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第三部


若い皇帝





第六章
裕仁の少年時代(1900-1912)
(その1)



未熟児

 東京青山の壁で囲まれた御所内部の庭園では、桜の花――その開花の真っ盛りの頂点で散るところから、日本人が武士にたとえる花――が枝から離れ、地面の上に散り始めていた。毎朝、お付きの女たちに囲まれて、節子〔さだこ〕との名の15歳の王女が、月見の池の周りの丹念に手入れされ節くれだった松の間を通り、太鼓橋を渡って、色あせた桃色の花びらの絨毯の上を散歩していた。彼女は、将来の子だくさんの母親となるために、宮廷付きの医師によって見立てられた養生法にならい、それまでの人生の大半を農場で過ごし、おかげで健康に育ってきていた。今、彼女は妊娠の最後の段階にあり、その色白の肌の色や透明さに際立ったものをもたらし、その美しさを高めていた。彼女の筋の通った鼻、長い首、そしてそのなだらかななで肩は、彼女の藤原家――80人以上の天皇にはべってきた娘たちを出した伝統をもつ家系――の血統を表していた。(1)
 節子は、自分の子を宿しながら、藤原家の祖先には未踏であった領域に挑戦しようとしていた。1758年の後桃園天皇の誕生以来、すべての天皇は、正妻の子息ではなく、側室の生んだ男子が継いできていた(2)。明治天皇は、礼節に関する西洋の基準を満たすために新たな皇室典範を公布し、正妻のみが皇位を継ぐ子を生みうるものと規定した。明治天皇と最も内情に通じた二人の式武官
# 1は、その新しい法規を解釈するにあたって、それは、正統な後継者を生んだ者のみが皇后になる意味だとした。庭を散歩している節子の将来は、従って、いま産もうとしている子の性別にかかっていた。彼女は、将来、大正天皇となる嘉仁〔よしひと〕皇太子と婚約していた(3)。そしてもし彼女が彼に男の子をさずければ、彼女は彼と結婚しえた。だがもしそれが女の子だったら、明治天皇は彼女に第二のチャンスを与えるかもしれなかったが、それは、親王の他の側室の誰も、初の男の子を生まなかった場合のみに限られていた。
 やがて、散った桜の花びらが褐色に変じるころのある朝、節子女王の呼吸が早まり、陣痛のために予想より数週間早く、彼女のために用意された病棟で床についた。その夜、10時10分、しわくちゃで未熟児の裕仁が産声をあげた。信頼されている侍従がその赤子が男の子であることを見定め、皇居にその誕生を知らせようと、馬に鞭を食らわせ、馬車を東京中心街を横切って走らせた。明治天皇は、ポートワインのグラスと短歌をしたためていた筆をテーブルに置き、彼の寝室に控える侍従の皆にシャンペンを命じた。
 節子王女は、11日後の1900年5月10日、嘉仁皇太子と正式に結婚した。その結婚式は、その日の朝8時に、小規模な家内行事として皇居内宮の神社で行われた。東京駐在の西洋諸国の大使は、その日の午後、外宮儀式殿の準公開式場で、その結婚のお祝いが受付けられた。だが、裕仁の存在そのものは、1901年4月29日の最初の誕生日の知らせまで、ほとんど一年間、内密におかれていた。東洋の年齢の数え方では、新生児は誕生の瞬間で一歳となる。西洋式では一年後に一歳ということで、裕仁が1901年に一歳であったとしても、宮内省が必ずしも嘘を言ったということではなくなる。かくして、西洋と東洋の慣習が合致し、名誉に傷がつくこともなかった# 2
 秘密の内に生まれた裕仁は、その子供時代を通し、人目につかない日々を送った。1912年まで、彼は、その明白な継承は宣言されず、皇位継承権は弟とともに共有されていた。最初の一年、彼は青山御所に母親とともに隠れたままであった。さらに、昔からの習慣によって、跡継ぎを赤痢や宮廷内の流行病から守る方法として、彼は養育先に出された。節子女王は、赤坂御所において、皇太子の陽気で西洋化された英国風の生活に奥ゆかし気に戻ったものの、紫のおくるみに包まれた裕仁は、四頭立ての馬車で連れてゆかれてしまった。それは、典型的な東京の蒸し暑い夏の日だった。馬車は、皇居西側の西洋の大使館街にそって進み、さらに、徳川家や藤原家や親王たちの屋敷の続く、東京の最高級な住宅街を南に下った。そして、出発してからおよそ1.5マイル〔2.4km〕走って、麻布の川村純義〔すみよし〕副提督の家に到着した。
 川村は薩摩藩出身で、島津家の家臣だった。彼は、英国より十人の士官を招へいし、日本の黎明期の海軍兵士を訓練したその責任者だった。今、彼は65歳の長老となり、その古風で質素な生活で名を馳せていた。彼の清楚な住宅は、古い純粋な日本のものを全て――素肌の杉板、植えられた糸杉、桐そして松、庭に向かって開かれる障子、足袋で上がる畳の床、炭の火鉢と小さな枕、就寝時に敷く布団、木の桶の熱い湯船、掛け軸の下がった祈りや瞑想ための床の間――を表していた。
 その裕仁の養育先の家は、著しい変化の海に浮かぶ、伝統精神と上品さの島のようであった。そのこじんまりした屋敷の塀の外は、小さな板張りの家屋が、南と西の方角に見渡す限りに続いていた。今は東京と呼ばれる古代の砦の町、江戸は、世界で最も大きな都市のひとつに成長していた。日没後、月が人影の少ない真直ぐで警備のきいた往来の上にかかっていたそうした場所――芸妓のかかげる提灯のほのかな明かりとか、武士のたいまつの威張った明るさとかによって、いろ取りどりに照らし出されていた――は、今では、無数の入り組んだ路地の上に電信線が張り巡らされ、ガス灯が照らし出す雑踏と化していた。そこはあたかも、サメの泳ぐ海だった。もはや人々は、ぱりっとした制服を着込んだ太っちょの政府の役人にも、売春宿主ややくざや長屋の家主にも、馴染みなどを感じられなくなっていた。(5)
 裕仁の養父の眼には、2マイル
〔3.2km〕北東の、240エーカー〔約1kmの広さを誇る皇居すら、近代的な欠陥を持ち始めていた。幾つかの厳めしい城壁や堀が、取り払われたり、埋め戻されたり、橋が架けられたりして、軍事的にも使い物にはならなくなっていた。1889年に完成した新しい儀式殿は、玉室、謁見室、饗宴広間を持っていたが、すべてヨーロッパ調の豪華さに基づいて設計されていた# 3。張り出した軒や切り妻の重なり合う輝く緑青銅の屋根は、緑と青の花模様に塗装されていた。スチーム暖房の屋内では、格子天井に鳥や獣や風景を描いて複雑に刻まれた金色のパネルがはめ込まれていた。杉とオレンジ材の床には、畳でなく豪華な絨毯が敷かれ、中国製櫃、ビクトリア調の戸棚、そしてエンパイア・ソファが置かれていた。各部屋は極めて精巧な建具細工がほどこされた引き戸で区切られていたが、そのうちの紙張り部分は、今や象牙と金の浮き彫り模様の皮紙が使われていた。それらの芸術の技巧は独自のものであったが、日本の感性に肥えた眼には、くどさがちりばめられてるように見えた。さらには、そうした西洋の家具類は、床にひれ伏して儀礼を捧げるには、少々、空間をとり過ぎているようだった。
 口と顎に髭を生やし、深く輝く目をもった明治天皇は、重要な外交上の機会ごとに、そうした部屋いっぱいの豪華さの中で、洋式の制服や礼服を着けてあらわれ、強い印象を与えた。しかし、寡頭政治家や皇室メンバーに対しては、彼は畳を敷いた日本式の部屋を持ち、そこに京都の旧宮廷の礼服か、ゆったりした白絹の普段着姿で会議をつかさどった。1945年5月26日にその宮殿が焼け落ちた時、王子や王女や宮廷の上位の侍従以外、だれもそうした部屋を見たことがなかった、と語られた。そうした部屋で、明治天皇は何千編もの古典的な日本の詩を書き、何千杯ものフランス赤ワインを飲んだ。その名前が宮廷広報に掲載されていた十数人の宮廷女性は、ある夜のため、彼が選んだ女性の前に絹のハンカチーフを落とし、それを拾い上げて彼を待っている特命があった。彼はよく、無気力にさせる洋風の習慣を非難したが、彼はつねに、隙間風のある部屋の床に敷かれた布団ではなく、温めた部屋の洋式のベッドの上で就寝したことは注目される。
 後の大正天皇は、自分の赤坂離宮で、西洋式の服装、建築、そして哲学的考えに、その父親よりいっそう冒されていた。彼はプロシア式軍服を身に着け、パリジャン言葉で文章を飾り、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世風の髭をたくわえ、伏見宮家の従兄たち――彼には果たせなかった外国行きの機会があり、コロシアムやバッキンガム宮殿やフォリーベルジェール
〔パリのミュージックホール〕の魅力を学んできていた――と好んで親身になっていた。モネやマネそしてデガの原画を、自分の仕事部屋や寝室の壁に飾っていた。彼の晩餐のテーブルには、鶴をかたどった大きな枝付燭台が置かれ、フランス人シェフの手になる豪華料理を照らし出していた。1904年、彼は彼の赤坂離宮に、淡いバラ色の錦で飾った椅子やソファを備えて、ベルサイユのミニチュアのように建て直すよう、パリで学んできた建築家に依頼した。明治天皇はその計画をひと目見て、「嘉仁〔よしひと〕のフランス御殿」には絶対に足を踏み入れたくない、と誓ったという。
 裕仁は、父親の西洋化への憧憬や、楽観的な祖父のその西洋化への享楽とあざけりの混合の一方、自分の幼児時代までを、川村海軍副提督の家庭で、純粋な日本精神にひたって育てられた。彼は、祖父から足の運動神経の軽い障害を引き継ぎ、不敬な日本語ながら 「皇族ずり足」 と呼ばれる特異な歩き方を得たため、歩き始めるのも遅かった。その障害が彼に劣等意識を形成させてはいけないと、川村海軍副提督は、ほぼ二歳になるまで、彼が他の子供たちと親しくなるのを遠ざけた。そして、段々と、遊び仲間が彼の世界に呼び入れられ、最初は、伏見宮家の四人のよちよち歩きの親王たちで、次が、1902年6月生まれの弟、秩父宮親王だった。こうした作られた年長の地位により、裕仁は三歳になるまでにリーダーシップを身につけることを学んだ。彼や仲間が障子に穴を開けた時は――その日本式紙張りの引き戸に子供たちはよく穴をあけた――、裕仁はいつでも落ち着き、そして勇敢にその悪事の全責任を取った。彼とその友達は早々と、彼は叱られないが、他は、彼をそうさせることが厳しく叱責される悪いことと覚った。彼自身は、不思議にも叱られない経験から、友達を守ることを学び、その見返りに、彼らから尊重されることも知った。
 四歳になろうとする時、その養父の死により、裕仁は心理的な孤児となり、彼の生まれた半西洋化された宮廷の世界に連れ戻された。彼は、父と母に近い、青山・赤坂御所の小さな、ことに皇室の孫の住居と呼ばれる日本式の家に入れられた。そこでは、彼は主に、位をもった侍従の手で面倒をみられた。彼は、母親と週に一、二度、父親には月にその程度会い、祖父には三ヶ月に一度程度で頭をなぜられた。ワインとともにもたらされる父性愛との出会いの中で、彼の父親の嘉仁皇太子は、時に夜、彼を赤坂御所へと連れてゆき、大浮かれのお節介やきたちに迎えられた。ある時は、彼らがその幼い少年のためにたくさんの酒を用意しており、彼を酔っぱらわせ、具合を悪くさせ、以来、彼を生涯の禁酒主義者にさせた(6)
 裕仁の新たな家族の役を負った宮廷侍従は木戸孝正
〔たかまさ〕で、彼は、1862年に孝明天皇に仕えて死んだ武士〔来原良蔵〕の息子だった。孝正は明治天皇のもっとも人望のある寡頭政治家〔木戸孝允〕の養子となり、アメリカに留学した。そこで10年間生活し、鉱山技術を学び、またペリー提督の国に対する彼の自然な偏見を育てた。帰国後数年して、木戸孝正は、言われるところの、ある親王の息子を養子に迎えた。これが木戸幸一で、彼は裕仁の最も信頼される相談役となり、1945年には、巣鴨刑務所に収容された戦争犯罪人の中で、裕仁の代理人となる(7)
 裕仁が年長の木戸の庇護のもとに入った時、木戸幸一は15歳だった。そのしかめ面の若者はその堂々とした少年の兄貴としての役を演じ、後に裕仁の秘密結社の核となる何人かの十代後半の大兄たちを紹介した。こうした駆けだしの貴族たちはみな、1887年から1891年の間の生まれで、学習院で学んでいた。1937年の南京強奪の朝香親王は16歳、彼と腹違いの兄弟でほとんど双子なのが、1945年首相となった東久邇親王、もう一人の16歳の伯父が北白川親王で、彼は1923年諜報活動のさなかにフランスで死んだ。この北白川の腹違い兄弟が15歳の小松輝久侯爵で、彼は真珠湾攻撃の海軍参謀を統率する。そして、こうした大兄のなかで12歳の子分格ながら、早熟で感受性高く腕白だったのが、藤原家系の近衛文麿で、彼は1937年、首相として日本を戦争に招いてゆく。(8)

 典型的若き貴族として、こうした大兄たちは裕仁の兵卒となり、彼にいくさ話を伝えてゆく。彼らは常に、アジアを西洋の拘束から解き放つ日本の使命を語った。彼らは、文麿の父、近衛篤麿
〔あつまろ〕が結成した東亜同文会――日本と中国の双方で開始された運動組織――に属していた。この組織で、大兄たちは知りあい、アジアらしいアジアや、そのアジアを日本のために操る危険な冒険を信奉する理想主義者の雑多な集まりの後援をするようになっていった。そのうち何人かは、黒龍会の全てを失った元サムライたちで、中国人を、白人の奴隷、麻薬輸入業者、あるいは互いに首を絞め合っている人々と見ていた。他は、僧衣に身を隠した無骨な隠密たちで、裕仁の母方の寺院である本願寺の高僧とつながっていた。この寺院は、1900年にはタイを訪れブッダの灰を持ちかえり、1902年には、中央アジアのサマルカンド砂漠へ、「古代仏教文化の遺跡を探る」探検隊を派遣していた。残る者は、日本人以外のアジア主義者で、本国での災いを逃れて東京に来た政治難民――そのうちの最も著名な者は、後に中国のジョージ・ワシントンとして知られるようになる革命家、孫文――の面倒を見ていた。
 孫文は、南中国の満州皇帝に対する蜂起を指導し、それが失敗して、中国の官憲から逃れて来日していた。彼は日本で、近衛宮親王や黒龍会の頭山によって保護されていた。1905年、東京の黒龍会の本部で、孫文は中国の革命政党――後の国民党――の海外逃亡者たちと会った。若い蒋介石――後に台湾の国民党を率いることとなる――は1907年、日本の陸軍士官学校の大学院生として東京に来た際、この党に加盟した。(9)


巨人を倒す(10)

 1904年と1905年、東亜同文会の裕仁の大兄たちは、ひとつの熱望を抱いていた。それは、彼らを汎アジア主義的に興奮させるもので、ロシアとの戦争という差し迫った見通しを持っていた。1894年から1895年の日清戦争の際、明治天皇は満州のドラゴン皇帝を負かした。今、宮廷では、彼がモスクワ大公国の皇帝を打倒する準備をしているというのが共通した認識だった。
 新たな戦争の計画は、1900年の裕仁の誕生以前から始っていた。その当時、日本に西洋式諸法律の成文化を成し遂げた二人の寡頭政治家、西園寺公望と伊藤博文は、ロシアとの交渉による合意を求めて、日本による朝鮮の支配に反対しない代わりに、北満州のロシアの優越権を認めようとしていた。陸軍総司令官の山縣は、アムール川までのすべての満州は、日本の安全保障より優先して征服されねばならないと主張した# 4。明治天皇と存命している孝明天皇の相談役朝彦親王は、それを聞き流し、日本の最終的な目的に何らかの制限を付けることに反対していた。山縣は、日清戦争の後の1896年にフランスとドイツが行ったような日本への干渉がないならば、日本はロシアに対する勝算ある機会を作り出せることを保障した。明治天皇はそこで、フランスとドイツを中立化させ、ロシアと一対一で戦うことを日本に可能とさせる、英国との同盟関係を探ることを決定した。
 天皇を戦争に向かわせることから避けるための動きのひとつとして、西洋化した寡頭政治家である伊藤博文は、1900年の秋、日本で初の本格的な政党である立憲政友会を設立して、国民の声をまとめようとした。それ以前にも政党はあったが、1882年以降、それら14以上が消滅したが、伊藤は、国民の過半数の委託をうけるにたる、持続する組織を作るための多数の支持をとりつけていた。その後の35年間、その党は、安定して全投票の45から60パーセントを確保した。そうではあったが、同党は、それが掲げる憲法そのものに、天皇の権力の優越性――ことにすべての官僚を任命する力――が規定されていたため、そのたたかいは空しいものに終わった。国会での軍事予算の拡大に抵抗することによって、伊藤は、彼の党が日本の平和を維持できる、と夢見ていたのであった。
 1901年の夏、明治天皇は外交官による代表をロンドンに派遣し、必要とする英国との条約の交渉に入った。寡頭政治家伊藤は、享楽家の子分西園寺に有利となるよう、いったん首相の座を辞任し、ロシアとの直接交渉という構想を国民に売り込むことに、自らのエネルギーのすべてを注ぎ込んだ。その運動の初期、伊藤は黒龍会の頭山の訪問を受けた。耳が少々遠くなり始めていた61歳の伊藤は、首をよじり、頭を傾け、そして、頭山の話が何も聞き取れないと詫びた。
 「よく聞こえるように、近くに寄りましょう」と頭山が言った。
 伊藤は、パイプをくゆらしながら、「すでに十分に近いが」と、無頓着さと老いぼれにかまけて、その静かな脅迫を拒絶した。(11)
 その数日のち、伊藤は明治天皇に、アメリカのエール大学の名誉法律学位を受けるため休暇を取りたいと許可を求めた。天皇は伊藤が留守になることを大いに歓迎し、伊藤はただちに、サンフランシスコ行きの船に乗った。そして、ルーズベルト大統領との短い会見の後、彼は旅行日程を変更し、そのままヨーロッパ向けの便に乗船した。パリとベルリンを経て、彼はセントペテルスベルグへと急行した。ニコライ皇帝は、その私的な訪問にも盛大な晩餐をもって彼を歓迎した。だが、皇帝の大臣たちはさほど歓待の様子はなく、伊藤が望む外交的な譲歩をまったく与えようとしなかった。
 セントペテルスベルグでの伊藤の努力は、他方、ロンドンでの日英間の協定の草稿作りを急がせた。英国にとって、日本とロシアが同盟を組んで、上海や香港に北から進出してくることは許容できることではなかった。伊藤はモスクワから東京に、自分の空しい結果を打電した。1901年12月9日、日本の内閣は、英国との措置を満足しうるもと決定した。明治天皇は、枢密院と協議ののち、その受諾をロンドンに向け打電し、伊藤は自分の敗北を率直に受け入れることにした。彼は急きょ英国に渡り、その交渉団に祝福を与えた。日英間のこの歴史的な条約は、1902年1月30日、正式に調印された。
 日本は、〔ロシアという〕西洋の一国に対して一撃を加える前に、明治天皇の命により、もうひとつの準備を整えていた。英国は、同条約によって、日本に敵対する同盟関係にあるいかなる第三国にも攻撃を加える立場にあった。しかし、ロシアは単独でも日本を攻撃する強い可能性があった。そこで明治天皇は、ワシントンの大使を通じて、セオドア・ルーズベルト大統領に働きかけ、ロシアによる日本の占領やその滅亡を防ぐために、そうした事態においては、アメリカ合衆国があらゆる手段をとる、との口頭の保障を得た。
 日本は、そのように周囲を固め、戦争への準備を完了したところで、モスクワの日本の公使は、満州のロシアの鉄道路線とその終点地からロシア軍を撤収するよう、交戦を前提に要求した。皇帝はすでに数年前より、時がくれば彼の軍団を引き上げる積りではあったが、しかし今や、彼の意志は輻輳しており、ことに、日本を脅威の相手としては大きく過小評価していた。英国の首脳も同様で、彼らのその新たな同盟国の真価を疑い、日本がその戦争に勝てるほどに強いとは誰も判断していなかった。
 あらゆる警告を無視して、1904年2月6日、日本政府は、ロシアとの国交を断絶した。36時間後、薩摩藩出者で構成され、英国で訓練を受けた将官に指揮されて、その緊迫した若き日本海軍は、深夜、ロシアのアジア艦隊に静かに接近し、魚雷艇による奇襲攻撃によってそれを大破、四散させた。沈没を免れた艦船は、南満州の租借地、遼東半島先端のポートアーサー(旅順)に逃げ込んだ。そこでそれらの艦船は、港の外側で一斉攻撃態勢で待機する日本の艦隊によって動きがとれなくなった。
 この海戦の二日後の2月10日、明治天皇は宣戦を布告した。10年前の日清戦争の際と同じように、彼は東京から広島に移り、自らその大本営を統括した。この交戦は戦略的にふたつの緊迫した情況をもたらしていた。ひとつは、旅順の要塞は、ロシアのステッセル将軍率いる当時最新のプロシア式軍備で防備されており、日本の遠征軍による陸上からの攻撃にも、頑強に耐えているものであった。第二は、ロシアのバルチック艦隊が、日本の魚雷艇攻撃での大敗に復讐するため、世界をぐるっと廻って当地へと向かっていた。その到着までに旅順を手に入れない限り、日本は、ロシアの生き残りのアジア艦隊を残したままバルチック艦隊を迎えねばならず、背後からの挟み撃ちになりかねなかった。
 英国は日本を助け、バルチック艦隊のスエズ運河通行を拒否し、スウェーデンとデンマークの間のカテガット海峡から、アフリカをぐるっと遠回りする海路を取らせた。しかもその航海上、フランスによって支配されている点在する港でのみ石炭補給ができただけであったため、その航海はさらに遅れた。それでも、日々刻々航海は進んでおり、他方、旅順は攻落しなかった。バルチック艦隊がインド洋に入った時、旅順の陸上からの攻撃の指揮をとる乃木希典
〔のぎまれすけ〕陸軍大将は、広島の明治天皇から、犠牲を顧みず早急に要塞を攻略せよ、との直々の命令を受け取った。日本軍は、猛烈な砲火と動きのとれない地雷原の中を、繰り返しくりかえし攻撃に出た。その要塞前面の無人地帯は、救助されることもなく放置された負傷者がのたうちまわっていた。死体からの悪臭は余りにひどく空気中に漂い、塁壁内で防御するロシア兵は、樟脳をしみこませたハンカチで口や鼻を覆っていた。
 広島の明治天皇を補佐する陸軍総司令官山縣有朋の密使は、11年後に6500万ドル
〔234億円〕の支払いを約束する山縣の署名のある文書でもって、ステッセルの3人の部下を買収しようとした。この膨大な金額のために、彼らは日本の接触者に、ロシア側の地雷原の地図を提供したと言われている。その地図が旅順を攻める乃木大将にとどいたのかどうか、あるいは、それが要塞を攻め落とすために役立ったのかどうかは疑問である。しかし、事実は、1904年12月6日、戦争が始まって9カ月が過ぎ、バルチック艦隊がシナ海に入ろうとしている時、乃木大将は旅順郊外の203高地への第三次の総攻撃をかけた。それまでの攻撃で、彼は自分の息子を目の前の戦場でなぎ倒されていた。その今、彼はその高地の頂に日章旗がひるがえるのを目撃し、旅順攻略の戦いの勝敗がついたことを確かめていた。そしてその司令官は、港への掃射地点の確保と、稜線から旅順要塞への容易な到達を命じた。かくして、稜線からの日本陸軍による猛砲撃と、港外で待機していた日本の海軍の艦砲射撃に挟まれて、ロシアの艦隊は最後の一隻まで沈没させられた。(12)
 1905年元旦、ステッセルは、彼が確保している場はもはや、戦略的な有用性も戦術的な使用価値もないと判断し、配下の2万5千名の将兵と500門の大砲を残したまま降伏した。彼は後にロシアの軍事裁判にかけられ、死刑の判決をうけたが、自分は部下に裏切られたとの主張が功を奏して、終身刑に切り換えられた。
 贈賄という異様な事後談は、アメリカ人外交官、ポスト・ウィーラーによって再考察され、彼はその裏切り者の一人を見つけ出し、私的ながらその全体を調査した。事件から11年後の1915年、陸軍の重鎮、山縣は、二万人の犠牲を払ったその要塞のために、さらに天皇に6500万ドルを支払うことを求めようとはしなかった。そして1915年にそのロシア将校の一人が長崎に現れた時、山縣はその彼を背後から撃った。その外国人放浪者の死は、ある長崎の新聞の三行の死亡記事で確認できる。二人目の裏切り者は、ウィーラーの見るところでは、日本のスパイによってロシア内で殺害されたという。三人目は、その約束の書類を英国のある組織に託し、幾年もその支払いを求めて日本政府と交渉した。その書類の毛筆の山縣の署名は、専門家の鑑定では本物とされ、なぜそれを偽物とするのか、日本政府の説明を求めていた。1921年、戦後の講和会議の結果、日本と英国の関係が悪化した際、その組織は、その要求に誠実に応えるよう、報道に公開を始めた。そして、その三人目のロシア人裏切り者であり最重要な当事者は、スイスで突然に何の足跡も残さず姿を消している。
 1904年の旅順要塞の攻落とロシアのアジア艦隊の壊滅の後、日本海軍提督東郷平八郎にとって、バルチック艦隊を迎え撃つため、艦隊を方向転換させ、再編成するための時間は限られていた。一方、皇帝の艦隊は、燃料補給の問題のため、インドシナのカムラン湾の味方フランスの港から、ウラジオストックの基地まで直行しなければならなかった。東郷は、日本と朝鮮の間の海峡が小島によって二分されている対馬海峡でそれを待ち受けていた。ロシアの戦艦が一列縦隊でその狭い海峡に姿を現した時、東郷の艦隊は行く手を横切る「丁字戦法」でそれを迎えた。海戦が終わった時、ロシアは自国艦船のほとんどを失っており、20隻の主戦艦が沈没、5隻が捕獲され、1万8千人のうち1万2千人の水兵が戦死した。これに対し、日本はわずか3隻の魚雷艇と116人の水兵を失っただけであった。その悲劇がロシアに伝えられることにより、1905年、トロツキーの革命が未熟なまま誘発されることとなった。(13)


平和の価格

 一旦、ロシアが悲劇と自信過剰の苦い果実を味わったところで、セオドール・ルーズベルトはその戦争の仲介を申し出た。明治天皇はそれを即座に受け入れた。外向けのショーはすべて成功したかの如くだったが、内向けには危機的だった。日本は、旅順攻落のため、2万人の将兵を失い、さらにその2ヶ月後、満州首都の奉天でほぼ同数を失くしていた。さらに重要だったのは、その戦争のための内外の負債により、傾きかけた経済が崩壊の淵にあったことだった。名誉ある和平が求められねばならず、ニューハンプシャー州のポーツマスで、ルーズベルト大統領が最初にその敵国同士の使者を迎えた時、あたかも、日本は再び戦争を起こす積りでいるかのようだった。しかし、ロシアの交渉者であるセルゲイ・ウィッテ卿は、日本が必要以上に和平を急いでいる気配を直ちに感じ取った。そこで彼は、少しずつ、態度を硬化させ、交渉が結論を迎える頃には、日本は自分が最も必要としていた厳しい賠償を断念し、それに代わり、朝鮮、旅順、そして遼東半島の無条件の優越権と南満州のロシアの鉄道と用地を得たのみであった。(14)
 明治天皇は、1905年8月28日に宮廷で開かれた長く荒れた会議の後、不承々々でそれを了承した。しかし、実り少ない勝利との報道に接し、また、戦争維持のために経済的に耐え忍んできた大衆は、賠償金のなさに怒り、主要都市で激しい暴動を引き起こした。その激しさは、政府が戒厳令を宣言し、戦争内閣の桂太郎首相が辞任に追い込まれるほどであった。新政府は、琴弾きで立憲主義者の西園寺親王に率いられた。戦争反対者として知られた彼は、怒り狂った人々を抑えることに成功したが、かれの立憲政友会は、戦争が残した深刻な財政問題と不満の源である耐乏生活問題を背負わねばならなかった。(15)
 振返ってみれば、日本が得たその大勝利を喜びえていたのは、裕仁の十代の大兄たちのような、若い貴族たちのみだった(16)。陸軍総司令官山縣は、その戦争は余りにかけに出たもので、繰り返してはならないものであると警告した。立憲政友会の創設者、寡頭政治家伊藤は、朝鮮は交渉によって獲得できるというのが持論であった。そこで彼は、それは力で獲得されたが、日本が必要とするのは緩衝地帯である、と主張した。彼は〔力による〕むきだしな朝鮮併合に、それでは新たな国境に軍の配置を必要とし、むしろ朝鮮を友好的な同盟国とすることでのみ日本の防衛線になりうるとして、併合に反対した。こうした見解に沿って、彼は朝鮮に寛大な民政植民政策の導入を提唱した。明治天皇は、その楽天的性格と詩人的な判断をもって、伊藤を在朝鮮総督に任命することにより、その説教を実行させようとした。そして同時に、黒龍会の浪人たちを伊藤の任務に協力するよう差し向け、現地民を啓蒙する手助けとさせた。彼らは、毎週のように、暴動や叛乱、反日運動を暴きだし、弾圧し、ついにはすべての伊藤の良き構想を、憎しみとテロ行為の対象へと捻じ曲げて行った。(17)
 三年半にわたるフラストレーションあふれる職務の後の1909年夏、69歳の伊藤博文は日本に呼び戻された。彼は憤慨しており、選挙において彼の「憲政会」の力を用い、その帝国の政策を反転させるつもりだった。三ヶ月後、彼は、明らかに無関係な外交的任務を負って満州に派遣された。そのハルピンにおいて、彼は一人の朝鮮人
〔安重根〕によって撃ち殺された。日本の立憲主義者たちは、その暗殺の徹底した捜査を空しくも訴えた。彼らによると、その伊藤の暗殺者は、不思議なことに、終始、日本の警察の裏をかいて、銃を入手し、それを朝鮮に持ち出し、ハルピンまで旅行し、そしてどこで伊藤を待ち構えているべきかを知っていた、という。しかし、警察はその暗殺者を取り調べ中に殺し、彼は熱狂者で単独犯行だったと発表した。暗殺から7カ月がたった1910年5月、日本は公式に朝鮮を併合した。(18)


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