813
 「両生空間」 もくじへ
 「もくじ」へ戻る
 前回へ戻る


第二十四章
受動的抵抗 (1940-1941)
(その2)




松岡の遅延工作

 1941年4月22日朝、松岡は、東京都下の立川航空基地に降り立った。天皇に帰国の挨拶に向かう途上の公用車の中で、彼は外務次官より、ワシントンのウォルシュ司教の交渉について報告をうけた。彼は、自分がベルリンやモスクワで目立った業績を上げている間に、他の者が留守中の自分の仕事を横取りし、自分抜きで外交政策を始めていたことに、いかにも戸惑ったふりをして見せた。というのは、彼は、日本流の自然な慣行として、もし彼が自分の面子を無くしたと感じているよう振る舞えば、政府の同僚が彼に譲歩するよう配慮することを計算に入れていたからだった。彼は、日本を対ソ戦に引き入れるため、ウォルシュ司教のルートを使い、ルーズベルトを彼独自の計画に引っ張り込むつもりであった。だが、そのルートは露呈され、公式の折衝手段のひとつにされて、彼は衝撃をうけていた。おそらく彼のこの先の行動が示すだろうように、いまや彼は、ワシントン協議を破壊し、できるだけ速やかにそれから離脱しようと決意していた。彼はその協議は非現実的と見ていた。彼は、裕仁や陸海軍が、米国と純粋な決着に達しえるとは考えられなかった。彼は、公式な外交交渉は、両方の側が自ずからの目的のために、時間を稼ぐためのものであると認識していた。そのような精神で行われる交渉が決裂した時、それはただ、感情を険悪化させるのみであることを予見していた。
 松岡の車が宮廷に到着した午後7時30分、彼には天皇との即座の謁見が与えられた
(116)。彼は、世界の独裁者たちとの親交を取り急ぎ報告するとともに、あらゆる詳細を伝えるために、四日後の天皇との昼食会への招待を恭しく受け入れた。その後、首相官邸にかけつけ、近衛、主要閣僚、両軍参謀総長による連絡会議に臨んだ。
 連絡会議では、松岡は、ヒットラーとスターリンとの、熱のこもった誇り高いやり取りの様子を伝えたが、ルーズベルトとの交渉の件になると、彼はそれをひとつの探りにすぎないと見放した。彼は、長旅の疲れを理由に、午後11時、会議を中座し、野村大使より送られてきた 「日米諒解案」 への日本側の返答の検討作業を、意図的に他の出席者に任せた(117)。軍人たちは、さらに1時間20分、近衛と共に残り、 「外相の態度とは関係なく」、ワシントン交渉を進行させることに合意した。
 次の十日間、松岡は、注目をあびるなか、 「旅の疲れは回復した」 が、待たれている野村大使からの案への彼の返答について、あらゆることを拒否した。5月3日、彼はようやく、暫定的な返答を野村に送り、 「日米諒解案」 は検討中であり、さらに、米国との全面的中立条約――両国を戦争の圏外にあるよう義務付ける――の締結の可能性を調べるよう要請した。杉山参謀総長が松岡に、この姿勢と延期は、交渉について米国に不信感を持たせてしまうことにしかならないと指摘したが、松岡は、無関係な皮肉をぶつけてそれに答えた(118)。曰く、もし、陸軍が松岡の助言通りに、シンガポールを前年の秋に征圧していたなら、このとんでもなく困難な状況は決して生じてはいなかったはずだ。
 5月8日、内閣と最高指揮官による連絡会議が松岡に圧力をかけるために招集され、 「日米諒解案」 を基礎に交渉を進める野村大使にその権限をあたえるよう彼に強いた。松岡はだが時間かせぎを続け、 「それが、米国が戦争に参加するのを防ぎ、中国から米国を引き揚げさせる私の目論みである。ゆえに、私をせかさせないで欲しい」 、と彼は述べた(119)
 これに対し、及川海軍大臣は、以下のように自分の見解を表した。曰く、米国は参戦を望んでおらず、必要なものはすべてを持ち、戦争以外の手段ではなにも失わない。そして、米国が英国を支援することに気を取られている間、日本にとっては、東南アジアに進出する交渉をするために、今ほど時が熟している時はない。
 それに対して松岡は、米国が参戦しない確率は、ここのところ、70パーセントから60パーセントに下がっている、と反論した。彼の同僚たちは、具体的ながら根拠のあやしい数字をあげて議論を推し進める彼のアメリカ式論法を、互いに痛快そうに目くばせし合い、さらに、松岡の次の声明を神妙に聞き入った。
  「もし米国が参戦したとするなら、それは長期にわたり、そして、世界の文明は破壊されるに至る。もしその戦争が10年にわたるとすると、ドイツは、軍需物資と食糧の確保のためソ連との戦争を始め、それはアジアにも広がる。その時、日本の正しい位置とは何だと考えるか。」
 その答えはすでに示唆されていた。つまり、日本は米国の側に付き、シベリアを確保し、ドイツの領有権に対抗し、西太平洋を確保すべきであった。松岡の質問には、連絡会議のだれも、それに答えようとするものはなかった。会議が閉会となると直ちに、松岡は宮廷へと参上して謁見を求めた。裕仁は、いつもの米と魚と野菜の日本式の軽い昼食を済ませて、皇居図書館の自席に戻ったところだった。彼は木戸内大臣を呼び、 「どう松岡を判断し、どう彼を扱うか」 を木戸に問うている間、松岡を40分間、待たせておいた。午後2時、松岡は裕仁との謁見を許され、長口上の中で次のように述べた。 「我国が、ドイツとイタリアとの信義を守らない場合、私は辞任せねばならない。」
 裕仁は、松岡の抵抗には、さほど印象付けられなかった。謁見の後、木戸内大臣は、控室で待機していた近衛首相に、 「松岡は本日、陛下の信頼を失った」 と伝えた。
 翌日、近衛首相は、彼と陸海軍の両総長との間だけの秘密の連絡会議を持った。松岡は呼ばれも、通知もされず、その議題も、 「どう松岡を扱うか」 であった(120)。出席者の誰もが、彼は危険な人物とし、戦争を目前に国家の統一を著しく乱していると認めた。しかし、結論は、松岡を、除去する前に、勝手にふるまわせる、というものであった
(121)
 
その翌日の5月10日、裕仁は、松岡がろうしようとしている策を知って、近衛に苦言をもらした。 「松岡によれば、シンガポール攻撃は米国を戦争へと引き出し、その結果、世界戦争を引き起こし、かつ、ドイツを遅かれ早かれ軍需物資のためにソ連へと侵攻する。そこで日本は、ソ連との中立条約の破棄を通告し、そして、シベリアとイルクーツクを占領しなければならない、とも彼は言っている。」
 裕仁は、そうして、次のように結論した。 「松岡は、ヨーロッパから帰国して以来、正気を逸しており、彼の交代の準備を始めてほしい。」(122)


松岡の叛逆(123)

 もし裕仁が松岡の 「正気の失い具合」 の全容を知っていたなら、彼はその外相の切腹を命じていたかも知れない。5月2日、ドイツ外務省の日独関係の主任のヘインリッヒ・スターマー博士は、ベルリンの大島大使を呼び、冷徹に語気を込めてこう告げた。 「米国政府が野村大使の暗号文書を解読していることが判明した」。 5月3日、大島はこの驚かされるニュースを松岡に打電した。松岡はそれを二日間にわたって考慮し、そして、ワシントンの野村にこう電報で知らせた。 「米国政府が貴殿の暗号文書を解読していることはほぼ確かなようだ」。そして松岡は、大島からのさらなる詳細報告を緊急に求めた。
 ベルリンで大島が知りえたことはただ、ドイツの対ソ戦準備についての説明会のための彼への許可が、4月30日をもって取り消されたこと、および、ドイツの戦争準備の本国への先の報告がどういうわけか米国政府の手に入り、それがソ連政府に提供されていたということだった。こうした報告は日本の極秘暗号によって東京に送られ、さらにワシントンの野村にも伝達されていた以上、アメリカがその解読に成功したか、もしくは、日本の外務当局に通報者がいるかのいずれかであることは明らかだった。松岡はただちにワシントンの日本大使館、ベルリンの大島の部下、そして、東京の自らの外務省の電報課の徹底した機密検査を命じた。
 ワシントンでも、米国陸軍の暗号情報課と米国海軍の通信部通信保全課、つまり両軍諜報部の暗号組織が、異例な自身の調査を命じていた。松岡―大島―野村間の軌道を逸した情報交換の傍受解読は、日本の極秘情報を盗む米国の能力が、いまや、それまでに達していることを表していた。それはまた、 「マジック」とよばれる傍受解読情報を読む許可を持つ米国の一握りの高官の誰かが、余りに多くを喋りすぎたということも意味していた。さらに悪いことは、戦争前夜という、どんな新たな暗号でもその解読に急を要する時に、日本がその暗号を変えてしまう恐れがあったことだった。
 米国による日本政府情報の暗号解析は、1922年、一次大戦後のワシントン海軍軍縮会議の際に始まった。以来、多寡はありながら継続され、最初は国務省で、次は海軍情報部の一室で、さらには、海軍と陸軍の情報部の各室で行われてきた。1928年、この盗み聞き技術の生まれつきの天才、ハーバート・O・ヤードリーは、その頭をふりしぼった努力への評価の無さに不満を抱き、彼は背信者となって、その仕事の秘密を日本人に7,000ドル
〔現在価値で約3500万円〕 で売った# 8。その結果、日本は初期の米国の暗号技術の精巧さを知り、以来、自分の暗号を頻繁に変更、向上させる苦痛をいとわなかった。
 ヤードリーの時代、日本の暗号は、複雑な日本語で使われている70の音を手動で撹拌してこしらえていた。1931年、日本は機械的な暗号化を用いはじめ、その暗号装置は、紙や鉛筆で行うよりはるかに多くの方式や回数、その音を撹拌した。そうした機械装置に、娼婦、偽の停電、金庫破りなどを駆使して、米国海軍情報部は、ついに、1935年、すでに使用されて4年経過した日本の第一世代の暗号機の模倣機をつくりあげた。
 米国の専門家の間でレッド・マシンと呼ばれたその最初の機械の誕生を知らないまま、日本の暗号家は、1937年、機械式暗号機から電子式暗号機へとさらに進歩させた。それは、完全な日本の発案になるもので、米国の暗号家を20ヶ月にわたって完璧に考え込ませた。そして20ヶ月目の1940年の8月から9月にかけて、若い海軍の暗合家、ハリー・ローレンス・クラークは、日本が用いている回路式装置を再開発した。海軍通信部の操作員は、クラークの原理をもちいて標準機を作り、試行錯誤をくりかえしながら、電話交換台のようなものの上で、様々な接続を試みた。そして彼らはついに、日本の原装置の複製を作り上げた。米国ではそれをパープル・マシンと呼び、それは、ベルリンで三国条約が締結される前日の1940年9月25日、日本の通信や電報の文章を完全に有意味なものに変え始めた。
 それがコード・パープル(紫暗号)――日本の最高水準の暗合――の歴史的な解読であり、松岡から、大島、野村へとの紫暗号の文書が暴かれて、無駄に過ぎた8ヶ月が、突然に終わった時であった。そうして日本は、自分の暗号機密にもはや信頼を託せなくなった。FBI より特別に委託された職員が、パープル文書の翻訳を利用した12件に一件の割合で米国政治家のオフィスを調べた。すると、ルーズベルト大統領の私的補佐官は、日本の電報の解読の写しをだらしなく、少なくとも一度は、ホワイトハウスの通常の紙屑籠にまるめて捨てていた
# 9
 しかし、そのFBI の捜査は最終的に、機密漏えいが、ホワイトハウスにではなく、国務省に損害を与えていることを発見した。1941年早春、ベルリンの大島大使が東京へ、ドイツのソ連侵攻を確信した警告を打電し始めた時、傍受された電報の一つが、米国務長官のサムナー・ウェルに示された。ウェルは、マジックで回覧されてきた全文書を見れる常例配布先の高官リストに含まれておらず、 「知る必要」 があると判断されたマジック文書の閲覧が許される高官のみを挙げた補助リストに載っていた。そのため、ウェルはマジックの重要性についても、さらには、マジックを可能にするために費やされた情報作業の蓄積にも、充分な認識がなかった。また彼の 「知る必要」 は、彼が取り組んでいるプロジェクト――ソ連をヒットラーの力の圏内から英米同盟の圏内に移動させる――によって決定されていた。この目的のため、ウェルは〔入手した〕、大島大使が送信させた切迫する独ソ戦争に関するパープル文書のマジック翻訳を、ワシントンのソ連大使のコンスタンチン・ウマンスキーに見せた。ウマンスキーはそれをもって、ワシントン駐在ドイツ大使、ハンス・トムセン博士に談判したため、トムセンはベルリンのリッベントロップに、日本の機密は万全ではないと警告することとなった。
 米国の情報担当者が、完全に新しい日本の暗号技術の使用開始を苦渋を噛みしめながら手をこまねいている間、松岡外務大臣の満州時代からの旧友の外務省電信課長は、本国および外国で暗号に関わっている
者すべての調査を実施した。そもそも、日本の海軍担当者がその紫暗号を発明し、外務省の資金で紫暗合機が作り上げられた。そしていまや、その海軍の最高度機密通信は、山本長官の命令で開発された新たな海軍司令暗号として全面的に導入されつつあり、その先の数ヶ月間、解読を不可能とした。他方、陸軍の暗合もまた疑問とされることなく、ベルリンの大島大使が陸軍軍人であり中将であったことから、松岡と外務省の電信課長が実施したそうした調査も、うわべのものに終わりがちだった。
 5月19日、松岡は自分の調査結果を内閣と宮廷に報告し、叛逆者は発見されず、赤および紫の両暗号機械は依然として解読不可能であり、ドイツから疑われた機密の漏えいも、日本の旧式で手動式の補助的な暗号によるものと発表し、こうしたあまり重要でない暗号は改められ、紫暗合と赤暗号は引き続き使われ、かつ、機密維持は万全とした(124)
 しかし松岡と彼の部下の担当員たちは、ドイツの対ソ戦についての大島情報は紙と鉛筆の補助的暗号に託されて送信されたものではなかったことを知っていた。また松岡は、表面上、紫暗号はいまだ安全と、裕仁と海軍参謀の説得に成功していた。かくして、真珠湾までの残された六ヶ月間、日本の極秘外交情報のすべては、紫暗号で送られることが続けられ、米国海軍の通信部と通信保全課によって、読み続けられていた。
 松岡の油断の米国側の利益者は、当初、自分の幸運が信じられなかった。そこで彼らは、今後の紫暗号はすべて意図的な混乱と妨害のためとすら警告した。しかし、時の経過とともに、彼らは、松岡はしくじりをおかし、日本の策略の最後の仕上げを無防備のままに放置していると確信するようになった。
 おそらく松岡は、米国に日本の秘密が漏れることより、外務省が最も影響力を示す必要のあるこの時に、その面目の喪失を避けることを優先していたのであろう。多分、山本長官や洗練した情報任務に長けた者は、松岡のごまかしを知っており、それを、米国の傍受という〔松岡の〕弁護の余地のない一人よがりを後になって指摘するために、放置したのだろう。また、外務省の電信課に配属されている海軍の連絡将校は、おそらく、松岡の手下に買収されるか脅かされて、口裏を合わせたのであろう。つまり、文書証拠はないが、日本と米国の情報担当者は、専門的能力のすべてを駆使し、ありうる可能性のすべてを考慮したのは確かであろう。



松岡の狂気

 1941年5月半ば、外務省の紫暗号問題を握り潰した松岡は、5月後半と6月いっぱい、日本政府の諸会議の内部で二面性を持った異様な動きを展開した(125)。それは、愛国的戦闘性と反米の装いを帯びてはいるものの、同時に、南進準備を遅らせ、かつ、ワシントンでの交渉を骨抜きにするものであった。彼には、そうした企みに合流する多くの黙した同盟者があり、彼らは、国民の意思と裕仁つまり国民の神の意志との間をおびやかす信義上の分断を、再構築することを狙っていた。
 5月12日正午、松岡は三週間にわたる近衛首相と陸海軍の両指導者よりのせめ立てに折れ、野村大使に、日米関係の改善のため、メリノール教会牧師の 「日米諒解案」 の改訂版を打電した(126)。米国務大臣のハルは最初、その松岡の改訂版が、南西太平洋で日本の地位の拡大には、平和的、非軍事的手段のみを用いるという日本の先の誓約を省略していることに注目を示した。
 松岡は、二日後、米国が宥和的ではないことを明白にさせようと、グリュー在日大使を呼び、 「米国がとるべき、勇ましく、まともで、理由ある行為は、ドイツに対して公然と宣戦布告することである」 と述べた。 グリューは、この松岡のお説教を、非公式な雑談の中での即興な表現とはいえ、 「口調も中身も好戦的である」 と受け止めた(127)。木戸内大臣は、松岡の非礼さを聞き、即座にグリューに、あまりに困惑して受け止めないようにと願うメッセージを送った。近衛首相と及川海相の二人は、グリューに、自分たちは外務大臣によるいかなる早まった行動も、それを差し止めようとするものである、と知らせた。5月12日と15日の連絡会議では、他でもない松岡の省内の同僚が、彼の外交上の技巧の妥当性について質問を行った(128)。しかし松岡は、自分はどのように米国を扱うか、そして、どのようにルーズベルトの腰を折らせるかを最も心得ている、と言い張った。
 その翌週に生じたことは、疑われる嫌疑から松岡を晴らすほどのものは何もなかった。野村は、米国の反応について、悲劇的だと報告した。大島はベルリンより、ワシントン交渉の目的は 「日本人の中の親米的人々に、日本と米国との間の和解は不可能との印象を与えることにある」 とリッベントロップに伝えることで、彼のご機嫌を取らねばならなかったと知らせてきた。また、ジャワのオランダ植民地の日本人交渉団長が交渉の行き詰まりを報告したので松岡が彼を日本に呼び戻して閑職への左遷を命じたとの彼自身の大風呂敷話も、オランダ植民地政府にはさほどに脅しの効果は現れていなかった。
 近衛首相は5月22日、内閣と両参謀総長による連絡会議を開き、そうしたよろしくない結果について協議した(129)。裕仁は36歳の弟、高松親王を、海軍参謀の一人として、その会議に送り込んだ
# 10。 高松は、何らおくすることなく、ほぼすべての大陸での解決困難な地政学上の緊急問題を自ら展開し、彼の目だった業績の一端を披露した。そして最後に、冷静な高松親王は、自ら松岡に詳しく説明をもとめることで、事態の仲立ちに乗り出した。

 
松岡 私は蘭領東インドとの交渉を停止し、吉沢を呼び戻したい。また、その時期については、私にお任せくだされ。
 
某 〔高松〕  私は、吉沢の召喚の段階で、現在の蘭領東インドの態度が我々にもたらすものについては、よく理解しています。しかし、東インドにこうした姿勢を可能とさせているのは、英国ならびに米国の支援があるがゆえです。もし我々が東インドに対し(交渉を停止するという)最終措置をとるのであれば、それは、軍事作戦をマラヤやフィリピンにすらまでも押し広げることを意味します。したがって、それは重大な決断であり、それによっては、この国は、沈没もしくは漂流することともなりかねず、そうした事態は、計画や実施において、充分な思慮がなされなければなりません。
 
松岡 もし、我々が決断をなさなければ、ドイツ、英国、米国、そしてソ連は、最後には団結し、日本に圧力を加えてくるのではないか? ドイツとソ連は同盟を組むかもしれず、そして反転して日本に向かい、さらに、米国が日本に対する戦争を始めるかもしれない。私は、陸海軍の参謀総長がそうした最終事態にいかに対処しようと考えているのか、それを知りたい。
 
杉山陸軍参謀総長 これはまことに重大な問題である。マラヤの決断ひとつにしても、我々はまず最初にタイに根拠地を設けねばならず、そして、そこから仏領インドシナへの作戦を開始することとなる。この点については、前回の連絡会議で、充分に説明したはずだ。外務大臣は(タイと南インドシナでの我々にとっての交渉基盤に関し)、まだ、何も成されておらず、わたしは今日、それがなぜなのか、伺いたい。
 
松岡 タイと仏領インドシナに侵攻する前に、我々は英国と米国について、何をなすのかを決めなければならない。これについての決断抜きに、交渉に入ることはできない。我々が決断すれば直ちに、私は前進する。
 
及川海軍大臣 松岡外相自身の考えはどうなのか? 松岡は頭が変ではないのか?

 そうして、議事は2時間におよんだ。蘭領東インドについての質問は未決定のまま残され、松岡は、中国問題とドイツ同盟問題に移った。その他の会議でも、松岡の正気問題についての及川の疑問は遠慮のない共鳴を呼んだが、彼らは、その聡明で名声を馳せた外務大臣を却下してその面子をつぶすようなことには躊躇していた。松岡は、その独壇場のほぼ終幕で、彼が狂気をそれに託している、ひとつの望みへのヒントを提供した。その望みとは、まもなく、ドイツが日本を、微妙だが有利なソ連との戦争に引き込むことだった。彼は、ベルリンの日本の大使、大島中将より最近送られてきた電報から、次のような引用を紹介して、〔議事録に〕記録させた。


最後の北進策

 松岡は、米国とのもっともらしい交渉には時間稼ぎをしてその進ちょくを拒み、また、インドシナとタイの南進作戦の基地のための交渉でもその開始を拒否して、5月29日の連絡会議も切り抜けた(131)。彼は、アメリカ人はほぼ皆が、反英国、反中国、反共産主義を共有しており、彼らはまもなくルーズベルトに、日本をしてアジアの指導者にさせ、 「生活圏(領土)」 〔ナチスの理念のひとつ〕 を得させるだろう、とまことしやかに言い続けた。平沼内務大臣――保守的な実業家組織、国本会の面長な法律家――は、松岡の側に立ち、永年の対ソ連戦争の提唱者である彼は、松岡のように、ドイツとソ連の戦争の勃発を待ち望んでいた(132)
 高松親王は、
米国との不幸な対話の端緒には、松岡に責任を取らせようと試みた。
  「貴殿は、あるアメリカ人牧師に事を始めさせたのではないのか?」 と高松は尋ねた。
  「いや、私はしていない。私は誰がそうしたかは知っている。だが、それが誰かと言わせないでほしい」 と高松は答えた。 
 高松親王は、それが近衛首相であることは知っていたが、黙っていた。
 6月5日、ついに、ベルリンの大島大使から以下のように告げる待望の電報が届いた(133)。曰く、ヒットラーは公式に、第三帝国はまもなくロシアと戦争を開始すると大島に告げた。そして大島は東京にこう助言した。もし、シンガポールの英国に対する攻撃がまだ着手されていないなら、それは、ソ連の背後のシベリアへの攻撃によって、ヒットラーへに協力することが望まれる。
 翌6月6日、短い連絡会議が開かれたが、それは秘密で、杉山参謀総長もそれの記録は残していない(134)。だが、木戸内大臣の日記によれば、天皇は自からその会議に出席して、25分間同席した模様である。そしてその日の午後の裕仁から木戸への報告によると、松岡は、独ソ間の和解にはまだ60パーセントの可能性があり、結果が明らかになるまで、日本のすべての交渉と決定は延期されるべきであると主張した。確かに、外務省はいま、シンガポールを攻撃圏内とする拠点のためにフランス植民地政府と交渉を行って、米国を敵に回すべきではなかった。
 その翌日の6月7日、またしても連絡会議が招集され、松岡は次のように自説を語り疑念を大きく拡大した(135)。 「自分は、ヒットラーが戦争を始める意図が、報告にあるような、共産主義を撃退するという意図に本当に基づいているのかどうか疑問だ。そうではなく、彼は〔ソ連を〕攻撃する意図はないのではないかと自分はいぶかしく思う。なぜなら、その戦争は、20年も30年も続くであろうから。」
 杉山参謀総長はここで、 「我々はドイツと英国の和解の可能性について警戒すべきではないかと思う」 と、彼の 『メモ』 に括弧にいれて付け加えている。つまり、日本のシンガポールへ進出は、その最重要との位置を急速に失いつつあった。ドイツは、日本の対ロ進撃を望み始めているかもしれず、英国は、シンガポールへ必要な防御力を振り向けれる余力を感じているかもしれなかった。その後の数日間に、緊急の通知が陸軍省の高官からベルリンとローマの大使館付き武官に送られ、英独間の敵対関係になんらかの緩和の兆候がないかどうか、警戒するよう指令された。
 独ソ戦争の切迫の中で、松岡はようやく、彼に味方をもたらす恰好な論争に遭遇した。そして、ロシアに対する大陸戦を戦う使命の中で育ってきた幕僚本部の将校たちが、会議中、彼に微笑みかけ、彼の議論に耳を傾けるようになった。また、皇族の何人かの家族、ことに東久邇親王や伏見親王が、彼の考えに共鳴を示し始めた。もし、ヒットラーが今回、その協約通りのみを実行するならば、裕仁は、〔対米戦という〕ペリーの母国に対する祖先伝承の聖戦を延期すべきとなり、ロシアの背後を盗み取り、皇帝の領土の半分を掌握する、またとない機会を実現させることもありえた。
 しかしながら、裕仁と高松親王は、容易には考えを曲げなかった。6月の第二週、裕仁は、 「南方施策促進に関する件」 と題する幕僚本部の文書を読み、それを認可した。この文書は、日本軍部隊がサイゴンやメコン川デルタ地帯に侵攻し、飛行場と訓練場の設置を可能にするため、インドシナのフランスと緊急に交渉を開始するよう求めていた。それは、フランスによる拒絶が軍事力〔始動〕のきっかけをもたらし、英、米、蘭の介入が見られた場合、日本は 「英国および米国との戦争の危険を否定すべきではない」 と決意していた。6月12日の連絡会議では、松岡は、交渉にも、また、この計画に示された軍事的威嚇姿勢のいずれにも、数えきれない反対の声をあげた。そして最終的には、その 「某」こと高松親王が、 「軍事力を用いることに、賛成か、それとも反対か」、と問うこととなった
(136)
  「私は、反対ではない」 と松岡は答えた。しかしその際彼は、検討中のその促進計画に、文面上の抜け穴を幾つか含ませるよう求めた。
  「以下の措置ではどうか」 と高松親王がそれに対応した。 「全てを極秘とし、この文案を採用し、そして、以下の項目を了解事項として付記する。一、我々は、この計画をそのままの状態で、最終的に実施することに同意する。二、我々は部隊の移動を準備する時間がともあれ必要なので、我々は二つの異なった促進段階で交渉を進める。三、第一段階の交渉が終わった時、我々は即座に第二段階に進む。」
(137)
 松岡はそれに同意し、用語の点検のために時間をもらいたい、と述べた。
 6月16日の次の連絡会では、松岡が、同意はしていなかったと、急な話が持ち上がった。彼は、この新計画で以前のインドシナの同意事項は無効となり、北インドシナでの日本の存在は違法行為となる、と彼は問題を挙げた。そして彼は、日本はそのための報復を受け、現在の蘭領インドシナからのゴム、錫、米の供給をおそらく失うだろう、と警告した(138)
 松岡は言った。 「もし、ヴィシーが占領に同意しない場合、それを強いることは信義に背くことなる。以前に合意された協定は、まだ批准されていない。武力による占領は背信行為だ。日本は国際的に信用に値しない国と言われるだろう。私は、たとえ一人で全員を相手にすることとなろうとも、日本の国際的威信のために戦う。」
  最後に、松岡は、多くの言葉を費やし、報道陣の前で、天皇に訴えると脅した。 「腹蔵なく、一国の外務大臣として、これは背信行為にあたると、私は天皇に報告しなくてばならない」 と彼は述べた。
 杉山参謀総長は、11月の台風の時期がくる前に、インドシナに飛行場を設置する必要があると説明して、やんわりと関心をその脅しからそらそうと試みた。また及川海相は、海軍は松岡があげた可能性のひとつ――即ち英ソ同盟――たりとも考えたことはなく、それを検討する時ではあると述べて、それに賛成との意見を出した。
 高松親王はしかし、猶予は見せず、松岡を立腹げにみつめて言った。 「考えを変えることはできないのか?」
  「できません」 と松岡は返答した。
 東条は、年末までにインドシナでの 「仕事は終えなければならない」 と強調して介入した。
 松岡は、彼の脅しの立場を変える気配はなかった。 「陛下にこうした準備経過について、公式の報告をする必要がある。・・・すべて、私が昨年に示唆したシンガポール〔の行動〕を、諸君が取らなかったことから生じている。いつ、我々はこの件について陛下に公式の報告をするのか? どのように、我々は陛下に報告するのか? 私は諸君にそれを考えてもらいたい。」
  杉山参謀総長は、「かくして、会議は閉会され、問題はあと二、三日考慮されることとなった」 と記した。


ヒットラーのソ連侵攻

 6月21日、40日間の考察の後、米国務長官コーデル・ハルは、ワシントンの野村大使に、米国との友好的関係促進のための 「日米諒解案」 の日本側改訂版へのアメリカ側の修正案を提示した。かって、両国の相互の利害の厳格な定義でありその不合意ともされたことが、この修正案の中では、条約、貿易、法の下の自由な企業精神の原則に関し、聞こえはよいが言葉を駆使した米国式論理が盛り込まれていた。ハルは、ベルリンから東京、あるいは東京からワシントンへと送られる紫暗号――松岡はそれが解読されていることを承知の上でその後も使用していた――の電報をむろんすべて読んでいた。その結果、ハルは、松岡のようには、自分と野村との対話が成功するものとは期待していなかった。二人の関係は、ただ、時間稼ぎとしてのみ機能していた。この点を確認しようと、ハルは松岡の本よりあるページを取り上げ、ハルは口上書を付して注釈を述べた。その中で、無礼な松岡をぶしつけに指して、彼はこう述べていた。 「重要な地位にある日本の指導者の中には、明らかにドイツのナチの支持に与しているものがいる。・・・そうした指導者が日本の世論に影響をおよぼそうとしているかぎり・・・その希望の線にそった結果を予想するのは、・・・絵空事ではないのではないか?」
 ハルは、この型破りに実務的な信書を、あまり注目はされないと解っている時に、東京に送った。その数時間後、彼や情勢に精通した政治家たちが数日前から予想していたように、ドイツの160個師団の高度に機甲化された部隊が、ドイツ空軍の精鋭飛行中隊に頭上を掩護されて、ロシアに流れ込んだ。世界はこれまで、それほどの強力な陸軍の侵攻はかって見たことがなかったが、世界のどの大使館も驚かなかった。日本の関係者は、それまでの数週間、独ソ前線を度々通過し、双眼鏡やカメラ撮影により、特にこの戦争について、十分なほどの情報を得ていた。彼らは、ドイツ側に軍需品を積んだ貨車や軍服の集団を、ロシア側には静かな農園地帯を見ていた。彼らは、赤軍最高司令官が、15万人の精鋭部隊を、シベリアからヨーロッパ側ロシアに戻したことを知っていたが、ワルシャワとモスクワ間のロシア側の防備増強の兆候は見ていなかった。一世紀少々昔のナポレオンの教訓にも拘わらず、彼らは、ロシア人の広大な自領土への信頼を見落としていた。彼らは、苦難の時のロシア農民の忍耐強さへのスターリンの確信を理解できていなかった。彼らは、ロシアの領土がヒットラー配下の光り輝く主人を飲み込むままにさせておく、スターリンの冷徹な現実性富む戦略に、信用を置けなかった。彼らはそれはただ、第三帝国が数ヶ月で勝利する問題だろうとのみ考えていた。
 ドイツ攻撃のニュースが充分に確認されるとただちに、外務大臣松岡は宮廷を訪れ、直ちにシベリアに侵攻するよう、裕仁に求めた(139)。だが、裕仁が南進のための周到な準備の計画を作るにはなにをすべきかを尋ねているのに、松岡は無謀にも、まずロシアとの戦争を、次に英国、そして米国、さらに最終的にはそれら全体との戦争をと答えた。裕仁は近衛首相と木戸内大臣に、外務大臣の 「真の考え」 を確かめるよう命じた。6月24日、二人はその結果を、二人が述べうる限りでは、松岡は、南方と北方の二面戦争を確かに提起したと、裕仁に報告した。裕仁は、その日に予定していた連絡会議を、延期
し、杉山陸軍参謀総長に陸軍の情況を確かめさせた。松岡はヒットラーの動きから、自分の政治的立場を強めており、裕仁は、計画に関し、それを前進させる陸軍の決定について自ら確かめておく必要があった。
 6月25日の午後早く、裕仁は、杉山陸軍参謀総長に謁見した。杉山は、承認済みの南進国家政策の議論を繰り返した。米国、英国、中国、オランダのABCD諸国は、日本の 「包囲」 を日ごとに強めている、と杉山は言った。もし、日本がアジア共栄圏に向かって進むもうとするなら、日本はまず、南インドシナに諸基地を確保しなければならない。さらに杉山は、南インドシナ占領の実施を、もし可能であるなら、外交努力によってそれをなす必要を強調したが、武力によることも準備しておくべきであることも認めた。裕仁は同意し、部隊の派遣について特定した質問をした。すなわち、その費用はどれほどか? どの師団を用いるのか? 建設すべき基地や飛行場は、南インドシナの厳密にどこなのか? そしてその返答を得て最後に裕仁は言った。 「私は国際的な反発が大いに気がかりだが、それは放っておこう。」(140)
 杉山陸軍参謀総長は、六点の詳細議事資料書をもって裕仁のもとを辞した。その第一は、南インドシナに基地を確保する戦略的理由の説明、第二は、1941年の米国および英国の準備と挑発の一覧、第三は、ABCD諸国の軍事力ついての情報、第四は、南西太平洋全域におけるABCD諸国の航空機数量、第五は、ABCD諸国の日本の経済的封じ込め戦略の評価、第六は、敵の政治戦略の評価、であった。
(141)
 延期されていた連絡会議は、その日、午後遅く開かれた。その当初の目的は、「南方施策促進に関する件」 の修正案――対米英戦争も辞さないという主張を抜いたもの――に松岡の承認をえることであった。松岡は、会議開始直後、そのインドシナ促進計画に黙って従って意外な印象を与えた後、独ソ戦争の意味についての自説を展開して、参加者のすべてを魅了させた。及川海相は、二面戦争への断固とした反対を表し、そして松岡に、 「ともあれ、未来を多言するのはつつしんでもらいたい」 と願った。
 松岡は言った。 「もしドイツが勝ち、ソビエト連邦が処分される時、我々は、何も成すことなしには、戦利品の分け前を獲得することはできない。我々は、血を流すか、外交に取り組むか、いずれかを成さなくてはならない。血を流すのが最も望ましい。問題は、ソ連が解体される時、日本が何を望むべきであるかだ。ドイツはおそらく、日本が何をしようとしているのか不思議がっている。シベリアの敵の部隊が西方に移動したというのに、我々は戦いに打って出ないのか? 少なくとも、陽動的動きはすべきではないのか? 私は、それが何であれ、我々は何をなすのか、急いで決定するように望む。」
(142)
  「某」 こと高松親王は言った。 「結構だが、何をなそうと、早まってはならない。」
 この結論のない意見をもって休会となり、参加者はその翌日、そのまた翌日、そしてその次の6月28日、6月30日、そして7月1日と再会を続けた。日本の最高有力者たちによるこのもうほとんど連続した連絡会議で、終始、松岡は議事に妨害を加え、身もだえさせ、そして譲歩し、すかさず相手に撤回させた。
(143)
 6月26日、彼はその日の会議を、 「私は合意しよう。・・・しかし、文書での合意はしない」 、と言って閉会した。
 6月27日には、彼はこう言って抗議した。 「私は、ソ連を攻撃する決定をお願いしたい。・・・諸君は私に、外交に取組めと言うが、私は、米国との交渉が充分長く続くとは思えない。」
 6月28日には彼はこう言っている。 南進は火遊びのようなものだ。もし南に進めば、我々はおそらく英国と、そして米国と、そしてソ連とも戦争するだろう。・・・私は、与えられた情況から言って、戦争を始める最適の時とは思わない。・・・海軍は戦争突入に絶対反対の意見を表しているが、公然と言おうとはしていない。・・・仏領インドシナへの作戦がもし中止されたなら、私は満足だ。」
 6月30日、松岡は、南仏領インドシナの占領の6ヶ月間延期を提案した。及川海相は杉山陸軍参謀総長に、うかぬ顔でささやいた。 「それ
〔松岡の提案自体のことか?〕を、6ヶ月間延期するというのはどうだろう?」。海軍軍令部次長は陸軍参謀次長の塚田攻中将に同調して言った。 「そう、それを6ヶ月延期することを考えてみよう」。しかし、塚田中将――特務集団の特権的一員で朝香親王とは旧友関係にあり、南京攻略の前に松井大将の部下に入った参謀――は、南インドシナ占領はすでに天皇によって承認されたものであって、 「実行せねばならない」 ものであると指摘した。
 松岡は、南進の悲惨な結果を予告して自分の最終的立場を示し、杉山陸軍参謀総長に、他の結果を何か示せと挑んだ。そして松岡は次のように述べて発言を結んだ。 「もし我々が南インドシナを占領したら、石油、ゴム、錫、そして米を確保することが困難となる。偉大な人物なら、そういう考えを変えることはできるはずだ。」
 この発言は天皇――その論争の中で松岡への支持をことごとく失わせた――の偉大さへの当てこすりと聞こえるものだった。平沼内務大臣――最右派で保守的実業者組織の国本会々長――は、冷たく応じた。 「私も北にゆくべきだと考える。問題は、我々ができるかどうかだ。そしてここにおいて、我々は軍部の考えに従わなければならぬ。」
 陸軍の指導者たちは、すでに幾度も、陸軍の出動可能な師団の4分の3が中国に縛りつけられている限り、シベリアに対する効果的地上戦は開始できないと説明をしてきていた。 海軍を代表して永野軍令部総長は、いまや〔陸軍と〕同一見解となった。曰く 「もし北に関わることになれば、我々はすべての準備を、南から北へと反転させさねばならない。これには、少なくとも、50日は要する。」
 かくして、松岡の国家政策を反転させようとする独善的な戦いは終わった。陸軍、海軍、右派政治家、そして事業家の皆が、松岡の北進政策の最後の訴えを支持していた。だがその誰もが、彼が言葉巧みな発言と原則に温存した経歴に居座っている限り、ともに進もうとは望まなかった。
 その夜遅くの軍事参議院の会議では、皇族のメンバーは、北進の可能性への彼ら自身の了解を記録に残すようにと、彼ら自身の道を公にした。朝香親王――南京強奪を監督した裕仁の叔父――は、こう述べている。 「我々は今、分岐上に立っている。北と南のどちらが先か。私個人としては、北が最初であるべきと思う。」
(144)
 裕仁のもう一人の叔父で今や大将の東久邇親王は、いたずらっぽく質問した。 「南にゆく最終目標は何なのかね?」
 それに答えて杉山陸軍参謀総長は、彼にはなされた決定への全責任があることを認識したうえで、言葉を慎重に選んで言った。 「南に動くいくつかの可能な計画と方法があるが、自存と防衛という目的から、蘭領東インドまで我々は進出することを考えている。」
  「海軍によれば」 と近衛首相は話を起こし、 「一撃でその全行程を行けるものではない。この段階では、仏領インドシナまでは行く。その後は、一段階ごとに進む積りだ」 と述べた。
  「ドイツがとっている道と比べ、我々は随分と慎重だ、そうじゃないかね?」 と朝香親王は笑った。
 それに対し近衛は、 「もちろんだ。これは、国家の運命を懸念させる重大な問題だ。仮定上の問題ではない。軽々には扱えぬ」 と言った。 
 翌日の7月1日、松岡は自らできる限りに礼節をつくろって屈服した。その日の連絡会議は、南インドシナの占領、ならびに、南進の準備を行うことで合意を見た。それと同時に、満州の関東軍は突発の対ロシア戦の可能性に備え、その増強も合意された。しかし、満州に関して、塚田陸軍参謀次長はこう言った。 「我々はその準備を進めるが、それは作戦行動のための最小規模の部隊との考えに基づく。我々は不必要に大規模の部隊を用意する考えは持っていない。」
 会議の終幕で、無条件の降伏を示した松岡外務大臣はこう宣言して、将来への自分の影響力の維持に腐心した。曰く 「事態はよろしく落ち着いた。これも、私が諸君全員の意見を聞き入れたためである。」


松岡追放

 松岡が断念した1941年7月1日、ワシントンのルーズベルト大統領は、内務長官のハロルド・イックス――彼はまた国防上の石油管理を担当していた――に宛てて書簡を送った。大統領は、事態はまだ日本への石油供給を断って、日本を窮地に追い込むまでには至っていない、とイックスを説得しようとしていた。曰く、 「ジャップス〔日本人の蔑称〕は実際に、自分たち仲間内で、互いに落としめ、打ちのめし合う争いをしており、先週は、ロシアを攻撃するか、それとも南方を攻撃するか(つまりそうして明らかに自らの運命をドイツに投入して)、いずれの方向にジャンプしようかと決定を試み、あるいは、二股をかけて、我々と友好的になろうか否かともしている。どんな決定がなされるか予断はできないが、貴殿も承知のように、我々にとって、太平洋の平和維持を支援することは、大西洋の支配にとっても極めて重要である。ただ私は、そうするに足る、充分な海軍をもっていない・・・」
 大統領はまだ知らなかったが、裕仁はすでに、南方に進駐しようとしており、少なくとも、自分の満足できるものとして、その自らを落としめ打ちのめし合う争いには決着をつけていた。つまり、政策決定上の手続きでは、勝負を決していた。だが、陸軍および海軍の参謀段階での手続きでは、それはまだ、もう二週間ほどの期間を必要とした。
 7月2日、ルーズベルトが上記の書簡を出した翌日、裕仁と所轄大臣たちは会議をもち、南インドシナへの侵攻を認可し、動転するロシアと防衛力を欠くシベリアが与えている絶好の機会を無にすることを決めた。この正装による御前会議で、参列者は 『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』 との名称の長文の討議資料を検討し、採択した。その主要点は以下の三項目であった。
 近衛首相、杉山参謀総長、永野軍令部総長はいずれも、この計画を支持する声明に加わった。松岡外務大臣は、一人、異論を提示し、 「独ソ戦の勃発に惹起する新情勢」 に照らして、国策の見直しを弁護した。彼は、ワシントンとの交渉によっては、日本は南方に望むものを何ら獲得しえず、最終的には、戦争という痛ましい選択を迫られると予告した。そして、 「我が帝国は前例のない文字通りの危機に瀕する」 と陰鬱に宣言して結論とした。
 松岡が落胆して沈黙した時、彼のたたかいは、国際人で、かっては立憲政友会の総裁で、今は裕仁の枢密院議長の原嘉道
〔よしみち〕が引き継いだ。通常、御前会議では、枢密院議長は皇位に代って質問をする決りがあった。しかし、この御前会議の前、裕仁は堅苦しくない討議を求め、原議長に自分の意見を述べてもよいと、積極的にすすめた。皆に自分の意見を言わせ、すべての異論を宮廷の記録に書き残すことを許して、裕仁は、異論者を責務から解放して、何が成されるべきかの議論を促進することができた。
 原枢密院議長は、計画されている仏領インドシナへの我が軍事力の動きは、昨年、我々がインドシナに与えたその領土的保全の確約に一致しているものとは思えない、と述べた。
 裕仁はうなずき、微笑んだ。
 原は続けた。「独ソ間の戦争は、まさしく、日本にまたとない機会を提供しているということは、諸君の誰もが同意することだと信じる。ソ連が世界中で共産主義を拡大しようとしている限り、我々は遅かれ早かれ攻撃をしかけなければならない。我々はいまだ中国事変にかかわっているので、ソ連への攻撃は、我々が欲するほど自由には成しえないと私は見る。そうではあるが、我々はそれが好機と見なされ時に攻撃すべきである。・・・ソ連は、裏切り行為の常習者として悪名を馳せている。もし我々がソ連に攻撃を加えても、誰もそれを不信行為とは見なすまい。・・・私は政府と最高指揮官に、可能な限り速やかなソ連攻撃を求めたい。」
 裕仁は、その生涯の半分を陸軍の北進論との争いに費やしてきており、〔この原の発言に〕力強くうなづいた。原の反対はかくして、彼の私的見解か、あるいは皇位に代るその公式の見解か、いずれかを表す両義的な含みをもって、宮廷の公文書に銘記されることとなった。杉山参謀総長は自分の記録にこう記した。 「原枢密院議長によってなされた質問は、適切かつ的を射ていた。天皇はことのほかご満足かに見受けられた。」
(146)
 会議を終えて、裕仁は皇居図書館の自室に戻り、そうして認可された要件に関わる何枚かの軍事命令に許可の印を押した。そのひとつは、予備役を招集するもので、国内の兵力不足を補充し、現在、戦地に配置されている常備師団での死傷者の欠員補充に備えるものであった。別の命令は、特異な小さな命令で、満州に新たな司令部、関東軍特別演習部隊を置き、関東軍の熟練部隊の大半を再配置し、南進のための演習訓練をおこなうものであった。第三の命令は、日本から満州へ、15個師団を配置するもので、関東軍と特別演習部隊を40万人から70万人に増強した。第四は、台湾、海南および南中国の部隊への通告で、いずれも新たな軍服、戦闘糧食、そして水陸両面上陸教範
〔マニュアル〕を準備させるものであった。第五は、大本営の建物を、皇居内の吹上庭園の北に、完全に建替えるための許可であった。それは大きく拡張され、機甲板で完全に防護されていた。それは閣僚や参謀たちが必要な会議をもつ私的会合所の役をしてきたものだったが、いまや専属職員や各種地図や記録設備を備えた常設の連絡事務所になろうとしていた。
 7月2日、南進の公式決定が閣僚たちの黙認で承認されたものの、それでも、事態は決着されなかったことを、裕仁は残念ながらも認めなければならなかった。満州への部隊の派遣は、ゾルゲの工作員が、大阪の陸軍調達業者に毛皮帽の代わりに蚊帳が発注されたことを発見するまでのしばらくの間、ゾルゲ諜報団を懸念させたものの、陸軍の戦地の将校の気持ちを収めさせことにはならなかった。彼らは、長きわたって、ロシア人との戦争を戦い、必要とあらばそれで死ぬことを訓練してきていた。それがいま、彼らはソ連に対し〔単に〕陽動作戦をおこない、そればかりか、関東軍の特別演習として、海軍の南進のための支援作戦の訓練をするよう命令されたのであった。
 それは、ほとんどの佐官層には耐えがたいことで、くわえて、7月2日から7月16日まで、日本の国内状況は極めて緊張した(147)。事態を良く知る人たちは、ロシア攻撃の代替手段は、怖れられかつ自滅的ですらある対米戦と知っていたため、陸軍に〔やむなくの戦争に打って出るのではなく〕、むしろ不満のままでいるように仕向けた。国家政策に対する轟々たる声は、内務大臣がすべての警察に24時間の警戒態勢をとらせ、文部省が全高等学校と大学を休校にさせるほどの緊迫常態に達していた。
 この二週間の沸き立つ激変的情勢の間、松岡外務大臣は、ワシントンの見せかけの交渉を妨害しようと姑息な努力を続けた。そして松岡は、米国務長官のハルは、先の6月21日付けのアメリカ側口上書で自分を個人的に攻撃し、自分を解任するよう試みて、事実上、日本の内政に介入した、と言い張った(148)。彼はこうした否定的言葉を尽くし、新聞各紙は、彼への追悼としてそれを支持した。元黒龍会の親分の頭山など右翼勢力は、彼のために、共感のデモを実施した。大阪の商人たちは、南方向け軍服需要をみこして綿価を上昇させ、北方向け冬季軍服のための羊毛価を引下げた。
 しかし、政府内部の諸会議で松岡は、ますます厳しい目で見られ、誰にも聞いてもらえなくなった。7月12日の彼の最後の出席となった連絡会議で、松岡は米国専門家をさらに地で行く次のような最後の軌道を逸した見解を披瀝した(149)。 「米国大統領は、自国を戦争へと導びこうとしている。しかし、アメリカの人たちはそれに従いたくないかもしれないという、一縷の望みがある。・・・日米間の調和は、私がとても若いころ以来、育ててきた宿願である。」
 東条陸相が言った。 「たとえ望みがなかろうと、私は最後まで追求してゆきたい。それが困難であることは承知しているが、もし、我々が大東亜共栄圏を打ち立てえず、また、支那事変を終結できないとするなら、それは耐えられないことである・・・」
 及川海相が言った。 「海軍報告によると、ハル国務長官や他の者たちは、太平洋戦争を起こすことを準備していない。日本が太平洋戦争に入ることを望んでいない以上、幾らかの交渉の余地はあるのではないか?」
 松岡が反論した。 「余地がある? 彼らが何を受け入れるというのか?」
  「何か小さなことでも」 と及川がほのめかした。
 松岡はそれに、 「もし、我々が南方で武力を使わないと言えば、彼らは、たぶん聞きはする。だが、それ以外に彼らが受け入れるものは、何があるのかね?」 と返答した。
 及川が言った。 「彼らは太平洋の安全保障を受入れたくはないのか? 中国の門戸開放政策は?」
 いくつかの遣り取りの後、松岡は答えた。 「よろしい、それを考えておこう。」  以上が彼が同僚を前にして話した最後の言葉だった。7月13日、彼は仮病つかって寝込み、アメリカとの友好関係のための 「日米諒解案」 改訂版の修正案を、最初は読むことも拒否した。7月14日、陸軍や海軍から次々と訪問者があり、修正案を野村大使に送るよう約束をとりつけようと躍起になった。だがその晩、彼はいっそう蛮勇をおこし、その新しい日本の案文を引っ込めて、ハルの最後の案を日本は受け入れられないとの知らせのみ野村に打電した(150)
 翌7月15日、松岡はまだ病床にあり、内閣の他の閣僚は、彼抜きで会議を開いた。そして、彼の非協力に対して、辞職を勧告することを決めた。その日午後3時、近衛親王は葉山の御用邸を訪れ、状況を協議した。近衛は、裕仁が何か不満そうで、疑っていることに気付いた。1940年に第二次近衛内閣を組織した時、裕仁は近衛に、「いついかなる時も苦楽を皇位と共にする」 ことを誓わせていた。それが今、弱気な近衛は、自らの 「使命」 を最後まで果たすことなく、その首相としての重荷を下ろそうとしているかに見えた。
  「なぜ、松岡のみを交代させ、内閣の総辞職をしないのか」 と裕仁は命じた。
 近衛は、松岡の顔をつぶせば国家の統一を乱すことになり、全内閣を辞職させて松岡に不面目の汚名を与えない方が望ましい、と説明した。そして、近衛は溜息をつきながら言った。もし必要なら、天皇の新たな要望を受け入れ、別の外務大臣による新内閣を作りたい。近衛は、第三次近衛内閣の発足を誠実に実施することを確約し、裕仁は第二次近衛内閣の解散を許可した。
(151)
 15日の夕、宮廷からの使いが松岡のもとを訪れ、彼は病気で閣議にも欠席しているため、緊急の国家文書に用いる場合に備え、彼の印璽を近衛に託すように求めた。宮廷の要件であるなら、松岡はそれに応じる以外に選択はなかった。だが、彼は、彼の委任が内閣全体の辞職に使われることを見抜いており、彼は翌朝、彼を支援する陸軍や実業界の人々に電話をかけて結集を訴えた。近衛もまた、他の閣僚に、辞職した際には即座に再任を確約するための電話で忙しくしていた。
 7月16日の午後2時、裕仁は、緊迫する閣議の危機からしばし外れて、山下中将との謁見をもった
(152)。前年秋、台湾第82部隊に南進調査団を提案、山下はドイツでの7ヶ月間の偵察を終えて戻ったところだった。彼はその旅行の報告を提出し、日本陸軍はヨーロッパの陸軍よりはるかに遅れており、落下傘降下部隊、中型戦車そして長距離爆撃機において、決定的な欠陥があると警告した。
 山下はフランス沿岸まで訪れ、自ら直接、強化されつつある英国空軍の制空権を視察してきた。彼はことに自分の補佐たちに予定になかったドイツのレーダー工場への訪問を組ませ、欧米諸国ではレーダーはすでに戦争の未曾有の武器――日本ではまだ調査途上の未熟な玩具――となっているとの情報を持ち帰っていた。山下は、そうした発見を基盤に、あらゆる戦争計画の二年間のモラトリアムと、日本陸軍の総力をあげた近代化を提言した。彼の勧告は、日本の南進戦争への突入を回避しようと望む幕僚本部の若手メンバーの政治的武器として用いられようとしていた。
 裕仁との謁見の中で、山下は、そのドイツ戦場視察からの新たな結論を引き出すために、自分の考えの方向転換をおこなった。6月30日、幕僚本部は、台湾の第82部隊より、暫定的南進計画を受け取った。それは、マラヤの英国の防備に驚くべき弱点があり、またフィリピンの米国の配置に深刻な欠点があり、そして、オランダ領東インドには抵抗の能力は微々たるものしかないことを暴いていた。山下は、この分析を部下の第82部隊の辻中佐から提示され、日本陸軍は、たとえ北方でヨーロッパ大陸式の武力に対抗しえるものでなくとも、南方において勝利をもたらしうるかも知れないことを認めていた。彼は、陸軍は攻撃の目的には、もし可能でも、まったく使われてはならず、もし戦争が不可避であるなら、北方より南方を優先するほうが得策であ、と助言した。
 山下は謁見を終えると、幕僚本部の反対派を黙らせ、尻込みする戦地士官たちを南進の方向へと導いた。裕仁はまず、彼を満州の関東軍特別演習部隊を指揮するよう派遣し、四カ月後、シンガポール進撃の任務につかせた。
 山下との対話の後、裕仁は内閣総辞職を承認し、ただちに、近衛親王に新内閣を組織するよう命じた
(153)。翌7月17日午後、近衛は、新閣僚リストを葉山の御用邸に持参し、翌18日午後、新内閣の認証式を挙行した。松岡外務大臣は、まだ、電話にかかりきっていた。彼の外務大臣の地位には、新内閣では、海軍大将、豊田貞次郎――裕仁の1921年の英国旅行に随行した特務集団の信頼しうる一員――が就任した。同時に、平沼男爵――裕仁を北に向けようとした最後の試みの松岡の筆頭同調者――は、その内務大臣としての地位を凡庸な田辺治通にとってかわられた。
 それは穏やかに実行されたが、その著名な外務大臣の皇位による拒絶は彼の右派勢力よりの支持を一夜にして失わせた。松岡は引退し、富士の裾野の小さな私邸で、真の政治的力の土壌について静かに考察した。五年後、彼は連合軍の戦犯検事によって摘発、投獄され、日本外交の悪役として数日間、法廷に立たされた。極東軍事法廷開始後一ヶ月で、彼は被告席に立つことから免除され、医師の監視のもとにおかれた。二ヶ月後の1946年の秋、彼は癌でこの世を去った。その最期の日々、彼は、天皇を欺こうとし、また、 「アメリカ専門家」 としての大言壮語で国家計画を転換しようとしたワンマンな試みについては、ひとことも言い残さなかった
(154)。彼は、日本に住むしかない家族を後に残して逝った。


 つづき
 「両生空間」 もくじへ
 「もくじ」へ戻る
  
                Copyright(C), 2012, Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします