「両生空間」 もくじへ 
 「もくじ」へ戻る 
 前回へ戻る


第十章
海軍力(1929-1930)
(その4)



我が道を行く裕仁

 1930年9月までには、宇垣陸相の職務怠慢もなんとか常態へと戻り、統合国防計画の概略やそれに必要な積算が、軍の各部署から、予算編成にあたる大蔵省の官僚へとまわされ始めていた。諜報部長の建川は、三羽烏の筆頭、永田の援助をえて、宇垣陸相と西園寺を清算されるべき仇敵にさせていた銀行家、知識人、そして政治家に対する威圧を考え出していた。
 建川は、部下の諜報専門家をもちいて、 「全般情勢精査」 の年報を新たに革命的な内容へと書き直させていた。それまでの数年、この暗号的な表題は、英国やフィリピンといった潜在的な敵国内部の政治的、経済的、軍事的状況の詳細な報告の表紙を飾っているのが常だった。だが、この1930年版は、日本自身が逆に精査されており、その結論は、要するに、腐敗した政党と財閥が、天皇の真に指導的権威と軍や企業内の天皇の配下たちの間にあって、両者の疎通を阻害するような介入を働いているというものであった。その汚点を除去し 「国家態勢」 を完璧なものとするために、日本を 「総力戦へと動員」する 「国防国家」 へと変貌させる、昭和維新、あるいは、裕仁革命が達成されなければならないとするものであった。(25)

 1930年版 「全般情勢精査」 による威圧は明瞭だった。すなわち、日本の政治家および事業家のいずれも、統合国防計画のために資金協力するか、あるいは、総動員体制に徴発されるかのいずれかであった。そしてその効果を高めるため、この威圧は広範に放送され、さらに建川諜報部長は陸軍青年将校の中で物議をかもす論争をあおる組織の結成を後押しした。この組織は当時の注目をあつめ、歴史家の中には、そこに日本のファシズムの源泉を見る者もいた。それは、歴史的に暗殺を目的とする組織によく用いられた 「桜会」 という名前で呼ばれ、命をおしまぬ若手つわものの組織を象徴した。(26)
 まさしく老練政治家となっていた西園寺は、自らの自由主義派閥へ注がれる攻撃とその集中に、むしろ敬服すらさせられていた。ある宵、杯を傾けながら西園寺は、自嘲的な気分にひたりつつ、自分の政治秘書である大兄の原田男爵に、こう告白していた。浜口首相の生涯に残された満足があるとしても、それは、 「まるで靴の上から足を掻くようなもの」(27) にすぎない。
 1930年9月15日、西園寺のため息ながらの了承をえて、ついに浜口首相は自らを断念した。そして裕仁の枢密院会議の席上、彼は、今後の秘密の海軍力増強のために必要な予算を獲得する全責任を負うことを約束すると明言した。枢密院の議員たちは意地の悪い質問を繰り返したが、浜口はそれにこう返答した。 「我々はたがいに〔天皇に仕える〕内部関係者だ。そこに論争の余地はなかろう」。そして次の枢密院会議は、陸海軍元帥府がその秘密統合国防計画を推進し、海軍軍縮条約については裕仁の認可をえるよう上申することを決定した。原田の記録によれば、枢密院においてのこの突然な転換は、軍縮条約についての論争が、裕仁を 「いらだたせ」 始めていると、ある枢密院議員が議長に私見を述べたためであったという(28)



ライオン殺し

 予算確保に努めるという浜口首相の言葉を信じ、1930年10月2日、裕仁は海軍軍縮条約に署名し、彼は自分の関心を、政治から軍事へと大きく転換した。1928年末、裕仁から満州征服計画をまかされた石原大佐は、1930年9月、自らの作戦案詳細を裕仁と参謀本部に提出していた。裕仁はそれに満足し、より重要な長期的海軍増強計画がまとまるまでの間、それを一時保留しておいた。海軍増強計画は、その大半が山本海軍少将――その後の真珠湾攻撃の立案者――の手によって書きあげられた。その中には、ひとつの計り知れない重要性を含んでいた。すなわち、海軍航空力のもつ究極的有効性への山本の強い信念であった。(29)
 ロンドンの軍縮会議以後、山本は熱心に、四隻の航空母艦からなる日本の機動艦隊の飛行甲板上で、海軍操縦士に全天候作戦の訓練を行っていた。二十人を越える操縦士が着艦に失敗して死亡していたが、山本は、その年の海軍大演習において海軍航空隊の存在を披露することにより、宮廷が彼に与える信頼に応える用意をしていた。1930年10月の第四週、裕仁は海路、瀬戸内海に向かい、彼の乗る戦艦の艦橋よりその訓練を視察した。
 10月22日、裕仁が東京を留守にしている間、浜口首相は国家予算案を内閣に提示した。海軍大臣は満足からはほど遠かった。その新国防計画に当って海軍側が要求した5億円(2億5千万ドル)に代わり、政府が用意していたのはおよそ3億円であった。その後数週間、交渉が重ねられた。西園寺は彼の秘書、原田に、海軍予算を4億円を越えさせないよう注意を促した。それは、国民を煽りたてる口実にされる恐れがあったが故だった。
 西園寺は強い語調で言った。「ドイツでは、国民はほぼみな戦う気概を持っており、扇動には安々と乗せられない。そのため、政治的統制は困難なことではない。しかし日本では、事態はまるで国民が簡単に共産主義者に変じ得るかのごときだ。その意味で、私の懸念は、ドイツではまったく無用なのだろうが、日本では、何かが成されない限り、指導者の中の軍国主義者が、私の最大の恐れを現実のものとするように考えることだ。」(30)

 10月26日、海軍の大演習は、山本海軍少将と彼の飛行隊の偉大な勝利のうちに終了した。 「白艦隊」 の航空母艦艦載の魚雷攻撃機は、 「青艦隊」 の戦艦を演習上、沈没させた。
 10月27日、若い右翼団体員――黒龍会により設立されたある地方愛国団体に属していた――佐郷屋 留雄
〔さごや とめお〕は、浜口首相を暗殺する目的で汽車で東京にやってきた。彼は、海軍増強のための5億円に代わり3億円を提示した首相は、天皇との約束を破ったものと受け取っていた。しかし、車中で佐郷屋は、後に警察に語ったところによると、「ひとりの親王#10に遭遇」し、彼から、その行動を延期するよう説得されたという。(31)
 刺客の佐郷屋は、ただちに浜口を暗殺することはやめ、市内を首相についてまわり、予算論争が展開されている間、暗黙の圧力を加えた。西園寺の政治秘書、原田は警察から、「誰かが首相のあとを付け回している」と通知された。東京の官憲はその追跡者をむしろ注目さえしていた。警察を管轄する内務大臣の安達謙蔵は自ら黒龍会の一員で、1890年代、朝鮮の王妃の殺害に関わることで、皇位に取り入っていた。彼の配下の警察はその尾行者を追い回しはしたものの、逮捕しようとはしなかった。
 浜口首相は、まさしくライオンのごとく、そうした威圧に動じなかった。11月9日、彼はついに、海軍大臣を3億7400万円の予算で妥協させることに成功した。それはあたかも、浜口が大きな勝利をし、彼がいまだに健在であるかのようで、そこで彼は、日本政府の機構を根本的に改めることを、勇敢にも語り始めた。浜口の語るところでは、天皇への付属機関である枢密院を含め、すべての事実上の立法機関を内閣の最高権威のもとに統括することが彼の大願だった。首相奏薦者西園寺はその目的に好意的で、自分の政治秘書に首相を激励するようにうながした。原田は、その西園寺の言葉を宮中で報告した。
 1930年11月の第二週のある宵、大兄の近衛親王は五百木良三
〔いおぎ りょうぞう〕の訪問を受けた。五百木は雑誌 『日本及日本人』――1929年に国防についての特集号を出し、海軍軍縮の論争に火を付けた――の発行者で60歳になる無骨な人物だった。五百木はまた黒龍会の創立メンバーの一人でもあり、1921年、近衛に原首相暗殺を事前に告げたその人物が彼であった。1930年の今、彼は近衛親王に、同様な災難が浜口首相にも降りかかるとほのめかしていた。そして彼は、「事態はこれから次第に動き始める。二月か三月の適当な時に、何か大きなことが続くだろう」、とつけ加えた。(32)
 1930年11月13日の夕方、大兄の原田男爵は、浜口首相邸で、一時間半にわたって私的な時間を過ごした。天皇は、陸軍の大演習に臨席していて、東京を留守にしていた。浜口は原田に、彼の政府再編成構想、新予算の意味すること、裕仁の枢密院や陸海軍の参謀本部の権力削減について説明した。原田は、首相邸を去る時、意味深長に、「どうぞお体にお気をつけて」 と告げた。(33)
 原田は帰宅し、「何も不幸なことが起りませんように」 と、その日記に悲観的に書きこんだ。
 刺客佐郷屋は、その夜、東京の最上の女郎屋のひとつで過ごしていた。その費用は、彼を慰労するよう、あるパトロン――警察は後になってもそれが誰かを明かさなかった――によってまかなわれていた。翌日の1930年11月14日の午前9時、西園寺の秘書の原田と近衛親王が密談を交わしていた際、電話が鳴った。侍従の一人が、5分前、浜口首相が天皇も参列する陸軍の大演習に出かけるため東京駅で列車に乗ろうとしていた所を撃たれたと告げた。暗殺者佐郷屋は東京駅のプラットフォームの人ごみの中から、モーゼル8型拳銃を発射し、その弾丸で浜口に致命傷を負わせた。(34)
 その場に居合わせた二人の医師が、駅長室に運ばれた彼に付き添った。その医師の診断では、彼の意識はあったが、彼の苦痛は甚大だった。脈拍は90に達し、腹部は大きく膨れ上がって危険を表わしていた。
 原田の小太りの体が見物人の人垣を押しのけて進み、浜口の体を見た後、無言のままその場を去り、駅長室の電話で数回、誰かと話した。原田はそして列車に乗り、西園寺に報告するため、二時間離れた興津に向かった。
 襲われた浜口は、 「最悪となった」 と口にした。午前11時30分、彼は東京帝大の病院に運ばれ、部分麻酔をほどこされ、X線写真をとった。彼は2パイント
〔約1リットル〕の血液を失い、小腸に八カ所の穴があき、付近の弁膜にはもっと多くの穴があいていた。大学病院の外科部長#11が、20インチ〔50センチ〕の小腸を切除して管を縫い合わせた。背中側から診査し、彼は骨盤帯の奥深くまで達していた弾丸を発見したが、それを安全に取り除くことはできないと感じた。そこで彼は浜口を縫合し、250グラムの血液を輸血した。彼は、浜口が生き残る確率を60ないし70パーセントと判断したが、迎える国会審議で彼の予算を通すには余りに弱りすぎていると危惧した。
 浜口が撃たれた時、裕仁は東京から300マイル〔480キロ〕〔岡山〕の大演習の野戦指令部にいた。そこで浜口 「災難」 の報を聞いた時、悲嘆の念を表すとともに、浜口が職務を果たせない間、日常の政府運営を行うための代理首相を選ぶよう内閣に指示した(35)。内閣はそこで外務大臣の幣原――後の1945年、マッカーサーの下で自らの権利で首相となる気取った日本外交穏健派――を選んだ。
 ライオン宰相浜口の霊魂は、その後9ヶ月間、政界の森の周辺をさまよい続けた。彼は、思わしくない手術を何回かへて、1931年8月26日、ついに他界した。西園寺も思いを同じくする立憲政府首相として国を治める彼の夢は、かくして彼の死とともに、事実上、消え去った。と同時に、彼の平和への夢も閉じられることとなった。
 警察はその暗殺犯を長々と取り調べたものの、犯人佐郷屋留雄が海軍制限条約の国会通過の際の浜口首相の動きに腹を立てていたということ以外には、何らの重要な詳細を明かしはしなかった。かくして、世論に関するかぎり、事は終息した。佐郷屋は、彼の取調べと裁判に関わった様々な警察上部の保証をもって、収獄されないままその後三年間を過ごし、1933年11月6日、ようやく死刑の判決を受けた。しかしその三ヶ月後の死刑執行の前夜、裕仁によって恩赦され、自由の身となった。その後の彼は、佐郷屋嘉昭
〔よしあき〕との名で、姿を見せぬ手に支援されながら、1960年末まで〔1972年没〕国民的英雄として生き、日本の右翼の集会においては、常に、扇動的な演説をして貢献した。(36)


 つづき
 「両生空間」 もくじへ
 
 「もくじ」へ戻る 
                 Copyright(C), 2011, Hajime Matsuzaki  この文書、画像の無断使用は厳禁いたします