「オーストラリアって、いい国ですよ」
ひとつの国の良さを語ることは、まるで自分の家族をそうする時のように、一種の思い入れや、また、おもはゆさが伴います。それに、どの国にもどの家族にも、いろんな側面がありますから、もちろん、一面的には語れません。
そうした難点を充分意識して、それでも語れる、「オーストラリアって、いい国ですよ」ってところを、お話したいと思います。ただし、ここでは観光案内式にではなく。
実は、そういうオーストラリアのよさが、なんだかだんだん少なくなってきたなと考えさせられることが、この幾年かで増えてきています。また、この国に長く住む日本人の何人かからも、「だんだん、日本に似てきた」とか「せちがらくなってきた」などとの声が聞かれるようになってきています。
それは、近年、「拝金主義」とか、競争を重視する余りの「押しのけ主義」になってきたと表現できるような、いわば経済的(正確に言えば自由市場経済的)な発展の反面と、思われます。
いっぽう、ここで「良さ」とあげるのは、たとえば、オージーたちの、権力や上役におもねらない、伸びのびとした庶民らしさ、オーディナリー・オーストラリアンらしさです。それが、社会の公約数ともなっていて、包容力のある仲間意識や(ちょっと垢抜けないところはありますが)、差別扱いをきらうフェアー精神、あるいは、異端者でもとりこんでしまえる多様文化をかたち作ってきました。
そして、それが社会の慣習や制度の一部にも相互反映されていて、人の人格ならぬ、国民の「民格」となってきました。
別風にいうと、日本なら、「みんなで渡ればこわくない」式の軽い共謀意識に蒸発しがちですが、オーストラリアなら、「エブリボディー・セイ・ノー」式の大小さまざまな市民あるいはグループ行動となります。少なくとも、なってきました。
そんな「らしさ」が「らしさっぽくなく」なっている、いわば曲がり角にあると言える今のオーストラリアなので、これから、こうしたオーストラリア的なよさが長続きするとは、誰しも保障できない時代にさしかかっています。
そうだからこそ、これからのオーストラリアを占う大きな指標となるに違いない、ことしの末までには行われる総選挙が注目されます。
【写真】シドニーはいま、秋まっさかり
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現在の政府は、ハワード首相ひきいる自由・国民連立政権により、三期、八年半にわたって舵取られてきているのですが、それを、野党である労働党が奪還できるのかどうかと、焦点になっているからです。
この総選挙の争点は、イラク戦争にまい進する対米関係や税金の使い道など、自由vs労働両党間の典型的な論争があるのは確かなのですが、それ以前に、上記の「オーストラリアらしさ」をめぐる、底深い争点が競われているのも事実です。
というのは、労働党は、四連敗の汚名を着ることにならないためにも、今年一月の党大会で、42歳の新鋭リーダーをえらび、若いながらカリスマ性ももつそのマーク・レイサム党首が、こうしたよきオーストラリアの復活をめざすことに通ずる基本姿勢をうち出しているからです。
オーストラリアの政局は、不意打ち選挙を狙う与党の動きもあり、いまや事実上の臨戦態勢に入っており、任期満了の年末選挙にもつれこむかどうか、巧みなかけ引きが展開されています。
与党は、政権中、かげりのない着実な経済成長を続けた実績と自信を背景に、「経済のマネージメント」は、労働党には任せ切れないと説きます。
政治解説者によると、国民は、経済がうまく行っているいるからこそ、安心して政権を労働党にわたせるだろう、とも分析しています。
いずれが選挙戦に勝利するとしても、一度の選挙で、国の方向ががらりと変わるものではないでしょう。そうではありますが、来る選挙は、「オーストラリアのよさ」をめぐって、その「民格」もつ国民が何を選択するのか、これまでになくその行方が注目されます。
もちろん、こうした政権交代を通じたけっこう大きな変化が実際におこりうる、これがオーストラリアの興味深さのひとつであることは言うまでもありません。何年かに一度のそんなシーンは、なかなか巧みでしたたかな庶民が、それぞれのエリートたちをじょうずに使い分けている、そんな風にも見受けられます。
(「文化・歴史」メニューの「メイトシップ」、また、「政治・経済」メニューの「オーストラリアの投票率は『100%』」、「ポピュリズムは、飼い主に噛みつく」もご参照ください。)
(2004.5.28、松崎記)
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