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第六部


アジアの枢軸国





第二十四章
受動的抵抗 (1940-1941)
(その1)




山本五十六の任務

 裕仁は、1940年9月の自分の決定――対米戦という犠牲をもってしても南進する――を二度とくつがえさなかったが、真珠湾までの12ヶ月間は、いまだに国家方針の転換を希望する人たちからの引き続く圧力に耐えなければならなかった。木戸内大臣と東条陸相のみが衷心より彼の側に立ち、彼への質問をさせなかった。隠微で表面立たない反対に囲まれながらも、裕仁は、極秘のうちに世界を驚愕させる戦争計画の後援と協調に成功する。それには、数十万人の兵員、数百万トンの貴重な国家物資が投入され、国内外の反対者の誰も、成功の見通しが確立するまで、その実現性を認めなかった。この驚異的離れ業の実現に、裕仁は陸海軍の将校の頭脳――今も戦争を公然かつ率直に反対している日本に残された唯一の脳髄――を縦横に発揮させてゆく。
山本五十六長官(1942年頃)
〔ウィキペディアより〕
 もっとも頑強で影響力のある対米戦反対者は、その立案と実行の総帥役、山本五十六連合艦隊司令長官(写真)だった。1930年と1934年の国際軍縮会議において、彼の軍縮交渉における偉業が日本海軍の増強を可能とさせて以来、彼は彗星の如くその頭角を現わしてきていた。霞ヶ浦の彼の航空訓練生は、海軍による中国内の長距離爆撃に、その実力を証明していた。彼の斬新な攻撃方式は、いまやもっとも有力な武力として認識されていた。彼は、理論戦略家の中で最も大胆不敵であり、艦隊の中で最も信頼された司令官だった。彼はもはや、築地の赤線地帯で楽しむために、皇室の後押しを必要とはしていなかった。それどころか、今では、東京で最もひっぱりだこの七人の芸者の一人、菊道 〔梅龍〕 との深仲を楽しんでいた。
 1940年5月の魚雷攻撃演習の成功以来、山本は自分の参謀長たちに、 「気づいていない敵艦隊に大規模な魚雷攻撃を加えることで壊滅的打撃を与えうる」 と述べてきていた。そして1940年のひと夏を通し、彼は一人秘かに真珠湾への奇襲攻撃という大胆な計画を練っており、自分の人生を流血と恥辱の累積にもしかねない 〔作戦上の〕見落としについて、来る日も来る夜も考え抜いていた。彼は、経験豊富な情報将校として、彼の計画のアキレス腱は機密にあることに気付いた。彼は問うた。論争花咲くに違いないその乾坤一擲の構想が、家族のような日本の政府の饒舌な意思決定過程をへても、無数の仲介者や政治機構にひそむダブルスパイを通じて、いささかのヒントも敵に漏れ出すことなく、いかにして成し遂げることが可能か。あるいは、敵艦隊の通信を傍受するためアジア中の海域を遊よくする米国の無線監視船に気付かれることなく、艦隊を招集し、太平洋の三分の二を横切ることがいかにしてなしうるのか。
 山本は、この第二の問いに最初の答えを見出した。1940年の夏の全期間、彼は海軍の暗号専門家を、艦隊の最高機密の交信も容易に見破られてしまうと、激しく批判して叱咤した。その結果、その10月、海軍は新たな暗号方式を開発した。それは、日本の通信員がそれを使用するのにも困難をきたし、米国の暗号解読者も終戦を迎える頃までその秘密をほとんど解決しえないほどの、極めて複雑な暗号体系であった。山本は、その新たな暗号を1940年11月1日より、すべての極秘艦隊配置に用い始めた。その結果、その解読が不可能だったことが、山本大将の真珠湾計画を成功に導いた重要な理由のひとつとなった。(80)
 山本は、もう一つの機密問題を、日本のビラミッドの頂上にそれを持ち込むことで解決した。1940年11月末、彼は友人の高松親王――海軍軍令部司令官――を通じ、同親王の兄である天皇裕仁に真珠湾計画を伝えた。裕仁は関心を示し、数日間考慮した後、自分の秘密特務集団の海軍将校たちに独自の調査のため、それをを引き継がせるよう高松に指示した。高松の親しい友人の大西滝治郎海軍少将――後に神風特攻隊を案出し司令した――の助言で、山本計画の研究を、海軍の最も優秀な航空参謀の一人、源田実中佐に委ねた。1941年2月の最初の二週間、源田は九州、有明湾に投錨していた航空母艦加賀の自船室に閉じこもってそれを行い、細かい点の批判はあるものの、良好との判断に達した。彼は――戦後、米国製装備をそなえた日本の航空自衛隊の司令官になった際の著書に見られるように――山本に同意し、 「この攻撃は極めて難しいが、成功の機会はそれ相応にある」 と結論した。(81)
 こうした確証をえて山本は、伝統的海軍大将たちは日本の帝国的野望にはもっと無難な他の計画に知恵を絞っていたが、自案を前進させ、信頼に足る彼の艦隊将校たちに、その計画の各役割を担わせる訓練に着手した
# 1。1941年の晩春、彼は鹿児島湾――海洋志向の薩摩藩の中心地――を選び、航空母艦搭載機操縦士の急降下爆撃と低空魚雷投下飛行の訓練の場所とした。鹿児島湾は、16世紀の日本海軍の発祥の地であることは別としても、地形的には真珠湾と似ており、まさに最適な地であった。


第82部隊 (83)

 山本の領域である海軍の戦争計画に相当するものが、陸軍において、台湾で設立された第82部隊と呼ばれる研究組織によって行なわれた。それは、板垣大将――バーデン・バーデンの同志の一人で、1929年と1930年の満州征服計画を促進させた――の司令下でなされた。だが、その組織の背後の実際の頭脳は、後の 「マレーの虎」 こと、山下奉文中将のそれであった。山下は、1934年と1935年に、2・26事件を起こすよう国体原理派の若手将校を仕向け、北進派の信用に大きく傷を付けた。
 山下中将は、第82部隊への自分の提案が動き始めたことを知る以前の1940年11月、彼は裕仁によって、ドイツ国防軍の英国侵攻の準備を自ら研究するよう、 〔ヨーロッパに〕 派遣された。そうして山下が留守中、陸軍諜報部出身の評判かんばしくない大佐、林義秀# 2が第82部隊の指揮についた。そして林は、辻正信中佐――元陸軍士官学校教官で1934年と1935年の陰謀の際、山下の最も信頼した部下――を補佐役としてあてがわれた。辻は、中国やノモンハンで、野戦司令官として容赦ないほどに厳格な神官的熱意を見せて、その名声を得た。ことに彼は、上海でのある夜、手にしたたいまつで、40軒の中国人女郎屋を、前線へ向かう部隊の戦闘精神を萎えさせるとして燃き払ってしまい、宮廷を感服させた。
 1941年1月1日、辻は第82部隊に配属され、南進策でもっとも困難とみられていたシンガポール攻略の作戦立案を担当した。その部下の士官たちは、フィリピンや蘭領東インドに対する掩護攻撃の研究に配置された。第82部隊の最初の任務は、東南アジア――1900年以来、ことに裕仁が最初に南進する決断について私的に表明した1934年以降、台湾には諜報機関の民間工作員が集結していた――についてのおびただしい情報を選りすぐり結合することだった。
 台湾の辻やその部下に機会を開き、かつ、保存文書類を見せるため、天皇裕仁は、大谷光瑞
〔こうずい〕 伯爵――母の義理兄弟――を代表として派遣した。大谷は、京都の西本願寺の異端法主であった。1912年、大谷伯爵は、寺の財宝を売り、寺の金を私的満足に使用したと告発された。彼は、日本でもっとも大規模かつ有力であった同宗派の法主を辞任し、中国や東南アジア各地に末寺を建立する布教活動を行った(84)。1920年代中頃、彼は寺の資産に購入した霊山のための借金の利息を払わず、それゆえジャワを追われた。ボルネオやマラヤのサルタン 〔イスラムの王国〕 の彼のいくつもの寺は、地元の政府から破壊組織とみなされて閉鎖された(85)。しかし、彼はヤホールのサルタン――英領マラヤに最上のゴム園を所有している富豪――の友人だった。また日本では、彼は、宮廷の南進派の中心にいて、大きな影響力を保持していた。1930年以降、彼は自分の関心を、東京の南進派国会議員と、台湾を拠点とする南進植民地事業者の二方面に注いでいた。(86)
 大谷伯爵の幅広い後見のもとで、辻大佐とその第82部隊の士官たちは、台湾の日本の事業者および宗教団体が収集した東南アジアに関する地理、民族、そして政治的情報のすべてを利用することができた。そうした若手陸軍士官たちは、ドイツ式の電撃戦の近代戦法を訓練され、収集した資料の中に、多くの誤りや空白も発見していた。三月には、辻とその部下たちは、日本の商業飛行操縦士と海軍沿岸警備隊員とともに、既成の地図にある空隙部分の上空飛行を開始した
(87)。それと同時に、山下の要望により、海南島に選抜奇襲部隊が編成され、北西インドシナ地区の森林で、ジャングル潜入技術の鍛錬や、サンゴ礁で囲まれた島への水陸両用作戦の訓練が始められた。 
 一方、山本の海軍は、ハワイ諸島に新任スパイを送りこみ、真珠湾に出入りする艦船を双眼鏡で観測させた。また、真珠湾地域の全てのラジオ通信をとらえる傍受活動も始められた。その傍受活動は、米国太平洋艦隊の様々な艦船が用いる呼出信号や、いろいろな補給任務担当者の動向を掌握するためであった。数ヶ月にわたるそうした傍受活動の結果、どの船が、真珠湾のどの埠頭に、どの食糧品店の注文を配達するために入港しているのかまでも解るようになった。
 遥か東のメキシコでは、日本海軍諜報部は、カリフォルニア半島に傍受所を設け、米国海軍艦船の米国西海岸の港からの動きを追跡し、また、メキシコ・シティーには作業所を設け、米国大西洋艦隊の動きまでをも捕捉した。



国民の冷淡

 山本長官や陸軍の同僚は、戦争準備を統括する一方で、「戦争に引きずりこまれたくない」 とする政治指導者を言い含めるため、あらゆる機会を駆使した。山本は、幾度となく、1940年8月に近衛首相に述べた発言を繰り返した。即ち、「米英を相手とする戦争の最初の6から12ヶ月の間、私は破竹の勢いで、戦勝につぐ戦勝をとげてみせる。しかし、もし戦争がそれ以降も続くとすれば、私は成功の期待は持てない。(88)
 山本は、海軍増強計画の立案者として、艦隊の兵卒から心酔されており、彼の考えに課された責務は重大だった。彼の陸軍の友人で戦略の天才、石原莞爾少将――満州の占領を計画――は山本に同感し、彼の用意周到の精神を陸軍の数百人の下士官に説いてまわった。
 だが、1941年1月末までで、艦船および航空機新建造計画の非現実性は、慢性的な遅れをもたらし、急げばかえって無駄を生み、1940年9月に開始された突貫計画が海軍の準備をむしろ遅れさせていると、多くの海軍将官を苦悩させていた。生産目標を達成していた数少ない戦時工場のひとつが、日本が占領を望む地域で使用される紙幣印刷所だった。マニラではペソが使われ、カルカッタではルピーが、ブリスベンではポンドが、そしてホノルルではドルすらが――もし、その使用者を運ぶ船が建造されていたとして――必要だった。そうした無価値の紙幣は、それを知った人たちの間でのジョークとなり、そうした手のきれるような新札は、「夢のパイプに点火するのに最適な火付け紙用」
(89) と揶揄されていた。
 陸軍の物資調達将校は、 〔陸軍では〕 困難とされている物資が海軍では逆であることを知り、陸軍の一般兵卒にも戦争計画への不満が広がっていた。数年間の着実な予算増加の後、1941年の陸軍のそれは一師団分ほどの伸びでしかなかった
(90)。7個師団が新設された1937年、10個師団増が1938年、13師団増が1939年、11師団増が1940年だった(91)。そこに、戦争を目前としたその年、58個師団、100万を超える兵力までに膨れ上がっていた規模は、海軍の突貫計画による経済削減要求により、中国では作戦行動を据置き、他では訓練しか実施できない状態に至っていた。
 経済・産業界でも、戦争計画は強力な逆風に遭遇していた。国会議員は、その唯一の武器である予算増への拒否権を振り回し、自分たちも属するはずの大政翼賛会のための充当予算すら――一億円
〔現在価値で約1150億円〕 からわずか八百万円 〔同約100億円〕 に――削減した(92)。近衛首相は、陸軍にその予備役軍人を同会に加盟させるように指示し低調な大政翼賛会を活性化させてはどうか、と裕仁に具申した。だが、国会の反対が引き続いたため、近衛首相は、翼賛会を、真の挙国政党ではなく、「教育的、精神的な結社」 に格下げすることを認めた。裕仁の従弟の有馬伯爵は大政翼賛会の事務局長を辞し(93)、その職は評判のよい予備役大将、柳川平助が――かって北進派であったが、1937年の南京占領の際、水陸両用作戦で側面突破する指揮をとり、裕仁に再認識させた――その後を継いだ。
 銀行や産業界は、近衛の進める全体主義体制化に、「新官僚」 ――木戸が、国家経済を牛耳り、戦時に合わせて 「合理化する」 ため、数年前より彼の商工省によって訓育されてきていた――への協力を拒むことで対抗した。裕仁や陸海軍は、国民総生産の三分の二に達する国家予算――その75パーセントは赤字財政に頼らねばならなかった――を求めており、そうした国家収入の稼ぎ手たちは、自分たちの道を選ぼうとしていた。すべての戦争計画は、遅かれ早かれ、行き詰まらねばならないかの様相だった。だがそのなかで、裕仁の特務集団の知恵ある者が、なんとか折り合いを見つけようと工作をすすめていた。その知恵者とは、いまは中将となっていた顔の広い鈴木貞一であった。彼は、1937年の南京奪取を手掛けて以来、中国の興亜院の総務長官としてその経済的搾取を遂行してきていた。1941年4月、彼は、日本の財閥の首領たちと申し合わせた上、予備役に退き、近衛政府の大臣として、内閣企画院の総裁に就任した。そしてその地位から、彼は日本経済を、〔財閥〕 家系が高度に金融的に支配し、その連合関係の枠内で機能する体制へと改める、組織変えに取り掛かった。彼はこの困難な職務を巧みに成功させ、1944年7月まで、日本の産業を戦争努力に協力させるその役目を成し続けていった。


外交攻勢

 1941年初め、対米戦計画に関し、その見直し気運が日本の軍事政策の中枢の部下たちにも広がり、また忍び寄る崩壊の危機と物資不足が広範な不満をかもしだしている時、裕仁は二人の外交使節にその達成を求めた。それは、三国同盟の決定の際、彼に確約されていたもので、ソ連と米国との双方からの了解をえる交渉であった。裕仁は、その単刀直入な方法で、ソ連に対しては、日本が南進を始めてインドシナの富を追求した際、背後から攻撃しないようとの合意をえることだった。その見返りに、日本は、樺太――北海道とカムチャッカの間にある――のロシア側北半分にある日本の石油と石炭の権利を譲渡し、そして、日本はいかなる将来も、ソ連との戦争によってドイツを援助しないとスターリンに確約する、というものだった。
 他方、米国との交渉の目的は、もっと微妙なものだった。裕仁は、英国とヒットラー間の戦争に、米国がまもなく加わるであろうとの見通しのもとに、米国政府は、日本の中国中央および南部からの撤退と引き換えに、蒋介石に満州と隣接する地方を日本に割譲するように促すのではないか、と考えていた。加えて、武士に刀を抜かせないために、米国は東南アジアとインドシナで特別貿易と石油開発権を日本に認める可能性も考えられた。そうした足場を統合、拡張することで、日本はその獲得のための戦争をしなくとも、南進の目的を満たすことができるかも知れなかった。もし米国が自らの原則を維持し、日本が求めた譲歩を拒絶した場合、第二の策がワシントン交渉によって働くはずだった。すなわち、その交渉によって海軍のために時間をかせぎ、その間に山本が攻撃計画を完成させながら、米国には誤りの安全感覚を与えようとするものであった。そこでまた重要なことは、そうした交渉が、日本の新聞で好都合に報道された時、戦争準備にある国民を団結させ、また親米国派の日本人に、すべての試みがなされているのに米国は相変わらず強情だ、と説きふせる効果が可能なことでもあった。
 裕仁は、外交攻勢の二策のうちの対米国工作を、野村吉三郎――64歳の海軍大将で、愛想よく、責任を担うに足る広い肩をもつ6フィート
〔180cm〕の長身男――に託した。1940年9月の三国同盟の決断の直後、宮廷からの特使が野村を訪れ、ワシントン駐在大使の地位を受け入れるよう打診した。しかし、初め彼はその任命を断った。その理由は、一次大戦の間、彼が大使付海軍随行員としてワシントンに駐在していた際、当時米国海軍次官補のフランクリン・D・ルーズベルトと親交を結んでいたための任命だと知っていたからだった。野村は、米国から譲歩を引き出すことには悲観的で、日本海軍が〔対米戦の〕砲撃法を訓練している間、自分がその目隠しに使われるだろうと気づいていた。1940年10月いっぱい、彼は、 「国の名誉を失わせるような」 役を担いたくはないと腹蔵なく説明し、ワシントンの職を断り続けた(94)。11月、遂に裕仁は野村を私的謁見に呼び、米国での交渉は真実に誠実な精神で実施されると彼に確約した(95)。そして、それがゆえにのみ、野村は受入れることに同意した。
 裕仁は他方、外交攻勢の対ソ連工作を外務大臣の松岡洋介に託した。松岡は、7月に現職について以来、対米政策の策定については一貫して無能を見せ続けており、対米対策を扱わせるには信頼を欠いていた。裕仁は彼のこの無能に関し、幾度も注意を促したが、外相の特異性には寛容になりがちだった。ともあれ、松岡はキリスト教徒であり、シアトル育ちだった。1926年以来、彼は、どんな役務が与えられても、裕仁の大兄たちに誠実に仕えてきていた。松岡は1932年、上海事変決着の交渉において、偉大な成果をあげた。さらに、もし日本が満州に関するリットン報告をめぐって国際連盟を脱退しても、西洋諸国は何らの報復処置はとるまいとした彼の予想は当たっていた。翌年の1933年、彼は、そのぶっきらぼうで正直なスタイルで実際に連盟脱退し、西洋諸国の苦々しい感心を呼び起していた。それ以来、彼は外交に対する持ち前の直裁な決意と論理をもって、裕仁の好感を逐次、獲得していた。
 1941年1月、野村がワシントン赴任に向けて準備をしている時、裕仁は松岡外相に、スターリンとの相互不可侵条約の交渉を開始するように命じた。モスクワ駐在日本大使の名高い幇間こと建川美次――1931年、奉天占領の際、待合菊水で芸者と一晩を過ごしていた予備役中将――は、1940年末の三ヶ月間、モロトフ・ソ連外務大臣と予備的な対話を続けていた。
 外相の松岡は、建川大使が深くかかわる前に、松岡自身でヨーロッパの情勢を調べておくべきであると主張した。自分の外相松岡を14年にわたって身近に観察してきた近衛首相は、松岡の予定するベルリン視察を疑問視するように裕仁に警告した。 その近衛は、松岡が1930年代中盤、ソ連は米国よりは御しやすい敵国と唱える北進派に同調していたと指摘した。さらには、近衛によれば、松岡は、多くの対抗的な発言にもかかわらず、アメリカに対する負い目感を明らかに抱いていおり、また、1933年、シアトルで、子供時代の松岡を引き受け育てたアメリカ婦人の墓に、さりげなくながら自らの出費で立派な大理石の墓標を立ててやった話は有名であり、あるいは、松岡は、日米間の戦争を予防する彼の特使について、東京で米国人の友人と怪しげに対話していたことがあり、加えて、裕仁の友人の側近のうちでほぼ彼のみが、老西園寺と最期の日まで、親密な関係を保っていた、と申し立てていた。
 裕仁はしかし、近衛親王のこうした当てこすりを無視しようとした。というのは、松岡は三国同盟をまとめ、ドイツが征服したヨーロッパ諸国が東南アジアにもつ植民地を要求しうる口実を日本に与えた。また、松岡は最初から、近衛首相と東条陸相には横柄にふるまい、彼には明らかに、うぬぼれる欠点があった。だが彼は人目を引くことが好きで、自分の足で新聞記者を引き連れていたる所を歩き回った。裕仁は、人見知りで内気な近衛が、こうした松岡をただやっかんでいるだけだと見なしていた。
 1941年初め、裕仁は近衛の疑念を無視し、松岡に、ソ連、ドイツ、そしてイタリアで一ヶ月を過ごす役を与え、彼の言う 「世界の現実」 の生の知識を満たす必要に応えさせた。そうしながらも、裕仁はひとつの誤りをおかしていた。すなわち、裕仁は松岡を、公衆の面前にも明らかに重要人物とさせてしまい、その立場から、天皇の計画に対し、六ヶ月間の破壊的な遅延策を手掛けてしまうことになるであった
# 3
 松岡は、日本が間もなくドイツとソ連間の戦争に合流することを秘かに望んでいたため、ソ連との中立化条約を結ぼうとはあえてしていなかった。彼は、ベルリンの日本大使館からの報告によって、第三帝国の商社がウクライナの麦とコーカサスの石油を要求する数量がえられない場合、ヒットラーはスターリンとの不可侵条約を即座に破棄し、ソ連を攻撃するかも知れないと知っていた。そうしてドイツは、ロシアでの数十年も続くだろう戦争の泥沼にはまるかも知れなかった。そうした場合、英国は、米国に支援されて最後には勝利し、日本は、もし共産主義にのみ攻撃をしかけていたのなら、その判定は最小のものとなりえた。この段階での松岡は、個人的にも国策的にも、米国との戦争を避けるということに、最大の重要性を置いていた。


松岡の歴訪

 1941年2月3日、近衛首相と陸海軍の参謀総長は連絡会議を開催し、松岡のベルリン旅行の提案を協議した(96)。参加者の誰もが、彼は 「弁舌さわやかで型破り」 であることに異論はなく、その出発の前に、彼の権限と目的について、充分に本人に説明することを申し合わせた。殊に、松岡に、シンガポールへの即座の日本の攻撃をヒットラーに確約しないようにと注文をつけた。
 三国同盟締結以降、ドイツの東京駐在武官は、自国の大使館に砂盤
〔軍隊が机上演習用に使う〕 を設け、シンガポールを攻落することがどれほど容易なことかを、日本人の訪問者に見せていた(97)。大本営の海軍部は、その机上演習を実際に観察して、日本の軍事能力については固く口を閉ざしたまま戻ってきた。松岡もその机上作戦を見た後、東条陸相に、なぜ日本はすぐさまシンガポールを攻撃しないのかと問い、皮肉をぶつけた。東条はそれに答えて、すでに何十年間も地政学が唱えている如く、日独ソの古典的ユーラシア同盟がいつかは地球を支配するはずだというのに、なぜそれを推進しないのかね、とやり返した。
 2月3日の連絡会議の結果、裕仁は、それまでの外交官配置や日本の外交政策姿勢について自ら研究し直した。2月7日、木戸内大臣を呼び、ベルリンの来栖三郎大使からの最新の電報が、ドイツは近くロシアを攻撃することで、日本とのこれまでの了解事項を裏切ることが強くありえると伝えている、と苦言を述べた。そして裕仁は、そうした事態にあっては、日本は南進を断念する義務を負い、ドイツの北進を支援せねばならないのか、と問うた。
(98)
 木戸は、独ソ戦争は直ちには起こらないと断言することで、裕仁をなだめた。木戸はしかし、ドイツとの三国条約は、もしすでに日本が南進に取り掛かった後だとすれば、日本はドイツより 「反転して再び北へ向え」 と問われるだろう。そして木戸は、 「したがって、我々は南進政策を進めるには極めて慎重でなければならず」、また、「我々は、差し迫った松岡のドイツとイタリアへの訪問を、ヒットラーとムッソリーニの意図の真意を探る好機として活用しなければならない」 と結んだ。
 裕仁は、この問題の考慮に数週間の猶予をとり、そして、松岡外相に以下のような厳格な指示を与えた。イタリアとドイツでは、彼は純粋に私的行動の範囲で、できる限りの発見に努める。しかしモスクワでは、彼は公的に行動し、可能であれば、スターリンと中立条約を結び、日本が独ソ戦に加わらない理由を作る。
 3月3日、こうした指示は天皇の意志であることを裕仁は松岡に明確にし、また、木戸内大臣は同日、宮廷の別の部屋で西園寺公一と会い、公務にある松岡に同行してモスクワにゆき、彼の左派人脈を用いて、松岡とモロトフ、あるいは松岡とスターリンの協議のために良好な環境をつくるようにと告げた
(99)。西園寺は戻って尾崎――ソ連スパイのゾルゲと南満州鉄道調査部の諜報活動をしている大川博士の両方と接触している日本人工作員――に報告した(100)。尾崎はさっそく、松岡外相の海外視察の背景の全容を説明し、ゾルゲはその情報を赤軍第四部に通報した。
 ゾルゲは、東京での自分の諜報活動の主たる目的は、ソ連への日本の攻撃を予防することと常に念じていた。いまや、彼のシベリアへの送信に、彼は日本は南進を望んでおり、南進の背後を固めるために、ソ連との中立の保障を必要としていることを明瞭にした。それがない場合、日本は、ドイツのソ連侵攻戦争に参加するだろう、と強調した。
松岡洋右
〔ウィキペディアより〕
 3月11日、松岡外相は、裕仁との謁見# 4を終えたその翌日の12日、西園寺と随員ともに、シベリア横断鉄道による長旅に出発した(101)。彼はモスクワには3月15日に到着し、そこで10日を過ごして、日ソ中立条約の可能性についてとりとめもなく協議した。松岡は、米国との戦いという最悪の事態を防ぐべく、日ソ戦を想定していたため、彼は自分自身を中立条約の任務に全力投入しなかった。そうして何事も達成することなく、彼は3月26日、ベルリンに到着した(102)
 その夜、ヒットラーは、ユーゴスラビアでの予期せぬ政治クーデタ――これがこの国への侵略を強いることとなる――に忙殺されていた。ヒットラーは松岡の国賓式典を翌日の3月27日に伸ばした。ヒットラーは、すでに3週間前、日本の外務大臣を迎える目的について、以下のように覚書を作り、回覧していた。
 ドイツ外務局長官のエルンスト・ヴァイザッカーとドイツ海軍総司令官のエーリッヒ・レーデルの両者は、日本に秘密にしておくというヒットラーの考えに反対で、ロシアへの侵攻計画について松岡に知らせるべきであると求めた。
 3月27日、ヒットラーはユーゴスラビアの小事の扱いに司令を下すやいなや、松岡には、帝国首相府で催された観閲式とワグナー様式の正装晩餐の歓迎式典が提供された。その夜から一週間、松岡は第三帝国の高官と密着して過ごし、その中核の四日間はリッベントロップ
〔外務大臣〕 と、そして、ヒットラーとの各四時間 〔の会談を〕 を二度にわたって持った(104)。松岡は、その時、ヒットラーがオットセイ作戦――英国への侵攻作戦――を確かに停止したことを知った(105)。にもかかわらず、リッベントロップは松岡に、英国領マラヤへの日本の早急な攻撃を同意するように強いた。ヒットラーは彼に、 「人間が想像できる限りかってない」絶好の機会が一つの国に提供されており、 「この時は二度と与えられない。歴史上の珍事だ」、と語った。松岡は、彼の人生でただ一度、ただ黙ってそれに聞きいった。 「こうした特異な指摘がどれほど彼に影響していたかを何も表現しないまま、 彼は不可解に座っていた」、とリッベントロップの公式通訳者、ポール・シュミット博士は書きとめていた(106)
 ロシアについては、リッベントロップは松岡に、独ソ関係は 「正常だが非友好的」 に推移していると述べた。ヒットラーは、第三帝国は160師団以上の大軍をソ連国境に展開している、と述べた。松岡とその補佐は、彼らが前の週にロシア前線を通過した際、戦争準備の兆候に気づいていた。リッベントロップは、独ソ戦争は、 「可能性の域」 にあることを認め、もしそれが勃発した場合、第三帝国が 「ソ連を粉砕するのは、数ヶ月もあれば充分」 と松岡に確約した。
 松岡は自分の側についてはもっともらしい嘘をついた。彼は、個人として日本によるシンガポール攻撃に努めているが、日本には一次大戦を勝利した英米連合をいまだに恐れる有力な 「知識人」 が多くおり、そうした動きは今のところただ 「仮説上」 のものとしてのみ提示するしかない、と述べた。そして松岡はドイツ人にもっと直裁に、自分は、日本を自由にし、期待されるシンガポール攻撃を国内政治上いっそう容易にはこぶため、ロシアとの協定関係を追求する使命を担っている、と明かした。リッベントロップは彼に、「ロシアには近づき過ぎないよう」 にと警告し、もしロシアが日本の背後を危険に陥れた場合、ドイツはロシアを攻撃する準備はできていると確約し、最後に、日露理解は何ら有害にはならないだろうとの合意を見た。
(107)
 松岡が、リッベントロップの得意げな説得からより多くを聞き出そうとして、一週間 「不可解に座っていた」 時、リッベントロップの通訳、ポール・シュミット博士は、第三帝国の外交儀礼官の喜歌劇的才能を非難するプロセスが始まっていたと記した。小柄で精力的な松岡は、口達者で高慢なリッベントロップの脇で、小人のようだった。風刺漫画家は、大きな胸の膨れた鳩の横に、抜け目のない雀を描いていた。
 4月1日、松岡は自分への歓待がドイツ側に次第に負担となっていることに配慮し、ムッソリーニと面会する二日間の小旅行をすることで、彼らに中休みを与えた。そして、イルドゥーチェ 〔ムッソリーニの称号〕 からの最上の歓待を楽しんだ後、ベルリンに戻って、ドイツの考えをさらに探った。ヒットラーは二度目には私的会見を彼に与え、自らすすんで、日本が求めてもいない、次のような保障を与えた。 「もし日本が米国との間で紛争に入った場合、ドイツは日本の側に立って、直ちに必要な措置をとる。・・・ドイツは、日米間の紛争に参加する。」
(108)


熊の抱擁(109)

 4月6日、松岡は帰国の途に就いた。彼の耳の中では、いまだ駆引き話が渦巻いていたが、彼は、自分が他の誰よりも打ち明けた話が少なかったので、軽い気持ちで旅をしていた。ヒットラーは日本に、シンガポールを攻撃することで、同盟国としてドイツの側に立つよう熱烈に要求していた。しかし、ヒットラーは、明らかに、近いうちの対ソ戦を計画していたが、もし代わりに日本が時を待ってシベリアに攻撃をかけたならば、疑いなく 〔ヒットラーには〕 満足なことであった。裕仁はシンガポール攻撃には前向きだったが、米国との戦争が付随することは、まだ想定していなかった。彼は松岡に、ロシアとの相互中立条約を結ばせることで、満州の日本の背後を固めたかった。その場合、松岡は彼の指示に従わねばならなくなったことだろう。しかし、後になって独ソ戦争が勃発すると、松岡は裕仁に、新秩序の全体主義外交官は、そうした紙切れなど軽くしか見なさないと強弁すらできたのであった。日本陸軍の参謀は、ロシア戦を何十年も望んできた。ドイツ国防軍のモスクワ進撃はそのまたとない好機をもたらしていた。それをはねつけることは、裕仁にとって政治的に困難だった。結局それは、あたかも松岡が対米戦争から日本を救い、西洋の友人との約束をすべて果たすことが可能かもしれないと見えさせようとしていた。
 4月8日、松岡はモスクワに到着し、最初の会見を、外務人民委員のモロトフではなく、アメリカ大使のローレンス・スタインハートと行った。昼食をとりながら松岡は、ベルリンへの途上の15日前にも行った世界情勢の見方について、スタインハートと互いに腹の探り合いを始めた。その対話の中で、松岡は自分の動機について多くを語った。彼は、シアトルでの少年時代の年月に感謝を感じるがゆえに、日本を米国との戦争からは避けさせたいと願っていると述べた。だが同時に彼は、もしルーズベルトがドイツに敵対して英国側につくと主張した場合、日本は三国同盟により米国と戦わねばならない義務を負うと警告した。松岡はまた、彼の友好的姿勢は英国にまで及ぶものではなく、英国を東洋の略奪者であり奴隷主と見なしていることを明瞭にした。ヒットラーが大英帝国を早く征服すればするほどそれは望ましい、と彼は言い、また彼は、米国の蒋介石への援助と、チャーチルが二大陸で、戦争と悲惨さを長期化している、と抗議した。
 スタインハートとの対話の中で、松岡はまた、日本は中国との戦争で疲れており、もし米国が蒋介石に日本軍の面子維持に協力するよう説得してくれれば、中国から大半の軍隊を引き揚げるかもしれない、と示唆した。そして松岡は、米国の指導者は、松岡が1933年、日本を国際連盟から脱退するよう率いた行動により、松岡に当然ながら不信感を抱いているだろうが、もし自分に機会を与えてくれるなら、自分は良き友になれるだろう、と加えた。さらに松岡は、ルーズベルト大統領はポーカの強者と聞いていると言い、彼が松岡の誠実さに賭け、東京の反米風潮を扱う微妙な仕事を行うことを助けるつもりはないのかと問うた。そして最後に、松岡は、日米間の戦争を助長させようとすることは、ソ連を利することになる、と述べて結んだ。
 
4月8日のスタインハートとの二度目の会見で、スタインハートが3月24日の松岡の注釈 〔ベルリンへ行く途上のモスクワでの協議内容のことか〕 の概要をワシントンに打電していたことを知って松岡は良い気分ではなかったが、ルーズベルトが日中戦争の仲裁をすべきとの提案には、まだ何の返答も来ていないかった(110)。松岡は、スタインハートが本国への報告の中で、日本の外相が、その厚かましく自慢げな態度に代わる、誠実で思慮深い可能性については否定的であると述べられていることを知らなかった。ゆえに松岡は楽観的に押しに出て、自分の考えがワシントンで歓迎されるよう、スタインハートを説得しようとした。彼はスタインハートに、ヒットラーおよびリッベントロップは、ソ連との中立条約に署名するよう松岡に――つまり裕仁に――強い、彼はそれに従わなければならぬことになるだろうと話した。しかし、外務人民委員のモロトフは、これまでのところ、日本に譲歩――松岡はそれを日本であまりに高い代償だと説明するつもりだった――を求めていた。
 そうした微妙な事柄について熟考するようスタインハートに残し、松岡は、外務人民委員のモロトフと会うため、意気揚々と次へと進んだ。提案された日ソ条約の推進には明らかな無関心を示してモロトフの好奇心を揺さぶろうと、彼は、エルミタージュ美術館の見学のためレニングラードへとでかけた。4月12日、モスクワに戻り、自分の外交的努力をできる限り行わないまま、彼は、モロトフは意欲を欠くようであり、ロシアと条約を結ぶ可能性はほとんど無し、と東京に打電した。気難しく衒学的なモロトフは、だがその日、合意に傾いていた。松岡はそれまで、対話を毒々しい自由主義的中傷やドイツの宣伝文句で飾り立てたてていた。モロトフはしかし、主人たるスターリンが知るほどの、その全背景を知ってはいなかった。
 赤軍諜報部は、東京のソ連スパイのゾルゲより、近衛の側近グループが日本を自由に南進させるため中立条約を欲している、との暗号文を受け取っていた
(111)。西園寺公一は松岡に随行してモスクワにおり、木戸内大臣の完全な指揮下にあった。彼は面会したどの人民委員にも、日本はドイツの攻撃――情報通のロシア人はそれが差し迫っていると知っていた――への参加を避けることを欲していると説いて廻っていた。三国条約に対抗して重みを添えるその一枚の特別な紙切れこそ、日本が脇役を維持するために必要なすべてであった。
 ラブレンティ・べリアの秘密警察組織を通じ、あるいは赤軍第四部を通じ、スターリンは西園寺とゾルゲが提供する全情報を掌握していた。交渉について松岡が否定的な無線電報を打った翌朝、スターリンは書記官に松岡へ電話をかけさせ、早急な私的会見のため、スターリンが通常執務を行う居室・寝室兼用の部屋へと招いた。
 松岡はその会見で、先手を取ろうと、日本の標語である 「八紘一宇」 (八つの世界を一つの天のもとに)の意味についての講釈を始めた。それは、神話学者によれば、紀元前 7世紀、初代神武天皇が達成すべき自らの国家の目標として宣言したものであった。松岡は、この標語は、日本が世界を征服しようとするものではなく、日本は世界のすべての人々を、相互の尊重と満足の天蓋のもとに置くことを望むものであると説明した。スターリンは十分間、落ち着かぬ様子で我慢して聞いていたが、一言、 「よかろう」 と言ってその講釈を終わらせた
(112)
 その後、対話はただちに本題に移り、スターリンは、日本はソ連に樺太の日本側南半分――1904-1905年の日露戦争後分割――を売却せよと求めた。それに対し松岡は、自分は樺太の北半分の日本所有の石炭と石油の権利を譲渡する全権を委託されているが、その南半分は日本の領土であり、ロシアが領土的拡大を望むならアラビアやイランの方向に求め、日本本土の近辺の島々には向かわないよう、よく助言されているはずだと返答した。
 スターリンは口をほころばせて一笑し、 「同意した」 と言った。そして彼は、提案されている日ソ不可侵条約の日本語案文を前に押し出し、そして 「署名しよう」 と言った。二人はそれを行い、松岡は、大いに感激し、驚異を抱きつつ、クレムリンを後にした。
 翌日の4月14日、ホテルのスイート室の松岡は、彼が条約締結に否定的電報を本国に送ってから48時間も経っていないその彼の前に、問題の条約の非の打ちどころない草案があり、モロトフ外務人民委員は、彼をお祝いにクレムリンに案内しようと待ち受けていた。この日もスターリンが出席し、挨拶の間の椅子とウォッカを自ら松岡にすすめた。松岡が、帰国の汽車に間に合うかどうかを心配すると、スターリンは運輸交通担当人民委員をよび、彼に、その夜は、松岡とその随行員が駅に到着するまで、何時になろうとシベリア横断特急列車を待たせておくようにと言い渡した
(113)
 その公式スピーチの最後に、禁酒主義者のスターリンは赤いジュースの入ったグラスをかかげ、 「天皇陛下万歳」 と声高々に唱えた
(114)
 それに応じて松岡は、自分のグラスを上げて、 「これで合意はなされた。私は偽らない。もし私が偽った場合、私の首をそなたにささげよう。もし貴殿が偽った時、ご安心くだされ、私がそなたの首をいただきに参ります。」
 スターリンはわずかにひるんだ様子だったが、ひときは生真面目にこう言った。 「私の首はこの国には重要だ。貴殿のものも貴国にとって同じだ。二人とも首をつなげておくように留意しよう。」
 そこでスタリーンは日本代表団に乾杯をささげ、その軍部メンバーと日本大使建川予備役中将――名高い幇間――の貢献に特別な敬意を払った。
 それに答えて松岡は押し殺したように言った。 「これらの陸海軍の諸君は、全般情勢に立脚してこの中立条約締結に取り組んできたが、彼らが常に考えていることは、なによりも、いかにソ連を打ち破るかということだ。」
 スターリンは松岡のぶしつけさを平静にかわして言った。
  「日本の陸軍は大変に強い。米国は大きな海軍を築くだろうが、日本海軍のような精神的強さを持つことは決してない。だが私は、すべての日本の軍人に、ソ連は今日、諸君がかって打ち破った腐った帝政ロシアでないことを肝にされることを願う。」
 さらに乾杯の後、スターリンは松岡にこう言った。 「貴殿はアジア人だ。私もそうだ。」 松岡もグラスを上げて言った。 「我々はみなアジア人だ。アジア人のために乾杯」。
 スターリンは、祝賀会場を後にしてからも駅頭まで、自ら松岡の伴をした。そしてプラットフォーム上で彼は松岡を抱擁し、そして言った。 「ヨーロッパの問題は、もし日本とソ連が協力すれば、自然に解決する。」
  「ヨーロッパの問題ばかりでなく、アジアの問題も解決する」、と松岡は呼応した。
  「全世界すらが決着する」、とスターリンが結んだ。
 長い最後の抱擁の後、小柄な松岡は待機していたシベリア横断特急に乗車し、スターリンの圏内から脱出した。


近衛の和平工作(115)

 モスクワから帰国の途上、松岡は満州で――1935年から1939年まで南満州鉄道会社の社長だった――、政治工作を図るため5日間、日程から外れて過ごした。そこで彼は、関東軍の指導者たちに、スターリンとの条約を説明し、もし自分が日本の戦争準備を南進から北進に転換することに成功した場合、いまだに、陸軍の多大な支持が期待できることを知った。4月20日、彼がまだ関東租借地の大連にいる時、彼は近衛首相からの電話を受け取り、重要な会議のために直ちに帰国せよと告げられた。
 松岡の不在中、近衛は自らの計画――戦争準備のための一環として必要とするもので、ワシントンでの牽制的な対話を開始する――を秘かに練っていた。そうしたその前年の秋に、二人の米国メリノール教会の牧師が東京に来て、日本政府により没収の恐れのある、日本、朝鮮、満州にあるローマ・カトリックの資産を保全するため、交渉を求めていた
# 5。1940年のクリスマスの数日前、それまで彼ら使命の進展ははかばかしくなかったかったところに、突然、松岡外務大臣に私的に会うことが許されて、彼らは驚かされた。そして松岡は、もし彼らが自分の伝言をルーズベルト大統領に届けてくれるなら、彼らの力になろうと約束した。松岡は、大統領との直接の接触を望んでおり、通常の検閲、暗号解読、あるいは煩わしい外交係官の検問を経ないで、自分と大統領が一対一で、増大する戦争の緊張を和らげるため、なんらかの行動をとりたいとするものであった。
 この松岡の私的外交の試みの話は、彼の部下から近衛首相に漏らされた。近衛は二人のメリノール教会の牧師を公邸に呼出し、彼らの努力はもし陸軍の後押しを得たなら、大きく進展するだろうと口添えした。二人がそれに同意すると、またしても驚いたことに、二人には海軍省軍令総長の岡敬純少将と陸軍省軍務局長の武藤章少将との面会が用意された。この裕仁の特務集団の二人の長老は、日本での実権を掌握する軍が真実に戦争回避を望んでおり、ルーズベルトに提案すべき具体策をもっている、と二人の牧師をいっそう説得した。そして岡と武藤は、その提案の主要点を彼らに説明し、最終的な〔提案〕文面の仕上げは牧師たちと、彼らの案内役として行動する金融界では広い人脈と仲介で名をはせる井川忠雄に委ねた。
 その提案の要点はこういうものであった。日本は、中国による満州国の承認と蒋介石と汪兆銘両政権がつくる新中国政府とを交換に、中国の東北角部を除き、その全体から軍隊を引き上げる。米国は、「南西太平洋地域における日本の行動は平和的に遂行される」 との確約を条件に、日本の石油、ゴム、スズ、ニッケルの調達を援助する。米国と日本は、極東における既存植民地の一欧州宗主から他へとの移譲を共同して防止し、フィリピンの独立を保証し、英国の極東の 「玄関口」 である香港とシンガポールを断念するよう英国を説得する。最後に、米国は、日本人の米国と南西太平洋地域への移民を容易にし、「友好的配慮」 を与える。
 1940年12月28日、二人のメリノール教会の牧師は、自らの使命の重要さと現実性に高揚しながら、アメリカに向けて出航した。サンフランシスコに到着すると、その一人が友人で金融家のルイス・ストラウス――後の原子力委員会の議長――に電話し、どう話を進めればよいかを相談した。ストラウスは、 〔カリフォルニア州〕 パロ・アルトに住む前大統領のフーバーへ彼らを紹介する手筈を整えた。フバーは、牧師たちに、ただちにワシントンに出向き、ローマ・カトリック教徒の郵政公社総裁のフランク・ウォーカーに会うように奨めた。1941年1月23日、ウォーカー総裁は、二人をホワイトハウスに案内し、大統領執務室において、ルーズベルト大統領と内密に三時間にわたり、日本の提案の一部始終を説明した。大統領はその話や、二人が残した覚書に関心を置いた。その一部はこう述べられていた。
 ルーズベルト大統領は、そうした日本からの探りを受入れた。近衛首相のように、彼も、第二次世界大戦を準備するには、政治的にも軍事的にも、時間を必要としていた。コーデル・ハル国務長官の反対を押し切って、彼はウォーカー郵政公社総裁を 「大統領特使」 に任命し、大統領の機密費より予算を配分し、その日本の提案の真意を突き止めさせようとした。かくしてウォーカーは、メリノール教会の牧師たちに行動開始を指示した。七週間前、彼らに東京の官僚の迷宮で案内役を努めた金融家、井川忠雄は、2月14日、裕仁の新ワシントン駐在大使、野村吉三郎大将と同じ船でサンフランシスコに到着した。
 アメリカ人の妻をもち、ウォール街に多くの友人をもつ井川は、牧師たちが東京より持ち込んだ提案の信憑性を直ちに保証した。そして井川は、ウォーカー郵政公社総裁を納得させるため、その提案は日本の 「軍人」 も支持していると、東京より、陸軍省軍事課長で、武藤軍務局長の部下であり、また、東条陸軍大臣の信頼の厚い、岩畔豪雄
〔いわくろ ひでお〕 大佐# 6を呼び寄せた。岩畔大佐は、3月21日にニューヨークに到着し、彼と井川が先にまとめた 「日米諒解案」 〔と呼ばれるようになる文案〕 を、二週間後の4月5日、ルーズベルト大統領に提出した。大統領は、牧師たちの提案の文面と精神に沿うものであると満足を表し、コーデル・ハル国務長官に、公式の日米交渉のたたき台として、野村大使に提示するよう指示した。
 ハル長官の秀でた東洋問題の補佐官、スタンリー・ホーンベック博士は、ウォーカー総裁にこう警告した。 「きたる数日あるいは数週間以内に、日米両政府間で何も合意に達しなくとも、世界情勢が物理的に根本的に変化することにはならない。・・・日本の指導者の南進をなすか否かの決定は、彼らが見るヨーロッパの物理的状況、また、彼らが見る太平洋の物理的状況に照らしてなされる。」
 にもかかわらず、ハルは 「日米諒解案」 を野村大使に提示し、東京へ公式に打電するよう求めた。4月17日、野村はそれを近衛首相に打電し、その背後状況を了解し、その公式の米国政府支持を確認し、それについての速やかな措置をとるように求めた。
 近衛はただちに宮廷に通知し、すべての経緯を裕仁に説明した。翌朝、裕仁は、日本を代表して三国条約に署名し、ドイツから最近もどっていた来栖三郎大使と謁見した。来栖は、その年、ワシントンで交渉を引き延ばしている野村大使を補佐するために派遣されることになっていた。裕仁は、来栖と相談した後、近衛首相を呼び、彼の望む限りに 「日米諒解案」 の方針を推し進めるが、日本は 「ヒットラーとの約束を守り」、かつ、「大東亜共栄圏の実現をそこなってはならぬ」 ことを忘れないようにと念をおした。
 翌日、近衛は 「日米諒解案」 を日米交渉の基礎とすることを、陸海両大臣、そして、杉山および永野陸海軍両大将とともに、明確にした
# 7。そして、近衛は松岡に電話をし、満州での彼の凱旋旅行を切り上げ、即刻、帰国するように通知した。


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