「両生空間」 もくじへ
 HPへ戻る
 前に戻る

 老いへの一歩》シリーズ


第11回   《愛》 という 「クロッシング」


 このシリーズで私は、日本には世界でもまれな超高齢化社会が出現しつつあり、その 《高齢大人口集団》 が何か大きな働きをするのではないか、との予感を述べました。
 そして、その働きとは、老若の世代が交差する 《クロッシング》 がひとつの動力源となるのではないかと述べ、前々回では、そうした交差のとっかかりを、 「おじいちゃん」 たちのナンパ (軟派) な意欲に注目し、また前回では、それを “硬派” な角度から、 「共闘」 といった社会的視野で見てきました。
 今回では、そうした軟派と硬派との二派をこれまた 《クロッシング》 ――英語の crossing には 「交配、かけ合わす」 という意味がある――させ、さらに、私たちにとってエネルギー源でもあり潤滑油でもある 《愛》 について、広範囲な活性化を述べてみたいと思います。

 私はクリスチャンではありませんし、おおよそ信仰とは縁の遠い類の人間ですが、キリストの教えにある「愛」 という言葉には、ずっと昔から関心を抱かされてきました。それはことに、人類愛とか隣人愛とかといった、日常、私たちが 「愛」 という場合の身近で “ちっぽけ” な愛に対置される、非常に大きな愛が語られているからでした。
 つまり、ひとくちに 「愛」 といっても、それには、狭い愛から広い愛、あるいは、エゴイスティックな愛から無私な愛という風に、非常に幅の広い、ひとつのスペクトルがあるように思われ、まず、その広範なスペクトル状の愛を、ここでは 《愛》 と特に書き表したいと思います。
 またこういう 《愛》 には、第6回に述べたエロスからタナトスという、人生ステージの変化に伴う “やさしさのスペクトル” 上での変化も含み、人と人同士の、広さでも深さでも質のうえでも、実に多彩で深い在り様を暗示しています。
 そういうことから、 《高齢大人口集団》 が果たすであろう働きを、ことにこの 《愛》 をめぐって展望してみるのも、意味あることではないかと思うのです。そして、その 《愛》 を具体的に導き出す手がかりの一歩は、「クロッシング」 にあるのではないかと。
 それにそもそも、相手のない 《愛》 なんて無意味です。オナニーですら誰かや何かの想像は不可欠です。つまり、 《愛》 と 「クロッシング」 は、同義語であり、一対語です。

 じつは、「クロッシング」 というテーマは、何も新しいものでもなんでもなく、ことに日本では、昔から伝統的に追及されてきている “古典的” 課題でもあります。
 文学の世界をのぞいてみますと、高齢者が自らの年齢の壁を 「クロス」 した恋愛は、いつの時代でも、けっこうポピュラーな創作の主題です。また、単に作品というフィクションにとどまらず、作家たちは自分の現実生活の上でもそのテーマを実行に移し、作品が先なのか、現実が先なのか、融け合って区別のつかない世界を生きたりもしています。
 そしてそういうテーマが、ことに、死を間際にした 「老人の性欲」 といったジャンルにおいては、まるでひとつの独立したテーマとなっているかの感があり、前々回の 「迷子のおじいちゃん」 のエピソードにも見られたように、老人男性と若い女性との間のクロッシングは、生と死の究極のジレンマにも通じていて、実に人間的であり、それだけに “芸術的” でもある、独自分野であり続けています(むろん男性だけではないでしょう)。決してけっして、ボケ症状の表れなどとぞんざいには扱えない、深遠な世界がそこには介在しているのです。
 実は私も、そういうファンタジーの世界に魅された者のひとりで、三年ほど前に、 「メタ・ファミリー+クロス交換/偶然」 といったちょっと面倒なタイトルの小説を、このサイトに連載しました。この作品は、 「熟年」 男と、娘ほども歳の離れた女性との、情のやり取りを描いたもので、その題名のように、擬制家族やクロッシングをテーマとしたものです。
 この創作への動機について今から思えば、ここでいう 《愛》 ――かそれに近いものに――ついて、まずはその出発点として、そのファンタジー化をこころみていたものとも言え、この 「 《老いへの一歩》 シリーズ」 の原点として、振り返ることのできるものです。
 そして、これはジョークですが、一昨年の6月の、加藤茶の 「年の差婚」 も、そのタイミングから言って、この小説を読んだからかもしれません。

 また、歴史をふりかえってみますと、まず、過去の男至上社会の享楽の追及において、妾や娼婦制度がそのあくなき追い求めの土台にあって、ことに権力者や富裕町人の日常文化に――他方の貧困層の存在を背景に――、絢爛たる華をそえていました。それをここにいう 「クロッシング」 のテーマの実例として取り上げるには、一抹なはばかりはあります。しかし、明治維新後、大きく西洋化に振れて忘却されてしまった、日本文化のある色彩がそこに感じられるのは確かです。
 ちなみに、江戸後期の町人生活の日常の一角を描いた春画の世界は、世界的な注目を集める浮世絵の一種に定められ、爛熟した性の文化の象徴として、受け止められてきています。そして、開国当時はいわずもがな、1945年の連合軍による占領開始時でも、むろん今日においてはいっそう、日本のユニークな美の感覚を、広く西洋社会へアピールするものともなっています。そこには、今日でいう性の氾濫とはまた異なる、性のそういうおおらかさが花咲いていた、ある意味できわめて現実的なカルチャーが確認できます。
 さらに、これは実に洗練された 「クロッシング」 な伝統だと注目されることが、非通俗的な仏僧の世界にあっても、それが追及されていたことです。すなわち、良寛や一休といった江戸や室町時代の際立った和尚たちが、修行と歌人の道の果てにたどりついた極致としての性愛があります。つまり、良寛も一休も、禅僧として、生涯、女人を断ってきたのですが、老境にいたって、良寛は若い尼僧と、一休は盲目の女性と、それぞれに交わって晩年を送りました。それは人間性のもっとも研ぎ澄まされた精神の頂点にあって、 「クロッシング」 のテーマがそのように追及され実行されていた実像かとも解釈されます。前々回に取り上げた歌人の 「老いらくの恋」 も、現代におけるこうした伝統の表れとも見ることができましょう。

 すでに社会の前線から退き、リタイア生活を始めた人たちへのアドバイスとして、地域社会へのかかわり、ことに、ボランティア活動への参加の奨励があります。
 先にも述べたように、私も、微々たるものながら、ボランティア活動の経験はあるのですが、もし、ここでいう 《高齢大人口集団》 のうちのいく割かの人たちが、ボランティア活動に取り組み始めたとすると、それは、奇特な美談や篤志の表れどころか、社会での一定の有効性を形成する、立派な “社会的パワー” になるものと期待できます。
 それは、ボランティア活動という、 “無償労働力” が一定の量をなすことにより、従来は “採算上” の問題によって沈没せざるをえなかった様々な事業が、水面上に浮かび上がってくることを可能とさせるからです。ことに、社会の様々な片隅で、それこそ、かゆいところに手の届くようなサービス事業は、通常の経済 の原則が働けば、おおよそ実現不可能となってきています。そういうある意味での常識の基盤が、こうしたボランティア活動の出現によって、決してなくなりはしませんが、揺らぎはじめるであろうという見通しです。
 また、今日のような商品経済が行き渡る以前の社会では、そうした原則はまだ未君臨で、無償で交換される、今でいういろいろな 「社会的サービス」 が生きていました。村や町内の伝統社会がになっていた、村/町民の間の “縁” や “組” です。
 そういう、等身大サイズの、肌身で触れ合う相互のやり取りが、そのボランティア活動の実効化によって、採算問題に過度に君臨されることなく、再度、社会に復活してくることが可能になると私は踏んでいるのです。
 そうすれば、そうした肌理の細かい温暖な配慮が、社会の隅々で再生でき、とかく殺伐となりがちの現代商品化社会に、それなりの潤滑油や風通しとなる効果が出てくるのではないか、と期待するのです。
 私は、自分の還暦後の寿司修行への参加経験を通じ、高齢者が実社会との関係を断たずに維持することが、その人の尊厳を存続するために、実に重要な手段となることを実感しました。それは、自分がまだ社会の役に立っているとの受け身な満足以上に、そういう生の働く現場で、違う年齢層の同僚たちと接し合うことで、最初は問題の種とはなるのですが、やがて、互いの違いを理解し、かつ、尊重し合う発展が生まれて、それまでの自分やその職場にはありえなかった、もう一つ深まった次元での、チームワークというものが実感しえるのです。そしてそれが、その店なり、その組織なりの、顧客へのサービス提供の質の向上をもたらすのは言うまでもありません。
 これこそまさに、 「クロッシング」 の社会的効果の実例です。そして 「クロッシング」 をこのように職場や社会の観点からとらえれば、それは、冒頭にあげた、キリストの隣人愛や人類愛とも並び称せる、より大きい次元への接近や発展とも解釈できます。
 そしてまた、日本には、隣人愛や人類愛といった “外来語” を意識しなくても、 「おもいやり」 とか、それこそ、3・11大震災が私たちに教えてくれた、 「きずな」 があります(「自然災害」という人間啓発 参照)。

 この原稿を書いているちょうどその時、日本経済新聞電子版に、 「会社辞めてソーシャルビジネスへ 若者たちの思い」 (6月18日付け)との記事が掲載されました。そしてその記事はこう書いています。 「転機は東日本大震災。震災当日、人の流れに身を任せて職場から自宅まで歩きながら、改めて仕事や生活を振り返った」。 「 『社会貢献を仕事にする』 のはモデルとなる人も少ない険しい道。そこにあえて飛び込む若者たちの生き方は、働くことの価値観が揺れる時代を映しているのかもしれない。」
 こうした記事に限らず、すでに若い世代の側では、過去には見られなかった、新たな流れが確かに始まっている、と私は見ます。そして、そういう若い彼ら彼女らに不可避にのしかかる問題が、いくらNPO法人として活動しているとはいえ、お金の問題です。そこで、社会の反対側の 《高齢大人口集団》 から、そのほんの一部でも、ボランティアなり、時間や賃金面で “半” ボランティアなりという 《贈与》 が増えて行けば、そういう新たな流れの支援となりえるのは確かでしょう。
 そして、こういう 《クロッシング効果》 が、社会のいろんな箇所で見られるようになれば、従来の採算原則や規模の経済の原則で切り刻まれ、しいたげられてきた “よこせし” 世界とは、一味もふた味も違う社会が生まれてゆくのは間違いないでしょう。むろん、それが現行のGNPに数字上でどれだけ貢献するかはもはや気にする必要はなく、ブータンの国民幸福指数ではありませんが、むしろ、GNPに代わる指標が尊重されるようになってゆくでしょう。
 あらためて言うまでもなく、 《高齢大人口集団》 を形成する人たちとは、何らかの形での年金受給の恩恵により、それだけ、生活上の金銭的プレッシャーが和らげられた人たちのことです。つまり、その和らげられた分だけ、何かの働きをしたいとの意思をもつ限り、社会のこうした 《クロッシング効果》 をもたらす一員になってゆけるということです。
 むろん、 《高齢大人口集団》 を形成するのは、いわゆる 「悠々自適」 できるモデル的リタイア層はそのほんの一部 (我「団塊」でなし 参照) で、年金に頼り切れないそれ以外の大半の人たちは、それだけ働き続ける理由に切実なものがあります。ということは、ある意味で、社会との関連が切っても切れないという動機をいやでも持っているということです。もちろん、その切実さの程度や、考え様次第ではありますが、私は、その理由はどうであれ、働く意志を持ち続けることは、人間が人間であるうえで、実に重要な要素であると考えます。

 最後に、ここに述べられた世界には、一つの明らかな前提があります。それは、心身ともの健康です。自分の健康ぬきにしては、ボランティアの実践も、働く意志の実現も、はてまた、 “おじいちゃん” や “おばあちゃん” のナンパなこころみも、それらの一切がふっとんでしまいます。いかに健康が、あらゆるものの原点にあるかが、あらためて肝に命じられます (《健康》 という 「年金」 参照 ) 。
 お金で、治療や薬は買えても、健康そのものは買えません。また真の健康とは、周囲から孤立してひそかに保たれるものではなく、社会や自然とオープンに交わり合うことにより花咲く性格のものです。すなわち、そういう大切な健康を維持しておくためにも、ここに述べてきた 《クロッシング》 がその方法として、きわめて有効だと思われるのです。
 そうです、 《愛》、 《クロッシング》、 そして 《健康》 という、 「人徳循環」 です。

 (2013年6月20日)
 
 「両生空間」 もくじへ 
 HPへ戻る
          Copyright(C)、2013, Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします