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エピローグ
(91)
新たな衣服
(その1)
無に帰した獲得
火炎放射器と燃え上がる都市のなす明るい闇と、崩壊した宮廷と抹殺された諸文書のなす暗い闇の中で、新しい日本ばかりでなく、新しいアジアが懐胎され始めていた。西洋植民地主義にとっての極東は、もはやかっての楽天地ではなかった。戦争最後の数ヶ月間、中国、インドシナ、マラヤ、そしてインドネシアの日本の司令官たちは、地元の傀儡政治指導者たちと末永い癒着関係を築いておこうと工作を続けていた。降伏後、皇室の若い親王たちは、参謀総長の息子の閑院春仁
〔はるひと〕
親王がシンガポールに、南京強奪の司令官の息子の朝香孚彦
〔たけひこ〕
親王が香港に、裕仁と戦時外地の主要仲介者の竹田恒徳
〔つねよし〕
親王が満州にと、降伏を平和的に収めるため、海外のそうした拠点区域に派遣された。その結果、日本の多くの武器庫が、フランスや英国やオランダの部隊がインドシナ、マラヤ、インドネシアに戻ってくる前に、地元の愛国者に譲渡され、日本人顧問が地下にもぐって、各植民地の独立運動の支援にまわった
(92)
。
だが、そうした日本人顧問はさほどには感謝されず、最終的には、連合国の法廷に売り渡された。しかし、東南アジア全域において、譲渡された日本の武器は、西洋植民地支配の復活に反対する現地民を助けた。ことに、マラヤ、インドネシア、インドシナでは、終戦後の一年間、、そうした日本のほどこしは各地の不正規部隊に珍重され、英国、オランダ、フランスに対抗するゲリラ活動を形成させた。そして後に、こうしたレジスタンス運動は、しだいに共産主義者の指揮するものとなっていった。マラヤでは、英国がそうしたゲリラとにらみ合いとなり、なんとか有利な条件で決着にこぎつけた。インドネシアでは、以前の日本の傀儡、スカルノは、ついにはオランダを打倒して勝者となり、アジアで最も自然資源に恵まれ、最も潜在経済能力を有する自分の国作りに取り掛かった。インドシナでは、ホーチミン派が独立運動を支配し、小さな山火事程度のその勢いに、日本人が油を注いで大火にしてまい、その後の四分の一世紀間も燃え続ける結果となった。
辻政信大佐
この日本のとどの詰まりの敵を欺く作戦――日本やアジアにはあまり役立たなかったが、西洋諸国を深刻に動転させた――の首謀者は、辻政信大佐だった
(93)
。この若く、義憤にかられたアジア主義のためのアジアの救済者は、戦争中は裕仁と三笠親王の信頼を得て、シンガポールの英国や中国人捕虜やバターン米国人捕虜の何千人もの虐殺を命令し、今は、バンコック郊外のタイ寺院に身を寄せていた。仏教僧侶の黄色の僧衣に身を隠し、その寺院の隠れ家を、全東南アジア地域の地下活動の本部にしようとしていた。しかし、彼の交信手段は、その始めから貧弱だった。英国軍が敗走する日本部隊を追ってビルマを横断し、 「中立国」 タイを占領しようと侵入してきた時、その貧弱さはさらに悪化した。1945年10月、英国諜報員が辻の寺院組織を嗅ぎ付けた時、彼は、やはりバンコック地域で活動している蒋介石の藍衣社の慈悲に身を任せた。藍衣社は辻をインドシナへと密出国させ、さらに、重慶へと逃れさせ、そこで辻は、戦争中からの野心であった蒋介石との会見をついに達成し、アジアの将来について語り合った。
辻は蒋介石への手土産として、満州および北中国における日本の十年来の反共戦略計画を、練り直し、解説を付し、そして翻訳して提供した。蒋介石はその重要性を認め、相当数の日本の戦争犯罪人を釈放し、そのうちの十数人を戦後の毛沢東との戦いのための顧問として登用した。そうした〔反共〕顧問団を率いたのは、元大将の岡村寧次――1920年代の数々の策謀の中軸として裕仁が最初の信頼を与えたバーデン・バーデンの三羽烏の一人――であった
# 1
。
# 1
これらの釈放者のうち、根本博中将――裕仁の陸軍特務集団の別の功労者――は、台湾において蒋介石の徴兵工作員となった。角田礼四郎中将は、陸大の同窓生で 〔日本軍に体よく〕 利用された中国山西省総督の閻錫山将軍の助言者となった。蒋のために戦ったその他の幾人かは、その後続いて、エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝につかえた。彼らは、1953年から1962年まで、池田純久元中将――内閣企画院の一員として、1945年8月9日夜に裕仁の防空壕で開かれた歴史的降伏会議に参加――によって率いられていた。
(94)
辻は1948年2月まで、毛沢東とその共産軍が中国の内戦に勝利するまで、蒋介石のもとで中国に残っていた。そこで蒋は日本人軍事顧問団を無視するようになり、彼の部隊は、帰還せず台湾に残っていた日本人入植者を虐殺した。辻は、これらを契機とし、同年3月、秘密裡に日本に帰国した。それから4年間、米連合国占領軍による意図的な無視の中、潜伏生活をつづけ、自分の波乱万丈の経歴を書いた著作で身を支えていた。占領が終わった1952年、彼は衆議院議員に当選し、1961年まで、議員と執筆生活を続けた。
日本の海外特派員がインドシナの戦争について最初に報じ、西洋諸国の軍事的行き過ぎの暴露を追い始めた時、辻議員は、朝日新聞の特ダネ記者として、ホー・チ・ミンの 〔ベトナムの〕 首都ハノイを訪問した。そして間もなく、彼は消息を絶った。ホーのベトナム政府は、彼の失踪を説明できず、かつ、彼が死んだことを表す死体も提示できなかった。日本の退役軍人協会――戦死した日本兵の灰や遺骨を太平洋の島々から持ち帰ることに献身――は、辻の遺体の回収に関しては何の努力もしなかった。
日本でよく聞く噂話は、辻は死んでおらず、ハノイで彼の奇抜な経歴を継続しているというものであった。あるものは、彼は米のCIAのスパイとして活動しているとか、また別のものは、彼は宣伝相の補佐として、日本の記者が米軍の残虐行為の話を作り出す支援をしているとか、さらには、戦前の特務機関の堅物をいまでも踏襲し、東南アジアで汎アジア対西洋運動を指揮しているとの話もあった。
勝者の復讐
日本が降伏する前、連合国軍部隊は、捕虜にした数千人のほとんど何の問題も危険もない日本軍兵士を殺した。反撃に入ったいくつかの断絶した地域では、降伏の後でさえも殺戮は止まなかった。そうした殺戮の最も大規模なもののひとつは、英領北ボルネオのオーストラリア人司令官の指揮下で実行された。そこで、降伏した6,000名の日本兵は、ペンシアンガンで武器を放棄し、収容所のあるビューフォートまで150マイル
〔240㎞〕
を行進するよう命じられた。その前年、この日本軍部隊は、ボルネオ沿岸地帯で米軍潜水艦と連絡を取り合っていると疑われる原住民村落を一掃していた。そこに、復讐心にかられたそれらの村落民の生き残りが丸腰の日本兵の隊列へと放たれ、彼らが行う首狩りが放置された。数百人を残す6千名の全員が殺された。それを傍観していたオーストラリア人の幾人かが、この犯罪行為に関わっていたことを恥じ、それは死の行進であったと、後になって暴露した。
(95)
降伏した戦場において、連合国軍部隊がかかわった残虐は、その半分は戦意の激化による産物とも言えた。だがもっと言語道断の違法行為は、その後の、思慮深い人たちが充分に考慮しえたはずの法廷において発生した。日本の政治への無知と理解の不足により、マッカーサーの戦犯検事たちは、辻、三笠親王、天皇裕仁といった指導者たちを用意周到に見逃す一方、倫理に背くとは知りつつも命令には逆らえなかった軍の将校たちを執拗に告発し、罪をきせ、絞首刑に処した。
戦争が終わると直ちに、日本の捕虜政策の管理執行に携さわされた大勢の気の毒な精神病者や梅毒による狂乱者は、連合国軍憲兵によって訴追され、日本軍による元連合国軍捕虜によって確認され、手荒で簡略な裁判にかけられた。あるものは、尋問の最中に殴打され、あるものは面通しだけで特定されたり、 同じ名前の別人の罪によって告発された。また別のものは、一時間にも満たない審問の後、即決で死刑が言い渡された。だがそれでも、自白だけで獄中で殺されたり、裁判なしに処刑されたりするものはなかった
# 2
。だが、そうした人たちは寛容で家族的な社会においても、もともと除け者であったがゆえ、同胞でさえ、彼らのために涙するものはほとんどいなかった。
# 2
東京巣鴨刑務所の9人の囚人による委員会は、投獄されている同僚たちから、帝国全体におよぶ連合国軍の戦犯裁判手続きについてのあらゆる苦情を収集した。同委員会は、その結果を 『戦犯裁判の実相』 と題した謄写版刷り冊子にまとめた。同じころに書かれたかっての連合国軍捕虜の口供書と比べて読むと、 〔連合国側の人間として〕 青ざめさせられるものがある。香港では、日本の元憲兵隊員は、 〔新たな〕 支配者に凌辱され、自分たちの拷問道具で責められ、望みもしない拳闘競技をさせられてノックアウトされ、そして、食糧暴動の処罰として、割れたガラスの上を裸足で歩かされた。シンガポールでは、元捕虜収容所の守衛は、一日二回の微量の食事――それぞれ5分で食べ終わらなければならなかった――で痩せ細った。東京では、ダイヤーという名の米国の尋問官は、二世の通訳を従え、時には銃を見せつけたり、喉に手をまわすなどして、自白を強要する脅しを見せつけた。だが日本人は、親指だけで吊り下げられたり、水を飲まされた腹に飛び乗られたり、性器の先にタバコの火を押し付けられたり、ももの肉片を薄く幾枚も切り取られている間、薬剤で気を失わないよう覚醒されたままにされ、その肉を本人の目前で味付けして焼いて食べられたりした、といったことを告発するものは誰もいなかった。これらの行為は、解放された連合国軍捕虜によって、さらには、日本人とは闘っただけで、収容所で苦しめられたわけではない者らだけによって為され、かつ、確証されたものであった。
すべて合わせて、およそ5,000名の日本人が、国家や個人の残虐行為――アジア人と西洋人の約50万人の命が奪われた――への計算された報復のために逮捕された。こうした逮捕者のほとんどは、その全犠牲者の十分の一に満たない西洋諸国人に対する犯罪への加担者だった。容疑者のうちの4,000名は、米国、英国、オーストラリアそして中国での軍事法廷――グアムからラングーン、チモールから東京へと各地に散在――にかけられた。その4,000名のうちのほぼ800名は無罪放免され、およそ2,400名が三年以上の投獄、そして809名
# 3
が死刑に処された。さらに、満州で捕えられた数千の日本人は、シベリアの強制労働収容所で死亡した。
# 3
この数字――802名の軽罪と7名の重罪戦犯――は、日本側によるものである。私は、ワシントンの完全な戦犯統計数字の明細を試みる機会に恵まれず、くわえて、中国国民党政府によって進められた戦犯処置の完全な数字は、いかなる形でも入手不可能と告げられた。
マレーの
虎の絞首刑
(96)
連合国側の日本人戦犯の扱いには、ある程度の非人間的扱いはあったものの、日本の新聞が述べるほどに甚だしいものではなかった。何が日本のそうした非難や愚弄をもたらしたのかと言えば、それは、西洋諸国がいわゆる重要戦犯の当初の扱いで示した不作法であった。
最初の 「重要戦犯」 法廷は、1945年末から46年初めにかけて、マニラで開かれた。それは、山下大将の告発をもって開始された。その 「マレーの虎」 は、1941年、満州において南進のために特殊任務部隊を訓練し、1942年には、マラヤでパシーバル大将を負かした。1945年には、ルソン島で、乏しい装備の部隊を率いながら、巧みな防衛を展開してマッカーサーをたじろがせた
# 4
。1945年10月29日、山下大将が戦犯として法廷にかけられた時、こうした彼の業績は、まだ日本の国民の記憶に有りありと残っていた。日本国内のみならず、西洋諸国の多くの観察者からも、マッカーサーは偏狭な復讐にふけっていると見られていた。だが実際のところは、マッカーサーはただ、政治を実行していただけであった。彼にとってフィリピンは、自分の選挙地盤と受け止めていた。東京に到着して彼は、日本を維持してそれを共産主義の防波堤とすることを決心した。もし彼が日本に厳しく当たらなければ、彼の選挙基盤であるフィリピン人は、だまされていたと感じただろう。それゆえに彼は、山下大将をやり玉にあげてスケープゴートとし、その裁判を行うことでフィリピン人の関心をそらし、連合国軍の東京占領の最初の数ヶ月間を円滑に運ぼうとした。
# 4
1941年
から42年のフィリピンでのマッカーサーの作戦を見事と言うとすれば、1944年から45年の山下のそれは驚異的であった。同じ地理的条件で、同じような困難に対し、マッカーサーはコレヒドールで、指揮下の少数部隊でもって6ヶ月間持ちこたえたが、山下は、そのほとんどが飢餓状態の部隊をもって、ルソン山中で8ヶ月間持ちこたえ、裕仁の命令があったがゆえに降伏した。1945年、5千人の山下の部隊はコレヒドールを守り、マニラ湾口の要塞島を、米軍部隊が同島に上陸してから11日間、持ちこたえた。1942年、4千人のマッカーサーの部隊が同島を守った時は、最初に日本軍が足がかりを得て以来、12時間もしないで降伏した。
〔マニラでの〕山下の裁判は、その政治的目的に驚くべき貢献をした。日本軍の残虐行為のフィリピン人生存者たちは、一カ月以上にわたり、山下を扱う軍事法廷の判事となった5人の米軍大将たちの前で自らを誇示した。小さな少女たちは、衣服をたくしあげて銃剣による幾つもの傷痕を見せた。年長の少女たちは、強姦され時の状況を証言した。こうした残虐行為はいずれも山下によって命令されたものだと主張する訴えは、マッカーサーの軍服姿の検事たちによってはなされなかった。むしろ逆に、裁判では、そうした行為のために兵士を鍛える裁量権を与える発令が東京から発せられており、山下は現地で、大本営の指令を取り消すよう、むなしくも試みていたことが明瞭となった。裁判は、フィリピン人たちが訴える残虐行為のほとんどは、高飛車な海軍特別陸戦隊――山下大将の命令に真っ向から背き、マニラで戦うよう後から介入した――によってなされていたことを明瞭に立証した。日本人の目撃者はいずれも、山下は後方の山間地にあって、マニラでの血眼な陸戦隊とは通信手段すらなく、命令を出すどころではなかったことを認めていた。
山下の裁判中、その半分の期間、マッカーサーに随行する連合国の海外特派員は、東京を離れてマニラに張り付いていた。その彼らの留守中、マッカーサーは裕仁との初めての会見を持ち、民政局長コートニー・ホイットニー少将の言葉によれば、 「日本を脅迫」 して占領改革政策を飲ませようと試みていた。つまりマッカーサーは、マニラの裁判でのかんばしくない報道と引き換えに、この取引を 〔成功裏に〕 実行したのであった。
『ニューヨークタイムス』 紙のロバート・トランブルは、 「すべての法的建前は無に帰した。・・・米国戦争犯罪委員会を律する規定は、自身をかろうじて設立したものを除いて、他には何も存在していない。」
(97)
『ニューズウィーク』 誌は、それを傍聴して、「アングロ・サクソンの正義との決別さにあきれさせられている」 と表現し、 「第三者の風聞さえ、証拠に取り上げられている」 と報じた。
ロンドンの 『デイリー・エクスプレス』 紙のヘンリー・ケイズは、その途中で、「山下の裁判は今も行われているが、それは裁判ではない。私はそれが審問であることさえ疑う。昨日、彼の名が一旦は言及されたが、今日は、取り上げられさえしていない」、と報じた。
疑いなく、熟達した日本軍司令官として、山下は、おそらく法廷問題としてではなく、いくつかの規範の堕落の責任はあったろう。彼は要するに、裕仁を助けて北進派を裏切り、1936年の2・26事件を起こす中で、裕仁が南進するのを可能とした。1938年から39年にかけて、強硬な北支那方面軍が中国人村落に一度だけではない報復攻撃を加えた際、彼はその参謀長であった。1940年のドイツ視察旅行の際には、彼はヒットラーからレーダー技術を盗んだ。1941年、満州での南進派遣軍の訓練をもって、彼は裕仁の侵略戦争の計画に加担した。マラヤでの司令官としての任期中には、憲兵隊がシンガポールの中国商人の5,000人を殺害した際、彼はその阻止を怠った。
西洋人
への非人間的扱いについては、山下の責任は問えない。彼の非アジア的で、ドイツ軍人の訓練を受けた精神――西洋人に向かう際の彼の精神――は、厳密に正規の戦争を指揮した。彼は、1941年と1942年のマラヤ作戦において、英国部隊に対する野蛮戦闘行為を許可した配下の士官を懲戒したことで、辻や裕仁の不興をかった。1944年12月、彼は米国の捕虜と収容者を全員をルソンのバギオ周辺の山間地帯から連れ出すような苦労をあえて行い、そのためにガソリンも浪費した。彼はバギオに、最後の捨身の拠点を構築する計画だった。彼のそうした節度ある指揮は、フィリピンの捕虜収容所長が、東京の大本営からの米国人捕虜を解放するより全員殺してしまえ、との指示に従うことを抑えさせた。
(98)
それでもマッカーサーは、日本の歴史への信念入りの無知と、天皇を喜ばせて絞り上げるつもりで、山下――他のほとんどの日本人司令官よりはるかに無実だった――を犯罪者として告発することを優先した。その結果、アメリカの国章上に汚点を残して紛糾させる実例となり、後のベトナム戦争時のメイ・ライ 〔ソンミ村虐殺〕 事件の後までも、アメリカの弁護士やジャーナリストらによって記憶されるものとなった。
# 5
# 5
1971年1月、ニューヨーク・タイムスは、コロンビア大学のテルフォード・テイラー教授――退役陸軍中将でニュールンベルグ裁判米国検察団主任――が、もし山下大将の判決を当てはめれば、元ベトナム司令官のウィリアム・C・ウェストモアランド米国大将は戦争犯罪人として 「有罪となりうる」 、と語ったと報道した。山下の元弁護代理人、A・フランク・リールは、同紙に対し、 「米国最高裁で山下大将の判決を当てはめれれば、ウェストモアランは有罪以上である」 と抗議した。
(99)
山下は、マニラの強姦事件――この件では彼は無実――と同じく、1944年のパラワン島での米国人捕虜の焼殺しの命令責任、ならびに、1945年初めのフィリピン、バタンガス州の一連の村民の強姦、殺害について告発された。裁判で明らかにされた事実は、その殺害当時、パラワンは東京が司令する海洋空軍の指揮下にあり、またバタンガスの報復襲撃は、山中の山下の司令部からのものというより、これも東京からの命令によるものであった。さらに、フィリピン人の目撃者が、バタンガスの村々はゲリラ活動の中心地であったとさえ認めていた。国際的に認められた戦争行為は、ゲリラたちに 〔殺人罪不適用の〕 権利はないというのが通則である。そうでありながら、アメリカ人がそこで行った判断は、山下の指揮権は疑いなく名目的でしかないにもかかわらず、バタンガスにおいて何千回となされた機関銃による殺害、焼殺し、婦人や子供の銃剣刺殺 そして人道に対する罪を、正当とはしない 〔で山下を有罪とする〕 ものであった。
(100)
バタンガスの殺戮は、山下が負うべき犯罪的過失の可能性を、日本軍将校の強硬姿勢全体の一例として彼を狙い撃ちにして取り上げることで、その実行例とするものとなった。しかし、自己弁論の機会が与えられた時、法廷の明るい照明の下で、目を半眼開きとした山下は、簡明かつ雄弁に、次のように自らを言い表した。
降伏後のマニラでの山下大将。右は米軍憲兵。
(ウィキベディアより)
その事件については、それが行われたとも、それがそれから行われるとも、一度たりとも事前に知らされることはなく、なんら聞いていなかった。・・・私は、日夜、圧倒的な米軍への反撃行動を研究し、計画し、そして実行することに没頭していた。・・・私がフィリピンに到着して9日後、米軍のレイテ島への怒涛のごとき大攻勢に直面した。・・・私は、その性格も能力もよく判らぬ未知の部下らを率いて、その米軍の攻勢と対決することを強いられていた。こうした日本陸軍組織の非効率によって、私は自分の指揮を統一することができず、私の指揮任務は極めて煩雑となった。部隊は分散し、日本軍の連絡態勢は貧弱だった。・・・しだいに私は戦況から切り離され、事態を把握していない自分を発見していた。・・・こうした状況下にあって、私は可能な限りの最善を尽くしたと確信する。・・・私はいかなる虐殺も命じていない。・・・私は自分の部隊を統率するために全力を上げた。もしそれが充分でなかったとするなら、何らかの余地を残していただろうことは認める。それ以上のことを成す人もいるかも知れぬ。そうではあるが、私は自分の全力を尽くしたと信じている。
提出された証拠にも拘わらず、また、山下の国内政治での一匹狼的な立場――東京での事情に明るい者なら、誰でも法廷で説明可能――にも拘わらず、山下の判事は、軍隊の司令官は、たとえ上層部より未通知かつ逆転の命令が出されようと、自部隊の行動には責任を有する、との判決を行った。これは途方もなく無責任な後づけの決定で、後に米軍法曹界を大きく悩ませる種となった。ということは、事実上、大将から大統領あるいは首相にいたるすべての上層指揮者は、すべての下層士官が従った命令に責任を有するという意味である。あるいは、戦争犯罪への法的責任は、演繹的に、その性質、動機、そして知識の度合いとは無関係に、命令の連鎖にあるものには誰にでも、有罪が課されるということである。
山下の死刑判決は1945年12月7日、つまり真珠湾の4周年記念日のその日にマニラで下された。山下の腕利きの弁護士たちは、そのいずれもマッカーサーの米陸軍の法務部からの志願者で、彼らはこの判決に不服で米国最高裁判所に上告した。1946年1月、同最高裁はこの上告の審理に入ったが、一ヶ月間の検討の後、マニラで行われた軍事法廷をくつがえすことは控えた。そして同最高裁は、5対2の票決で、軍司令官は、いかなる酌量の余地のある状況があろうとも、彼の部下の犯罪には刑法上の責任があるとすら承認した。ハーラン・ストーン、ヒューゴ・ブラック、フェリックス・フランクフルター、ウィリアム・ダグラスそしてハロルド・バートンの5判事がこの議論に賛同し、フランク・マーフィーおよびウィリー・ラトレッジの2判事は異議をとなえた。マーフィー判事は32ページの異議申し立て書――それにラトレッジ判事も同意――を書き、彼がかってフィリピンでの米国高等弁務官であったことから、東洋の知識に詳しい特別な権威をもって、以下のように述べた。
・・・我々はいまだかって、交戦中、あるいは、それ以外の軍事作戦や任務にある時に、敵の将軍を有罪と判決したり、それを試みたりなどは、決して行ったことはなかった――ましてや、何らかの行動を取らなかったことを理由に、その者を非難したこともなかった・・・。
本上告人は、不適切な告発のもとで裁判を急がされ、適正な弁護を準備する充分な時間が与えられず、証拠という最も原初的法原則のいくらかの恩恵すら奪われ、そして、即決で絞首刑が判決された。この不必要で不穏当な急がせのすべてにおいて、彼が戦争法規の明らかな違反を行ったことを証明する真剣な試みはなされなかった。
彼は、自ら残虐行為に参加したから、あるいは命令したから、あるいは、その実行に目をつぶったから、罪に問われたのではない。まして、犯罪であると知っていたことが理由となっているのでもない。それは単に、彼が、司令官として配下の部隊を統括することを違法に無視あるいは怠たり、彼らが残虐行為を行うことを許してしまったことを告発しているだけである。戦争を記録した年鑑や確立された国際法の原則は、そうした告発のいささかな前例をも含めてはいない。
この裁判は、事実上、 〔その法廷である〕 軍法会議が、それが意図すれば何であろうと、上告人の任務と彼の無視に関する偏見しだいでは、犯罪としてしまえることを示した。
我々の見解では、そうした手法は、人類の理想を追求する我が人民の伝統において、あるいは、人民がかって成した膨大な犠牲において、価値のないものである。一時の高揚は確かに満たされるだろうが、酔いざめの残照の中で、今、このように容認された手法の底なしの危険な意味に、気付かされつつある。
いかなる軍隊でもその指揮の地位にあるものは、軍曹から将軍にいたるまで、その誰もがこうした意味から逃れることはできない。まさしく、アメリカ合衆国大統領も、その参謀長も、その軍事顧問も、その幾らか先の運命は、この決定によってつつがなく決められるものと思われる・・・。
無力なフィリピンの人々におよぼされた残虐な殺戮があったことは、暴政とてそれほどではなかった、動かしがたい事実である。それらをなした責任ある者たちに処罰が科されなければならないのも、争う余地のないことである。しかし、だからと言って、それらのことが、降伏した敵の司令官を扱うにあたって、我々の正義への献身を放棄することを正当化するものであってはならない。
今や、闘いの場で敗れた敵軍の将、山下陸軍大将の命は、法の正当な手続きを無視して、刈り取られようとしている。それへの抗議は、まずされることはないだろう。しかし、この先、ここになされた前例は、他の諸例とは対立するものとなる。
法の正当な手続きなき司法的リンチ行為が、この先、続いてゆくこととなる恐れがある・・・。一国は、戦争の余波に伴う国家的狂乱の中で、人間個々の尊厳の中心的主旨や法の正当な手続きを放棄したがゆえに、滅びることとなってはならない。
(101)
〔1946年〕 2月、マーフィー判事の異議申し立て文書が東京に到着した時、マッカーサー元帥は、山下のケースに関し、次のような反対声明を発表した。
私は、彼に代わって――いくつかの酌量すべき情状については空しくも――訴訟手続きを再吟味した。だが、何も発見するものはなかった・・・。そもそも軍人は、味方であろうと敵であろうと、弱く、武器を持たぬ者を保護する任務を負う。これは、彼が存在しているまさに本質でありその理由である。彼がこの神聖なる信頼を裏切るような時、彼はその崇拝のすべてを汚すばかりでなく、国際社会の構成自体に危険をおよぼす・・・・。その裁判で明らかとなったその罪は・・・軍事専門家としての汚点であり、文明を傷つけるものである・・・。ことに、その無感覚さと無目的さは、キリスト教徒市民と無数の歴史的教会や文化・文明遺跡にあふれる古都マニラを、それまではそれを保存してきた作戦条件を逆転させ、略奪を働いた・・・。
新規のあるいは過去へ遡及する法原則も、国内のあるいは国際のそれも、ここに関与する必要はない。この判決は、もっとも自然かつ論争の余地のない社会規範として不変で基準となる、基本的原則と実務に基礎をおいている。この裁判は、全面的真実を確かめるために、狭隘な方法や技法上の独断といった人為性によって拘束されることなく、あらゆる司法目的の基本的合理性をもってして導かれたものである。その結果は、いかなる批判をも寄せ付けるものではない。
私は、この軍法会議が確定した事実と判決を承認し、西太平洋陸軍総司令官に、軍服および軍事専門家の一員たる特徴を示す紋章や他の付属物を剥奪したその被告に科された判決を、執行するよう指令する。
(102)
マッカーサーの主張の激烈さと彼の文章の高慢さは、ある種の誤認識による不安の現れだった。しかし、彼の恐れは、必要のないものであった。山下の米国人弁護団は、その最後の法手段として、ホワイトハウスに申し立てたが、新任の大統領、ハリー・トルーマンは、マッカーサーの思惑に関わることを避けた。そうして山下には、最後の食事としてアスパラガスとパンとビールが与えられた。それは、1936年の2・26事件――彼は裕仁を助けて天皇の日本陸軍への絶対的権力を主張して南方へと向かわせた――のほぼ10周年にならんとする日であった。つかの間の仮眠の後、1946年2月23日、午前3時27分、山下大将は、マニラ郊外のビリビッド刑務所の絞首台を上った。彼は、北の遥か遠い神王の宮廷の方向を向いて簡素に礼をした。足元の扉がぱっと開き、彼は死ぬまで、吊るされていた。
(103)
赤鼻の切落し
(104)
1945年12月7日に山下大将への判決が下されるとただちに、マニラの軍事法廷は本間大将――1932年の満州についてのリットン報告書の盗み出された一部を翻訳した 「赤鼻の語学者」 ――への審理に移った。本間は、1942年のバターンの死の行進が行われた時、フィリピンの総指揮官であったため、法廷にかけられることとなった。法廷の日本人証人は相応に慎重に、死の行進の際の本間の指揮の真の状態を述べ、それは東京やシンガポールから参謀へ与えられた上層部からの権威によって優先されていたことを明らかにした。判事として臨んでいる米陸軍大将たちは、この証言を、根拠の薄い言い訳として割り引いて受け止めていた。米陸軍での自身の経験から、辻のような大佐が本間のような中将の指揮をいかにして横取りできるのか、彼らには想像できないことであった。
本間のアメリカ人弁護士たち自身も、本間の指揮権への宮廷の権威による介入について理解しえていなかった。その結果、彼らは誤った情報による議論の展開に依存することとなった。それはいかにも逃げ口上的で、日本人ジャーナリストや文民官僚でしか立証できない議論や、あるいは、死の行進には何の命令も出されておらず、その行進は復讐をのぞむ日本兵の一部の感情による無計画な行動が広がったものといった議論だった。5人の軍人判事は、そうした弁論には、ただ言い逃れあるいはごまかしとしてしか認めることができなかった。というのは、彼らは、死の行進が一週間も続き、そのための口頭の命令が出され、そして、そのよろめく隊列が本間の司令部から1マイル
〔1.6㎞〕
も隔ていない地点を通過していた事実を知っていたからであった。
(105)
本間のアメリカ人弁護士たちは、判決の執行を三ヶ月間延期させ、そのケースを、これも米国最高裁へ上告するよう取り組んだ。本間の主任弁護人、ジョン・H・スキーン・ジュニアはこう嘆願した。この件は、 「極めて特異なケースで、最終的な結果がどんなものとなりうるのか、それを問わずにしておくとの雰囲気のもとに実行されたものである」 。しかし、前例と同じく、最高裁はマニラの判決を支持する決定を行い、 〔最高裁〕 陪席判事フランク・マーフィーは、再び、強い異論を提示することが必要と考えてこう書き表した。 「この国の名誉は、将来への希望とともにまさに危機に瀕している。我々は、そのような裁判を高貴な精神と我が憲法の定めるところにおいて実施するか、欺瞞的な正義をすべてなげ捨てるかのいずれかを行い、時の人々を自由にさせよう。さもないと、復讐心たぎる血の粛清の水準へと墜ちさせることとなる。」
(106)
マーフィー判事の一貫しかつ雄弁な異議は、マッカーサーを刺激した。最高裁の決定の後、本間の弁護士が彼への温情を訴えると、1945年3月21日、マッカーサーは判決を執行する理由について、冗長な説明を発表した。
私はまたしても、主たる軍事行動における、かっての敵に対する最終判決を完了させるとの、好んではやりたくない任務に直面している。その審理は、被告が、戦場における軍事的に高い指揮責任を負う将校に求められる、人格の根本的堅固さと倫理的な毅然さを欠いていることを示した。いかなる国も、正しい行為と悪い行為とを峻別する普遍的規範を守らない指導者に、軍事的栄誉を安心して託することはできない。
[ ここに、マッカーサーは 「バターンのしぶとい奴ら」 のなした戦果への際立った賛辞を挿入し、以下のように続けている ]
いかなる審理も、これほど公平に行われたものはない・・・。人間としてなしうる限りの実際の真実がすべて法廷に提示された。生半可な真実を全面的真実とする術策によるごまかしを排除するか、それとも、生半可な真実を偽りとする傾向や、それによる歪みや混同が、裁判に不確かな裁定をもたらすのを許すか。・・・そうした正直な方法への反対は、ご都合主義の主張者とか、極刑という容赦なき厳格さに委縮する、少数の者だけがなしうるものである・・・。
もし、被告が自らへの司法的決定に値しないとするのであるなら、司法の歴史上の誰がそれをなしえるというのか。軍事行動へのさらなる貢献をなしえない救いがたき者による、軍事的権威と必要を理由とした大量破壊ほど、それを越えて大規模で、より凶悪で、より危険なものはない。そうした非道な犯罪行為を罰する法的措置の怠慢は、まさに、国際社会の構造を揺るがすものとなろう。
(107)
最終申し立てにおいて、トルーマン大統領は再び、マッカーサーの手法に横やりを入れなかった。そして1946年4月3日、本間大将は銃殺された。彼は自分の子供に宛てた手紙に、習慣に従って自分の墓に花を生けるより、むしろその生涯にわたり 「正しい方向」 を求めよ、と強く願った。彼は、 「正しい道をはずすな。これは私の本当に最後の手紙だ」、と書き残した
(108)
。
マッカーサーは後に、 「我が軍はフィリピンで戦時編成を解きつつあったので、米国に関わるこれに類する残りのケースは、東京の国際法廷で審理された」、と説明している。
東京裁判の被告
マニラ
の裁判で、マッカーサーは裕仁から、1942年に大本営とは意見を異にしていた二人物を、そうと意図することなく取り除くこととなった。山下は、シンガポールの捕虜のまともな取扱いを主張し、そして、日本は当初の成功に続き、オーストラリアへの侵略を継続しない限り、悲惨な結果を招くことになると予想した。また本間は、バターン攻略を急ぐ必要はなく、フィリピンに啓発的で人道的な統治を行うことを擁護して、彼の落ち度とされた
# 6
。もちろんマッカーサーはただ、山下や本間が戦中から戦後にわたり、連合国軍最高司令官におびただしく不利益な評判を与える元凶であったことや、国務省が今後のA級戦犯の裁判に関しては、もっと慎重な扱いをするよう望んでいたことについては知っていた。そうしたことからマッカーサーは、日本の戦時政府指導者の東京裁判にあたっては、時間も費用も惜しまなかった。
# 6
彼の寛大さへの努力は大本営からの逆命令で常にくつがえされていた。一例をあげれば、1942年1月29日、彼はバギオで、西洋人牧師を収容所から釈放した。ところが翌日、新たな命令が東京より発令され、12名を除く170名余りのすべての解放者が再収容された。本間大将の顔を立てた繕い策として、8ヶ月間、形式的に、私の家族がその解放者に含まれていたのは幸運であった。
社会習慣として、日本の指導者たちは、常時、配下の者たちの言うことに耳を傾け、そして、いざという場合に備え、決定事項の責任を共有してくれる共鳴者作りに努めた。そのため、主要な戦争犯罪人の名簿をまとめることは、マッカーサーの戦犯捜査担当者たちにとってさほどの労力は要しなかった。だが、裕仁の配下には、ドイツのヒットラーの徒党に見られたような威張りくさった豪傑や、日本を戦争へと導いた非難に値するとされる者ははほとんどいなかった。そのため、A級戦犯の選択は、天皇も皇族もそしてそれに連累するいずれの者も告発されるべきではないという制約も合わさって、二重に困難であった。最終的には、第3章で述べたように、裁判の被告は、宮廷との充分な相談と交渉の末にのみ選び出すことができた。
こうした特異な環境のもとで、マッカーサーの検察担当者たちは、出来るだけのことは成し遂げた。彼らは、裕仁の策謀に活発にかかわった数人の司令官を含む、被告の名簿をこしらえた。それには、皇位とは不仲であった候補者二人以外の全員が除外されていた。その二人とは、南京強奪のスケープゴートの小柄な松井大将と、饒舌なアメリカ生まれの外交官、松岡――1941年に裕仁に南進派計画を完成させるための無駄に終わった最終的試みでヒットラーとの孤独な辣腕劇を演じた――だった。その名簿には、大川周明博士――宮廷の侍従たちが証言席から除外しようと努めたスパイ工作者――の名前すら含んでいた。同名簿には二人の親類者、近衛親王と裕仁の元侍従武官で北進派の本庄大将を含んでいたが、その逮捕の前夜に自決して逃れる道を選び、含めなくなった。それ以外の被告たちは、日本を支配する宮廷内部集団の秘密を守ることを想定された者たちであった。
合計して28名が東京裁判の被告とされた。最年長者は79歳の右派勢力法律家の平沼男爵で、彼は、降伏を控えた防空壕での最後の苦悩の中で裕仁の側に立った。平沼は、明治天皇世代の一人で、老参謀総長、閑院親王――1945年5月21日、入院中に 「痔で」 死んだと報じられた――の仲間だった。
28人の被告のうちの10人は、72歳から64歳の年齢で、大正天皇までの世代であった。彼らは、大正天皇と同世代の陸軍元帥梨本親王と海軍元帥伏見親王によって宮廷内部集団に加えられた
# 7
。残りの17名の被告はみな、裕仁の大兄かその取り巻きたちであった。彼らはおおむね三つのグループに分けられる。最初が、裕仁の58歳の叔父の東久邇親王や朝香親王と同世代で親密な関係にあった陸軍将校たち
# 8
。第二が、56歳の裕仁の養育上の兄弟の木戸侯爵と同窓の官僚たち
# 9
、第三が、54歳で自殺した近衛親王の仲間の論客や凶漢たちであった
# 10
。
# 7
大正天皇の集団には、松井大将や外交官松岡が含まれていた。その他のメンバーは、南次郎大将 (72、満州事変の時の陸相)、荒木貞夫大将(69、利口で融通がきき、口の立つ北進派指導者)、長野修身海軍大将 (69、真珠湾時の海軍軍令部総長)、広田弘毅元首相 (68、黒龍会出身者で1936年の2・26事件の後、裕仁のための政府を率いた)、 畑俊六陸軍元帥 (67、皇位の信任厚く、原爆が彼のいる防空壕上空で炸裂した時、彼は広島に本部のある西部方面軍の司令官であったために、質問に答えようとするがよく聞こえないと苦情を言った) 、小磯国昭大将 (66、三月事件の首謀者、1944年の東条の後任首相) 、梅津美治郎大将 (64、降伏時の参謀総長) 、そして最後が、東郷茂徳 (64、降伏および開戦両方の時の外務大臣) 。
# 8
その軍人たちは、嶋田繁太郎 (66、東条の海軍大臣)、土肥原賢二 (66、バーデン・バーデンの盟約者の一人で 「満州のロレンス」 )、東条英機大将 (62、自ら名乗る戦争主人公、最後には首相、陸相、参謀総長の全責任を担った)、板垣征四郎 (61、
バーデン・バーデンの盟約者の一人で満州の征服者
)、大川周明 (60、南進論理論家で元陸軍スパイ)、大島浩 (60、陸軍中将で戦中のベルリン駐在大使)、木村平太郎 (58、東条の陸相次官)、鈴木貞一 (57、顔の広い陸軍経済専門家)、武藤章 (54、鈴木の子分、山下の参謀総長としてフィリピンで終戦を迎えた)、佐藤賢了 (50、東条の下での戦時中軍務局長)。
# 9
木戸自身に加え、このグループで裁判にかけられた者は、賀屋興宣 (57、戦時大蔵大臣)、重光葵 (58、外交官で和平派、南進派)、白鳥敏夫 (58、大兄の一人で、一時、北進派を支持して道を外す) 。
# 10
近衛が服毒自殺した後、彼の策謀への関わりが二人の人物の告発によって認知された。彼らは、星野直樹 (54、内閣企画院総裁)、橋本欣五郎大佐 (56、米軍艦艇パナイ号を沈め、近衛の大衆党派、大政翼賛会の青年運動の指導者) 。
こうした被告――その28名には日本の誇り、貪欲そして残忍のすべての罪が背負わされていた――の選別に傾けられた配慮は、法廷での審理の進行に生かされた。彼らは、米兵の着古し服を着、米兵の配給食を食べ、審理が進められた2年半の全期間を巣鴨刑務所で過ごした。残された彼らの家族は、隣近所からは避けられ、貧困と空腹と寒さにさらされていた。その中を、彼らはその都度法廷へ出頭し、彼らのために用意された半司法的、半政治的過程の味気ない複雑さに辛抱強く服従した。彼らは、それまでの彼らの年月を彩った猛烈さと傲慢さは見せないでいた。彼らは、自分の房で哲学や宗教の本を読み、そして、彼らに示される翻訳された断片的な疑似真実に、注意して耳を傾けた。
敗北者東条は、逮捕時に試みた自殺に失敗し、他の被告の模範を示すことで、日本人からの幅広い尊敬を回復していた。彼は、論告の一語々々を聞き、おびただしい論理的矛盾、政治的欺瞞そして明白な事実誤認をしている米国人検察官をとらえた。東条は、キーナン主席検事すら不承々々の敬意を示すようになるほど、気概と要所を刺す機智を見せた。彼は、多くの強奪では官僚たちと共犯であったかも知れないが、疑いなく、彼は自尊心と知性あふれる人物であった。スケープゴートとして彼の愛国的受難が彼の家族には重すぎた時、彼は、第3章で述べたように、裕仁の許しなくして犯罪の命令は出せなかったと示唆して見せる、精神の自由すらも所有していた。東条は、裕仁が東条の家族の暮らし向きが上々であるように取り計らうとただちに、彼はその示唆を撤回して彼の苦難な任務に立ち返り、それを絞首台の上で成し遂げた。
東京裁判の28人の被告は不屈の家臣であったが、宮廷の侍従たちにとっては、幾夜もの眠れぬ夜をもたらす原因となった。ことに、外交官松岡や松井大将は、皇位に大きな恩義があると感じる理由はなかった。キリスト教信奉を告白した松岡は、運よく、審理が始まった時に結核で死んだ。また、半ば老衰してはっきり口のきけない松井大将は、その心からの忠誠に揺るぎを見せることは決してなかった。むしろ危険であったのは、縛りが効かず、原則を持たない知性人である大川周明――1920年代の宮廷の大学寮館長であり、南進論の地政学的弁明者であり、あまたの陰謀と暗殺事件の仲介者――であった。歴代の首相や陸軍司令官たちは、静かに死に向かうことは確実と思われていたが、請負人大川は、思惑の極をめぐらせて、言うべきこと以上のことを暴露してしまうかもしれなかった。
かくして、被告たちのうちで、嘆願を得る機会をつかみ取ったのは、大川ただ一人であった。アメリカとの共謀か、それともアメリカがまんまとだまされたのか、法廷からの脱出にあたっての彼の振舞いは、実に不可解ではあるものの、その特異な事実経過は明瞭に記録され、論争の余地はないものであった。1946年5月、極東国際軍事法廷の冒頭での論告状読上げのさ中、大川はうつろな笑いを浮かべ、シャツのボタンを外して胸をかき始め、法廷の傍聴者がくすくす笑う異様な注目を集め始めた。シャツが片方の肩から滑り落ちた時、ウェッブ主席判事は歩哨兵に、被告の身なりをきちんと保つよう被告席を見守るように命じた。大川は恐れ入って行儀よくすることを約束したが、数分後、再び衣服を脱ぎ始めた。彼の腕を押え、行儀を整えさせるため、一人の憲兵が彼の背後に配置された。大川は数時間は静かにしていたが、その憲兵が彼への警戒をゆるめたとたん、彼は自分への論告状を丸め、前に乗り出し、彼の前に座っている東条の剃った頭を音を上げてたたいた。そして法廷から引き出された彼は報道陣に言った。
(109)
東条は馬鹿者だ。私がデモクラシーで・・・、アメリカはデモクラシーではない・・・。アメリカはデモ
クレイジー
だ・・・。私は法律と医学の博士だ。私は70日間なにも食べていない。君らが見ているように、空気を食っている。・・・私は次の日本の天皇だ。・・・私は東条を殺す・・・。私は尊敬すべき彼の家族の名声を保つため、彼を殺す。
(110)
それが彼の法廷での最後の日だった。その後数週間、彼は東大病院において、彼が受けた明治天皇や英国のエドワード7世やウッドロー・ウィルソン大統領の公式訪問の話をして、日本人とアメリカの人の医師たちを煙に巻いた。彼は、預言者モハメッドと自分がコーランの日本語版を共同制作している時、ことのほか親しみをもって協力してくれた、とも話した。
日本人医師からの教示や日本の研究所の専門家の助けを得て、大川は、彼を診断する米国人医師に、第三期梅毒に冒されている、ないし 「梅毒性髄膜脳炎を伴う精神病」 との公式診断を出させることに成功した。これは回復不能の病状で、通常、狂人状態とやがての死亡を意味する症状であった。アメリカ人の医師は、主席検事のキーナンと相談の上、大川は 「正悪の判断がつかず」、 「彼に対する審理の意味を理解する能力」 を欠いている状態であると、法廷で証言することが許可された。そして大川は、療養と安静のため日本の精神療養所に入ることが命じられた。その療養所で彼は、戦犯裁判が終了するまでに、400ページの 「宗教への序説」 を書き上げた。そして裁判審理が完結した時、彼は死を待つために釈放された。だが彼はそうならず、すみやかに回復し、正気の本を何冊も出版し、彼の梅毒性精神病は詐病だったかと、友人たちをみなを納得させることとなった。彼は1957年12月、 卒中で71歳の生涯を閉じた。
(111)
東京裁判の結果
大川博士は、1930年代初め、この国を恐怖に震わせたあらゆる暗殺事件に関わった右翼凶漢と宮廷の間を取り持つ顔役であったことは広く知られていた。彼に示された誤った医学的温情は、戦犯裁判は法的正義のためより、政治と宣伝の道具であったとの日本世論の直観的受止めを裏付けるものとなった。日本社会の構成員にとって、それまでの二十年間、皇位に仕えた何百人もの下僕たちの内の28人だけが、日本の誤った選択に最も責任を負う下手人として選び出されたことは、いかにも不信をかもすものであった。それがゆえに国際軍事法廷は、アメリカ製民主主義の苦しい儀式の一例として―― 「デモクラシー」 が 「デモ苦しい」 などと語呂合わせされて――、日本人には受け止められたのであった。
(112)
そうではあったが、法廷審理が進展するに従って、外国を旅行したことなどのない日本人の多くは、外国での日本人が行った野蛮行為を示す証拠に驚愕させられることとなった。そしてやがて、連合国側の指摘する事実の苦々しい浅薄さや、連合国側の歴史解釈の不適切な政治的偏見、そして連合国側の法律の揺るぎようのない独善性といった 〔日本人の連合国側への〕 反目も、日本が行ってきた正気の恐怖沙汰によって相殺されるようになっていった。そしてともあれ、日本という国は、鬼のような病からの回復途上であり、日本と世界は、日本の敗北により、せめても、よい方に向かっているとの期待が広がっていった。
それまでの間に 「大東亜共栄圏」 に出向き、そしてそこで目撃体験したことにたじろいた将兵や外交官は、国民が国家的な罪意識を認識することを求めた。実際に、重光外相は、1945年9月2日のミズリー艦上の降伏調印式典でマッカーサーの話を聞いた後、宮中に報告した際、裕仁に面と向かってこう尋ねた。
「もし我々が勝利していた場合、これほどの雅量をもった勝利をなすことを、我々はしえたのでしょうか?」
(113)
裕仁は、そのきつい問い詰めに、溜息をついて、つぶやくように言った。 「当然に、異なっていただろう。」
裁判全体を通じ、神風精神は死に方のひとつで、米兵のチュウーインガム精神は生き方のひとつであるという事実の認識が、次第に日本人の意識に浸みわたっていった。裁判が終わりに近づいた1948年、一人の日本人記者が東京の街角で見出した日本人の共通意識について、こう報じた。 「もし日本が勝っていたら、我々は、奴隷労働を使って、ファラオのものよりもっと大きいビラミッドを作っていただろう。だがそうならず、アメリカのブルドーザーを使って、新しい工場を建てている。」
(114)
日本人が行った誤った行為に、個人としても集団としても、幾度も謝罪を表し、1948年の記者によって特徴付けられたような日本人はほぼ誰も、国際軍事法廷がその判決に託して、相互の理解と慈悲を表すものと期待するようになっていった。もっと早くの裁判開始の時点では、米軍部隊が忍耐と好意と陽気さによって有利な印象を獲得していた時、マッカーサーはすかさず、日本の公職にあるどの人物も、ほぼ疑うことなく戦犯の一人であり、すみやかに刑を執行せよと宣告していた。だがそれも1948年までには、裁判で明らかにされた豊富な歴史的諸所見は、過去、日本の新聞の読者が薄々知ってきたこと――被告席の東条やその同僚が戦争犯罪者のほんの一例でしかないことや、日本が悪業を働いた人々の憤慨した思いへの象徴的捧げ物としては、処罰のみがありうること――が、やはり確かなものだったのだとして再認識されることとなったのであった。
その結果、法廷審理が終了し、土肥原、広田、板垣、木村、松井、武藤、そして東条に絞首刑が判決された時、ほとんどすべての日本人は、 その判決を、 「ひどい」 と口にした。
(115)
死刑判決を受けたこれら7人は、巣鴨刑務所で最後の数ヶ月を過ごしながら、武士道の習慣に従い、切り取った髪の毛と爪を、面会に訪れた親族に与えた。これらの形見は、東条に刑が執行された時――1948年12月23日午前0時1分――には、すでに、各々の家族の仏壇に祀られ拝まれていた。彼と他の6遺体は火葬され、米国人の刑務所監督官によって、秘密裡に処分された。
火葬場を訪れることを要求していた一人の日本人弁護士は、松井大将の家族に、そこで掻き集めた灰を届け、それは死刑となった者たちの亡骸の一部だと語った。この弁護士が届けた灰が入れられた小箱は、慈悲の観音
〔第1章 「
慈悲の聖地
」 参照〕
の背後の松井〔の神社〕の土地に埋められた。この観音像は、揚子江の泥を混ぜて彫像されたもので、光まぶしい相模湾――裕仁の海洋生物学の探究の場――と熱海を見下ろす山腹にある鎮魂の神社境内に立っている。故人たちの全ての家族と何千人もの年配の日本人は、即座にその灰を本物と受入れ、戦争の過ちを繰り返さないと祈る者たちと共に、その神社への欠かさない参拝を始めた。
そうした参拝者にとって、その山腹の神社の霊魂は、受難者のものではなく、名誉の者のそれである。日本と天皇は、彼らに負うものがあると受止めている。彼らは、アメリカ人の善かれとする意図を満たすために死んだ。彼らの恨みは晴らされるべきではあるが、善意に報復を加えるのは可能でない。だが、彼らの近親者たちは、その黄泉の世界の戦犯たちに、神風精神の熱狂が忘れられ、武士道は滅び、そしてここ当面、日本は平身低頭して道化を演じなければならないのだと、告白しているのである。
天皇の番人たち
吉田茂――元和平派の指導者で被占領国日本の首相となった――は、自国民の窮状を 「日本人であることの喜劇的救い難さ」 と表現した
(116)
。この皮肉っぽい言い方で、彼は、その任期中、すべての日本人の政治活動は棚上げされ、すべての才覚は改革要求―― 「ポツダム化」 するために国会を通して国の法律とされるマッカーサーの司令部から毎日発行された 「総司令官指令」 ――を回避あるいは和らげることに捧げられている、と言おうとしたにすぎない。1947年から翌年への一年間の政権中断期間――良く組織された下層階級の社会党政権の期間で、マッカーサーを動転させたが、彼の計画の実施を阻止するまでにはならなかった――を除き、吉田は、1946年5月より1954年12月まで、この 「喜劇的救い難さ」 の任務を執行した。
誰もが抱く神風頼りの不満と生きることの罪の中で、日本人は、勝利の際にはそれを達せなかったが、敗北の中で、政治的に結集した。陸軍も、海軍も、文民官僚も、いかなる派閥も、互いの些細ないさかいをしようにも、もはやその跡形もなかった。誰もが、共に腹を空かせていた。そしてそうであるがゆえ、マッカーサーが耕したイデオロギー的肥料は充分ながら 〔左派政党は一定以上は成長せず〕、ひとつの中間政党のみが成長し、それが、吉田の自由民主党だった。そして同党は、かって近衛親王が彼の一味が支援し秘密警察が支持した大政翼賛会が達成させたものより、はるかに完璧な日本の一党支配体制を完成させた。しかし、「自由民主」 の名称は、多様な分派や仕組みを包含することができた。それは、戦前の立憲党であった政友会、そして、政友会の律儀な反対派で、進歩・帝国的、反立憲主義の民政党の両党派を飲み込んでいた。
吉田の党は、その穏健な表皮の下に、戦前日本を二分した北進派と南進派と同様な意見対立によって、いまだに根本的な欠陥をはらんでいた。もと武士階級の中での大勢は、近代化と集産化を日本の遺産への主要な脅威と固く信ずる個人主義者で伝統主義者であった。彼らは、北進的立場を維持し、西の海を渡ってやってくるロシアのイデオロギーを、日本にとっての最も破壊的害毒と見ていた。武士階級のその上の、専門性と軍事志向を欠く宮廷階級である貴族たちは、ペリー提督の東の国を主要な危険と見続けていた。彼らは、その国では人々が、家族関係よりむしろ金銭関係によって、宗教より賃金によって、領主への奉仕を通じて救いをえる機会より安楽をえるチャンスによって、それぞれに左右されているとしていた。労働者階級のもつ個人主義は、宮廷貴族にとっていまだに大敵で、むしろロシアの共産主義は、家族間の忠誠という日本の社会規範にとって、アメリカの新教徒主義のもつ反社会主義の影響より、より破壊性は弱いと見られ続けていた。
戦後期にあっては、戦前期のように、武士階級の子孫たちは、宮廷貴族の数をはるかに勝っていた。1954年、占領が終了し、朝鮮戦争が日本に経済的健康をもたらした時、政治的争いが自由民主党内部で発生した。そこで多数派は吉田を追放し、鳩山一郎とすげ替えた。鳩山は、荒木大将と西園寺親王の北進論の一味で、1931年から34年まで教育相として、近衛親王の天皇擁護の学究、天皇機関説論者の攻撃を率いていた。
1954年12月10日から1956年12月23日までの間、鳩山は、自分がかって批判した学者や言論人からの絶え間のない攻撃の中、内閣を三度にわたり解散と組閣を繰り返した。彼は支持層を持っていたが、政権を維持するまでのものではなかった。占領以降、歴史家が召喚された日記を引き出せないでいる時、鳩山の崩壊の過程は隠れたままだった。しかし、彼の退陣後、日本は再び、裕仁の自信を取り戻して、首相によって統治されるようになった。その最初は岸信介――元東条内閣の商務大臣――で、次が池田隼人――吉田および岸内閣の元大蔵大臣――、そして、その後が、岸の弟の佐藤栄作
# 11
だった。
# 11
岸は佐藤家に生まれたが、岸家に養子に出された。彼の父は、逆に、岸家に生まれたが、佐藤家の養子となった。
1957年以来、与党、自由民主党を統率してきた佐藤と岸は、ともに長州藩の漁業地域の出で、明治天皇の偉大な立憲主義首相、伊藤博文がそうであったような貧乏武士家系に属していた。伊藤の相続者として、彼らは明治に立ち返り、立憲主義への賛否、あるいは、南進、北進の派閥抗争の起こる以前の忠誠を命じた。そうした彼らの指導力のもとで、日本は、伊藤と立憲主義者の伝統的外交政策を追求し、平和的手段――経済的機会や文化振興、そしてさざ波にもならないほどの軍事力――のみによる海外進出を行ったのであった。
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