、自分の新たな職務の重さにおそれを抱いた。そう日本の皇室の神社に参拝し、私の心は開かれ、偉大さと勇気を授かっていた。」
 初代天皇の神武天皇陵への裕仁の公式参拝は、その翌日に執り行われが、比較的形式的なものであった。ことに、儀式が一区切りつく度に、イタリアの参戦の程度に関し、天皇は小声の質問を繰り返し、木戸はその度毎に返答せねばならなかった(13)
 翌日の6月12日、木戸は、京都の旅館で入浴後、歴代天皇の宮廷、京都御所にて、天皇と私的に夕食を共にする栄誉を得た。木戸は、ヨーロッパにおけるヒットラーの圧倒的勝利は、東洋におけるフランスやオランダの植民地の支配が他の国の手に落ちる前に、日本に対し、その掌握を是非とも成さねばならないものとさせている、と裕仁に同意した(14)
 同じ日、外務大臣は、タイ――東洋において日本以外で唯一の自らが宗主国とみなされている国――との相互不可侵条約に署名した。タイは、1893年、1904年そして1907年と三度にわたり、ラオスやカンボジアの大きな部分をフランス領インドシナに割譲されていた。こうした領土の返還を求めるタイの要求を仲介するとの口実で、日本はフランス領インドシナに軍事視察チームを送り込み、最終的には、一時的介入として、米国が代表する警備行動隊によって、その植民地が統治されるよう画策していた。こうした方式でタイと友好関係を結ぶことで、外務省の外交首脳は、全東南アジア地域の現地民の信頼を獲得でき、西洋諸国の植民地主義を追い払う運動に参加させ、それを日本の植民地主義に置き換えうると展望していた(15)
 裕仁は、木戸侯爵との親密な晩餐――京都御所のほの暗く隙間風も通る障子の広間において行なわれた――で、もし日本がフランスの崩壊でもたらされた南進への機会を活用しようとするには、日本は近衛親王が構想する翼賛政府による統制が必要であることを説いた。その翌日の6月13日、東京に戻ると、木戸はさっそくその天皇の言葉を行動に移した。彼は、米内内閣の各大臣に、総辞職して近衛新内閣への道を開くよう求めた(16)。そして外務次官で大兄の谷正之
# 5に、フランス、英国ならびに半自治状態のオランダ東インド政府と、日本において交渉を設定するよう強く要請した。谷はただちに、東京駐在フランス大使のシャルル・アルセーヌ・アンリ氏との協議に取り掛かった。
 谷は、フランスの突然の 「低姿勢」 がゆえに、アルセーヌ・アンリに、インドシナを通じて蒋介石の 「自由中国」 に武器の供給を止めるようにと要求することが可能だった。6月20日には、アルセーヌ・アンリとそのヴィシー政府はそれを黙認した。さらに彼らは、「日本の特別の要求を認め」、ハノイより北に向かうすべての列車の構成を調べる日本の監視をインドシナで行わせることに同意した。その結果、蒋介石は、西洋諸国との通商の80パーセントを失った。日仏間の合意条項はまた、上海のフランス租界に関し、6月23日をもって、その守備部門を日本部隊に譲り、同租界全域を日本の警察の捜査と犯人引き渡しのために明け渡すよう強要した。(17)
 翌日の6月24日、一人の侍従武官が裕仁に、南進が開始される前に、支那事変を終息させるため、蒋介石がただちに日本の傀儡総督の汪兆銘と日本人参謀次官に会見する、との報告をもたらした。その会見が持たれたのは数週間後であったが、漢口の南、その半分を占領された湖沼地方の長沙で、蒋の信頼する副官との間で行われた(18)。蒋は、その代表を通じ、日本が求める 「支那事変の完全な終結」 のための諸条件の受諾を拒否したが、中国共産党の浸透のない地域での停戦協定につき、非公式で限定付きではありながら、詳細な協議が行なわれた。この非公式な停戦協定は、西洋諸国にはほとんど知られておらず、まして、何らの文献にも記されていないものであったが、事実上、五年後の日本の敗北まで、現地においては厳密に実施されていたものであった。すなわち、日本軍はほぼ完ぺきに毛沢東とのみ戦った。蒋介石軍が掌握する地域への日本の探索は、前もって重慶政府と申し合わされており、ほぼ政治的見せかけだった(19)
 また、別の外交上の取引として、外務省は、東京駐在英国大使、ロバート・クレイギー卿と話合いを続けていた。その協議の間、英国とオーストラリア政府は、日本に示すものは、明瞭な譲歩も対決も望ましいものではないのではないかと、ワシントンに問い合わせていた。大英帝国は、方やでは、日本の中国についての要求を認めることに関し米国と同一歩調をとり、他方では、日本に対する全面的経済封鎖を行うよう米国を支援する、いずれの用意もできていた。しかし、米国の石油および製鉄業は、日本との通商で大繁盛しており、ワシントンの彼らのロビイストは、英国のかかげる両極端な対応のいずれの受け入れをも巧妙に避けていた。ルーズベルト大統領は、そのいずれをも見据え、中国人のためには中国を放棄すべきではなく、日本と戦争に入るにもアメリカ国民の支持がないとした。日本との宥和策は、臆病かつ正義を欠いていていたが、かといって日本への圧力も、政治的な保証がなかった。つまりは、日本を勝手にさせ、自分で結末を引き出させ、世界が日本を間違っていると覚ることが望ましかった。そして、唯一その時のみが、日本を叩きのめす時である、とするものであった。
 英国は、自国での戦闘に必死で、太平洋での権益を防衛する望みは、米国を通ずる以外にはありえなかった。1940年7月15日、東京駐在英国大使クレイギーは、インドの港より蒋介石への供給路であるビルマ街道を三ヶ月間封鎖することに同意した。
 日本の外交的攻勢の第四番手は、オランダ領東インドに対し、最初はただ本国への引揚げの問題と楽観視していたものが、ついには、無頓着で頑固なオランダ気質が壁となるものだった。そのインドネシアの植民地は、ロンドンに亡命しているオランダ女王へ、なおも忠誠を表明していた。7月の初め、谷外務次官は、オランダ領東インドとの失効していた通商交渉の更新を求めた。ジャワの植民地政府は、東京から訪れた26名の石油と諜報の専門家および商工大臣からなる錚々たる顔ぶれの代表団に、数ヶ月間にわたる豪遊を提供して彼らを迎えた。しかし、最終的には、オランダ人たちは、様々なもっともらしい技術的理由を並べ立てて、日本には従来以上の航空機ガソリンの供給はできないことでお開きにしたのだった。
 フランス、中国、英国、そしてオランダに対するこうした略奪的提案がなされている間、ヨーロッパでは、英国上空の制空権をめぐる戦いが、ことに、南英国上空で熾烈な攻防をもって続けられていた。6月21日には朝香親王――裕仁の叔父で南京の征服者――は、裕仁に、英国は敗北しつつあり、日本は陸軍と海軍の航空力を統合すれば、ドイツ空軍に並ぶものとなりえると断言した(20)。だが裕仁は首を横に振って、その叔父に、英国の敗北の証拠はまだ示されていないと述べた。


第二次近衛内閣

 1940年6月24日、近衛親王は、首相職に復帰する最終的準備に専念するため、裕仁の枢密院議長から退いた。四日後、彼は裕仁に、暫定的な新閣僚名簿を提出した。裕仁はそれを概ね承認したが(21)、指名された陸軍大臣の東条中将について、予想される戦時において、陸軍を導くに足る十分な戦闘経験があるのかどうかを質した。満州時代、東条は憲兵隊に確固な足場を置き、後には、精力的に数々の委員会を率いて、陸軍官僚界の最も影響力のある存在となっていた。裕仁は東条を好み、仔細に通じた実務についての構想を互いに共有していた。
 木戸内大臣は、もし天皇が戦地司令官たちの間での東条への支持に疑いが持たれるのであれば、阿南中将――1926年裕仁即位の夜、元大学寮生の若手将校を飲みに連れ出し、また1945年の降伏の前夜には見せかけのクーデタを企て切腹する――を、東条の引立て役ならびに監視役として、陸軍次官としての現職に留任させてはどうかと助言した(22)。阿南は戦地司令官たちからの支持があつく、また宮廷付き侍従武官を長く続けてきており、皇位に忠実に行動すると信頼されていた。裕仁はその示唆助言を感謝して受け取った。
 18日後の7月16日、米内内閣は総辞職を提出し、初めて日本の主要政党が自ら解散し、言われるがままの仮死状態の内に、新たな指示を待つ事態となった。そうした政党のしんがり、立憲民政党は、一ヶ月後に訴訟をおこした。一方、7月17日、木戸内大臣は、存命中の全歴代首相とのきっちり30分の会見を終えた後、天皇に対し、次期首相に近衛を推薦した(23)。またその翌日、東条中将は、満州の航空基地の視察を終えて東京に到着した時、自分が近衛によって、陸軍大臣に選ばれていることを知った(24)
 7月19日、東条、近衛、そして近衛が選んだ外務および海軍大臣候補が会合し、「高度国防体制完成」(25) のために、全員が協力しあうことに同意した。三日後の7月22日、裕仁は近衛の選んだ閣僚を承認してここに第二次近衛内閣が成立し 、神経衰弱気味の藤原貴族を再度次の首相に据えた。その話が初めて話題にのぼった数ヶ月前、老西園寺親王はその毒舌の中で、近衛の再任は、 「誰もその役がいないからと言って、盗人を連れ戻してその犯罪捜査をやらせるようなものだ」 とたとえた(26)


新秩序 (27)

 活気を欠く近衛親王は、裕仁の特務集団のうちの最も精力的な二人を後ろ盾にしてその政権を発足させた。そのひとりは東条中将で、彼は元陸軍次官、元関東軍参謀長、元関東軍憲兵隊長、そしてその前は、1935年の筆頭三羽烏の永田の暗殺までは、永田の雑務係として、官僚の20の困難な職についてきたバーデン・バーデンの四番手烏であった。
 近衛内閣のもうひとりの精力的後ろ盾は、大兄たちの昔からの取り巻きのひとり、外務大臣の松岡洋介だった。彼は、1926年の漢口での会議に参加し、そこでその大兄の 「中国専門家」 は蒋介石を利用する日本の計画を最初に立ちあげた。その後、1932年、上海での見せかけの戦争の停戦交渉を行った。1933年には、彼は国際連盟から日本代表団を先導して引き揚げた。
 松岡は、アメリカ人のような尊大で独立心旺盛な人たちとどう話せばよいかを知っていたので、裕仁の特務集団の好奇心と尊敬を意のままにした。だが松岡は、アメリカ人がそうであるように、彼は日本人であった。長州の下層武士の倅として、1893年の元服式で将来有望と抜擢され、翌年、14歳でオレゴン州ポートランドに移住した叔父と暮らすために渡米した。そこでミッション・スクールに入れられ、そこで成長して高校を卒業、さらにオレゴン大学の法律学位を21歳の誕生日以前に得て、彼の早熟さを示した。(28)
 松岡は、外務大臣に就任すると、ただちにアメリカ大使のグリューと会見した。彼はグリューに、自分は古典派の外交官ではなく、率直かつ誠実なスタイルの男だと自己紹介した。松岡は、もし日米間の戦争が彼の就任中に起こった場合、両国とも、その理由が了解できるものしたく、また戦争は、「多くの歴史の事例が示すように、誤解から生じるもので、起こるべきものではない」 と述べた。そして彼はグリューに、ルーズベルト大統領に伝えてほしいと、伝言を託した。その中で彼は、日本は平和を希望しており、米国に、 「既存権益」 への固執は断念し、 「新秩序」 が世界を形成しつつある事実を認めるようと求めた。(29)
 松岡の外相就任と同じ日の7月26日、新内閣は、近衛親王の指令により民間官僚たちが仕上げた 「基本国策要綱」 と題した計画を公式に採択した。それは、日本の意図を、壮大な論理と大言壮語をもって、「大東亜に新秩序を構築する」 ことにより、「世界の歴史発展の不可避な動向をとらえる」と謳っていた。そして内閣は、この目的遂行のために、中国 「事件」 を成功裏に集結させ、その国家政策を実現させるべく、強くかつ自給自足可能な日本を築くことに賛同した。その当時の論法によれば、それは、日本がインドシナの石油の支配の拡大を意図していることを意味していた。国内政策においては、近衛政府は、日本の政府、経済、文化の新たな形態の創造を求めていた。国民は、 「利己主義的な考え」を一掃し、 「科学的精神を涵養」――裕仁の好んだ表現―― して、国家への完璧な献身が求められてぃた。(30)
 裕仁は、内閣の決定を戦争への許可と受け止め、さっそく、その日の午後、戦争勃発に先だって、自分の家族をその公的責務から外す恒常的態勢を発足させた。すなわち、彼は陸海軍両大臣に、それぞれ陸ないし海軍の参謀総長である閑院と伏見親王を解任させるように告げた。東条陸相は、陸軍は指導者である閑院親王を失うことは遺憾であるが、もし、陸軍の行動が皇位との直接の関係を持たなくなるのであれば、陸軍は世界においてより自由な選択をとれるであろうと返答した。他方、吉田善吾海相は、海軍軍令総長の伏見親王は、海軍が戦争準備を完了するまでの保障として、少なくともあと9ヶ月はその職に留まることを主張した。裕仁は海軍の見解を聞き取った後、その判断をしばらく保留することにした。(31)
 翌日の7月27日、重要閣僚は両参謀総長と大本営の参謀らと会合し、内閣を通った計画を承認するとともに、その軍事的実施について討議した(32)。これは、二年半前の南京攻略以来、国家政策決定者と各軍本部の実戦略決定者の間の最初の 「連絡会議」 であった(33)。両本部の参謀からは、 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」 と題した計画が提示された。それには、西洋諸国からビルマとインドシナを経る蒋介石への支援を分断するために取られるべき諸方策が述べられていた。それはまた、ドイツとのより強固な結束と、ロシアを中立化させる外交的努力の更新を求めていた。そして最後には、東南アジアとインドネシアへの日本の進攻をあらゆる勢力が推し進めるよう委ねていた。(34)
  「新秩序の圏内に英国、フランス、ドイツそしてポルトガルの島々を含むために、積極的対処がとられる」、とその要綱は宣言していた。それはさらに、可能ならば、その進攻の目標は、外交と通商条約によって達成されるものであり、支那事変はできる限り、オランダ領東インドへの要求があまりに声高になる前に速やかに終息されるべきであり、武力行使は、極力、英国のみに対してのみなされよう。だが、もし米国との戦争が必要となった場合、それを避けることを条件として、その戦争の準備は1941年8月までに完成されなければならない、と述べていた。
 その連絡会議で海軍代表者は、提示された計画への最大限の支援を与えることを拒んだ。そして彼らは、いかなる戦線の拡大も、その前に、支那事変を終結する努力がなされなければならなず、米国との戦争は、いかなる手段をこうじても避けなければならない、と主張した。
 続く二日間、陸海軍それぞれの立場をめぐって、白熱した討議が行われ、新近衛政府はほぼ真っ二つに割れた。陸軍の陣営は海軍のそれを、アメリカとの戦争に怖がっていると非難し、逆に海軍の陣営は陸軍のそれを、国を支那事変のような勝負のつかない愚かな行動に引きずり込んだと非難した。文官の進攻主義者は、両軍を軍事的に無能力で、政治的な自画自賛だと非難した。近衛首相はただ論争に油を注ぐのみだった。東条陸軍大臣は、こうした内輪での口論に苛立ちを表し、近衛首相はいずれの勢力にも優柔不断で、陸海および宮中の官僚間の関係が改善されない限り、何事も達成されることはない、と木戸内大臣に談判した(35)
 連絡会議が終った翌日の7月30日、裕仁は自ら、内閣の困難は目に余るとして、一丸となるのは無理としても、少なくとも一時休戦を求めた。彼はそこで、近衛をめぐる一つの見解に賭けることにした。すなわち、近衛親王は、中国の戦線を縮小し損害を減らして戦力を解放しようとしており、世論を南進という国の歴史的使命に向けさせている、という見方であった。そして裕仁は、海軍は次の段階に挑む前に支那事変の完全な終息を求め、他方陸軍は、中国での失敗を隠すために南方へのすぐさまの拡大を欲している、と指摘した。そうして裕仁は、いずれの見方も、結局は、立派な誇りか、失敗への恐れかに基づいているにすぎない、と穏やかに言った。そうした後、彼は、軍隊というものは、国内政治と国際外交と協力してこそあり得るものだ、と結んだ。(36)
 こうした裕仁の意志に頭を垂れ、内閣はその内部紛争を終わらせ、8月1日、曖昧に述べられた布告を採択した。曰く、この布告は、「大東亜共栄圏を構築するための新政府の基本政策」 である。ところで、この 「大」 との形容詞は、西洋人が見落としがちな特別な重要性を持っている。それは、日本がその圏内に、中国や新仏教思想を含むのみならず、インドや古い仏教思想までを含もうとしていることであった。つまり、それは、 「共栄」 とは、テヘランからホノルルまで、あるいは、ハルピンからポートモレスビーまでをおおいつくすというものであった。


倹約と憎悪

 7月23日、美食家の近衛親王が、ラジオを通し、 「贅沢と享楽にふけっている国が、強くなったためしはない」、と演説した。 そうして、近衛内閣の最初の数週間、首相自身は相変わらず、男女の芸人を連れて休みをとっていたが、国全体は警察国家の取締りのもたらす重苦しさと、難渋の年月を前にしたくすみを見せていた。面白ごと好きの大衆は、それまで皮肉な冗談で厳格な全体主義をかわしてはくぐり抜けてきていたが、いまや、際限のない時間外労働の重荷を課され、鳴り響く軍歌に歩調をあわせて行進しなければらなかった。
 まもなく、グリュー大使は、自分の日誌に、驚きとおかしみを込めて、妾たちでさえ、もはや電話を持つことが許されなくなっている、と書き込んだ(37)。裕仁も、ほどなく、妻や芸者から綺麗な着物を遠ざけさせ、あらたに国民服――最初に男に、次に女にも、くすんだ茶色のズボンと詰襟上着の学生服式の制服――を着るように命じた。
 警察のスパイ以外には、日本人の誰もが、外国人と共に働くことを禁じられた。実際、その新たな総力防衛戦争中の国家に仕える仕事以外には、日本人が働くことを許される場所はなかった。小さな工場の多くの持ち主が、 「不必要品」 を生産しているとみなされ、一夜にして、一世代前の操業開始時のように、よその工場のための旋盤や穿孔機を扱う工場に転換しなければならなかった。一言でも苦情を言おうものなら、彼らは与太者たち
# 6に打ちのめされる目に会った。
 首相奏薦者の西園寺――今や91歳で人生の最期を送っていた――によれば、日本の新聞社の紳士たちも、 「あたかも飲んだくれのように」 しか記事を書かなくなっていた(39)。彼らは、日本の 「もっともらしい理由」 を擁護する形容詞を使いまくり、裕仁の国家計画を楽観的かつ美的に描き出そうとする奇妙な哲学論の山の下に、多くのニュースを埋めてしまっていた。その多くで彼らは、ドイツ人とイタリア人を除き、すべての白人を嫌悪するよう鼓舞するため、日本人の民族的繊細さを強調していた。


コックス事件 (40)

 7月19日、フランスが降伏すると直ちに、ベルリン駐在日本大使# 7はドイツ外務省に、裕仁がヒットラーとムッソリーニに加わり三国軍事同盟をなすというリッベントロップの考えを、一年前の態度をひるがえして、再検討する用意があると伝えた(41)。凱旋に勢いついていたドイツは、充分考え抜かれた冷淡な態度でそれに答えた。それはおそらく、もし日本がドイツに、原材料の供給といった目に見える利益を提供できるなら、何らかの措置をしうる可能性がある、といった返答であったろう。しかし、日本は、もうひとつの島国である英国への従来からの親近感を捨てなくてはならなかった。ことに、日本で発行されている英語新聞が強い英国寄りの姿勢――多くが英国人によって編集されていた――を示し、抑圧されなければならなかった(42)
 近衛親王の政権復帰が決まり、1940年7月19日、彼と各大臣は、日本を反英国に変えさせる中傷宣伝を始めることでドイツを満足させることに合意した。そうして7月27日土曜日、いまだ近衛内閣が陸軍と戦争を恐れる海軍を和解させる内紛にある中、憲兵は東京地区の15名の英国人居住者を逮捕し、彼らを諜報活動員と非難した。彼らのほとんどは典型的な英国植民地の事業家で、彼らに雇われている使用人たちは、日本への優れた彼らの温情を傷付ける以外の何ものでもないと報告した。しかし、彼らは訓練された工作員で、巧妙な二重スパイを行っていると決めつける必要があった。だがそれを実演してみせるのは難題であったが、満州での経験を参考に、そこで一つの方法を発見した。
 7月29日月曜日、その15人の英国人逮捕者の一人――メルビル・コックスというロイター特派員――が、東京の憲兵隊本部の上層階の窓から投身し、下の舗道に墜落死した。その遺体を収容するようにと呼ばれた英国大使館の外交官は、彼の腕に35か所以上の鍼の跡を見つけた。
 他の14人の 「スパイ」 たちは、好ましからざる人物として、釈放されて国外追放された。そのうちの何人かは、抑制剤や幻覚剤を与えられていたと証言した。そのうちの一人は、取調べの間、開けられた窓辺にくると、そこから飛び出したい強い衝動を感じたことを思い出した。強い動物的直観から、彼はかろうじてその衝動を抑えていた。コックスの件を調査した英国の外交官は、コックスも同じように感じ、その誘惑に負けたとの結論を下した。
 日本の憲兵は、その墜落の前に妻に宛てて書かれたとする、コックスの手による 「遺書」 を提示した。
 このメモは、あたかも、それぞれ違ったペンで、一回の取調べごとに一行づつ書かれたかに見えた。コックス夫人は、それは、彼女の夫が告げたかったことは何も表していないと確信した。英国大使は、彼女が船で英国に向けてできるだけ早く出航してこの国から脱出できるまで、自邸に彼女を保護していた。この 「遺書」 は、日本の新聞によって、英国が日本をスパイし、英国人たちが敵であることの証明であると報道された。日本人のほとんどは、英国人に腹を立てていた。


英国戦線

 1940年8月、アメリカ大使のグリューは自分の日誌に、新近衛政府は 「日本の 『新秩序』 の構築」 と、 「 『英国戦線』 の結果を見ようと、外交の時間を稼いでいる(43)」 と記した。グリューは、少しの寛大さもみせず、だが極めて的確に、裕仁は、歴史の天秤の傾きが変わる時を待って、日本を戦争に突入させようとしている、と述べることができた。むろん裕仁には、英国に対する正否両論の苦しい思いがあったろう。だが、彼の天皇としての公的使命において、アジアの支配をめぐる国家目標の達成を可能とする戦後の影響力が獲得できさえすれば、ヨーロッパ戦線でいずれが勝利するかは問題ではなかった。8月半ば、日本にとっての好機が到来したのは明瞭と思われた。大英帝国は、いまだ敗北の崖淵にあり、またドイツは最後の決定的一押しを行うため、支援を必要とすることを認め始めていた。
 8月13日、リッベントロップは日本に見せた数週間の冷淡さの後、彼の極東専門家、ヘインリッヒ・スターマーをベルリンの日本大使館によこし、自分は独日同盟を強化する話し合いを再開する用意がある、と伝えさせた(44)。松岡外務大臣は、スターマーを東京に招待すると返答し、スターマーが到着する前に、快適な環境をつくるよう、手筈を整えた。8月20日、海外の西洋びいきの39人の外交官――北および南アメリカのほとんどすべての大使を含んでいた――をすげ替えるよう申し出、裕仁の許可を得た(45)。この更迭は、それから三ヶ月のうちに滞りなく実施され、諜報活動に長じた若手外交官がすべての主要大使館および領事館
# 8に配属された。
 また同じ日、松岡はインドシナの将来について、ヴィシー仏政府との新条約に署名することで、秘密交渉を終わらせた。また二ヶ月前、ハノイから蒋介石への軍事物資供給の輸送を防ぐために、インドシナへ到着していた日本人監視団は、要求をいっそう拡大していた。その結果、フランスは中国支援を停止しただけでなく、日本を助けることを開始させられたのであった。日本人は、ビルマ街道を爆撃する航空基地をインドシナ北部に求め、また、日本軍がインドシナ国境を越えて蒋介石の南側面を攻撃する、行動区域と通行権を必要としていた。さらに彼らは、インドシナ南部に、英国領マラヤを攻撃圏内におさめる、監視団の駐屯地を数カ所設置することも要求していた。
 8月20日、アルセーヌ・アンリ大使が、ヴィシーからの指示によってそれらの要求に応じた時、彼は松岡に、インドシナのフランス植民地はヴィシー時に日本に与えた措置によって拘束されるとは受け止めておらず、誇りの問題として、さらなる日本の侵入に抵抗するだろう、と警告した。松岡がこうした紛糾の可能性を宮廷に報告すると、裕仁は手早く、自分の陸軍の特務集団から二人の忠臣
# 9をインドシナ方面へと配属し、フランス軍人の名誉を満たす対決に面と向かうため、強さとその見せ場を作ろうとした。(46)
 インドシナへの進駐が開始されると、8月23日、リッベントロップの極東専門家スターマーは松岡の招請を受入れ、全権を携えて東京へと出発した。英国戦線はドイツにはかんばしくなかった。空中戦という空中戦で、ドイツ戦闘機のパイロットは、数的優勢にもかかわらず、英国南部の制空権の獲得、あるいは、英国の夜間爆撃機――ヒットラーが英仏海峡の港から集めようとしている侵略艦隊に対して壊滅的攻撃を加えようとしていた――が飛び立つ滑走路の破壊に失敗していた。ドイツ空軍は、大規模の無差別爆撃という恐怖の最終的手段も辞さないことを計画していた。
 9月2日、スターマーがまだ荒波にもまれている間、老西園寺はヒットラーとの軍事同盟の計画について聞き、用心深くこう見通した。 「現在の我国の政治によって、天皇の神聖なる威光は薄れ、陛下が叡智と賢明を備えているとの主張は真実ではなくなってきている。・・・とどのつまり、大英帝国が勝利するのではないかと思う。」(47)
 その翌日、海軍大臣の吉田善三――裕仁の特務集団の古参――は、三国同盟条約計画に反対して辞任し、不可避的に従うこととなる海軍の準備行動を忌避した。裕仁は彼を及川古志郎海軍大将
# 10――元宮廷付侍従武官で裕仁が 「話やすい」 と評していた人物――に交代させた(48)
 9月4日、近衛親王は、皇居の森の中にある皇居図書館で私的に裕仁と会い、 「三項目の修正事項」 を提出した(49)。それは、彼が首相として前進させることとなる国家基本政策に、その実施の前に書き込んでおくべきものであった。第一は、天皇と主要閣僚は米国との戦争を開始する意志を議決すべきこと。第二は、日本とドイツの軍事同盟を締結すべきこと。第三は、日本とドイツは、世界に新秩序をもたらす意図を共同で発表すべきであること、であった。近衛は裕仁に、陸軍および外務大臣は8月17日にこの三項目に同意したが、海軍大臣はそれに対する反対を維持した、と報告した。明らかな苛立ちを表しながら、裕仁は、近衛親王に、可能であるなら、海軍を所定の線にもどさせるように一任した。
 三日後の9月7日、ドイツ空軍司令官ゲーリングは、ロンドンに向け625機の爆撃機を発進させ、第二次大戦では最初の大空襲を行った。それにより、何マイルにもおよぶコックニーの下町街が猛火に包まれた。ホースを握りその消火に当たっていた消防士に一人の掃除婦が近寄り、「ねえ貴方、私のポット用にちょっとの水を残しておいて下さらない。おいしい紅茶をお入れしますから」 と言ったという。
 ロンドンの大使館にいた日本の外交官たちは、自国の首都の紙と木の建物を思い浮かべ、自分が目撃している大焼死を詳しく描写して東京に送った。三日後、その報告を読んだ裕仁は、一瞬のおののきと疑いの念を経験した。そして内大臣の木戸に、ドイツの爆弾は大英博物館に被害を与え、チャールス・ダーウィンの文書を台無しにしたのではないかと尋ねた(50)。さらに、日本は、欧州の戦争を和解させ、世界の向こう見ずな行動を止めさせるために、ともあれ、自国の影響をドイツに行使できないのだろうかと自国を誇大視するかのように尋ねた。木戸はそれに返事はしなかった。彼は、天皇がただそうした気分にひたっているだけで、実は、日本の古くしたたかな戦争計画への復帰と、ヒットラーによって加えられた機会上の圧力をかわすため、物欲しげな熱望に駆られていることを知っていた。
 9月9日の朝、裕仁は、自分の使命をすでに決していた。彼は、皇居の宮内省内で開かれていた内閣と参謀本部との間の連絡調整会議に、前触れなく姿を見せた(51)。そこでは松岡外務大臣が、ドイツとの同盟とその暗黙の結果である米国との戦争に同意するよう、海軍の代表たちを説得しようと無駄な努力をしていた。海軍は 〔同盟が〕 災難をもたらすのみと執拗に抵抗した。だが、裕仁の参加は、その会議を御前会議へと変えてしまった。発言があったとしても、その議事は記録されなかったが、裕仁は参列者に何かを話した。すると、海軍の代表者たちは、条約に反対する議論を基本的に中止し、一年の準備を終えた後の最適な条件のもとでの彼らの米国に対する能力についての質問に、堅苦しくかつ専門的に返答し始めた。裕仁はその返答に満足している様子だった。その午後、会議が休会した時、結論は明瞭には出されなかったものの、近衛首相は、海軍がそれを黙認したものと受け止めていた。
 その日の夕べ、松岡外相は、自邸の庭――後に 「原子の日光」 の庭として記憶されることとなる――に提灯を灯した小規模な式典を催し、ヒットラーの使者スターマーの来日を歓迎した。スターマーはその二日前に日本に到着し、熱意をこめて職務に取り掛かっていた。その夕べの式典が終わるまでに、彼と松岡は、両者の共通語の英語を介てし、その三国同盟の主要目的について合意していた(52)。日本は東南アジアにおける行動の無拘束を望んでおり、また、それが必要だった。ドイツはドーバー海峡での制海権を握っている英国艦隊に圧力を加えることを欲していた。松岡は、日本海軍がシンガポールの英国東南アジア要塞に攻撃を加える準備をすることで、それに応えようとしていた。
 翌日の9月10日、松岡とスターマーは丸一日をかけた協議にのぞみ、西洋諸国に対する日本とドイツの軍事同盟となるべき条約の英語草案を作成した。その協議の個々の段階において、松岡は、自分の譲歩や保留について宮廷と綿密に相談した。日独両国語の条約原案が9月11日に比較され、9月12日にはその最終原稿ができ、裕仁の検査を受ける用意がととのった。
 9月13日の不運な金曜日、裕仁はその文案を四時間半を費やして逐語検査した(53)。彼は、それが米国との戦争を確実に引き出すもので、まさしく、生死を分ける決定を自分がおこなっていることを理解させられていた。彼は、たとえもっとも近い顧問でさえ、その条約に反対することが予期された。彼は、沈思黙考の末、その条約の責任を負う前に、祖先を継承する皇位制度が清められなけらばならないことを覚っていた。だが、彼はそうした自分の不安と取り組みながらも、その条約の文面を、一ヶ所の些細な言語上の修正のみで承認した。彼は、第二次大戦への日本の参加の発動を意味する攻撃の定義から、 「公然の、あるいは、秘密の形態の」 という語句を削除した(54)。それらは、彼の海軍の立案者によって想定されている出来事に比べ、あまりに明示的かつ示唆的であったからであった。
 その条約の文面がヒットラーによって承認された翌朝、裕仁は、海軍の恐れを鎮めようと、少なくとも1941年まで、海軍の求めに応じ参謀本部総長の伏見親王をその職に留めることを約束した。これは、戦争はすぐに起こるものではないが、しかしそれは起こり、そしてその用意は急がなければならないことを海軍に告げる、彼なりの方法であった。その後の日に、大本営において行われた連絡調整会議では、海軍は裕仁の意志に沿い、ヒットラーとの条約を抵抗なく受け入れ、国家計画の推進に賛同した(55)
 外務省情報局は、大衆操作のために、日本の海外での正当な願望がからめとられるとして、 「アングロ・サクソンの陰謀」 に対する大衆の抗議を新聞に取り上げさせた。またその条約決定は、航空ガソリンを求めて派遣された通商・情報代表団がジャワ島に到着するのと同時に行なわれた。その石油使節の重要性と正当性は、新聞一面を埋めた。また同時に、インドシナ全域における日本の基地設置の要求は、インドシナ関税障壁引下げの宣伝でカモフラージュされていた。
 同じ9月14日土曜日、裕仁は、閣僚が条約決定を後押しし、その責任を担うよう、いよいよの公式の御前会議を招集するよう求めた(56)。裕仁は、時間の無駄となるおそれのあるすべての長老政治家と歴代首相をその会議から外すように、木戸内大臣に忠告を与えた。


三国同盟条約

 9月19日木曜日、午後3時から6時まで、外宮儀式殿桐の間で歴史的な御前会議が開かれ、裕仁、ヒットラー、ムッソリーニが同盟関係となった。恒例のように、すべての議題は前もって慎重に根回しかつ予行演習され、すべての意見――責任を負うあらゆる合意や拒否――は、明瞭に記録に残された。裕仁は謁見の間の片側の金屏風の前に不動で座し、無言であった。他の11名の参列者は、壁に沿った二列の長いテーブルに向い合って着席し、各自座ったまま、向かい合う交互に次々と見解を述べた。重要な政策声明は、6名の参加者によって提出された。
 海軍軍令部を代表して、伏見親王が、「日米戦争が長引くことは極めて確実である。我が国力を維持するための展望はいかがか」 と質問した。
 近衛親王は内閣を代表してそれに答え、日本は 「基本的戦争物資を英国と米国に」 大きく依存しているが、厳重な民間物資の配給と備蓄の使用により、「対米戦争にあたって、我々は必要軍事物資を供給し、長期化する戦争に耐えうる」 と結んだ。
 戦時物資とその調達に関する仔細な論議の後、海軍軍令総長の伏見親王は、「最終的には、蘭領東インドから石油を得る必要がある。そしてそれには二つの方法がある。ひとつは平和的方法をもって、もうひとつは武力行使をもってである。海軍は平和的方法を大いに期待する。」
 三国同盟――もし米国がドイツと戦争を開始した場合、日本は米国との戦争に入ると規定――に関し、伏見親王は続けて言った。 「我々は、いつ敵対するのか、独自に決定できるようにしなければならない。そのために、何を成してきたのか。」
 その問いに松岡外相は、「米国が実際に戦争に入ったかどうかの問題は、同盟の三国と協議の上、決定される。・・・その上で我政府は最終決定をなす。ゆえににそれは独立の決定である。」
 枢密院議長に任命されたばかりの原嘉道は、皇位より問われた質問は、すでに伏見海軍軍令総長によって答えられている、と注釈した。そして、柔和だが自由主義的議員政治家にしてはあまりに弱腰な見解を表した。曰く、「平和的手段によっては、蘭領東インドから石油を得るのは不可能であるかと思う。この点に関しては、政府の見解を得たいと望む。」
 それに返答して、松岡外相は、「ドイツがオランダを配下に収めた現在、蘭領東インドには大きな圧力を加えうる。国際関係においては、舞台裏での工作がよく行われる。数年前に日本が国際連盟から脱退した時、断るのが大変であるほど、たくさんの人たちが我々に軍需品を売ろうとした。もし、日本が中国の全部、少なくとも半分を放棄しようとすれば、その時は、米国と握手することも可能かも知れない。しかし、それでも日本への圧力は――予想可能な将来――無くならないだろうが。」
 原枢密院議長は、日本の少数派の国際主義者の正気を代表して、三国同盟に署名した場合、日本の関わりの程度について、返答は困難ながら、意味の薄い質問をいくつか行った。
 松岡外相は、ただ簡単に、「この条約の目的は、日本が米国によって包囲されることを防ぐことである」 と答えた。
 会議の結論として、75の誕生日まであと三日の皇族最年長者の閑院陸軍参謀総長は、「今日までの検討にもとづき、大本営陸軍部は、ドイツとイタリアとの枢軸の強化のために、政府の提案に同意する。さらに、ソ連との関係の改善が支那事変の終息と将来の国防政策に極めて重要となっているので、我々は政府がこの地域での努力を倍増することを強く要望する」 と宣告した。
 海軍、他の参謀および古老皇族の立場を総括して、海軍軍令総長伏見親王は以下のように述べた。「大本営海軍部は、我々が独伊との同盟を結ぶという政府案に同意する。しかしながら、この場において、以下の切実な要求を提示する。第一に、考えうるあらゆる手段をこうじて、たとえ同盟締結の後であろうとも、米国との戦争を避けること。第二に、南進はできる限り平和的手段をもって追求され、無益な第三国との摩擦を回避すること。第三に、言論及び出版統制は強化され、同同盟についての無制限な論議は許容されず、有害な反英国、反米声明及び行動は抑制されること。政府と海軍統帥部は、海軍力の増強とその準備の迅速化の必要に同意するものの、それでもなお、緊急事態の今情勢をかんがみ、政府は物惜しみのない協力を我々に与えること。」
 最後に、原枢密院議長は、皇位を代理し、あらかじめ用意された声明を行った。 「日米の衝突は、最終的には避けられないことではあろうが、それは近々な将来には起こらぬよう、また、誤った判断が生じぬよう、充分な配慮が下されるよう要望する。以上の条件をもって、私は許可を与える。」 (57)


インドシナ

 御用会議の閉幕に当たり、裕仁は承認を表す堅苦しいうなずきを残し、ベンツに乗って内宮へと戻った。松岡外相は逆方向へと車で去り、自分のオフィスへ戻って、それから始める自分の仕事についた。彼はまず、仏領インドシナ首都のハノイに、最終通告を打電し、その地の総督に、松岡とヴィシー仏政府の大使館の間でまとめてきた合意を承認するまで、あと三日間の時間的猶予を与え(58)、さもなくば、全面的日本軍の侵攻があると、彼は警告した。松岡はそれから数時間を、仲間からの祝福を受け取ったり、西洋諸国の首都にある日本大使館に説明を送る、その文書の承認のためについやした。
 9月22日午後3時、日本が与えた期限の3時間前、ハノイの仏総督は松岡に、提示された条件をやむなく受け入れるとの通知を返答した。総督はそれまで交渉あるいは対抗策を取ろうとしてきた。あるいは彼は、ヴィシー政府に援助や方向求めたりもした。だが今や、彼は他に頼るものが何もなく、それに応じるしかなかった。
 その夜の11時ごろ、富永恭次少将――三週間前、裕仁が参謀本部より南シナ方面軍令部に派遣した上級特使――は、公式命令ぬきで、しかも仏政府と合意した日程枠にも先んじて、北部インドシナへ侵攻するよう、日本部隊を説得していた(59)。日本部隊の進攻線に位置していた仏植民地守備隊は、三日間にわたり、抵抗し勇敢に戦った。そして、そうフランス軍人魂の面子が保たれ、東京がその軌道を逸した跳ね上がり行動を謝罪した時、北部インドシナの占領は平和的に完了した。西洋の新聞は、フランスは勇敢な抵抗を見せたと報じ、他方、日本の新聞は、軟弱なフランス部隊は、百戦錬磨の日本部隊にはかなわないことが証明された、と書きたてた。
 東条陸相は、その命令違反の越境行動の後、南支那方面軍司令官の安藤利吉中将を呼び戻し、彼を無任所身分に降格するという、大胆な軍規的芝居を打った。裕仁は直ちにその従順な中将を、南進の準備に当たらせるため、隠密裏に台湾の諜報機関に再配置した。一年後、真珠湾攻撃の直前、裕仁はその彼を台湾軍の司令官に復職させる。またその越境行動の実際の煽動者――裕仁の密使たち――は、懲戒されることもなく、引き続き至難な新任務を命じられた。たとえば、彼らの首謀者、富永恭次少将は東京の陸軍人事局々長に就任し
# 11、その翌年の南進を進めそれを指導する司令官たちを選任することとなる。
 こうした日本軍のインドシナでの動きに、米国は直ちに、蒋介石に2500万ドル〔今日価値にして約1250億円〕 を融資して対応した。翌日の9月26日、ルーズベルト大統領は、英国連邦および西半球に属する諸国以外への屑鉄と鉄鋼を全面的輸出禁止とする命令を発した。
 9月27日、三国同盟は、ベルリンの総統官邸において、壮観な雰囲気の中、ヒットラー臨席のもとで調印された(60)。その条約第一条は、日本は 「欧州新秩序の設立に関し、ドイツとイタリアの指導的地位」を認める、と規定していた。 第二条は、ドイツとイタリアは、アジアにおける日本の奪取権に同様の承認を与えた。第三および四条は、十年間にわたり、もしいずれかの締結国が米国によって攻撃された場合、枢軸参加国は、「すべての政治的、経済的、軍事的方法をもって相互に支援する」 と謳っていた。さらに、追記秘密条項は、裕仁の主張により、何をもってその米国の攻撃とみなすか、日本に自由裁量権を認めていた。
 条約が締結された日、朝日新聞――東京で最大の日刊紙で、宮内省が株主――は、その社説でこう論じた。 「西太平洋を包含する東亜共栄圏を形成することを決定した日本と、その大洋の反対側で、戦争を除くあらゆる手段をもって事態に介入することを決定した米国との間で、衝突が生じるのは不可避のことと思われる。」
 その後の数週間に、インドシナにおける日本の存在は着実に強化された。裕仁は木戸内大臣に、自分のインドシナ政策では、たかも火事場泥棒を働いているように思うこともある、と打ち明けた(61)。その真冬、タイは、フランスが領有しているラオスとカンボジアについて、日本がタイに代って仲裁することを主張した。緩慢な国境戦争が起り、そこでもっとも活動したのはタイ空軍に加わった日本の義勇部隊と、ハノイの裕仁の密使――捕虜皆殺し命令の長勇大佐――に率いられた、フランス軍の背後の増強済みの日本の監督団だった。フランス植民地政府は、ふたたび日本の圧力に屈し、自分が主張する領域をタイに与えた。うっそうとした雨林で覆われたその割譲地域は、何事もなく日本軍によって占拠され、ジャングル戦の厳しい訓練場として使用された。
 

戦闘準備

 日本が三国同盟と北インドシナの掌握に関わることが現実化して、西洋諸国との間もなくのあるいは止む無き戦争がほぼ確実となり、裕仁の宮廷は、1940年10月、戦争が日本の敗北に終わった場合に備え、皇位を守る後方支援計画を開始した。その第一段階は、皇族を責任ある地位から外すことで、第二は、戦争へと至った出来事には関与していなかったように見せかける、隠ぺい手段をこうじることであった。
 菊の御紋の御簾の背後で、そうした隠ぺい工作が始められたのは、10月3日のことで、75歳の閑院親王――80年前、日本が開国した際の裕仁の曽祖父
〔孝明天皇〕 の顧問 〔久爾親王〕の唯一存命する弟伏見宮の系譜参照〕 ――が、ついに、陸軍参謀総長の職を辞した時だった。彼の後を継いだのは、配下の杉山元大将―― 「まるで湯殿の扉のようにぼやけた」 人物――だった。閑院の引退は、最初、その三ヶ月前、裕仁によってほのめかされていたものであったが、その狡猾な古老親王は、直近の彼の腹心のインドシナでの非公認活動に愛想をつかして引退するかの振舞いを表していた。彼は欧米の特派員に、 「秘密を明かせば、私ですら、もう、戦地の軍隊を統制できない」 と語った。
 さらにすすんで、皇室の他の一人は、裕仁は陸軍の過激分子による暗殺の恐怖から三国同盟を許可したとの話を、米国大使のグリューのところに実際に送ったという(62)
 舞台裏では、海軍のある大佐、高木惣吉は、木戸内大臣やスパイ秘書の原田に、定期的な相談を始めていた。高木大佐は、1939年、裕仁によって海軍大学に 「戦後問題」 の研究のために配置された。彼はその任務に1946年まで継続することとなる。戦争勃発の前、海軍の聴取団をヨーロッパに派遣し、西洋諸国の和平模索者を見付け出し、日本に送信するよう手配したのは彼であった。戦争中は、海軍の中に和平派を組織し、1945年、ついには、マッカーサー将軍を受け入れるお膳立てをすることになった。
 スパイ秘書の原田は、今日、西園寺・原田日記として知られる文書を作成することで、皇室隠し工作に貢献した(63)。彼は、老西園寺親王を管理、操作する任務の10年間、日記を記録し続けてきた。その中に、彼は常に、天皇の行為やすべてのうわさ話あるいは西園寺の注目をひく儀礼上の詳細について、それらの可能な正当化を書き込んできた。週に一度、彼は最新の書き込みを行い、近衛親王の義妹による口述から西園寺まで、些細な注記や編集を加えて、きちんと記述していた。西園寺は、その日誌が裕仁の閲読のため――若い天皇に日々の政治の複雑さを見せるため―に記録されているのを認識していた(64)。原田は、多彩さや人柄の豊かさをもった、良き筆者であり、西園寺は、編集者としての彼の役割を買っていた。だがその原田の記録内容に、その老人は、木を見て森を見ない傾向をしばしば発見していた。
 1940年10月、原田の日記は一万ページにも達し、それを高松親王――裕仁の信頼厚い弟で海軍軍令部付少佐――に見せた。高松親王は、その文書は、天皇に体裁をつくろう必要が出てきた場合、もっとも重要な文書になるだろうことを認めた。そこで、その文書を住友銀行――原田はその名誉副頭取だった――の地下金庫から、高松親王の屋敷内の神社に移される手筈が整えられた。そこなら、愛国心と戦争開運の利害を共にする陸軍憲兵は、それを破壊する恐れはなかった。
 失敗の可能性に備えたこうした私的準備は、社会の巨大な喧騒の背後で行われていた。10月8日、ワシントン駐在日本大使は、米国務長官コーデル・ハルに覚書を渡し、もし、ルーズベルトが日米貿易の削減を主張し続けるなら、「将来の日米関係は予想不可能」になるだろう、と警告した。
 10月12日、首相の近衛親王は、彼の一丸的全体主義政党、大政翼賛会を公的に発足させた。
 10月16日、1600万人の米国人が、新たに施行された選抜訓練及び徴兵法――後の米国の戦争準備の礎石となる――のもとで軍役に登録された。その後の二週間に、ワシントン、ロンドン、そしてジャワの米国軍事代表たちは、彼らの英国、オランダの軍事代表と、東南アジアの欧米植民地の合同防衛計画について協議を始めた。
 10月17日、皇居神社において、裕仁は、ドイツとの 「条約への神の加護と幸福な結果」 を祈願する、特別の祭礼を催した(65)
 10月24日、宮廷の手配によって、海軍将校の代表団が日本の商業の中心、大阪へとでかけ、銀行家たちと三日間にわたる会議を開いた。海軍軍人にとって、大阪を訪れることは、一種の譲歩を意味していた。すなわち、大阪での伝統的な挨拶は、 「おはよう」 でも 「こんにちは」 でもなく、 「もうかってまっか」 であった。従って、三世紀にわたる徳川の時代、武士階級はそうした商人階級を見下げ、商人はその身分構成の中で、職人や農民より下に置かれていた。だが今や、高貴な武士の末裔たちも、商人の助けを必要としていた。
 海軍代表団は、連合艦隊副司令官、山本五十六中将によって率いられていた。彼は、1929年と1934年のロンドン海軍軍縮会議で交渉にあたった物腰やわらかな便宜主義者であり、真珠湾攻撃を短期に案出し実行した。その山本は銀行家たちに、日本艦隊の艦船と航空機の数量を一年以内に倍増させない限り、米国の艦載機が東京を爆撃している間も、自艦隊は瀬戸内海に引きこもり、海賊のようにただ敵を悩ませる程度のことに終わってしまう、と語りかけた。日本の海千山千の金融の老公たちも、山本のその率直できどらない態度に好感した。そして、一年半の猶予しかない日本の海軍力増強計画の完成のために、その小うるさい元締めたちが一丸となって、資金捻出に懸命な努力を傾けることとなった。(66)
 大阪での海軍予算交渉の間、裕仁は心配と過労におかされ、重症な風邪で二週間寝込んでしまった。11月9日、彼は、回復後ただちに、軍事準備の進捗状況を調べるため、参謀と監察総監による秘密御前会議の開催を二日後に求めた。
 翌日の11月10日、建国 「2600年」 の公式祝賀式典をつかさどった彼は、平和と科学への熱意を語った明晰で力強いスピーチにより、すべての外国大使や特派員に感銘を与えた(67)。弟の海軍少佐高松親王が、そういう兄を紹介した。その高松の声は、ドイツの側に立って戦うという決定が皇族および海軍の双方によって承認された印として、すべての日本人にラジオ放送を通じて知らされた(68)


西園寺の死(69)

 1940年11月12日、彼が91歳になったちょうどその日、また、彼が人生を賭してきたすべてが無に帰そうとしていた時、老西園寺親王は腎臓炎で重篤との連絡が宮廷に入った。スパイ秘書の原田は、その老人から最後の言葉を聞こうと、興津の坐漁荘に駆けつけた。原田は日記にこう記した。 「建国2600年周年と近衛の蒋介石との交渉の最近の努力の重要性」 を彼に話した。
 それに西園寺は、 「今後、どんな正しいことがなされようと、蒋介石は日本が言うことに二度と同意しないと思う」 とつぶやいた。
 原田は、 「この面会はその程度で、5、6分後にはおいとました」 と記した。
 六日後、西園寺は医師にこう最後の言葉を残した。 「私の体の個々の部分についての詳細はどうでもよい。どうか私の体全体の強さの回復にもっと努力してほしい」。 11月24日、日本の自由主義の悲痛を背負ったかの老人は、最後まで、弱体でも明晰さを保ち、皇位にチェックもバランスも与えることなく、ついに息を引き取った。裕仁は彼が病床にある間、彼に新鮮なミルクと花を届けた。11月25日には、木戸内大臣は、宮廷からの哀悼を表すため、自ら興津に出向いた(70)
 へつらう木戸は、1939年に、ノモンハン事変以来はじめて、ゾルゲ諜報団との連絡役、西園寺公一――亡くなった老公の孫――に会った(71)。木戸は、ドイツとの条約交渉が進行している間、それについて若い西園寺何の知らせもしないままにしておき、ソ連のスパイのゾルゲは、その情報源を全面的にドイツ大使館に依存した。彼の若い手下を無視していた理由は、個人的なものからではなかった。リッベントロップの条約交渉者、スターマーはベルリンからの情報、すなわち、ゾルゲはソ連のスパイであるらしいとのみ日本に伝えていた(72)
 1940年6月、ゲシュタボ
〔ドイツの国家秘密警察〕の定例保安点検により、ゾルゲが以前ドイツの共産党の加盟員であったことが判明した(73)。ゲシュタボの対外諜報部長、ヴァルター・シェーレンバーグは、その証拠を精査した上、ゾルゲのナチス党出版部への派遣は、依然として、放棄するには余りに貴重であると判断した。そこでシェーレンバーグは、ゾルゲを暴く代わりに、ゲシュタボの大佐をスターマーと共に三国同盟の使節団として日本へ同行させ、ゾルゲへの監視を続けた(74)。ゲシュタボ大佐、ジョセフ・マイジンガーは、1939年のワルシャワ強奪の際の非公式な残虐行為により、ベルリンでも憎むべき人物として知られる鈍い目つきの冷血漢であった(75)。マイジンガーは東京で、ゾルゲについてのドイツとしての疑惑を、迅速だったが唐突に日本の憲兵に明かした(76)。裕仁の周囲の皇族たちは、マイジンガーの暴露に驚かされ、ただちに、ゾルゲ諜報団とのつながりを今後も続けるにはあまりに危険で政治的であると見限った。
 マイジンガーの東京到着後一週間もしないで、近衛首相は、西園寺公一のその危なげな立場へ助け舟を出して、オーストラリア大使の地位に付かせようとした。だが西園寺は、日本の歴史の重大な局面から離れたくないとして、その任命を断った(77)。近衛はそういう西園寺に、国は右翼側へと振れはじめており、左派としての西園寺は困難な立場に至るだろうと警告した。そこで西園寺は、ある右翼集団――1932年に井上
〔犬養の誤記〕 首相襲撃を率いた罪の投獄から釈放されたばかりの若手海軍中尉の一人、三上卓をそのメンバーに含む――の指導者となり、急いで自分の素性を隠す工作を行った。
 それから二ヶ月後、1940年11月の老西園寺の葬儀において、木戸内大臣は、西園寺の若い後継者の扱いについては、当たり障りのない態度に終始した。木戸は数ヶ月後には、その若き西園寺をさらに使うこととなるが、その段階では、彼は老西園寺の遺骨と、彼らが率いた十把ひとからげの自由主義に背を向けたのであった。
 

不気味な予測

 西園寺の国葬の1940年12月3日、裕仁は、事あるごとに襲われる自己不安と恐怖感にさらされていた。木戸内大臣を呼び、ソ連との関係は依然、日本が南進を開始した時、その背後での安全保障を欠くものとなる、と苦言を述べた。新日ソ漁業協定の交渉は進展していなかった。北方の巨象を中立化させる特別の努力が必要だった。木戸はその日は気分がすぐれず、気持ちを和らげる言葉を見つけることに苦労していた。彼は、驚くべき長期的現実主義の展望に立って、天皇にこう述べた。
 1940年12月、多くの言葉において、裕仁は、彼が目的とする米国への攻撃が、もし敗北した場合でも、取戻しが可能な、計算ずくのギャンブルであることを確認することとなった。木戸の勇気づけは、寒々としていたが、それでもなお、日本の軍事戦略専門家の概ねの予想よりは、もっと明るいものであった。たとえば、山本五十六連合艦隊司令官――米国への攻撃を計画せねばならなかった――は、将来を単調な宿命論から見ていた。10月14日、彼はスパイ秘書の原田と夕食を共にした時、杯を陰気にみつめながら、黙示録のような以下の見解を述べた。
 日本の国家計画は、もう引き返すことのできない地点に達していた。神々がそれを語ってしまっていた。裕仁は、自らをそれに投入した。山本中将のような情報豊富な日本人は、奇跡のため、平穏に祈ることができたかもしれない。しかし、現実的には、彼らはただ、軍人として、誇りをもって行うことと死ぬことを準備できただけであった。


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