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エピローグ


新たな衣服
(その2)




工業力(117)

 戦争末期、日本人は、部隊の果敢な精神的武勇では劣っていなかったが、アメリカの生産する空母と航空機によって日本本土が圧倒されたと感じていた。そこで日本人は、圧倒的な物質的力量を備えない限り、決して再び戦争は起こさないと、国をあげて決意した。岸と佐藤の平和志向政策は、日本をそういう強さ――他国のエコノミストを驚かせた急成長する強さ――へと向けて始動させた。
 日本は、経済的に、フランス、英国、西ドイツを追い越して、いまや第三の大国となった。裕仁がかって力で支配することを望んだ国土を、日本の産業が優勢に支配するようになった。フィリピン人、インドネシア人、さらにはオーストラリア人すら、日本から輸入する工業製品のセールスマンと、日本が輸入する原材料産品の買付人に依存するようになった。
 日本は、巨大な工場となった。 〔送電線の〕鉄塔が農地を横切って立ち、コンクリートの高速道路が田畑の上に堂々と走るようになった。噴出される煙によって、武士の詩情は曇らされ、日の出ずる国の太陽すら覆い隠されてしまった。そうした産物についての意見はまちまちだった。西洋の経済分析家には、汚染問題は最後には、日本の成長を半減させると述べる者もいた。また、佐藤首相と 「日本株式会社」 の重役会は、まだ汚染の扱い方を知らないでいる、という者もあった。1965年までは、日本人の一人当り収入は、年500ドルに届かなかった。それが、その後の25年間で、日本の産業開発計画上に労働者へ支払う幾らかの余裕ができると、、一人当り収入は年1,500ドルへと3倍増となろうとしていた。だが、汚染が減らされなければならないために、資金が空気や水の汚染対策に投資されている間、労働者の賃上げは一時的に抑制された。
 西洋のエコノミストは、日本のよく結束した商業の気風が急に傾くようなことがないとの前提で、日本のGNP (国民総生産) が1980年までにソ連のそれを上回り、2000年までには米国をも上回るとの見通しを立てた。
 
半自由のアメリカ経済も、ソ連の硬直した計画経済も、一時的なものを除き、日本の成長率に並ぶことはできなかった。 〔ソ連の〕 官僚的な近視眼が、周期的に供給不足と過剰を繰り返えさせた。米国の急成長は抑制のきかぬ機会追及のなかにピークを越え、インフレと技術的失業におちいった。それに比べ、日本は、異様なほどの安定を示し、相互協力と結束の精神をもって、経済的変動を制御した。日本の産業人は、自らの利益のために競争はするものの、国民の利益のためには、常に協力し合った。日本の労働者は、常に、浪費する消費より前に貯蓄を優先し、急いだ購買力の獲得より、付加給付 〔健康保険、社宅、休暇など〕 のために、長時間働いた。
 1950年代と1960年代の日本の目覚ましい経済成長は、新しい現象でも、過去の現象でもない。それは単に、1867年から1944年までの顕著な発展の延長であった。アメリカのB-29 〔の空襲による破壊〕 は、一時的な後退をもたらし、 〔その再建に〕 10年間の労苦を必要としたが、エコノミストの大勢の見方は、日本は、中世手工業の状態と1867年の金融的破綻から出発して以来、他のどの主要国より、着実かつ迅速に、その拘束された時代や、稠密な人口、そして資源の深刻な不足にもかかわらず、その富を増加させ続けてきた。
 そうした日本の達成の秘密は、個人主義と同じく集団主義のもっとも活性化した特徴を多様に組み合わせた、厳格な上下関係を持つ家族的な統治体制にある。若い日本人は、両親が奨励する信念に支えられ、さらにその行いは最高位の天皇からも容認されて、しばしば偉大な率先性を発揮してきた。年老いた日本人は、たとえ富裕で欲深であろうと、ほどこしを行い、歩み寄り、そして兄弟のように協働した。簡素な方法、現実的目標、そして 「神と共にある」 との使命感覚は、1970年代の極めて近代的な日本においてすら、引き続き機能を発揮していた。その結果、新幹線が時刻通りに走り、テープ・レコーダーが順調に製作されていた。日本に公共図書館と下水道は限られているものの、国際市場での最強の通貨による資金があふれ、どの大都市もほとんどスラム街を解消していた
# 12
 佐藤首相は自ら、知恵があり目先のきく銀行家や事業家と一堂に会し、その年の国家目標や世界市場での分業をめぐった合意をさぐる、日本の最高貿易会議を主宰した。公式にはマッカーサーによって解体されたはずの財閥は、引き続き、相互結びつきあった複合体として活動していた。たとえば三井財閥の場合、分割された各企業の社長は、全社がひとつのビルに入居し、専用電話回線や専用通路を行き来しで互いに協議し合い、三井家の君臨への忠誠を維持した。
 佐藤政府は、すべての大企業系列を統合した超家族を形成した。政府は各企業系列によるあらゆる海外投資に、優先融資、税制措置、そして保険を供与した。系列間の経営者会議が定期的に開催され、政府の保護のもとで、価格協定や海外市場での販売促進方について合意を形成した。日本の拡大する海外援助は、輸出部門の責任者と周到に協議され、全体の経済計画、長期信用の創出、そして、貿易企業が市場の伸びを予想する海外地域での原材料の供給能力とを、相互に噛み合わせて足並みを揃えた。日本政府は、JETRO 〔日本貿易振興会〕 と呼ばれる営利企業を所有しており、日本企業向けに海外での宣伝を行い、また有望な海外投資の情報を提供した。佐藤の最高貿易会議は、日本の経済拡大の年間目標を設定する支援を行うばかりでなく、各企業系列がその目標を達成しやすくする手法について助言した。
 大商人一族は、ほんの一世紀前までは非人身分のすぐ上の最下層階級だったが、戦争以降、貴族や皇室と婚姻関係をも結ぶほどの特権を得てきた(118)。今日、佐藤の経済会議への列席者は、自らを貴族同等と考えている。彼らは、戦前には決して入れなかった 〔皇室の〕「内部集団」 に加えれられている。彼らは、いまや、過去二千年の大変動に適合してきた最も親密な一族社会の中でも選りすぐりである。かくして彼らは、外部世界による介入から日本の精神的遺産を守るという、皇室の使命をも採り入れている。
 マッカーサー自身は、その温情的な日本占領によって、日本の上層階級の宗教的使命を変えさせようと望んでいた。だがその一方で彼は、吉田とか他の有力な米国の敵を高官に就かせ、かつ、育ちは悪いがロシアの敵をむざむざ迫害し、荒木大将という北進派の指導者を戦犯として投獄さえした。吉田首相が見るように、 「占領は、知識の不足によってちくはぐであったばかりでなく、必要とする知識をどれほど欠いていたのかすら、多分、のん気に気付かないでいてくれた」(119)のであった。


沈黙の天皇

 マッカーサーは、天皇に対して自分の盲点を持つまいと、グリュー大使や他の戦前の外交官より伝えられた諸見解を取り入れた。だが彼はそれで、摂取した文書類から知ることができたかもしれない天皇についての真実を考察することを止めてしまい、加えて証拠を隠蔽することによって、他の者が考慮することまでも妨げてしまった。 〔天皇という〕 単なる人間が神の役割を果たせるということは、 〔神の〕 無限大で、全知全能で、どこにも存在するという必要を満足させるわけはなく、マッカーサーや他のキリスト教的発想の人たちにとっては、想像の対象にはなりえなかった。
 マッカーサーは、裕仁を日本を改革するための不可欠な協力者と見た点では慧眼であった。だがマッカーサーは、裕仁を許しと忘れてやる事によって骨抜きにできると信じた点では、思慮が浅かった。裕仁の身代わりに彼の配下の者が非難されることは、日本では頻繁に行われていることで、裕仁を傷つけはしなかった。だが、 〔そうすることで〕 極東国際軍事法廷を目隠しにし、西洋の科学や正義を軽視したことは、マッカーサーを傷つけた。
 彼が、軽度の戦犯――捕虜収容所長や秘密警察の拷問者――の審理には熱心でありながら、ワシントンやキャンベラの政治家による処罰要求を、裕仁の家臣の立法議員にまで及ぶべきではないとしたことは、マッカーサーが賢明で強靭だったことを意味したわけではなかった。実際、もしマッカーサーが秀でて賢明で強靭であったなら、東条とその同僚の裁判に費やしたほぼ900万ドル
〔現在価値にして約450億円〕(120)を、その代わりに、日本を世界を敵にするよう導いた指導機構について、処罰目的でない追究に使用するよう主張できたろう。そうすれば、その真実が究明され、記録に残され、そして、マッカーサーが残して行ったアメリカと日本の貴族たちとの脆弱な関係より、日本の国民に彼らの自治政府へのいっそう信頼しうる手掛りを提供しえたのである。
 いまや、マッカーサーは歴史上の人物となったが、事態は裕仁をいまだに、彼の一族の中心に微温に現存させている。日本人の大多数はいまだに天皇にタブーを感じ、その支配者を特別な違いを置いて受止めている。政治家の中には、裕仁を私的に意地悪く解説したがっている人たちもいるが、彼らは、自分との無関係性がゆえにそうしているのではなく、自分の高貴な生まれや国際人たる自負をもっと誇示したいのがその本音であろう。凡庸なマルクス主義者は、天皇制度に対する理論的指摘は行うが、ベールにくるんだり学術的な無菌室にこもった考えを述べる以外、裕仁個人をあえて攻撃することはまれである。たとえば、反天皇制宣伝の最も下種びた出版物のひとつは、多分、東京の左翼酒場ででも売っているのだろうが、立派な箱に入っており、どれも同じような、最も冷酷で、冷笑的で不愛想な裕仁の写真99枚を収めた写真集である。 『わが皇室の両親の肖像・宮内庁』 という題名と発行者の特定以外には、反対の一語すら表されてはいない
# 13
 戦争の終結以後、裕仁はほとんど何も語らず、自分の社会的イメージが有力な世論操作の専門家によって変えられるのを許した。占領の初期の頃、降伏時の首相の東久邇親王は、不成功に終わった皇室の 〔戦争〕 指導について、国民に謝罪した。そして裕仁は、全国各地を巡歴してその謝罪を追認した。マッカーサーの補佐官の一人が握手を求めた時、裕仁は優雅に礼をし、 「こういう風に、手を触れずに、日本式でしましょう」、と言ったとは広く報じられた。しかし、その巡歴中、彼はアメリカ式を新たに取入れ、訪問先の国民と盛んに握手した。その神の手に触れた者たちは畏れ入り、その中には、声を掛けられて仰天するものもいた。そうして裕仁は、そのつかみどころのない返答、 「あぁ、そうですか」 で有名となった。
屈辱の写真(ウィキペディアより)
 日本の大衆は、裕仁のおじきや握手に、世界を前にして、彼は苦行を始め、さぞかし苦渋をなめている心境ではないかと慮った。そうした裕仁の屈辱の象徴は、一枚の写真 (左) で、現人となった神王がみすぼらしい戦中の礼装をして立つ脇に、マッカーサーがカーキ色の仕事着姿でそびえ立つ有名な写真だった。だが、他者が彼のために痛切に感じていた恥を裕仁本人も感じていたかどうかは疑わしい。ともあれ、裕仁はそれを気概を込めて耐え、すべての日本人が彼を気の毒に思ったことは幸いだった。これまでに、彼は、その臣民からのこれほどの愛着をもって迎えられたことはなかった。
 裕仁は、占領の7年間を通し、そうした公的な苦行を続けた。1946年、彼は皇室の持ち株会社の解散を強いられ、自らの富のほとんどを国民に返還した。戦犯裁判の間、彼はすべての証言調書と法律論議に目を通し、時には、宮廷関係者に、出廷する証言人を通じ、記録の訂正を入れさせたりもした。
1947年、彼は、幾度もそれを避けようと試みたが、叔父や従弟たちを平民の身分に降格させるよう強いられた。1948年、東条や他の主要戦犯への判決が出されようとしている時、そうした裁判の開始時のように、彼は再び、退位すると揺さぶりをかけた。マッカーサーは、他の要件では譲歩を示したが、裁判を取り仕切る連合国の判事の判決に介入することは拒否した。そうした幾らかなてこ入れをして、裕仁は結局、退位しないとの言質をマッカーサーに与えた。
 かく懺悔と抵抗をし終わった時、裕仁は、戦後はじめて、自分のスーツを新調して衣装戸棚におさめ、アメリカによる占領の最後の三年間を、海洋生物学の趣味への一見した没頭を見せることで切り抜ける構えを整えた。1952年に占領が終了した時、彼は、次第にそして慎重に、国務への部分的な関わりを再開した。それがどの程度の関わりであったかは、関係文書が公開されるまで、ひと時代かそれ以上、知られることはないであろう。だが、すでに僅かなことについては知られ始めている。
 宮内庁に報告するとの理由で、引退した歴代首相や公職者たちは、マッカーサーが1945年に廃止した枢密院とほぼ同じものを再組織した。 「国家の象徴」 として、裕仁は、年に一万通にもなる政府書類への国璽を押す仕事を維持している。1957年以来、彼はこの任務の履行をする以上、少なくとも週に一度、首相からの定期的報告を受けることを求めていた。佐藤兄弟が国の面倒見役を果たしていた14年余りの間に、裕仁のこの 「天皇の質問」 は、真剣に考慮され、尊重されるようになった。


秘かな着服(121)

 裕仁は、戦後の沈黙の間に、静かに私的権力の主要素、金力を蓄えていた。終戦直後、彼の一族の保有資産はおよそ30億円で、その公的価値は1億ドル以下、そして、実価値は4ないし5億ドルであった。その資産の小部分はその価値が大きく下落した銀行預金だった。また、資産の約十分の一は資本投資――全財閥中でも三井に続く額# 14――で、壊滅した軍需産業へ投じたものであった。残りの大半は、価値下落のない土地、ゴールド、そして宝石であった。連合国軍総司令部は、この財産のおよそ三分の二を接収し、それを日本政府に与えた。だが残りのほぼ全部は、戦争終結までの数ヶ月間に、忠実な管財人に委託されていた。総司令部は、この隠匿されたすべての資産を追求するのは不可能と断念し、天皇がそれ以降に受け取るいかなる額の贈与も、違法とした。
 国会の社会党議員は、法を適用するために、定期的に宮内庁の資金移動を検査したが、適正な監視は不可能だった。忠実な管財人が保管する隠匿された皇室資産は、 〔執筆時点の〕 今日で、10億ドル 〔1ドル360円で換算して3,600億円〕 を優に超えていると見積もられている。
 国会は、皇室の維持のため、毎年、三種類の関連出費を議決している。その内の最高額 (1970年では約千2百万ドル
〔44億円〕 ) は、裕仁の宮廷と別邸の維持費である。第二は (同年約20万ドル 〔7,300万円〕 ) が裕仁の娘や兄弟たち家族の維持費で、各自には年3万ドル 〔1,095万円〕 づつの無税の手当が付く。第三は裕仁と皇太子明仁――1970年12月で37歳――の内密の財布に行く金で、これも無税であって、 〔企業会計で言えば〕 純収益にほぼ等しい。というのは、宮廷の土地、建物、車庫、船着き場、テーブルや箪笥、接待や儀式、旅行費用などすべては、別枠の皇室家計維持費用で賄われている。
 この信じ難い裕仁への 〔第三の純収益〕 金は、1947年には年2万2千ドル
〔1ドル360円で換算して800万円〕 # 15に減額されていた。それが、占領終了の1952年までに8万3千ドル 〔同3,000万円〕 、1965年までに18万9千ドル6,800万円〕 、1968年までに23万3千ドル8,400万円〕 、そして1971年までに30万ドル1億800万円〕 強へと増額されてきていた。皇室への支給はすべて無税、即金、そして国庫財政と同じ信用があったので、裕仁を最大級の財閥にも比肩させ、急成長する相場師への仲間入りを可能とさせた。20人以上の投資顧問――家臣、侍従、守衛、専門家といった合計約2千名の宮廷常用職員の一部分――の助言を得て、裕仁は、株式市場にうまくに投資した (彼の投資先は、電子工業やホテル業に偏重していたと言われている) 。
 こうした毎年増額される支給に加え、国会はさらに、国民からの税控除対象の寄付金で積立てられるいくつかの特別建築基金の裕仁の使用を許可した。 〔この基金で〕 1959年、皇太子の別荘が再建された。1962年、裕仁の戦時下の住居――皇居の吹上庭園の皇室図書館――は、増築、改修、近代化が施された。1963年には、1945年5月25日の夜に焼落ちた儀式殿――明治天皇の偉業をかたどった――の新築工事が開始された。
 この新儀式殿は1967年に完成し、それには3,600万ドル
〔130億円〕 が費やされた。それは、緑青の銅葺きの屋根をもつ華麗で近代的なコンクリート造の建物で、総床面積は24.3万平方フィート 〔2.2万m2 あって、3千名のゲストを収容できる大宴会ホールを含む、7区画で構成されている。その建築家、吉村重蔵――ニューヨークの近代美術館の日本館の設計者――は、完成までまだ2年を残す1965年、そのプロジェクトから身を引いた。それは、いくつかの造作をめぐり、裕仁の侍従たちとの間で意匠上の対立があったためと言われている。事実、彼の辞退の後、同宮殿の地下部分――120台分の駐車が可能――は再分割され、当初の計画にはなかった酒貯蔵庫や階段が加わるよう改作された。
 その新宮殿の建設はそのような成功をおさめたので、1968年、佐藤首相はさらに2百万ドル
〔7.2億円〕 を、新たに裕仁の夏の別荘を建てるために割当てた(122)。 同別荘は、東京より110㎞離れた汚染の最も少ない駿河湾西岸の下田付近に位置し、最新の海洋調査・通信施設を備えていた。


平民化された華族

 裕仁が静かに蓄財している一方で、彼の近親者――戦時中の視察の際、天皇の回りで反り返っていた――の多くには、何の手当もなく、身分の強制剥奪へと追いやられていた。彼らの誇りを失った独白、痛飲、貪欲、性的堕落、そして、一私人としてのもつれた無能さは、繰り返し皇位を悩ませ、日本の大衆紙と読者の話題の恰好の餌食となった。
 閑院晴仁
〔はるひと〕――元陸軍参謀総長の閑院載仁 〔ことひと〕 の息子で華族を剥奪――は、1945年から1949年までの熱中した闇取引時期、 「旅行代理店」、 「鉄工所」、あるいは、二つの 「商社」 を経営していた。だが四社はすべて赤字続きで、閑院夫人は、夫の総司令部・宮廷間の取り持ち役にあきれ果てるようになった。失望した彼女は、閑院の昔の陸軍の部下である高橋という男と親密な関係を持つようになった。彼女はもともと、高貴な一条家の娘で、ある名門女学校の女校長であったが、彼女の浮ついた話は噂の種となった。彼女は、その学校の幹部たちとの土壇場対決の後、突然にそれまでの生活を投げ出し、その高橋氏と連れ合って、東京の銀座に喫茶店を開いて成功した。
 故閑院親王のもう一人の子、五番目の娘、華子は、元海軍軍令部総長の伏見親王の三男と結婚した。二人は、結婚式のその日に初めて顔を合わせ、それまでは、ただ写真を通じて婚約関係をもっていただけだった。三人の子供をもうけた24年間の結婚生活の後の1951年、夫はかっての資産の跡地で養鶏場を経営し、妻は自宅の豪奢な屋敷で、アメリカ式ダンスを教えて家計の不足を補っていた。その年の7月18日の夜、彼が養鶏場から戻ってみると、彼女が屋敷の控え室で裕仁の侍従の一人の戸田氏と情交の最中である場に出くわし、家庭は修羅場へと急変した。夫婦は離婚し、その後、裕仁の求めで、彼女は戸田氏と再婚した。
(123)
 また、別の家族騒動のひとつは、もっと裕仁の身辺で生じた。1966年2月のある冷え込んだ朝、裕仁の三女、和子の夫、徳川家達
〔いえさと〕 が、東京のあるエレベーターもない質素なアパートで、裸体のまま、ガス中毒で死んでいるのが発見された。彼の脇には、 「漁火」 というバーの女経営者の遺体が一緒だった(124)。漏れたガスが、見苦しい悲劇をおこさせ、戦前なら、どこかの瀟洒な別荘で生じたロマンチックかつ穏当な情事として、秘密裡に処理されたであろう出来事を、公開された恥にしてしまったのであった。
 こうした発覚などを契機として、日本の中産階級――上層あるいは下層階級と比べると、実に行儀のよい人たち――も、皇族の没落家族に関し、ある種の同情を寄せるるようになった。そしてこの見方は、新たに平民に下った多くの降格親王たちを、その身分に落着かせる効果をおよぼした。
 たとえば、かっての東久邇親王は、一族の中ではもっとも突飛で片意地な曲者として、いかように受け止めるべきかどうか、世間を試す機会を繰り返してもたらした。東久邇親王は、首相を退いた後、三月事件の資金提供者、徳川義親
〔よしちか〕 ――戦時中、シンガポールの博物館や植物園に本部を置いていた日本の東南アジア諜報組織の指揮者――とつるんで資産を蓄積した。彼らはともに、骨董品商売に取り組み始め、日本の逸品を有力な占領軍関係者の手に握らせることによって、その事業をあえて行詰まらせた。そして1947年、自ら破産を宣告し、東久邇は新たな事業を始めた。そうしておこした新興宗教を、彼は 「超近代世界仏教」 と呼び、自らその教祖と称した。
 その新興宗教の管長を務めさせるため、東久邇は、小原龍海という宗教詐欺師を相棒として呼び戻した。小原は、15年前、東久邇に口をきく慈悲観音――1936年の2・26事件に至る神兵隊事件
〔第17章 「神兵隊事件」 、 第20章 「もの言う大神」 参照〕 や他の策謀事件の際に出現――を提供した男だった。戦争中、小原は、総額40万ドル 〔現在価値で20億円〕 にのぼる詐欺により、5ヶ月間、投獄されていた。そうした過去の経歴にも拘わらず、小原はまたしても、管長の役へとしゃしゃり出てきていた。そうして 「超近代世界仏教」 は急速に広がり、ことに精神的支えを失った退役軍人の間では流行となった。(125)
 1950年、連合国軍最高司令部は、この 「ひがしくに教」 を、破壊的軍事組織として非合法とした。その青雲山龍海寺――元陸軍法務官が所有していた資産の一部――は、押収された禁制品として、最高入札者に競売された。1952年、占領が終了するとまもなく、その新所有者は、東久邇親王の手下たちが彼を脅迫し、彼の家が放火されるところであったと裁判に訴えた。東久邇は、脅迫を止め断念することを約束して、示談解決した。しかし、10年後の1962年、東久邇は、自分のものであると堂々と逆訴訟をおこし、当該の土地は明治天皇によって彼の家族に与えられたもので、その所有は神のご意志によるものであると主張した。この争いは、1962年6月から1964年2月まで、法廷でだらだらと続けられた。裁判官はついに、本件についての神の権利を判定する唯一の方法は、裕仁を特別証言者として法廷に呼ぶことであるとの裁定を示した。すると東久邇は、即座にその訴えを取り下げた。


黒幕の影

 繊細で、教養があり、そして感性豊かな日本人は、占領によって半ば解放され、伝統によってまだ半ば拘束されていたが、敗戦以来、その感性にのしかかった鬱屈によって、痛ましく試練にさらされ、そして引き裂かれてきていた。それは、宮殿の再建計画への寄付金に募集枠以上の申込みがあったことに見られるように、皇位への親愛のこもった忠誠心が幾度となく示されてきたと同時に、かっての親王や元日本陸・海軍将校への不信も、もし彼らが余りに自分たちの再復活を口にする時になど、幾度となく示されてきた。かっての悪夢の日々への恐れと、アメリカ兵と彼らが日本にもたらした民主主義制度への純粋な敬意が、ぎこちなく同居していたのであった。その一方、神道や皇位への伝統的信奉と、日本はいつか、なんとかして米国を出し抜いて、恨みを晴らさなければならないとの教条的信念とが結びついてもいた。この確信は、激しい嫌悪から不幸な運命論まで、感情的内容での違いこそあれ、それはあまねく浸透しており、しかも、発揮されてきた最も良心的な米兵たちの力量をもってしても、それを根こそぎに取り去れたわけではなかった。
  〔
執筆時までの〕過去二十年を通し、日本での大半の大衆運動は、対米条約に関する政策の実現手段として引き起こされたものである。東京の米国大使館周辺へのデモは、おおむね、騒々しい要求をかかげる左翼の隊列と、デモを楽しみ、あるいは、警察官や野次馬や学生運動指導者の一声に呼応して繰り出してきた一般的人々の大群とが合流しあったという特徴をもっていた。暴動を起こしている本人たちにしてみれば、怒りを表す必要にかられていたのであり、ことに学生たちは、自らは純粋にラジカルだと考えていたのだ。だが、政治的に洗練された領域にあっては、通常、まじめな社会的著名人――自分が地位を得た後は、そうした混乱に際しては公式に恐怖を表明する者たち――の野心的追随者である 「オルグ」 らによって、彼らは招集されていた。
 1960年、航空機や短距離ミサイルのために、米国がまだ日本に基地を必要としていた時、日本の大衆は、日米安全保障条約の更新に反対し、アイゼンハワー大統領の日本訪問の中止を要求して、手に負えない暴動を起こした。9年後の1969年、同条約の再交渉の時が再来した時、高揚した学生たちは、日本歴史上で最大かつ最良の暴動を巻き起こそうとした。彼らの指導者たちは、その丸三年も前から、奇抜な反対行動を計画していた。しかし、その時が到来した時、自民党の首脳たちは、1960年とは環境が変わった、との宣伝を繰り広げた。すなわち、大陸間弾道弾は、日本の基地を米国の必要のためというより、便宜上のものとしている。また、安保条約は、いまや、米国のためのものというより、日本のためのもの、というものだった。1969年3月、10万人が参加して、全国一体となった運動が繰り広げられた。その後、米国は沖縄を返還することを真剣に考慮することに同意し、自民党の指導力は、さらなる暴動シーンの再発を押えこんだ。
 反米暴動の消滅と安保条約の延長の後、1969年10月、学生たちが大学に暴力的にデモをしかけて、その不満を表した。数万人の学生と警察官が衝突したにしては、誰も、頭を割られたものはほぼいなかった。しかし、1945年以来初めて、交番が破壊され、路面電車が転覆させられたりしたが、その不満とは、敗北で団結した国民によるアメリカの利得に対するものではなく、純粋の異論者たちによる自国の利得へのものであった。学生たちは、なぜそうした抗議をおこし、どういう命令系統でそうした抗議行動へと駆り出されているのか、ただ漠然とした考えしか持っていなかった。しかし彼らは、民主主義が偽物で、人々は舞台裏で展開されている政治的駆け引きの人質にとられ、自分たちがまたしても操作されている事実に、確かな憤慨を抱いていた。
 
少なくとも、1960年代初め以来、日本の緊密な社会の内部で交わされている議論の根本的問いは、日本は、周辺諸国への支配を試みるべきかどうかであり、もしそうなら、それはどのようにしてなされるべきか、というものであった。自衛隊と自民党内の老いた北進派の残党は、正直さゆえ、あるいは率直な再武装論ゆえ、あるいは制限的かつ実務的な外交政策の目標ゆえ、かってなくそれを後押ししていた。ことに彼らは、日本が、アジアにおける米国の責務を肩代わりし、そして、汎アジア的指導力のために共産中国と対等に対抗できるように、西洋諸国との相互理解を獲得すべきだと問うていた。
 信用を失った天皇の南進派の残党は、皇室の全メンバーも含め、南進派が示した計画にどんな形態であろうと代理策を提示することを用心深く避けていた。彼らはむしろ、佐藤首相の全面的な平和的経済発展を、もっともらしく支持していた。しかも彼らの中には、一方で、過剰な正直さによって米国を警戒させるのも、他方で、高くつく東洋での米国の軍事的負担を時期尚早に肩代わりするのも、いずれもその理由はないことを、個人的に認める者もいた。もし日本が海外市場に浸透し、経済成長の率において米国を凌駕することが継続できるなら、いずれいつかはその日は到来し、日本は、ペリーとマッカーサーの国と対等な条件で対決する日を迎えるだろう。その時、西洋諸国との相互理解を追求する必要はなく、日本のアジアでの優越さは確立された事実となるだろう、と彼らは考えていた。
 この十年間の日本をつぶさに省みる時、西洋の観察者には、それをどう解釈してよいものか確かではないのだが、いくつかの出来事の中に、社会的表現を発見することができた。概して、それを行ったのは、大衆的な不安を煽りたてる、北進派遺産の相続者であるようだった。というのは、彼らは国の内外をわきまえず、また、公開された議論を望むからだ。むろん佐藤首相は、それに黙する側に立った。また裕仁の近親者は佐藤を支持するものの、大衆心理を計る方法として、時折りの出来事についての関心は捨てていなかった。
 大きな論争に結びついた最初の出来事のひとつは、1961年の 「三無事件」 であった(126)。三上卓――1932年に犬飼首相の頭を撃った霞ヶ浦航空隊の大尉――は、29年後のこの年、「直接行動」 が日本を蘇えらせるために改めて必要と決心した。彼は、クーデタへの協力を求めて自衛隊員に接近した。だが、彼らは彼を警察に通報した。逮捕された時、彼は、有害なことを行うつもりはなく、ただ、汚職、税、失業
〔訳注〕 の三大悪を無くすだめであったと主張した。この 「三無」 のために、彼はこれも三年間の投獄判決をうけた。
 1932年、三上が犬飼首相を暗殺した時、彼は、その観念性の強さゆえ、元海軍パイロットの山科親王――霞ヶ浦航空隊の天皇の親類――あるいは、北進派指導者の荒木陸相の強い影響下にあったことを告げるのは難しかった。1961年6月、彼が二度目に投獄された時、彼が誰のために行動したのかを明らかにするのは、彼はまだ荒木退役大将やかっての東久邇親王の両者と親密だったため、これもやはり不可能であった。
 1965年2月26日、三上が刑務所から出所して少し後、彼は右翼の集会に参加し、またしても、多くの者の眉をひそめさせた。この集会は、1936年の2・26事件の29周年記念のものであった。三上は名誉の来賓で、反乱将校の記念像を公開する序幕を行った。演壇の彼の脇には、佐郷屋留男――1930年に浜口首相を撃った――と、血盟団の小沼正――1932年に金融家の井上準之助を撃った――がそれぞれ列席していた。佐郷屋は、いま名前を嘉昭に、また小沼は博光に改めていたが、参加者はみな、彼らが誰かは完璧に知っていた。
 その日の主席演説者は、まさしく87歳のかっての大将、荒木以外にはなく、戦犯としての10年間の投獄後でありながら、ひょうきんさたっぷりの 〔バーナード〕 ショー張りの雄弁をふるった。政治的物知りたちは、年老いた暗殺者たちのこの奇妙な集会を、裕仁への警告ではないかと取った(127)。つまり、日本の理想主義は、もう秘密裡の脅迫はその手段に使えないが、率直かつ公開してのものではできるというのであった。
 1965年から1970までの5年間、佐藤政府は、再興なった日本経済の慎ましいやり繰りをいくらか緩め、そして、国の稼ぎの幾らかを工場建設から労働者の賃金に回すことを許して、口やかましい北進派残党のはしごを外した。その結果、一人当り税込収入と消費支出は三倍となった。ほぼどの農家も、電気炊飯器とテレビを備えた。いまだに苦言を呈するものは、もはやイデオロギー的な学生たちと生き残った戦士のみだった。
 1967年、少々の反対はあったが、昔の国家の祭日がよみがえった。2月11日の建国記念日、旧紀元節だった(128)。日本人は、マッカーサーの官吏によって取消されるまで、紀元前660年の神武天皇の神話的即位を、建国の記念日として、長い間祝ってきた。1967年2月11日、10万人の参拝者が、奈良郊外の神武天皇のものとされる陵墓を訪ね、古い方法への回帰へ承認を表した。


孤独な苦悶の叫び(129)

 1969年10月の病んだ発想の学生騒動までに、 〔日本社会は〕 ほぼ3年間の繁栄の時を満喫していた。そうした学生騒動は、1930年代の天皇機関説の教授たちに反発する大勢にあった。世間がそんな学生騒動に同情を示さなかったのは、あたかもそうした学生たちを、日本の既存体制と義侠心を燃やして戦いそして敗れた旧北進派の残党と重ねているからのようであった。しかし、そういう学生たちを支持し、彼らと義憤を共有した一人の毅然たる人物は、それで立ち止まりはしなかった。なんとかして、国民や天皇に、経済的帝国主義の危険と古き日本の美を尊く感受させようと欲していた。何ヶ月をもついやして、その孤高の義士たる人物は、自らを犠牲にして訴えをおこす方法を準備し、遂にそれを伝統にのっとって実践した。すなわち、真摯さ究極の姿、割腹自殺だった。それは、日本の歴史の中で、もっとも壮絶な自殺であった。
 この種の自己破壊的行為に似つかぬその英雄ないし下手人とは、日本の著名な作家、三島由紀夫に他ならない。彼は名だたる武士の家柄の出身で、戦時中に、日本のもっとも高貴な学校、学習院を卒業した。その卓越した才能がゆえの放任により、彼は常軌を逸する人物へと成長した。彼は自宅に、もっとも異様な西洋のビクトリア調の家具をしつらえた。彼は男色者だったが、妻帯して二人の子があった。彼は幾度にもわたり、スウェーデンのノーベル賞委員会によって、賞の候補者に挙げられた。青春時代より彼は、1944-45年の特攻隊員の追憶と、その一員に加われなかったという不甲斐なさに捕らわれていた。批評家によると、彼の作品は、毎夜のセックスに続く毎朝の自殺といった生活を神格化したものであるという。
 小説家であると同時に、劇作家であり俳優でもあった三島は、すべてが芝居じみていた。ページに印刷された文字に、彼は満足できなかった。自分の確信の証明として、彼は自分自身に行動をも要求した。米占領軍兵士に比べ、日本の若者がみな小柄で腹を減らしている時に成人になり、彼はボディービルに取り憑かれ、自分の外貌を、青白い知的文人から、筋骨逞しい日本のアドニス
〔ギリシャ神話上の美青年〕 変えることに成功した。映画製作で得た金で、彼は、彼のファンの選りすぐりにひとつの軍隊組織を与えた。 「楯の会」 であった。彼らが着けた金モールをあしらった立派な衣裳は、軍国主義への出来過ぎた模倣と、多くの人々を警戒させたが、彼らの真剣さは本物と映った。彼らは、日本をおおう煙のとばりと自己欺瞞を非難し、古い日本文化の価値の喪失を悲嘆し、そして裕仁が、戦争をもってどこに行こうとしていたのか、あるいは、戦争の最後になぜ死をもって戦わなかったのか、そして、戦後のいま、彼は何を探し求めているのかを、国民に決して率直に説明しようとしない裕仁を批判した。
 小説家三島は、昼間は、彼の門弟のニセ兵士らと演技し、夜は、猛烈にペンをふるった。1948年から1968年の間、彼は20編の小説、33編の劇作、そして100編以上の評論や短編を出版した。すべての作品の中で、彼は独自の道を開拓していた。すなわち、死というテーマであり、攻撃的暴力であろうと内省的自決であろうと、人の命を犠牲とするに足る必要であった。
 三島は、2・26事件の青年将校を、天皇の良心に訴えてその生命をあえなく投げ打った、南進・北進対決の思想的お人よしとして同情していた。こうした彼の2・26事件への共感は、1969年、皇室の一人の文人御曹司とのある論争に発展した。この人物は、有馬伯爵――1930年代、左翼グループの皇室への浸透をなした――の息子、二流作家の有馬頼義
〔よりちか〕 であった。有馬は、2.26事件の叛乱将校を 「心得違いどころか、純粋な革命家であり、確信犯だった」 と主張した(130)
 
1969年末、有馬との論争の中で、三島が異常に意気消沈していることに、友人たちが気付いた。彼は、知的素養に受け身的でいることに耐えられなくなっていた。彼は44歳で、中年期の人生の危機に遭遇していた。彼は、その最も野心的四部作、 『豊饒の海』 の最終部を執筆している最中だった。それは、いかにも厭世的な作品で、その題名は、月面上の不毛な海の部分に付けられた名称からとったものであった。
 三島がその大作執筆の終盤にさしかかっていた時、自らをその作業から引き離し、1969年10月の学生騒動とその集会に関わり合って、自分の想像力を広げようとしていた。学生たちの志が無益に終わった時、彼の憂鬱も深まっていた。1970年2月のある日、彼とは全く面識のない一人の高校生が彼の家を訪れ、彼にたった一つの質問をするために、門の外で3時間も待っていた。その質問とは、 「先生、いつ自決されるのですか」 であった。
 三島はその高校生に、あたかも、徳川将軍の時代に、切腹を命じにやってきた宮廷の使いであるかのように対応した。その訪問のすぐ後、彼は 「楯の会」 のメンバーに、その高校生の質問に答える感傷劇構想の最初の試案を明かした。
 日本のいさぎよさを重んじる封建的な家族的社会にあって、潔癖で一生涯息を抜けない緊迫感の下にあって、多くの者が三島のような精神的困憊状態に至り、その唯一の救済の道として、よく自殺を決意していた。日本人は、子供のころより、慎ましくそして野心的であれとしつけられており、大志のための自殺はつねに、その死に意味を与えるものと見なされて、ひとつの永遠性を築くための試みとされてきた。三島もその例外ではない。彼は、アメリカ文学の友人らから、日本の政治的無節操は西洋にはあまり知られていないことを教えられていた。彼はまた、北進派残党の指導者の一人で友人の中曽根康弘――自衛隊長官――を通じて、率直な外交政策をめぐる争いが政府内部で展開されてきたが、失敗に終わったことを知っていた。彼はさらに、自分の2・26事件の叛乱者についての研究から、多くの人が言うように、皇位に真に訴える方法は、死んでみせることで、それにより、日本人の感性を広く国際的に表し、かつ、〔政治的〕無節操の伝統的首領である天皇が責任をとって直接統治に乗り出してもらいたい、と望んでいた。
 そのようにして三島は、自分が海外に最も知られた日本人の一人――知られた一人であるばかりでなく、彼自身のコスモポリタン性と西洋の著書と家具への愛着もあって――であることを認識し、自らを紛れのない国際的犠牲とさせることを決断した。1970年11月25日、「楯の会」 の劇団的兵士の一団とともに、彼は許可をえて、自衛隊の市ヶ谷司令部に立ち入った。この場所は、戦前の陸軍士官学校の場であり、1945年の参謀本部の場であり、そして、戦後は極東国際軍事法廷の場というように、様々な記憶を呼び起こすに充分な場所であった。その場が1970年には、内部総合庁舎が、不規則に広がる兵舎の建物や柵で取り囲まれていた。通常の日本人は誰であろうと、その内部庁舎に立ち入るには、一個以上の公式の通過証を必要とした。だが、三島はそれを、何の困難もなく得ていた。そして、彼の6名の制服姿の追随者と2名の日本人報道カメラマンも同様であった。
 三島と彼の兵士は、友人の益田兼利総監の部屋へ直行し、彼を椅子に縛りつけ、補佐官を日本刀で脅し、そして、自衛隊の将校団を招集させ、三島の演説を聞くように要求した。三島の隊員の日本刀によっていたしかたなく、司令部を護衛していた武装憲兵は、構内放送を通じて招集を放送するため走り去った。数分の内に、将校を主とする1,200名が、三島が使おとしているバルコニーの下に集まった。カメラのシャッター音がした時、三島は前に進み出た。彼は10分間の檄を発し、日本は祖先の道に回帰し、緑の野山から産業煤煙を払い去り、天皇による直接統治を行い、マッカーサーが日本に強いた味気ない条文の憲法に謳われた偽善の平和主義を放棄し、米国の 「核の傘」 への財政的に無責任な依存を断念し、そして、自衛隊がアジアで最高の陸、海、空軍であることを率直に承認することを要請した。
 自衛隊の指揮者が三島に示した顕著な協力にもかかわらず、彼らは三島に、その最後の言葉を聞かせるマイクロフォンを与えそこなった。彼の声を聞こうと集まった1,200名の中には、彼に 「バカヤロー」 と叫ぶ者もいて、彼の雄弁の論旨をかき消した。三島は演説を短く切り詰め、バルコニーから室内に大股で戻り、そして、彼の行動の最も困難な部分――そのために、彼は最も重点をおいた心理的準備をしてきていた――に向かった。彼は膝まづき、そして短刀で自分の腹を切り裂いた。金モールの部下の一人が、繰り返し、繰り返し、彼の首に日本刀を振り下ろした。三島の首がついに切り落とされた時、その介錯者が次に膝まづき、自分も腹を切って、第二の者に首を落とされた。
 日本人の多くは、三島の自害の極端な真摯さと伝統性に瞠目した。その介錯人による残忍な首切りの儀式は、18世紀以来は、まれにしか実行されていなかった。20世紀の重要な自殺のほとんどは、ピストル射撃に腕のたつ者か、首の後ろから頸動脈を切ることに長けた者が介錯人となって、確実に成し遂げられていた。
 西洋の三島の友人や賛美者たちは、彼がその偉大な才能をもって成したその犠牲を、まずは信じることが出来なかった。彼らが、ニューヨークやパリやロンドンの新聞に書いた衝撃の死亡記事に、彼らは三島の強い政治的衝動を決して理解できないと認めた上で、彼の行動を純粋に個人的問題であると説明しようとした。彼が自殺した理由の意味を探ることには、誰もあえて取り組まなかった。
 日本では、皇室派の文芸評論家の山本健吉は、その暴力沙汰は、三島の生涯のローマ花火になったと、ただちに指摘した。 「暗闇にぱっと輝き、それ以外に何もない」、というわけだった
(131)。皇室の小説家の有馬は、三島の死の無益さは、2・26事件の芝居じみた見かけ倒しをさらした結果となったとの私的観測を表した。
 事件の後、新聞記者に意見を問われた自衛隊員は、誰もが、三島にヤジを飛ばしたことを後悔し、自らの信念を貫いて行動した彼の勇気に賞賛を表した。しかし、その一人の人間に関しては、彼らは三島に不賛成を維持した。すなわち、天皇は、1945年以上に1971年ではもはや、日本に責任を取るべきとも、また、取れるわけでもないと主張した。マッカーサー憲法は、天皇を現人神ではなく 「国の象徴」 であると適正に定義している、と彼らは述べた。
 一人の三曹は、 「天皇は、日本の国民が心の拠り所とする象徴であるべきだ。彼は政治に関わっても、また、政治に関わる者によって使われてもならない」 と語った
(132)
 そうした諸見解の表す、信心深いナイーブさや歴史的無知にも拘わらず、日本の言論界は、自衛隊員はもはや、心底からの個人主義者で、サラリーマン兵士で、そして戦後民主主義の産物であることを自ら立証した、と結論づけた。
 三島の葬儀――その寛容な仏教儀式には、マキシやミニやパンタロンを着た流行とりどりの友人たちが参列した――において、一人の賛美者は、 「 (この自殺に関して) 皇室から、せめてひと言たりとも」 言ってもらいたいと裕仁に請うて、誰もに浸透した自己満足に、石を投じようとした。
 三島は、そのバルコニー上でも、自分のエッセイ上でも、また、このバルコニーに至るまでの数年間の評論上でも、裕仁に、第二次大戦の犠牲について、何か意味をもつ、そして宗教的なコメントを、その沈黙を破って語るよう、問い続けてきた。それに裕仁は答えたことはなく、いまだにそうである。1971年1月5日、三島の自殺の40日後、それに代わって天皇は、恒例の新春歌会始めの式に姿を現した。その年の御題は 「家」 であった。裕仁のこの会のために寄せた歌はこうであった。
 ある日本人は、この歌に託して裕仁は、木を増やし家を減らす汚染対策について詠ったのだとか、他の者は、引き続く危険な経済発展とより多い木とより少ない家を詠ったのだとかと解説を付けた。裕仁は、あらゆる明らかな意図や目的に、何らの発言もしたことはない。まぶしいテレビの照明は、彼にはうっとおしいかに見える。彼は眼を閉じ、眠っているかに見える。


未来

 1931年、日本が満州に侵略し、真珠湾への行軍を開始した時、アメリカは、日本に止めろというほど、東洋での軍事的プレゼンスを持っていなかった。その結果、ほぼ500万人が死ぬこととなった。この災難と、それがゆえに生じたアジアの今日での弊害は、もしアメリカが日本を閉じ込めておく方法を知っていたなら、おそらく回避できたことであろう。アメリカはそれ以来、軍事的抑止力が他の国を閉じ込めておくための必要条件であるとの教訓を学んできた。しかし、それは世界全体に、機械的汎用性をもって適用されない限り、その抑止力が有効に働くことはない。特定の一国のみを脅かすことは、その国民に危機感を与えることであり、敗りようのない敵をつくることになる。より賢明なことは、潜在的敵国の主要指導者と丁重な私的会話を絶やさないという方法をもって、力を行使することである。
 もし、米国の諜報員が、1931年9月以前のいつかの時点で、軍の援助のもとに国務省と連絡をとりつつ、天皇の組織に慎重に脅威を与えていたら、第二次世界大戦の太平洋側での半分は、永遠に延期されていた可能性が高い。それがもたらす情勢は、流血の事態なしに、アジアにおける米国の利益――流血沙汰によって得られるものより確かによりましな――を築いていただろう。
 1970年代の米国の指導者は、再び、日米関係に重要な考慮をしなくてはならない。 70歳代の裕仁はもはや過去の戦士であり、1945年の恥辱の後に、再びは戦争指導者にはなれまい。彼は敗北の屈辱のもとで、何とか自らを保ってきたが、彼が在位している限り、日本は平和の道をとり続けるだろう。1971年の秋、彼は、ボン、フリュッセル、パリ、そしてロンドンを空路訪問し、彼の昭和時代を締めくくる計画でいる。彼は、歴史をかたどった1921年の欧州歴訪の後、皇祖にその報告を行った日の50年目の記念日に当る9月27日に、この旅に出発する計画である。その後、噂によれば、自らの責任の大半を、1971年12月に38歳となる、皇太子の明仁に譲るつもりのようだ。
 占領中、皇太子の個人教授として、エリザベス・グレイ・バイニングは、明仁が、聡明で魅力的で感受性豊かな若者であるとの、好意的な報告を 〔占領軍本部へ〕 行った。しかし、宮廷人によると、バイニング夫人は、彼女の職務には寛容に接し、彼女の来日以前の13年間の生活で身についた明仁の厳格で皮肉な物の見方には、幾らか目をつぶっていたらしい。それでも、明仁が後に、宮廷階級ではない平民――テニスコートで出会った裕福な系列企業家の娘――との結婚をして伝統の前例を破ったことは、バイニング夫人の教えのたまものであった。明仁は、ヨーロッパとフィリピンへの旅行中、持ちまえの洗練さと現地事情の理解によって、海外の観察者を印象付けた。
 以前の裕仁もそうであったように、明仁は、恨みを晴らすことを含む宗教上の責務を引き継いでいる。また、やはり裕仁と同じく、何を信じようと、また何をすべきであろうと、良心的に事をなすことに頼っている。もし日本が、再び武力に訴えねばならぬ脅威に遭遇した際、人として道義をわきまえ、勇気を備え、教養あふれる、そうした日本人だけにのみ、国家政策の転換を任せる期待を託しえよう。現在のところ、人々は、近年の生活条件の向上により、それを楽しむことに夢中である。彼らは、その良心にも、その愛国心にも、双方について無関心となっている。だがそれでも、マッカーサーが彼らに残した民主主義の形式的原則の中では、日本が最終的に追及すべき目標あるいは恨みを晴らす論議において、いかなる選択をするのか、それがいずれ問われることとなろう。
 西園寺、荒木、松岡、そして三島のような、国の政策決定に影響をあたえることを望んだ過去の人たちは、伝統的な日本人の作法――痛ましいほどに礼儀正しい仕方――で自らを犠牲に捧げた。もし、天皇が真に国の象徴で、かつ、日本国民の多数の利益のしもべであるべきならば、天皇や国家政策への批判は、将来、 〔その国民の間で〕 いっそう明瞭に表現されなければならないだろう。
 多くの日本人は、この本に述べられた目を覆うような話を、単純化された話にすぎないとして、捨て去ってしまいたいと思うだろう。ある意味で、それは正しい。実際に、日本人は政治をただ、便宜を図ってくれる友人間の互いの個人的つながりの問題として考える傾向があり、そこでは、 〔個々の日本国民の考えではなく〕 指導者の考えこそが、日本の政治行動の推進力として前面に置かれてきた。もし本書が、日本における、国家への忠義と個人の誠意との交錯への何らかの判定を提示しているとするなら、おそらくそれは、日本の歴史家をして、裕仁の統治がおこした明白な出来事にかかわる人的関係を全面的に再考させる刺激となるだろう。今日まで、日本人のこの時代についての説明は、多くの西洋人をして、羅列的な状況記述、あるいは、神秘的な広大さという、いずれもの壁の前に足踏みさせてきた。
 現実性を見さだめ、近隣諸国の人々の友好を獲得し、アジアを米・露・欧州から離れて立つ責任ある前進力とすることは、魅力を欠く困難な作業である。それは唯一、祖先の呪文を解き、天皇を取り巻くタブーの重しを吹き払い、宮廷に仕えるすべての策謀家を作り出した信念深い沈黙を破ることによってのみ、成し遂げることができる。日本人は、ペリー提督の黒船と再び取組み、太平洋へと再度漕ぎ出してゆくというもう一つの選択を、恐れながらも、知っているのである。





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