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両生学講座 第4期 第4回
私はこの間、見えにくい昭和前半期を一望できる剣が峰に登るルートとして、1935年(昭和10年) 前後の状況にねらいを定め、その開拓をこころみてきました。
その開拓された第一の登攀ルートは、バーガミニの 『天皇の陰謀』 の訳読を経路とする、社会・政治的な切り口でした。その(私には)膨大な訳読作業がようやくこの時期へとさしかかり、その作業を手掛かりにして、先の
「重層タブーの起源」 の特定と 「二重 “国” 格」 の発見を経て、その次の登攀として、切り口を社会から個へと枠組みを転換し、 「重層タブー」 ならぬ 「自己の起源」 の特定をこころみてきました。そして前回、そこに 「シナプス構造の変化」 という自己の臓器的根拠を探り、こうした一連の連関に物的根拠を与えてきました。
以上は、今日の私たちを左右しているらしい戦前からの連らなりを探るにあたって、その探究ルートを、個人の内部に求めてゆく方法でした。
そこで今回から、そのルートの方向を再度転換し、その探究を社会と個の相互関係に求めて行きたいと思います。つまり、社会は個人の集合ですから、その両者には、類似したり、並列したりする、相互影響し合う関係があるはず、と考えられるからです。
ところで、社会の発達と個の発達を相互類推させる論法はさほど斬新な手法でもないのですが、天皇制の問題については、それが 「重層タブー」 で幾重にも
“護持” されているがゆえに、そうした凡庸な論法を持ってさえも、それを対象とすることは、ほとんど手付かずに放置されていたかと思われます。
つまりそれは、以前より私の臭覚が私に教えてきたもので、日本人にとってそういう重たく暗い時代である昭和前半期に関しては、どうもその受け止め方をめぐっても、ましてやその剣が峰の登攀のこころみについてはなおさら、個人と社会を串刺しに貫通する何らかの病理現象があるようだ、と推測させるものです。それをまた、先の個人レベルの議論になぞらえて言えば、そういう
《違和感》 や 《不快感》 に相当するものが、この 《社会的な病理現象》 に深く関連している、という受止め方でありました。
そこで、そうした社会的な “登攀ルート” として、社会の精神面の象徴的分野である文学領域に焦点をあててみたいと思います。そしてその探究の具体的材料として、当タイトルのように、
「昭和文学の可能性」 を採り上げます。このテーマはまた、平野 謙という文芸評論家が1972年(昭和47年)に出版した、同名の岩波新書のタイトルでもあります。
そして改めて驚かされることは、同書が採り上げる 「昭和」 とは、その焦点を、まさに、昭和10年前後に定めていることで、そしてその時代の 「文学の可能性」
として、文学界において展開された主要な論争を評論していることです。つまり、この時期とは、現実社会の変わり目であったばかりでなく、文学上でも同じように特異なエポックであったわけです。よくよく考えてみれば、この両者の同時性は、しごく当たり前なことでもあります。
そこでなのですが、私がその当時、そうとう念入りに読んだその本が、それから40年もへた今、まさかそれを予期していたからではないでしょうが、ここシドニーのアパートにまで延々と運ばれてきていて、この机上にあります。
その黄ばんだ頁を開き、奥付を見ると、 「1972年4月20日 第一刷発行」 とのみあり、発行後早々に手に入れた一冊のようです。
ちなみに、1972年と言えば、私が26歳の時です。結婚の翌年でありながら、妻が病気――後で判ったことですが、それは職業病でした――となり、しかも定職も辞め、まるで自壊の道をたどるかのように、物書き志願などという無鉄砲な、さらなる脱線に取り付かれていた頃です。
この 『昭和文学の可能性』 については、本サイトでも、過去に幾度か取り上げています。その先例―― 「ダブル・フィクションとしての天皇」 第38回――を再利用して本書を紹介しますと、自分の関心点も含め、以下のような解説があります。
- この本は、・・・昭和初期の知性――明治から大正への流れの中で近代的自我に目覚めた――が、軍国化する社会によってもみしだかれる様が文学作品の読み比べから描かれたものです。それを、私の精神史上の位置づけに置き換えて言えば、昭和初期当時の個人に対する社会的プレッシャーと、まだ若い頃でしたが、現代の自分への社会的プレッシャーを対比させ、社会体制としての違いはあれ、同類と感受できるものを見出していたわけでした。
もう少し説明しますと、昭和初期、近代的自我に目覚めた結果の自己が遭遇したのは、「自我の社会化」と呼ばれた、社会科学的な視点から己の生き方を探ろうとする視点で、いわば、人生の左傾化です。昭和初期、そうした左傾化した知識人たちは社会主義思想を信奉し、権威主義化する国家と激突して、検挙、投獄、拷問の結果、片や獄死を選び(あるいは強いられ)、片や転向を選んで生き延びるといった、壮絶な体験を余儀なくさせられた時代でした。
むろん、私が生きてきた現代に、そうした直截な権威主義社会はもはや存在していませんでしたが、私にとっては、それは強要の度合いの違いの問題にすぎず、むしろ、緩慢化され、一見自由意思が尊重されているかの見せかけの形で、精神的悲惨さと貧困さはかえって強化されているとすら感じられたものでした。
つまり、そうした巧妙化された社会の背後で共に存在するものに、同類、同質のものを類推していたわけでした。
つまり、その昭和10年前後に活躍した作家たちは、大正デモクラシーから 「15年戦争」 と呼ばれた日中・太平洋戦争に突入するまでのその過渡期に、いわば近代的自我の目覚めからその暴力的圧殺までの顛末を、凝縮して体験させられていたのでした。
むろんそこには、今日も知られる著名な作家たちが巻き込まれ、芥川龍之介、広津和郎、中野重治、戸坂潤、小林秀雄、太宰治、谷崎潤一郎、志賀直哉、川端康成、亀井勝一郎などなどの作家たち、そして、萩原朔太郎、中原中也、高村光太郎、荻原碌山などの詩人・彫刻家も、その圏外にいられたわけではありません。
バーガミニの著述はそうとう広範なものですが、それでも、文学領域まではカバーされていません。しかし、その議論範囲の背景において、昭和10年前後は、そういう日本の社会の文化、芸術、精神面においても、やはり、重たく暗い画期を形成していたのでした。
その 『昭和文学の可能性』 でいう 「自我の社会化」 とは、そういう戦前日本社会の知的課題の焦点であり、ひとつの知的関門でさえもありました。そして、そうしたさまざまな悶絶のなかから浮上してきた観念、
「近代の超克」 は、いわば戦後のポスト・モダニズムの思潮にも似て、日本の歴史ある “日本性” に着目した脱・近代を志向したもの――あるいは、
「超克」 と偽装して、時代に迎合してゆく現象――でした。
これを本稿との絡みで見れば、昭和10年前後に生じた一連の光景は、そうした日本の政治、社会、文化、精神の多面において見られる 《屈曲》 現象のそれぞれであり、それは、戦後に生まれた私のような個が、そうした
《屈曲》 を直接には体験していないながらも、ただ過去のこととは見捨てては置けぬ何かでありました。そしてそれがようやく、戦後社会に漂う 「臭い」
の感知を手掛かりに、冒頭に述べたような本講座第四期の三回の議論を経て、一連の歴史的魔術の種明かしができそうだとにらんでいるわけです。
ところで、読者にはやや重複の印象を与えるかも知れませんが、以下の引用を、そうした戦前日本社会の 《屈曲》 が、私という一戦後世代においても、ある種の
“学習遺産” として働きえていたひとつの実例として挙げたいと思います。すなわち、私は数年前、自分の半生記 『相互邂逅』 をまとめたのですが、その第17回でも、この 『昭和文学の可能性』 がやはり取り上げられ、当時28歳の自分にとって、それがどのように位置していたのかが再認識されています。
そこに表されているのは、戦後日本社会が、急速な経済成長の歪みを矯正しつつ、まさに爛熟期に向かっている1974年(昭和49年)当時の、そういう日本社会との、私なりの関係です。すなわち、74年9月16日の日付で、やはり 「社会化する自我」 とタイトルを付して記録された、ひとつの “歴史的” エビデンスです。
- 私の内で、いわゆる非政治的資質というものをめぐって分裂と混乱の極を呈しつつあったものが、〔一年以上にわたって取り組んできた結果、一ヶ月半前、妻の職業病に労災認定が下されたことを境とした〕 上向きを契機として、一定程度の整合化の方向へと向いてきた。心情的には確かに安定と意欲向上の姿をあらわしている。私が通ったこの変化とは、一体何が実質であったのだろうか。
この間、私は平野謙の評論
「昭和文学の可能性」
を再度読みすすめることで、人間の持つ政治と非政治にまつわる両極を峻別しえる人間性に対し、その相方を基盤として、何とか平衡を保って立っていることが出来るようになったと感じられている。そして、この私のぶつかっていた壁の意識の実体は、個的自我が社会的自我に覚醒するその抵抗感であったと位置づけられよう。
- (中略)
- 「自我の社会化」 のひとつの視点とは、そうした断たれた空白区間に連続的つながりを伸ばして行くことだ。
- 改められるべきは、その臆病性ではあるまい。 〔改められるべきは〕 それを個的な病的資質として押し込められてしまうことだ。そして、むしろその飛躍を嫌う判断こそに、ひとつの積極的意味があるのだ。それがあってこそ、思想に血肉が付加されてゆくのだ。
- 【注】 〔 〕 内は今回の引用に当たって加筆。
昭和戦前期の場合、若き自我は、国が突き進む方向により、まずは思想的弾圧にさらされる自己と社会の間の相克から、やがてその国の戦争突入により、その相克は死の問題の相克として体験され、出征かあるいは兵役回避かと二者択一の問題として苦悶されてゆきます。
むろん、戦後の “平和” な時代では、 「戦争を知らない」 私たちが、そうした熾烈な問題提起にさらされることはありませんでした。しかし、いかに戦後の
“平穏で豊か” な時代とはいえ、それが戦前と何らつながっていない、あるいは、自分がしている体験が、戦前のそれと何ら重なり合わないと感じ得るほど、二つの日本の時代は隔たってはいませんでした。むしろ、戦前のその熾烈な経験こそ、戦後の緩慢な経験の凝縮であるとの、通底するものこそが感じられたわけでした。
そうして、繁栄を見せる戦後社会の一角で、私は私なりの葛藤にさらされ、独り、偏屈な道を選んでいました。ここには、私風の 「近代の超克」 が見出せますが、それは、
「超克」 というより、あえての 「参入」 という、白黒はおろか、肯定と否定の判別すらつかない撹乱状態を見せる、戦後型の “熾烈さ” の体験でした。
ことに、 『昭和文学の可能性』 に当時発見した、広津和郎の 「みだりに悲観もせず、楽観もせず」 との言葉は、そうした戦前を生きた精神が伝える戦後世代の私へのメッセージであるかのように受け止められ、私の胸に強く響いたのでした。ちなみに、戦後、大江健三郎が原爆病院長重藤文夫のすがたを描いて
「絶望しすぎず、希望をもちすぎることもない」 との表現をしているところにも、同質のものを感じます。
そういう実際的な精神にも教示を受けて、先にも書いた、 「しのぎ」 を避けられない市井人のありように、私は、それを 「生活者」 と呼ぶ、自分のあり方をめざしてきています。
(2012年6月11日)
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