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両生学講座 第24回(両生量子物理学


      両方性セルフ・タッチ


 今回の講座で、両生量子物理学についてのひとシリーズの各論を終わりにしたいと考えています。つまり、その仕上げのつもりなのですが、まずこの講座に入る前に、読者にお願いがあります。今月のエッセイとして同時掲載している 「両方が選べない仕組み」 を、まず先に読んでいただきたいと思います。
 
 つぎに言葉の整理ですが、前回の両生物理学講座、「両方を選ぶ二者択一」 で論じた、「両方を選ぶ」 という考え方ですが、そこで述べられた一般性とその意味をそのようにふまえて、今回では、この 「両方を選ぶ」 という考え方を、 《両方性》 という言葉で代表したいと思います。つまり、私たちが生活してゆく中で遭遇した課題を解決する際、次元を高めた見地から、相対立した選択と考えられた問題を統合して考える視点やそれによって生じる決定を、ひとまとめにして、《両方性》 と呼ぶこととします。

 さて、その次なのですが、表題にあげたように、「セルフ・タッチ」 という、人間の発達上のあるプロセスについて触れたいと思います。以前でも採り上げた脳科学者の茂木健一郎は、その著作、 『脳と創造性』 (PHP研究所, 2005年) の中で、次のように書いています。

 人はその成長過程のその文字通りの始まりにあって、こうして、自分の身体にまつわる境界を確認してゆくわけですが、そのようにして成長してゆく子供は、その成長初期は親のあつい保護のもと、外界に直接さらされることはありません。しかし、やがて学校に通うようになり、徐々に親の手から離れ、社会というものを体験してゆき、さらに成長して、自我という精神的な自分の身体、つまり自身という世界を築いてゆきます。その後、その自我はさらに広い社会と出会い、様々な確執を繰り返しながら大人となってゆきます。
 本来の 「セルフ・タッチ」 という言葉は、こうした幼児期の発達心理学上の用語のようなのですが、私は、これをもっと広く応用したいと思います。

 人はその一生の始まりで、 「セルフ・タッチ」 を通じて、皮膚という境界が自分の身体と外界との境界であるということを理解するのですが、そうした生物的身体の理解につづいて、人は、周囲に親とか兄弟の存在を知り、家族という小社会の存在を認識し、そういう拡大した自分の世界、すなわち、社会的皮膚をもちはじめます。
 まだ学校に上がる前の頃だったと思いますが、私はよく、自分ひとりで、自宅かいわいを歩きまわったことを思い出します。それも、出発にあたって、今日はどこまで行こうと、まだ行ったことのない未知の地点を目標にして(より正確には、自分の知る最遠のある地点を越えその先に行こうと心にきめ)、その遠さがこわさでもあり、また、好奇心を誘われる、そうした小さな冒険を試みました。そしてそうしたチャレンジを終えて無事、家に帰りついた時、ほっとする安心とやったぜといった満足を感じたものでした。そうした、自宅を中心とした放射状の往復という地理的 「セルフ・タッチ」 を繰り返し、自分のテリトリー,すなわち、社会的皮膚の拡大を経験していたわけです。
 その後も、成長とともに、幼稚園やら、入学して学校社会を体験し、そうした自分の世界はどんどん拡大してゆきます。まして、義務教育を終え、高校そして大学に通うようになり、その拡大の速度はまさに加速されます。
 このように、私たちの 《身体性》 は、形状の明瞭な生物的身体性を中心に、その形状は不可視ながら、同心円状の多重な社会的身体性を形成してゆきます。
 それは 「セルフ・タッチ」 という面で見れば、その拡大のたびごとに、それまでに確立された身体性を基盤に、精神的 「セルフ・タッチ」 ――自領域圏内の心地よさと圏外の不安感の間の出たり入ったり――を通じて、より拡大された外的世界に自分の世界を広げてゆくことです。私の場合、その結果は、ある時にはついに国境をも越える拡大ともなり、以前に述べた、オーストラリアと日本が 「地続き」 との感覚にも至ったわけです。
 またしてもの思い出話ですが、二十三年前、私がこの渡豪を決心し、自宅をたたんで他人に貸し、とりあえずの荷物とともにパースに到着した時のことです。三十台半ばの大人であるはずの自分が、まるで、一人旅に出た小学生のように、おどおどと硬くなっているのを発見し、なぜ、これほどにも緊張させられるのかと、自分でも不思議な気持ちになりました。つまり、熟慮の上に自分で決断したこととはいえ、言葉も不自由で事情もよく判らぬ、未知の世界に飛び出した自分は、出来上がっていた自前の 「社会的身体」 の外側に置かれており、新たな社会的・文化的 「セルフ・タッチ」 を、その異世界において、始めようとしていたのでした。

 このようにして行われてきた、様々な段階の 「セルフ・タッチ」 ですが、そこで共通して言えることは、いずれも、上記の 《両方性》 を実行していることで、決して二者択一ではないことです。それにそもそも 「セルフ・タッチ」 とは、内的世界と外的世界の 《両方性》 の追求なくしては無意味です。(そういう意味で、この 《両方性》 の追求を拒む一方を捨て去る強要や要請は、その本質において、非人間性を自己表示しており、あたかも、幼児的人間を求めているかのごときです。)
 つまり、ここで私のいう 「セルフ・タッチ」 とは、どこかに存在する自分=セルフの境界を、その出入りにともなう緊張と安堵を感じることによって体験的に確認する行為です。その 「セルフ・タッチ」 に際し、その境界を静的に固定して、内か外かととらえる姿勢が二者択一であり、他方、その境界を動的に拡大する時に必要な姿勢が 《両方性》 です。

 ところで、この動的な 「セルフ・タッチ」 がこのように明示する、この 《両方性》 の一般性の確認をもって、各論シリーズのひとつとして試みられてきた両生量子物理学は、ひとまずの結論を得たと見てよいでしょう。
 さらに、この 『両生空間』 の発行を通じた私のデジタルな意思表示は、社会的、地理的、文化的に拡大してきた私の身体性が、その最先端で行っている、外的世界との 「セルフ・タッチ」 の一実践です。

 さて、こうして、冒頭にお願いした、今回同時掲載のエッセイ 「両方が選べない仕組み」 に戻るのですが、この最先端の 「セルフ・タッチ」 にあっても、正直に言って、今なお、ある “おそれ” の感覚を伴なわずにはなされません。それは、子供の頃の、遠くまで来てしまったその心細い感覚にも似て、あるいは、オーストラリアに自らを置いたその自分の緊張にも似て、私をそのように、こわがらせます。
 上記のように、私は、この一連の両生量子物理学のシリーズを、 《両方性》 の追求の正当性を証明するために述べてきましたが、それというのも、そこに伴う、この “おそれ” の感覚が何ゆえであるのか、その正体を確かめるためという、いつわらざる気持ちがあったのも確かです。
 つまり、それはある意味で常識となっているように、 《両方性》 の追求には、時に、きわめて強い風当たりがあります。言い換えれば、 《両方性》 の追求は、世渡りの上で言えば、自分で自分の首を絞めることにもなりかねない、愚行にも等しい行いであります。しかし、人が生まれて最初に行う 《両方性》 の追求をはじめ、その後の同様な追求はいずれも、極めて健全で人並みな行為であったはずです。
 私が今回、別掲のエッセイを書き 、こうしてそれを本講座と合わせて読んでいただきたいとお願いしているのも、そういう 「現実」 に言及しないでは、生活うんぬんの議論はありえないと感じるからです。そこに漂う、曰く言いがたい “おそれ” の感覚に触れずして、私たちの生活の実感を欠くからです。

 人として生まれた以上、誰しも、何か事を成して人生を飾りたいのは、当然な欲求でしょうし、モラルでもあります。一方、そうした成功した人生が 「勝ち組」 つまり戦勝者になることを強要する仕組みがあるのも事実です。ここに究極のジレンマ、すなわち、人生上の 「不確定性原理」 があります。
 量子物理学にあっては、そのジレンマの突破が 「メタ客観性」 の発見でなされ、さらに、自称 「異端」 量子物理学者たちによって、物質と精神の 《両方性》 の追求へと発展しています。
 そうした量子物理学上の流れの当両生学における意味は、前回講義のように、それが私たちの生活の上に、「メタ人間性」 の世界というものを提示していることです。以下、その議論を再度、あげておきます。

 最後に、ここでは飛躍となりますが、私は、今や世界の緊急の課題となりつつある地球環境問題は、この 「メタ人間性」 の世界への発展なくしては、その根本解決はありえないのではないかと思っています。追って、議論してゆきたいテーマです。

 (2007年9月14日)

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