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第七部


世界終末戦争





第二十九章 (1)
本土陥落(1944-1945)
(その1)



削がれる国土

 日本がそれからの18ヶ月間に実施した、狂信的で無用な自己犠牲を伴う、国を挙げた受難の史的思想は、トルストイも、あるいはマキャベリでさえも構想しえないものであった。そして、あらゆる日本人の70人に1人が、天皇裕仁のために、他の何をも顧みず、自らの命を投げ捨てた。しかもそれは、裕仁がもっとも側近の臣下の木戸に、戦争の敗北を認めた後でのことであった。
 裕仁は、1944年の1月で降伏することができた。もっとも、警察は頑強な反対派に対処せねばならなかったろうが、それでも、そうした軍事的事実が国民に説明さえされれば、彼らの大半が敗北を受け入れたのは確かであったろう。それに実際、国民の多くは、それを歓迎すらしただろう。くわえて、裕仁は、惨事をもう一年半引き延ばすことで、連合国からよりよい条件を引き出せたわけではなかった。だが彼はそうすることで、国民の意識――迫害されているとの感覚、日本人であることの確信、そして皇国の理想の実行――に亀裂が入ることは避けえた。
 自分の行動に疑いを抱くことなく、裕仁は、願望と、誇りと、屈辱への恐れからそれを実行した。しかし、この時期の残されている断片的な文書挙証は、皇国の議論についてのものはなく、あとは行動の事実があるのみで、裕仁の複雑な感情は、国レベルの決定に飲み込まれて、何ら表面に出されることはなかった。この危機的な時期に、スペンサー流
〔進化・発展を中心概念とした〕 生物学者あるいは国家最高司祭として、彼は皇国の性格を、通常の人間の域を越えて、自らのものとして引き受けていたのであった。
 もし、裕仁が戦争を1944年1月で止めていたら、初めはその決断が受入れられたとしても、後になって不平の種を生み出したかもしれない。戦死と配給が終わったとしても、国の巨大な軍需産業が解体され、賠償として連合国によって摂取されたならば、多くの人たちは、裕仁は国を安く売渡しすぎたと言いだすに違いない。そうして職を失くした何百万人もの工場労働者は、それまでの25年間を間違いだったと思い始め、遂には天皇の陰謀に気付くかも知れない。その一方、もし戦争が国家的崩壊の崖っぷちまで継続された場合、その同じ何百万の人たちは、廃墟の中で、焼き出された難民として生き抜いて行くことにしゃにむで、食うこと以外を考える余裕はないに違いない。
 さらにまた、日本が飢え、病み、死に絶えるようにして降伏した場合、日本が健全で生産力を保ったまま降伏した場合より、連合国による報復は弱められたものとなるだろう。そうして防備すらできぬ日本人を殺すことで、白人兵士は憐みや罪意識を持つようになるだろう。それにアメリカ人は、日本人が命を無駄にするのを見れば、日本人は結局、主義思想のために戦っていたのではなかったかもしれないと、それに疑念を持つことになるだろう。
 また、連合国にとっては、敵を一つひとつ片付けてゆくための時間が必要であった。米国とロシアの連携は、危急の事態がゆえの産物であった。したがって、その連携は、戦勝が熱意を冷やし始めれば、ひび割れ、無効とされるものであった。もし、日本がもう一年か二年、持ちこたえたとすると、米国もロシアもいずれ、日本を自陣に引き入れ、互いに反目をはじめることとなったろう。
 ともあれ、裕仁は、実務的にも、最高司祭としての理由からも、死の価値を強く信じていた。それに稠密な日本の人口は、連合国が求めてくるであろう本土四島のみの狭い国境線内に適するよう、それ以前に減らしておく必要があった。国にとっては、同じ人口減でも、食糧を奪い合う同胞間生存競争によるより、敵の弾丸による方が好ましかった。
 殺戮は、日本人の良心をやわらげることもできた。つまり、それが過ぎた後では、日本人は諸外国へそれ以上の罪悪感をもはや抱く必要はなくなるはずであった。日本は、その身体から手足を捧げることで、その贖いをすることができた。日本人は、 「すみません」 ――その字句上の意味は、 「私はあなたに借りがあり、負っているものがある」 ――と言う必要はなくなっているはずであった。そうして、死の計画を実行して道義上の帳尻を合すことで、敗戦後の裕仁は、改められた誇りと正当感情をもって、日本を再出発させることが可能であった。
 自分を失敗に陥らせた蒙昧な配下を死なせることで、裕仁には、ことさらな恨みの感覚はもうなかった。日本の神道界の最高司祭として、彼は、明らかに心底から、戦闘で倒れた戦士たちには、名誉が与えられたと信じていた。だが、牛舎の中の雄牛のように茫然自失のうちに死んだ兵士の来世には影の薄いものがあり、生き残った者からもすぐに忘れられがちだった。しかし、無念のうちに死んだ英霊は強く、永遠に残されようとしていた。彼らは東京の靖国神社に安息の場を得、その至高の地において、毎日、参拝者らによる祈りと捧げものと、巡礼者からの賞賛が与えらることとなった。


ギルバート諸島からマーシャル諸島へ

 1943年11月、米軍がギルバート諸島に侵攻したことを主な契機として、裕仁は、国家の死と再生にかかわる重苦しい問題を考えさせられるようになった。また、それに先立つニューギニアとソロモン諸島への連合国軍の攻勢は、米国の物資上の優位性を見せつけたものとなったが、それをもって戦う機会を失うほどに、日本軍は数においての引けをとっているわけではなかった。だがギルバート諸島では、米軍の力は余りに圧倒的で、勝負にならなかった。この中央太平洋での米軍の破竹のような猛攻撃をなしうる能力や、オーストラリア周辺におけるマッカーサーの支援努力、そして、ヨーロッパにおけるアイゼンハワーの膨大な作戦行動は、裕仁をもって初めて――少なくとも彼の計算上の意識として――、日本は自らの獲得領土を放棄し、損失を最小限に食い止める用意へと向かわせ理由となった。
 ギルバート諸島への米軍の侵攻艦隊は、日本がかって所有した二倍の航空母艦――11隻の高速空母と8隻の護衛空母――を擁していた(2)。それに加え、少なくとも、12隻の戦艦、14隻の巡洋艦、66隻の駆逐艦で構成されていた。このまさに無敵艦隊が、日本軍の800名の守備隊のいるマキン島に6,472名の海兵隊を上陸させた(3)。また、2,000名の労働者と2,500名の部隊からなる日本守備隊のいるタラワ島には、18,600名の歴戦海兵隊が上陸した。合計すれば25,000名の攻撃兵力となるその背後には、10,000名の前線支援部隊が控え、さらに、6,000台の車両を持つ73,000名の予備部隊と117,000トンの積荷が用意されていた。かくして上陸の6日後、ギルバート諸島は制圧された。1,000名の米軍兵と、日本人と朝鮮人による5,300名の守備隊のほぼ全員が死亡した。
 17名の日本人と129名の朝鮮人が捕虜となった。その日本人たちは、捕えられた際、その負傷から、意識がないかもう動けないでいた。意識が回復した時、彼らは死ぬべきであり、日本の家族のもとには帰れないと主張した。その一方、自分の故郷には死んだものとしておきながら、彼らを捕えた者らには積極的に協力し、可能なら、新たな人生を送りたいとも望んでいた。
 ニミッツ提督が、まだ散在する日本軍の拠点に加えた鋼鉄の強大な圧力は、その次は、マーシャル群島に向かった(4)。1944年1月31日、8,675名の日本部隊が守っていたクエゼリン環礁は、41,000名の米軍部隊に襲われ、一週間後、米軍に372名の犠牲を生む一方、805名の生存者をのぞく、日本守備隊の全員が埋葬されるか行方不明となった。11日後には、3,000名の日本軍守備隊のいたエニウェトク環礁に、8,000名の米軍海兵隊が上陸した。2月22日までに、同環礁は、米軍側の339名、日本側では2,677名とされた戦死者を出して制圧された。その際、64名の日本兵が捕虜となった。


海洋空軍(5)

 エニウェトク環礁が2月21日に放棄されて攻落した時、東京の毎日新聞は、表現できないながら誰もの気持ちである、 「戦争は竹槍では勝てない」 との非公式な社説を掲げた。思想警察が捜査に入ったが、立件は見送られた。というのは、毎日新聞の編集者は、反逆者ではなく、航空機を増産しその使用を増すための報道を展開して、裕仁の弟の高松親王を支援している愛国者とされたからであった。
 この毎日新聞のふとどき記事は、その後一ヶ月以上にわたり、皇位がめざす方向という大局的見解に違いが出始めていると、ある予感を社会に与えた。1月24日、マーシャル群島で米軍艦隊が攻勢に出ている時、高松親王は、海軍参謀の中の空軍力提唱者が提案した新たな航空戦略を裕仁に進言した。陸軍と海軍は生産された航空機の自らへの取り分をめぐって言い争っていた。そこで、いずれの軍にも配備されず、すべての航空機がひとつの新たな軍、すなわち空軍に与えられるなら、その方がよいと高松親王は述べた。従来の海軍を完全に解体し、空軍を設けてはどうか、というものであった。その要所は、効果の乏しい部隊や艦隊配置を第一とする旧来方式信奉者が、貴重な航空機を無駄使いしていることにあった。それに代わり、もし日本を再起させたいのであるならば、航空機は、それ自身の権限に基づき、その能力を熟知した者によって駆使されねばならないという考えであった。航空機は、ただひとつの目的においてのみ使用されるべきだった。そしてその目的とは、日本周辺海域にその制空権を拡大しつつある米国の航空母艦を沈めることだった。
 高松親王の見るところでは、艦隊上層将校らの一団は、故山本長官の構想のみが受け入れられるべき出発点であった。山本は、日本の空軍力を、艦隊の腕として開発した。だが今や、彼のその考えは、すでに旧式と化していた。当初、彼が自ら受け入れたように、腕とは胴体から伸びるものであった。だが今や、艦隊は防御に航空機を必要としていたが、航空機は艦隊を必要としていなかった。ただその例外は、遠方洋上において攻撃行動をとる場合、浮かぶ滑走路とそれを取り巻く浮かぶ砲台が必要なだけであった。しかし、防御体勢にある場合、陸上の滑走路は近距離にあり、航空機にとって艦隊はもはや無用であった。
 日本の6万4千トンの超弩級戦艦大和と武蔵を、米艦隊の短射程距離砲をもつ軍艦を 〔遠距離から〕 砲撃する 「決定的強み」 として使うのは、山本の最期の望みであった。この作戦――山本はすでに1943年に苦境の便法として考えていた――はいま、他の海軍上層将官によってそのまま堅持され、宿命的信念かのごとく教条化していた。ほとんど自己満足のように、彼らは部下に述べていた。米軍艦隊が接近してくるまで待て、そして、大海戦をもって迎え撃ち、すべてを決するのだ。
 高松親王の偶像破壊の見解では、伝統主義者の 「決定的戦い」 は、決して実現することのない夢であった。たとえ、洋上の艦隊がお互いに距離をへだてていた場合でも、航空機は物をいう一撃をもたらせた。また、洋上でも今後、米軍の飛行士は数的優勢をほしいままにできた。というのは、米国は、日本が毎年に建造する航空母艦の数量以上を、毎月、建造できたからであった。
 日本の唯一の望みは、日本が所有する不動かつ浮沈の空母、すなわち、その太平洋領海の半分に点在する多数の島々を、くまなく利用することであった。もし、あらゆる海軍の技術的能力が直ちに空軍作戦に注がれ、かつ、軍艦に費やされているすべての予算が航空機生産にまわされたなら、高度に機動的な空の艦隊の出現により、日本の島々の前哨基地を迅速に結びつけることが可能であった。一万機――ほぼ5ヶ月の生産高――の航空機があれば、米軍空母が日本領海に運搬してくるすべての航空機を凌駕するに充分であったろう。もし、それだけの空軍力が、次の米無敵艦隊の侵入を迎え撃って、そうした島々の滑走路から飛び立つことができたなら、一ないし二ダースの米軍空母を沈めることができたろう。空母の建造は、飛行機の生産より時間がかかる。日本は自らの防衛を強める時間的有利さも有していたのであった。
 高松親王の提案は、却下するにも、採用するにも、あまりに合理的すぎた。少なくとも、大きな政治的騒動を起こさずにはありえないものであった。そのため、裕仁はそれを、ただ研究してみることは約束した。彼は長く、航空力を信じてきたが、それは、海上なり海中なり、海軍の技術的進歩と一対のものとしてであった。それを、日本の大型艦船をくず同然扱いすることは、すべての艦長ばかりでなく、それに奉じる膨大な家臣家族を敵にまわすことであった。日本の航空機生産の果実を、新たな海洋空軍に配置することは、いっそう伝統的な陸軍をすら敵にまわすことにもなった。最善な場合でも、提案の航空戦略は、時間稼ぎとなることはあっても、やがて米国は、オーストラリアやハワイというはるか遠距離の基地から日本本土を攻撃しうる、B-29より大型の航空機を建造するのは明らかであった。その時は、米軍の機動部隊が日本海域に侵入することなく、日本の都市を焼き尽くすことができるであろう。そうでありながらも、裕仁は、あらゆる側の意見を聴取した十日間の熟慮の後、高松は正しいと判断したのであった。
 2月2日、裕仁は木戸内大臣を呼び、前例のない全面的な軍事的自説を彼に披露した。そして木戸に意見を求め、新たな海洋空軍から得られる軍事的利点は、陸海軍の両参謀総長の助言を抑えた天皇の独裁的決断のもたらす失点を上回るものかどうかを尋ねた。木戸は、天皇の戦略上の論議に耳を傾けつつ、提案された海洋空軍は、日本の勝利を保障するものでないことに、特に注目していた。そこで彼は裕仁に、国家の生存という脈略では、専制暴君と解釈されかねない行動をとることは、それがいかなる形であれ、賢明でないことではない、と助言した。裕仁はうなずき、いくらかそっけなく、この件を高松親王と直接話し合うように木戸に求めた。これは、裕仁が、自分は自ずからの道をとるつもりだが、その政治的障害を取り除くのは木戸の役目であると木戸に告げる、彼独特の方法であった。
 木戸は、和平派との工作の中で、すでに充分な問題を抱えていた。それは、過去に裕仁が行った専制的決定の責任を弁明し、ごまかし、肩代わりする戦争終了後の立役者を見つけることであった。そういう今、木戸は、さらなる専制的行動はなんとしても防ぎ、誤った戦争決定をすべて裕仁の老練軍事顧問に押し付けることを期待していた。それは、希望を欠く責務ではあったが、木戸は、小言を言うこともなく、あたかも挑戦であるかのごとくそれに関わっていた。彼は、忠実な首相、東条大将に、援軍を発見したかのような救いをえていた。最悪の事態となった場合、東条が、二人の参謀総長を解任させるよう裕仁に助言する責任をとるだろう。むろん、二人の総長が自らの見解を変えるなら、それに越したことはなかった。だがそれが首尾よくゆかなくとも、おそらく約束によって、彼らは健康を理由に、静かに辞任する気になってくれよう。


「重慶工作」(6)

 その後に続いた入り組んだ政治過程中――18日間続いたごたごた劇で東京の政界裏舞台の大御所のすべてが関わった――、木戸は天皇のある方針転換を日記に記録した。2月14日、東条首相は宮廷に参上し、裕仁に、辻政信大佐――シンガポールとバターンの執行人――が行っている蒋介石と和平あるいは少なくとも戦後への了解について交渉折衝につき、その進展経過を報告した。
 辻の最新の連絡によると、彼は上海で中国側地下組織や、蒋介石の秘密警察組織である藍衣社との接触に成功していた。そして間もなく、前線地帯への 「特別視察」 の際に、彼は蒋介石からの直接の使者と会う手筈となっていた。辻は、彼らが辻を重慶へと連れて行き、載笠将軍――藍衣社の司令官――、および蒋介石総統自身と直接会って会談することを期待していた。
 裕仁は、その知らせを喜んだ。彼の弟の三笠親王が、辻の交渉を可能とさせていた。先の11月、三笠親王は中国占領地区を訪問した際、蒋介石の生まれ故郷、日本占領区域の浙江省の奉化で、蒋の母親の80歳の誕生祝行事を二週間にわたって行うことをうながし許可していた。辻大佐は現地でその祝賀行事を監督し、その後、藍衣社を通じて、行事の写真を入れたアルバムに、汪兆銘、三笠親王および裕仁からの友好の手紙を添えて、蒋介石に送っておいた。
 裕仁のこの人的外交の試みへの少なくない望みにもかかわらず、辻大佐は、重慶への安全な道を切り開くはずであったこの 「特別視察」 に失敗した。蒋介石の使者は、辻が裕仁の代理であるさらなる保障を要求した。その結果、辻は藍衣社との接点の一人であるミャオ・ピンという名の二重スパイを東京へ送り、裕仁の叔父である東久邇親王と直接に話をするとの段取りをつけた。だが辻が重慶へ行き蒋介石の側近と交渉するため、双方向に準備をこころみたが、 〔重慶行きは〕 実現しなかった。その代わり、5ヶ月後、裕仁は辻に、ビルマでのいっそう緊急な一時的任務を与えて派遣したが、これに釘付けとなった辻は、重慶への巡礼は、戦争が終わるまで、長きにわたって延期となった。


両総長の解任(7)

 辻の 「重慶工作」 によって、一朝の光明が差したかのようであったが、東京の政治的危機の暗闇は、日増しに暗さを深めていた。そして、1944年2月17日、カロリン諸島のトラック島へ、米軍空母艦載機による圧倒的空襲――あたかも日本の太平洋艦隊にとっての真珠湾攻撃――による壊滅的被害は、裕仁をして、木戸や高松親王が取り組んでいる円滑な政治決着を、もうそれ以上待てなく追い詰めていた。すなわち、日本は直ちに海洋空軍を持たねばならなかった。
 2月18日、トラック島空襲の翌日、裕仁は、東条大将――歯に衣を着せない、肩幅広く、多くの要職を兼ねる彼の 「将軍」 ――を呼び、両総長の辞任を求める権限を彼に与えた。永野海軍軍令部総長は、真珠湾計画の責任者であった。他方、長く職責に耐え、温厚で、 「湯殿のガラス戸 〔のようにぼやけたところのある〕」 杉山陸軍参謀総長は、1936年の2・26事件以来、裕仁の側に密着して立ち続けてきていた。永野も杉山も、いずれも、自ら裕仁に反対するつもりはなかったし、裕仁の戦略的構想に面と向かって不賛成を表そうとも考えていなかった。そうしたことは、日本的なやり方ではなかったし、むしろ、両者は、裕仁の決断によって逆境にさらされる部下たちの職歴とその生活を考慮して、組織の長としての責務を共にうれいていた。
 ことに杉山は、東条の辞任の要求を拒むことに義務を感じていた。
# 1 彼は、陸軍に成り代わって、抵抗の足跡を残さなければならないと感じていた。木戸や東条は、彼の後任にふさわしい適正かつ望まれる人物を誰も選べ出せていなかった。海洋空軍の決定を実行するためには、裕仁は、すでに首相であり陸相である東条を、参謀総長にも指名しなければならなくなるだろう。これは明らかに、国家慣行に違反する。2月19日の午後、杉山は東条の仲介者である陸軍次官に言った。
 その夕、東条は、杉山と山田乙三大将――陸軍三大ポストのひとつである教育総監――の会談を持った。山田は、物静かな人物で、裕仁の実験的細菌戦計画を長く統括してきていた。彼は、何かを発言するためにではなく、東条を推すために、そこに参加していた。
 その会談の中で、杉山は、ヒットラーの参謀分野への介入を、それがゆえ 「レニングラードの失敗」 となったと非難した。東条はそれにこう切り返した。 「ヒットラーはもともと普通の兵士で、自分が彼と並べられることには大いに心外である。私は日本の大将である。私が首相として行ってきたことのすべては、相応な軍事的考察に立って行ってきたものである」。
 その後、緊迫した論争が続いたが、最後は、山田が東条の側に立っているのを見て、杉山は二人に従った。しかし、彼は、辞任の前に、裕仁への記録として、自分の不服を提出したいと付け加えた。そして2月21日朝、彼はそれを行った。裕仁は、その不服文書をうやうやしく受け取り、そして言った
 杉山は、もはやそれ以上に言うことはなかった。かくして英雄たる東条は、勇敢にもその三重の責務――国民政治の首相、陸軍官僚の統括、そして戦争計画の参謀総長――をその一身に担ったのであった。


インド:最後の攻勢

 日本の独裁首脳となって、東条が最初に手掛けたことは、すべての政府会議――内閣から、陸軍省、そして参謀本部に至るまで――を、皇居で行うこととしたことだった。戦後は、故意に無視あるいはぼかされたものの、その意味とは、そうした会議のすべてが、いまや、裕仁の非公式な臨席をもって開会され、裕仁は、しばしば東条の要請通りに臨席し、その強みを活用したことであった。当時の日本の報道は、天皇が、 「直接の導き」 を執るようになったことをむしろ容認していた(8)
 東条とのは長年の海軍における同輩としてのよしみを得て、嶋田海軍大将はいまや、軍令部総長兼海軍大臣として、高松親王の海洋空軍の夢の実現のため、大いに奮闘していた。どの有望な海軍新兵も、飛行訓練に挑戦した。何百もの小規模な滑走路が、数十もの小さな島に建設され始めた。海軍の航空機生産は月当り2,000機以上へと上昇し、その目標は、迎える会計年度で、5万機の機体とエンジンと設定された(9)。いまだ数多い貴重な艦船と乗組員を保有する既存の海上海軍を解体するのではなく、嶋田と東条はそれを、2月末、瀬戸内海の母港の投錨地から、シンガポールの南百マイル
〔160㎞〕のスマトラ島沖のリンガ島の停泊地へと移動させた。その狙いは、残された強みは使用しつつ、艦隊の保全費用を削減することであった。リンガ島停泊地は、燃やされるインドネシアの石油燃料生産地に近接し、老朽艦船を使い切る積りである、フィリピン諸島沖の予想される戦闘海域へ航海の容易な距離の地点であった。
 次に東条は、陸軍に、ビルマとインドの間の新前線上で、日本陸軍は強みを、敵は弱みを持っていた地点へ、反撃を加えるよう命令を下した。この前線地帯は、百マイル幅の道なきジャングルと高地の回廊によってはばまれっていた。二年前、ビルマの英国軍の防御が崩壊して以来、インド側より、連合国軍の奇襲部隊が度々攻撃をしかけていた。東条は、今、15万5千名の部隊に、その障壁地帯の東がわよりインド側へむけて突破するよう命じた。この部隊は、日本の三個師団と、傀儡のインド軍一個師団――チャンドラ・ポーズと彼のインド追放政府によって徴用されたシンガポールでの兵卒捕虜から成る――で構成されていた。その日本部隊は1944年3月8日、整然と出発した。だが彼らは、正規の補給部隊を持たず、ほとんど未開の辺境の地で、生存し抜ける希望もなかった。ところが、インド側で防御を指揮していた英国のウィリアム・スリム中将を仰天させたことに、日本部隊はその前線地帯を突破し、一ヶ月後、東インドに足場を確保し、インパールやコヒマの鉄道末端を脅かし始めた(10)
 4月末から5月初めにかけて、スリム中将は、その前線部へ動員可能なあらゆる予備軍を投入した。コヒマの英国守備隊は、一時期、二つの丘に最後の防衛壕を掘るまでに追い詰められていた。だがそこで、物資の消耗が戦力の弱体化をもたらし、日本兵の士気を失わせ始めていた。彼らはもう、攻撃を続行することができなくなっていた。そこにモンスーンの季節が邪魔をした。降り続く雨の中で、日本陸軍に、前例のない規律の崩壊が広まっていた。日本軍は、東京からの前進せよとの命令にもかかわらず後退し、持ち場を固めよとの戦地の司令官の命令にもかかわらず、退却したのであった。その日本軍の退却中、日本側で6万5千名が死亡した。そのうち、英国軍の弾丸によるものは数百で、あとは、病気、飢え、手榴弾による自決、川や沼地での溺死、そしてついには、同士争いと殺し合いであった。1944年6月末ないし7月初め、遠征部隊の生き残った半分がビルマの農作地に帰りついた時、武士の誉れは回復不能に汚れきり、日本陸軍は胃袋に負けた、との報告がただちに日本へともたらされた。(11)
 騒がしい議論を静め、南中国沿岸の守備の甘い地帯への米軍上陸の可能性を削ぐため、6月上旬、中国の日本陸軍は、蒋介石との休戦協定を破り、漢口から鉄道支線にそって南へ、広東、そして、インドシナ、タイ、東ビルマとの国境へと大規模な進撃を行った。辻政信大佐――突出した武士道鼓舞者かつ秀でた日本陸軍の精神性の信奉者で、厳しい死の行進の執行者であった――は、ビルマの陸軍の士気を復活させるため、重慶との交渉からは手を引かされ、ラングーンとのそれへと配属を転換させられていた。そこで彼は、退却してきた日本のインド派遣軍の残余部隊を招集し、再度、有効な戦闘部隊へと作り変えることに成功し、その先の暗黒の数ヶ月間、インドから前進してくる大規模な英国部隊と、遅れながらも対峙して戦うことに備えた。


決定的戦闘

 インドのはるか東南、ラバウルは、1944年の初期に孤立させられてしまい、その3万の海軍および7万の陸軍の部隊はそこに見捨てられ、自作のさつまいも畑で食いつないでゆくしかなくなっていた。また、ブーゲンビル島の一時は名をはせた第6師団の生き残りの1万5千名は、3月9日から17日まで、米海兵隊の 「辺縁部」 への全力をあげた攻勢をこころみ、米兵を263名殺したものの、自らは5,469名を犠牲とした。飢餓状態の日本兵の生き残りは山間部へと撤退し、そこでゲリラ農夫となった。ニューギニアでもまた、日本軍は飢えて撤退していた(12)。5月27日、マッカーサー率いる飛び石状の攻勢はニューギニア沿岸に達し、同島の北西端の最後の日本軍拠点を迂回し、その沖合の島、ビアクを襲った。その現地司令官はいったん洞窟内に撤収し、その後一ヶ月にわたって抵抗を続けた。その洞窟が火炎攻撃で焼き払われた際、米兵460名と、日本兵の1万名が死亡した。その近くのノームフア島では、さらに、1,714名の日本兵と66名の米兵が死んだ。そのノームフア島で米兵は、痩せ衰えた403名の生存者を救出した。彼らは、その島の要塞建設の奴隷労働のためにそこに連行されきていた3千名のインドネシア苦力団の生き残りだった。(13)
 ビアクの占領は、マッカーサーの部隊に、東部インドネシアの防備の薄い数多い小島に容易な攻撃を可能とし、さらに、フィリピンの奪回のための最終的足がかりとして役立つこととなった。しかし、ヨーロッパでのDデーの9日後の6月15日、ニミッツの無敵艦隊はマッカーサーの進軍を出し抜き、マリアナ列島へと侵攻してサイパン島に海兵隊を上陸させた。同島からでは、米軍の新型長距離爆撃機B-29によって、東京への空襲が可能であった。
 サイパン島に上陸したその日、中国奥地の基地から、B-29機が日本本土最南部の九州の工場地帯へ一撃を与えることで、今後何が用意されてを示す小さなデモンストレーションとなった。この空襲は、日本本土への爆撃の開始を意味するものとなり、裕仁はたちどころに、もしサイパンが攻落すれば、日本への爆撃は日常事となるとさとった(14)
 ニミッツは、マリアナ群島での作戦には、戦艦14隻、巡洋艦14隻、空母26隻、そして駆逐艦82隻をはじめとする大艦隊を投入した。裕仁は、この 「決定的戦闘」 に、フィリピンより、日本艦隊のすべての行動可能な残余戦力――戦艦4隻、空母9隻、巡洋艦7隻、駆逐艦34隻――を送り出した。6月19日と20日のフィリピン海での戦闘で、日本の5隻の重空母のうち3隻が沈められ、473機の艦載機のうち、ほぼ400機が撃ち落とされた。これに対し、ニミッツは、956機の艦載機うち約100機を失ったが、艦船の損害はゼロだった。(15)
 それまでの数年、海上艦隊の司令官がその期待と保証をゆだねてきた 「決定的戦闘」 と言われるものが、いまや、戦い終わろうとしていた。そういう戦闘は、あきらかに、決定的終局に至っていた。日本の超弩級戦艦の巨砲も、砲火を発揮することはもうなかった。再び、問題は、長距離の場合、空軍力によって決着されていた。高松親王の予想は裏付けられた。しかし、高松親王の海洋空軍は、国内論争の紛糾により、いまだ実現されていなかった。裕仁は、その海洋空軍の実質部隊となるはずのその400機の大部分が、もはや不必要な空母の支援のために失われたことに、切歯扼腕させられていた。今後、航空機が空母の甲板から発進するのは沿岸海域のみで、しかも帰還は陸上の飛行場にすればよいのであって、空母を守っておく必要はないのであった。


求む、神風

 フィリピン海戦に敗れた後、高松親王の派閥の一人、城英一郎大佐は、軽空母千代田の飛行甲板のくすぶる損傷を見下ろし、自船室で机に向かい、無線電文を書き始めた。たびたび、陛下の海軍侍従武官をつとめ、また、1930年代のほどんどは、ワシントンの日本大使館で海軍情報部門の第二の男であったので、彼の信書は裕仁の個人的関心を引くものと期待していた。城はそれを、軍需省の大西滝治郎海軍中将に送った。大西は高松親王の友人であり、1941年1月、山本の真珠湾計画の秘密独立評価を皇位のためにまとめた人物でもあった。
 城大佐の電文は7月21日に大西に届き、翌日、高松親王によって裕仁に報告された。それには、裕仁以外だれも理解できないような、率直で明晰な表現が述べられていた。 
 裕仁もまた、 「決定的戦闘」 からの痛切な教訓をえていた。航空機は、従来式の艦隊行動では、無駄にしか使われていなかった。東条の海軍の同僚で、海軍大臣かつ海軍軍令総長の嶋田は、非難されるべきであった。彼は、海洋空軍の構想の支持を約束したが、旧艦隊への友誼におされ、そのおろかな 「決定的」 完敗に航空機を投ずることを許していた。(17)
 高松親王は、嶋田がただちに政府から降ろされなければならず、嶋田のおろかさとフィリピン海戦での航空機の重大な損失がゆえに、体当り戦法を真剣に考慮すべきであると、裕仁がいよいよ腹を固めたことを嗅ぎ取った。
 自決飛行士の考えは、高松親王の海洋空軍の提案の中にも、最初から含まれたいた。1943年に行われた参謀による諸研究でも、異論なく、体当り攻撃は、操縦士が従来の爆弾や魚雷を用いる戦法より、戦死一人当たり、より多くの敵艦船を沈めることができることを示していた。
 大衆宣伝の見地からは、航空機は理想的な自決装置であった。操縦席に孤高をまもる操縦士は、一人の武士にたとえることができた。彼はあたかも、あまたの日本人好みの物語にあるような、敵陣に切り込み派手に立ち回って討死する、武士のイメージそのものであった。まだ、対空砲火が、空から全速力で突っ込んでくる攻撃機を爆破させる確率は、半分を越えてはいなかった。そして、よく狙いをつけた体当り機一機は、その数千倍の費用をかけた艦船を沈めることができた。それに比べ、大量の歩兵を用いる玉砕攻撃は、実際の勇猛さと規律が必要だったが、武士の個人的英雄精神を満足はさせてくれなかった。そしてそれは、多数の生命を犠牲としただけでなく、バズーカ砲、火炎放射器、自動小銃など、敵の目を見張る火力によって、その目的達成の望みはほとんどなくなっていた。
 日本の簡素で、機能本位で、安上がりな航空機はまた、使い捨て目的には最適でもあった。実際、戦時中の大量生産方式では、その生産品の多くは、そこそこの品質でしかなかった。欠陥品の航空機が組み立て工場から大量に放出され、長期化した使用に耐えるものではなかった。戦闘地域での整備班も、工場から残されてきた欠陥を直すことは無理だった。より多くの航空機が、戦闘の最中に撃ち落とされるのではなく、通常の作戦行動や前線地域への輸送中に失われた(18)。そして、完全なままで前線にとどいたものも、速成で訓練され、迎えうつ敵と戦い、標的に爆弾と魚雷を投下する技量を欠く操縦士によって、無駄に浪費されていた。
 主要な米軍艦に体当りすることを決意した毅然たる操縦士による片道飛行は、日本が製造することのできるあらゆる航空機の有効性を、少なくとも、十倍に高めるはずであった。その特殊機は、その作戦の戦闘地域に到達し、一回の任務飛行をとげるだけ良好であればよかった。操縦士は、離陸し、隊長に従い、そして標的に突っ込んでゆく舵取りの技量を持つだけでよかった。それぞれの機は、燃料と500ポンド
〔227㎏〕 爆弾を数個積み、空母の飛行甲板に突っ込めば、命中した魚雷2発や、12発の従来方式で投下された爆弾より甚大な被害を浴びせることが可能であった。
 そして遂に、日本は、死ぬことを望む操縦士を生み出すこととなった。西洋の個人主義――十年前、裕仁が本庄侍従長との会話の中で非難した
〔第17章 「農民の窮状」 を見よ〕 、魂と良心を尊重するキリスト教の教え――は、ミッドウェイの場合のように、戦闘ストレスにさらされている時を除いて、米国の操縦士を自殺前提で使用することを許さなかった。それに比べて日本の若者は自分を、国全体が家族であってその年少の一員と信じて成長してきていた。その家族やその年長者の存続は、自分の身体的存続よりはるかに重要と思えた。質素で堅実な日本にあって、子供を育てることは、将来への投資と考えられた。二十代、三十代のうちは、彼らは、衣、食、教育など、まだ社会に借りを負っている者であった。彼らは、41歳という区切りの年齢を迎えるまで、物事を決定する成熟に達しているとは見なされなかった。もし彼が、自然な原因でその年齢以前に死んだなら、彼の霊魂は来世にも生きるが、生前での達成事の不足のため、そこで大した力はしめせない。だが、もし彼が戦闘で死んだなら、彼の霊魂は何かを成し遂げたのであり、天皇によってその階級は一段昇格し、戦死者の魂が安置される靖国神社に永遠の安息の場を得るのである。
 こうした反駁の余地のない理由にもかかわらず、裕仁は、木戸や東条をも含む彼の政治顧問たちが、公式戦法として定常的に操縦士を体当り攻撃に用いることに反対することを知っていた(19)。激戦のさ中で死をいとわぬ突撃を半文盲の農民の息子たちに命じるのは一理あったが、引返しのきかない自殺の使命を負う訓練半ばの操縦士の部隊を保持し続けることは、最も効果的な自己破壊の戦法であるとしても、それだけでは済まないことであった。そうした部隊の士気は、宗教的熱意と天皇による直々の激励にささえられていた。裕仁がもっと冷静で、国際感覚のある顧問たちによって戦後の天皇の公的イメージを一新する方法に頭を悩ましていた時であったなら、そうした自決操縦士の使用は、それが完全に勝利を保証するのではないかぎり、正気の沙汰とは思われなかったろう。そして、もっとも強固なその戦法の提唱者ですら、そんな保証ができるはずもなかった。
 教育ある人々の間では、伝統的な武士道の精神と航空機という西洋技術とを結びつけることに抵抗感があった。さらに、世界を知る日本人たちは、体当り戦法は西洋人に衝撃を与えて狂信主義との烙印を押されかねず、戦争のわだかまりが冷めた後も長く、日本人への不信の種となって記憶され続けるだろうと見通していた。
 裕仁は、1944年6月22日、皇居の森の図書館で城大佐の提案について話した際、簡潔にその賛否に言及しながら、その問題の社会宣伝方法について、さらなる研究が必要と指摘した。高松には、この慎重論にはあらかじめ準備していものがあった。曰く、城大佐の案は、彼一人のものではなく、3日前の6月19日、第341航空隊の岡村基晴大佐が、房総半島の館山基地の視察の際、第2航空編隊の福留繁海軍中将に、 「戦争の流れを変える」 ためとする、同様な提起を行いった(20)。福留はその提起を海軍軍令部次長の伊藤整一中将に見せ、いまや伊藤は、自決操縦士の提唱者である。そればかりか、末端の操縦士たちの多くも、繰り返しの出撃にもかかわらず、50パーセントの損失率に疲れ、士気を落としていた。
 裕仁は、もしこの考えが末端操縦士からの大勢であるなら、木戸や東条や他の顧問たちの恐れを和らげることがありうると思った。たしかに、敵の無敵艦隊が、聖なる日本の沿岸の沖で難破すべきであるとするならば、そうした 「神風」 が必要だった。しかし、その時、裕仁が高松に許したのは、生産が容易な人間の操縦する爆弾――しかも神風方式という最大の経済的利点を持っていた――の設計についてのみ研究に取り掛かることであった。


サイパンと東条の没落

 マリアナ諸島への米国の侵入は、一週間をついやして、裕仁に聖職上の良心に従って新たな責任をとらせるに至った。そしてサイパン島には、ほぼ7万名のアメリカ兵が上陸していた。戦後の日本の怪物SF映画のように、侵入軍は、3万名の日本軍守備隊の工夫をこらして準備された陣地、わな、防備を、組織的に破壊していった。
 サイパン島は、日本の戦前からの領土が、外敵によって初めて攻撃された場所となった。同島は、日本が第一次世界大戦中にドイツから奪った島々の中では最大のもので、国際連盟の権限下で維持されてきていた。美しい島で、日本はその散在する丘陵地を製材所とサトウキビ畑でもって、周到に植民地化していた。3万名の部隊に加え、少なくとも2万5千名の民間人が居住していた(21)
 サイパン島守備隊に対する戦闘が開始された時、ひとつの問題があった。それは、そうした民間人住民の扱いであった。それまでに米軍側の支配区域に、数人の娼婦と官吏をのぞき、日本の民間人はいなかった。それが今や、多数の下層民――日本本土での制限された生存条件をのがれ移民してきていた――を含めた日本人共同体の全体が捕虜になろうとしていた。つまり、そうした民間人が捕虜となり、米軍の扱いに驚きそれを歓迎し、その他の日本人の戦闘意欲をくじかせるような宣伝放送に使われるおそれがあった。6月23日、日本人民間捕虜収容所が、海兵隊陣地の背後に作られ、すぐに千名以上を収容するようになった。そこには電灯が設置され、夜には異様に明るく照らし出されていた。毎日三度、その食堂のテントからは米や肉を料理するいい匂いがただよい、明らかに幸福そうにそれを待ち受けている日本人の長い列ができていた。(22)
 裕仁は、サイパン島の日本の民間人の変節は有害であると判断し、6月末、そうした捕らわれていない民間人に、自殺を奨励する天皇の命令が出された
# 2。その命令は自殺を命じたものではなかったが、サイパン島の司令官に、もしそこで死ねば、戦闘で死んだ兵士と同等に、来世での霊魂の地位を民間人にも約束する権限を与えていた。6月30日、首相であり陸相であり参謀総長である東条大将は、この命令を差し止め、その発送を延期させた。そしてその命令は、東条が宮廷で木戸や他の民間顧問の注目を促した後、その翌日には発令された。(23) 
 五日後の7月6日、サイパン島での組織だった抵抗は壊滅し、同島上の海軍部隊を指揮する南雲海軍大将――もと真珠湾機動部隊司令官――は、島のひとつの洞窟の口に座し、腹部を切り裂いたところを、その背後の介添えが、彼の後頭部に弾丸を撃ち込んだ(24)。その夜、同島の日本軍守備隊の主要部隊の生き残りは、飢えをついて、米軍の海兵隊陣地に玉砕突撃した。米軍の機関銃で殺されなかった者も、手榴弾、拳銃、地雷、刀、小刀、あるいは、するどい石で、自らの命を絶った(25)
 7月8日、海兵隊は、一面の死体の中を、もはや抵抗をされずに島の北端へと進んだ。そこでは、1万人の日本の民間人が自害を図っていた。自分の赤子を岩壁に投げつけ、妻や子供を海に突き落とし、自分も高い崖から飛び降りていた。7月12日に海兵隊がその凄惨な行為を止めさせるまでに、民間人のほとんどは、霊魂は天国へゆけるとの裕仁のすすめを受け入れていた。歴戦の海兵隊兵士が崖から下を見下ろすと、そこには子供たちの死体が磯を洗い、さすがの彼らも嘔吐する胃袋と耐えられない気分を抱いて、その場を去った。(26)
 最終的には、その血でそまったサイパン島で、およそ1万5千人の日本の民間人と3万名の陸海両軍兵士が犠牲となった。それでも、海兵隊は、最初の捕虜の一団を捕えた。日本軍兵士921名、民間人10,258名、一方、米軍の67,451名戦闘兵のうち、3,426名が戦死した。(27)
 サイパン島が制圧されると直ちに、海兵隊は7月21日、グアム島に侵攻した。同島はマリアナ群島では最大の島――サイパン島の70平方マイル
〔179㎞2 に対し、209平方マイル535㎞2――で、その群島の中では唯一、戦前には日本でなく米国に属していた。7月21日から8月10日の間、5万5千の米軍部隊は、約2万の守備隊と戦った。その戦闘で、日本兵約1万名が死に、山間部に隠れた8千5百名は、その後の数年間に殺された。米軍兵は1,435名が死亡したのみで、日本人の1,250名が捕虜となった。(28)
 マリアナ群島の第三の島、テニアンは、7月24日、15,614名の海兵隊が侵攻した(29)。三日間にわたる事前の砲爆撃――初めてナパーム爆弾 (爆薬と油脂ゼリーの混合弾) が使用された――の後でも、日本軍の9千名の守備隊は絶望的な抵抗を行った。一週間後、うち5千名が死亡と数えられ、残りは永遠に行方不明となった。米海兵隊は389名が死亡し、252名が捕虜となった(30)。日本軍の滑走路は急いで修復され、太平洋地域では最良の長距離爆撃機用の滑走路となった。一年後には、ここから、エノラ・ゲイ号が広島への爆弾を搭載して飛び立つこととなる。
 グアムやテニアンでの殺戮の最中、裕仁は、彼の最も身近で最も懇意な人から、戦争を断念し、内閣と参謀会議への直接の出席をやめ、そして、和平派が計画する戦意の縮減させる施策を開始することを強く求められた。裕仁は、自分の生涯の終局の転換を受け入れることに不承々々だったが、一週間の紆余曲折の後、強制されたのではなく、勧奨をうけることによって、それに従うことにした。裕仁は、自分が敗れ、自分が誤っていたことを最も身辺の顧問たちに認めたが、戦争の精神的指導者としての地位は捨てていなかった。 
 裕仁がその断念をしたのは、おそらく7月7日で、サイパン島での組織的抵抗が崩壊した翌日のことだった。その日、高松親王は木戸内大臣に、裕仁にもっと運動をすることと、事務的手助けをするようにと依頼した。7月11日、サイパン島の日本の民間人の凄惨な集団自決がほぼ終わるころ、陸軍と海軍の長老将官たち――1930年代裕仁に反対した北進派の数人を含む――は、皇居の堀の北脇の陸軍クラブで目立たぬように会合し、もはや派閥間で違いを誇示している時ではなく、皇位の回りに結集して助け、戦時 「将軍」 東条大将を更迭することで、国家指導者層に象徴的変化を作り出すことに同意した(31)
 長老将官らの決定を受諾して、東条はただちに辞任を皇位に伺った。裕仁は最初は拒絶したものの、もうしばらく、その政治的立場を堅持するよう東条を激励した。裕仁は、和平派の計画者が実際に自分を取り繕って体裁を整えることが可能だとは信じられず、彼らに和平を試みさせることですら、臆病なことをしているのではないかと案じていた。彼と東条はいつかは反目することになるだろうが、東条はいまだに日本では最適な戦争指導者である、と裕仁は述べた。
 自決操縦士を使うという計画に、東条は困惑させられていた。来世の安穏を望めば、彼らの犠牲をもってしても勝てない戦争と判っていながら、何千人もの日本の若人を確実な死へと送り出す責任を取りたいとは思わなかった。加えて東条は、海軍大臣で海軍軍令部総長である嶋田大将――裕仁は嶋田をマリアナ群島殲滅の大衆への見せしめにするつもりだった――に対する忠義心を忘れていなかった。もし嶋田が政府から外されるならそれも可能だろうが、東条は政府に残すべきだと、裕仁の政治顧問、木戸は考えた。批判者の主な論点は、戦争指導者――文官官僚のみならず軍部官僚を動かす――の 「片手間戦略」 にあるということだった。米軍の島伝いの作戦が、戦争をおおむね海軍主体としている以上、現段階では、片手間の海軍戦略家は解任するが、東条大将を政府に留めておくのは充分必要なことであった。
 東条は、自分の支持者、派閥人、そして嶋田大将と情況について議論した後、7月13日、裕仁に、政府の重責をなんとか担う努力をすることを約束した。しかし、それから5日間、東条が政府の面子をたて、生気を与えて延命しようとしても、彼はあまりに多くの敵意と中傷に遭遇させられ、すべき仕事に協力の気配すらも見出せなかった。
 7月18日、東条は裕仁に自分の辞任を明瞭に申し出た。そしてその二日後、裕仁は伝統を破って、一度に二人の人物に、首相の責任に就くように命じた。皺くしゃ顔の小磯国昭大将――彼の三月事件は1931年の満州侵略に道を付けた――はそのコンビの筆頭となり、長身で温厚な米内光政海軍大将が海軍大臣兼副首相として彼を補佐することとなった。米内は、先に1940年前半に首相であったので、彼はもう海軍司令官の現役にはつけなかった。裕仁はこの些細な問題を、大元帥として彼の印を一押しすることでこれを片付け、米内の名は、そのリストに掲げられることとなった。


絶望的 「捷号作戦」

 1944年8月初め、小磯・米内コンビが閣議場をまたしても動かし、皇居から遠ざけてから間もない頃、裕仁は、桜花特攻機の製造許可をあたえた(32)。この特攻専用機は、4,000ポンド 〔1816㎏〕 の爆弾、木製の翼を持ち、一人乗りで、単純な飛行操作しかできず、母機から分離されてから19から20マイル 〔約30㎞〕 を航行できる5発の小型ロケットを装備していた。桜花機の生産は、神風計画の末期にようやく間に合ったが、貧弱な成果しか残さなかった。しかしその生産は、神風計画へ一般労働者まで関わらせるもので、あまりに有無を言わせぬものであった。
 桜花構想は、裕仁の社会的イメージを担当する顧問たちを狼狽させた(33)。8月25日の午後2時23分、米軍兵士が日本の土を踏むまだ丸一年前、木戸内大臣は、天皇との謁見を終わらて、皇居の森のコンクリート造りの図書館を後にし、車に乗って皇居から自分の公邸へと向かった。午後3時より、その公邸で彼はその日の午後の半分を過ごし、会えるように求めておいた一人の将官――日本陸軍の中でずば抜けた記憶力で評判――と懇意になろうとしていた。その将官とは退役少将田中隆吉であり、今回は、今後、木戸とは幾度となく会うこととなる最初の対面で、それが最終的には、田中に第二の任務を与えることとなった。その第二の任務とは、米国による戦犯裁判の花形証人役のことで、告発の証人、弁護の証人、米検事のキーナンの案内人、情報提供者、二重スパイ、そして、愛国者の手本等々のことであった。
 一方、連合国軍の戦略家たちは、東京へと進軍し、戦争を終わらせるためにとるべき道筋について、激論を交わしていた。マッカーサー将軍は、米国は、日本の支配を第一にフィリピンから奪還してゆくべきだとの意見を維持して譲らなかった。この政治的公約は、マッカーサーが国家と自分自身の名誉に関わるものと見なしているもので、日本の分割は二次的な問題だった。英国とオランダの政治家はそうではなく、南太平洋のすべての島々を一つひとつ奪い返して、日本が攻落する前に、また、連合国軍の戦争の熱気が失せ、止む無く喧々諤々のうちに戦後講和会議が開催される前に、安定した植民地統治を取り戻すことを主張した。米国空軍の最も偏狭に効率的で技術的観点重視の司令官たち、ことに大将たちは、東インド、マラヤ、あるいはフィリピンのために、自分たちが血を流し、砲弾を費やす何ら有効な軍事的理由はないと見ていた。彼らはむしろ、日本ののど元の出来るだけすみやかな占領を主張した。そののど元とは、すなわち、台湾と南中国沿岸の味方地区への上陸、あるいは、小笠原諸島と沖縄への上陸とそれに続く、九州への直接の攻撃であった。(34)
 
東京での小磯・米内内閣が発足して一週間後の7月27日、ルーズベルト大統領はハワイを公用で訪問し、この戦略上の懸案を、マッカーサーとニミッツとの三者会談――ホノルルのワイキキ、カラウカウ通りにある旧友のクリス・ホームズの自宅で行われた――によって解決した。マッカーサーは、日本に攻撃をしかける以前にフィリピインを占領することによって得られる政治的利点について熱弁をふるった。ルーズベルトは、マッカーサーの話にうなづきながら共感を示した。ニミッツは、フィリピン近海の日本艦隊や海軍航空隊の残余戦力を、シナ海、小笠原や沖縄海域のそれらともども、すみやかに壊滅させたいとして、いささか不承々々ながらそれにに同意した。このようにして、日本に対する最終的戦略が決定された。ワシントンの参謀総長たちの間では、それからさらに10週間にわたって議論された後、それは公式に採用された。
 9月15日、マッカーサーの陸軍部隊はオーストラリアから北上し、ニミッツの海軍部隊は真珠湾から西にむけて航海し、同時に、ニューギニアとミンダナオの中間にあるモルカ諸島(スパイス諸島)のモロタイ島や、パラウ諸島のペリリュー島――フィリピン列島の東海域のグアム島とミンダナオ島間の三分の二の地点に位置――に上陸して、フィリピンを締め付けた。モロタイ島のマッカーサー軍は、その500名の守備隊を、わずか31名の犠牲で、やすやすと撃退した(35)。ペリリュー島の海兵隊は1万名以上の頑強な守備隊に迎えられた。目標とする滑走路と地域制空権は一週間で獲得できたが、激しい地上戦は二ヶ月間つづいた。
 ビアク島の洞窟でえた体験を生かして、ペリリュー島の日本軍司令官、中川邦雄大佐は、宮廷の侍従武官府からの一人の特使に援助されつつ、ペリリュー島の主山稜部の下部に広がるサンゴ礁中の洞窟群を最大限に活用した。先史時代の海洋生物が残した空洞をうがって連結し、その蜘蛛の巣状のゴチック建築物の内部はコンクリートで固めた。上空から撃ち込まれる砲弾も爆弾も、その内部回廊へと貫通することはできず、長射程の火炎放射器で武装した海兵隊は、その地下道の角ごとに、極度に用心して前進しなければならなかった(36)
 中川大佐とその皇室の助言者、村井健次郎少将は、物資を貯蔵した彼らの地下司令部を70日にわたり持ちこたえ、11月24日の夜、ついに共に自決した(37)。他の日本兵は、さらに奥のそのサンゴ礁の地獄で、もっと長く耐え抜いた。12月には、戦利品を探しに深部の洞窟に入ってきた軽率な米兵ともども爆死した。そして、最後まで残った5人の日本兵は、1945年2月1日、その迷宮から探し出されついに降伏した。
 モロタイ島とペリリュー島への上陸で、フィリピンがいよいよ、次の米軍の標的であることが確実となったところで、裕仁は、 「捷号作戦」 と呼ばれる一般幕僚の防衛計画に判を押した
# 3。この 「捷」 との名称は、それが 「勝利」 を意味することからきたものであったが、その起こりをめぐる討議は、敗北の前の最期を飾る 「神々の黄昏」 〔ワグナー作の楽劇 『ニーベルングの指環』 の最終部の表題〕 的な行動を念頭においたことを示していた。実際、同計画は、冷徹にも、ほぼ25万名の陸軍兵士と5万名の海軍兵士の犠牲――この計画では 〔「犠牲」ではなく〕 自己殲滅との用語を使用――を想定するものであった。それは、 「奇跡がおこらぬ限り」、いかなる勝利をも予期するものではなかったが、そうした自己殲滅をもって高い犠牲を生ませ、敵に日本の抵抗と 「真摯な」 意志を見せつけようとするものであった。(38) 
 最も全面的 「捷号作戦」 が想定されていたのは海軍であった。その大型艦船は、もはや大した価値のあるものではなかった。海軍は、それらを動かす石油を持っていなかったし、敵に捕獲されてはならなかった。海軍の各艦長の使命とは、沈まされるまで、米国の無敵艦隊を砲撃し抜くことであった。
 他方、海洋空軍は、日本本土の防衛のため、できる限り維持されることが期待されていた。大半の海洋空軍部隊はまだ日本で訓練中であり、戦力にならないままとっておかれていた。それ以外のおよそ2千機の航空機は、台湾とルソンの基地で、すでに作戦行動についていたが、有利に米軍空母を沈没させる時のみに出撃するとされた。もし、充分な成功の期待がもてない場合、地上基地にとどまり、そのために何百もの安全な地上基地を、着陸のために確保していた。すなわち、海洋空軍の用意が整うまで、それらの機は、逃げて生き延びているべきであった。
  「捷号作戦」 においての陸軍の役割は、ほぼ従来通りのものであった。その25万名の兵士は、その年の初め、フィリピンへと移動しており、それぞれの島、高地、山や谷を死守するものとされた。
 自決的 「捷号作戦」 の長期的価値は、その過酷な方法が敵から求められる降伏条件を緩めさせたために、ほとんどの日本軍の陸軍将校が逃げおせたことだった。9月20日ころ、1930年代に北進派に同調していた彼らのグループは、小磯内閣を転覆させる政治的策謀をしくみ、満州に追いやられていたマラヤの虎こと山下大将に率いられた、より有能で現実的な 「戦争推進政府」 に置き換えることを目論んだ(39)。この策謀の一味は、支援を求めて朝香親王と竹田親王に接近した。朝香と竹田は、裕仁を通じ、それをすぐさま内大臣に報告した。木戸は、政府を降伏へとみちびく慎重な計画の過程に、こうして持ち込まれてきたその未知な動きを入れるつもりはなかった。そして木戸の考えで、山下大将が東京へと呼び戻され、一週間かけて情況説明が与えられた後、彼の才能を充分に発揮しうる新たな任務に再配属された。その任務とは、フィリピンの運命的な25万名の部隊の司令官だった。10月6日、山下は命令どおりマニラ郊外のフォート・マッキンレーに着任した(40)。その夜、灯火管制した集会室の檀上から、集められた部下の指揮官たちに彼は説明した。 「天皇はこうおおせられた。危機は当戦場を皮切りに突破される。この重い責任は我々に課せられている。」
# 4 
 10月10日、ハルゼー提督の巨大な怪物、高速空母機動部隊――重攻撃空母9隻、軽攻撃空母8隻、巡洋艦14隻、そして駆逐艦48隻――は、日本の本土海域に侵入し、沖縄と琉球列島の島々への空襲を開始した(42)。そうした空襲は、地上の航空機数機を破壊したのみだったが、フィリピンから戻ってくる海洋空軍を迎えるために必要であった多くの退避用飛行場を使えなくさせてしまった。その翌日、ハルゼーの攻撃機は、北ルソン島の多くの着陸用飛行場を、一時的に使用不可能とさせた。
 10月12日およびその後の3日間、ついに、米軍機動部隊の1,068機の編隊が、中国からのB-29# 5に支援されて、日本が台湾に配置していた一千機余りに襲いかかった。日本の500機以上――計画されていた海洋空軍の約に20分の一、すでに就役中の海洋空軍の10分の一 ――が地上あるいは空中で破壊された。さらに、同攻撃の三日目には、米軍の操縦士は、海洋空軍将校が自力を全面的に発揮する時、奇襲手段に使おうと期待していた台湾のおよそ15の新飛行場を見つけ出し、それに爆撃を加えた。しかも、こうした戦果を得ながらも、ハルゼーはさほどの損失を受けていなかった。すなわち、失ったのは100機以内で、2隻の空母が使用不可能となったが、自力で帰還することができた。(43)
 かくして、築かれたばかりの海洋空軍の意気を胎児中に殺し去り、米軍はいよいよその中心任務、すなわち、フィリピンの拠点を奪還する段階へと移った。集結した米軍無敵艦隊は、空母47隻、戦艦10隻、巡洋艦31隻、そして駆逐艦176隻を含む、総計840隻の艦船群を擁していた(44)。これらの空母の艦載機はおよそ1,600機を数え、さらにそれを、中国、テニアン、モロタイ、そしてペリリューの各島から合流する、ほぼ同数の爆撃機や長距離戦闘機で支援されていた。 
 台湾からの日本の空軍力のたちどころにしての一掃は、東京の一般幕僚によって、危急の対抗手段を必要とする重大事態――一般社会に知らされることは完璧に伏される――として認識された。士気の維持のため、海軍はその損失のすべてを、陸軍に対しても隠し、陸軍もまた同じであった。裕仁と一般幕僚の高位の数人のみが全事実を知るのみであった。裕仁はただちに、偉大な勝利をなした飛行士たちを祝福し、米軍の空襲にみまわれた台湾の人たちに同情の意を表した(45)。それと同時に、彼は自ら、彼の政治顧問による最後の反対を押し切り、海洋空軍が使用する残りの航空機は、必要なら、自決操縦士による特別攻撃に使用するよう命令を発した。
 10月17日、裕仁は、大西滝治郎海軍中将――真珠湾と神風攻撃計画の際、高松親王の仲介をした――を、フィリピンの残余空軍力の指揮をとるために派遣した(46)。10月18日、裕仁は、「捷号作戦」 の海軍部分――石油を食う残った空母や軍艦を犠牲とする――に最終的認可を与えた。10月19日、フィリピンの残っていて飛行可能な航空機はわずか60機ほどとの報告をうけて、空軍特使の大西は、マニラ北のマバラカットの航空隊司令部へと車で乗り付け、自ら、その指揮官たちに彼らに期待されることを、こう伝えた。
 この大西の言葉は、長い沈黙をもって迎えられた。多くの日本軍の飛行隊長は、もう長く体当り攻撃作戦を主張してきていた。いたたまれない操縦士はよく、最後の怒りを燃やして、空飛ぶ要塞にわざと衝突させていた。ほんの4日前でも、米軍のレイテ島侵攻艦隊が東方より進んでくるのが目視された時、有馬正文少将――天皇家の末裔にあたる――は、個人の責任により、99機の攻撃編隊を指揮したと報告し、一隻の米軍空母への体当り攻撃を行っていた(48)。米国側の記録では、そこに集まった隊長たちが、その日にも、それ以降も、どの米軍艦船にも体当り攻撃はなかった 〔と日本ではされていた〕 ことは、知るよしもなかった。彼らにとって、いまや、有馬の後に続き、天皇のもとより大西中将が送られて来て、彼らに、自らの誇りをつらぬき、その命を捧げよと求めているものとのみ信じていた。
 ようやく、一人の飛行士が落ち着き払って言った。 「命中させる確率は、従来の爆撃よりははるかに高まります。だが、我々が与えた飛行甲板上の損害は、おそらく、数日のうちに修復されます。」(49)
 この自己非難めいた冷徹精神をこめて、神風特攻部隊は正式に結成され、それから数時間以内に、大西中将は、出撃可能な機数以上の人数の特攻志願操縦士を集めることができたのであった。



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