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「思考と言葉は、人間の創造をもたらす分野であり、現実を変えるための道具である。知的に活用されるのを待つその真の富の素晴らしさを得るため、私たちは、それを未活用の人たちに、研究・開発もしくはひたすら考えることを、生涯の友とするよう示す必要がある。人間は、生存への公民権を失う恐れなく、真に考えることに挑み、それに基づいて行動できねばならない。」――バクミンスター・フラー〔アメリカの思想家、デザイナー、発明家、1895-1983〕
私たちの種は、100万年以上にわたって進化、発展してきた。大洪水前文明が記憶から遠のいた後、人類はおよそ4000年を要して、素朴な道具を高度な技術へと発達させてきた。物的技術は今日の先進的な社会にかなりよく組み込まれているが、次のフロンティアは人間の心とコンピュータの接触にある。そうした発明が行われた際、その将来に何が起こるかを想像してみよう。未来学者のレイ・カーツベイルは、2045年までに訪れる「特異点」を予見している。その時点で、コンピュータがあらゆる面で人間を上回り、世界は過去1000年に起こった変化を10年間で済ませてしまうという。技術進化は、もはや論点にはなりえない。そこで私たちは、自分の心を進化させてゆくのである。私たちの生涯の中で、霊性的自己実現、浮上、テレパシー、アストラル投影を体験し、すべての銀河を探索し、タイムトラベルを経験することが可能となるだろう。可能性には限りない。
大衆は、百科事典、テレビ、新聞といった事象世界の一方、クロップ・サークル、UFO目撃といった「多次元的異様性」と共に、我を忘れさせられている。だが、いかなる確証をもってしても、それらのいずれも、私たちの存在のレベルには浸透していない。だがもしこの浸透が起こると、私たちの想像を越えた変化が出現し始めるであろう。私たちのもっとも突飛な夢の中で、この地球の行方が、今や誰も判っていないとしてみよう。そこで私たちがことさら明らかにする必要があるのは、大衆の目覚めを妨げ、ひいては、私たち各々が生得する霊性的進化への障害物を、いかに克服し始めるかである。
近い将来、もはや、憎しみ、無知、恐怖、欲求、支配、お金、退屈、孤独のため余地はない。愛、平和、慈善、思いやりだけが人々の感情の主となる。恐怖は監獄であり、そこからの唯一の脱出口は愛である。私たちは、誰とも何とも、一体となりうる。痛みも傷つきもない。何も私たちを止めない。私たちが本当に成長する種として学び、誰一人として取り残されることのないよう、私たち個々がより完全な人になるために利用できる技術がある。あるものは新しく、他は非常に古いものである。それはまず、落ち着きを保ち、知恵を求め、今の瞬間を抱きしめよう。私たちは永遠であることを忘れないでいよう。今の苦痛は、すべて錯覚である。
もし、私たちが種として変わることは到底不可能だと考えるのならば、ここ数十年間にアメリカで人種問題に関係する態度がどれだけ変化したかを考えてみるべきである。ちょうど50年前、南部の州は依然としてクー・クラックス・クラン(KKK)によって恐怖を抱かされていた。しかもそれは例外的なことではなく、南部では人種の分離が当たり前であった。人種的狭隘と憎悪の名のもと、フリーメーソン、モルモン、クリスチャン、企業のビジネスリーダーらを擁する暴力の組織的ネットワークは、アフリカ系アメリカ人などをテロの対象としていた。彼らはまた、ユダヤ人に対する憎しみを含む極端な白人覇権主義を主張し、その犯罪行為の大部分は未摘発でさえあった。今日、KKKはそうした犯罪行為のために孤立化し、犯罪者として裁判にかけられ、かつて国を二分した人種平等の目標も、完全なノルマではないとしても、いまや大勢が認めるものとなっている。もし、私たちが現在の欠陥ある制度のいずれにも変革を目指すことから始めれば、マクロレベルの社会的変化は、一生涯のうちには大いに可能である。ユートピア社会は、まず私たちの心の中で始まらなければならない。
状況がどうであろうと、私たちは肯定的態度を忘れてはならない。この写真は、1960年、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、彼の家の前庭から焼けた十字架を、彼の息子と一緒に取り除いているところである。1920年代初期から1960年代にかけて、焼け十字架は南部諸州をおおうヘイト犯罪であった。クー・クルックス・クランは民権運動に反対し、キングの暗殺を実行した。今日、KKKは、人種差別的アメリカの汚点に引用されることはあっても、その存在意義は失っている。一方、キングは、国民の祝日のひとつに、その名を掲げられている。私たちはともに、変わることができる。(with permission, (C) Brad Olsen, 2018) |
人間は誰しも、お互いに生物学的につながり、化学的に地球と結ばれている。しかし、宇宙への私たちのつながりはどうあろうか。現代物理学は言う。宇宙は統一体であり、それは分割されない。私たちは分離され、異なった世界に住んでいるように見えるが、物理学は、その表面の下で、宇宙のすべての物体と出来事は他のすべての物体や出来事と完全に組み合わされていることを示している。真の分離はない。私たちは真実に、惑星そして宇宙はお互いに一体である。宇宙は統一体と定義されるだけでなく、愛によっても定義される。宇宙は、アルバート・アインシュタインとイエスが全く異なる方法で語っていた両者が、同じものである。この現実の新しい画像はしだいに現れるだろう。それを描こうにも、現実は、広大すぎ、複雑すぎ、単純化を寄せ付けないほどに神秘的すぎて、あまりにも絶対的に完全である。だが本質は、その「膨大な画像」は、宇宙を、より高次元の力つまり――何千年にもわたって人間が使ってきた用語で名付ければ――「創造者」あるいは「神」をもって、進化し、多次元で、かつ、その微小粒子までをも知るものとして顕示しているのである。
私たちの惑星は、国境、不和、そして領土によって区分されている。国は、有限な資源、経済的優勢、そして宗教的卓越性をめぐって競争し合っている。私たちは戦争と極度の貧困にさらされている。こうした本惑星状況から遠ざかってみよう。規模の比較上では、私たちの太陽系は、サハラ砂漠の砂の粒でしかなく、しかもその中の小さな惑星が私たちの唯一の故郷である。にもかかわらず、無謀にも私たちはその資源を汚染し、枯渇させている。私たちは、自分の種が制御不能なほどに繁殖し、それにより他の種の存在を危機に陥らせている。海洋のプラスチック廃棄物〔のおおう範囲〕は小規模国よりも大きくなっていながら、それを止めるための包括的な戦略は持ちえていない。私たちの惑星に害を及ぼしている産業は非常に強力であり、クリーンな技術より短期的な利益を優先させている。政府、司法制度、メディアはすべて利益追求組織の影響を受け、その行動はしばしば人類の幸福と衝突している。世界は明らかに、多くの善良な人たちで満ちている。しかし全体としては、私たちは基本的に崩壊しているシステムを続けている。私たちは間違った道を進んでいる。では、これらの不吉な傾向をどのように逆転させ、よりユートピアな世界を作り出すことが可能なのか。まず最初に、その内部から見てゆこう。
無限の愛が唯一の真実である。他のすべては錯覚である。私たちの人生に怖さと怒りは避けられらないものだ、との信念に惑わされてはならない。確かに、そのような反応はとっさの習慣ではある。だが、自由意志とは、私たちの苦痛反応に気付き、異なった反応を選ぶことを意味する。その感情に根差す私たちの選択は、私たちだけの選択である。重要なことは、自らに仕えず、代わりに愛を選ぶ、習慣的な反応に気づくことにある。真の愛は、空間や時間そして境界がないことを知るべきである。それは無限である。制限がないため、感情だけが境界を作る。だが私たちが高揚すると、私たちは、自身の存在のいっそう精妙な面についての意識を獲得し、すべてのものがつながり始める。最も簡略な言葉で言えば、意識はエネルギー、愛、意識、光、知恵、美しさ、真実、そして純粋さである。あなたが自己の存在の迷路に迷わず、考えるよりむしろ感じるることができる深みに到達し、そして、信じるよりむしろ知る必要をそこですべて返上する時、あなたは、真に前進する現実を作りうる場所に到着することとなる。天文学者のカール・セーガンは、「私たちのような小さな生物にとって、広大なものは愛によってしか支えられない」と述べている。愛と同情は、奢侈品ではなく必需品である。それなくして、人類は現在の居場所にそれほど長くは生き残れない。
この地球上のどこかに、どの国もその占有を主張できない場所がなければならない。その場所とは、善意、誠実さを願うあらゆる人びとが、世界市民として自由に生きることができ、至高の真理という一つの権威にのみ従うことの可能な場である。そこは、平和、協働、そして調和の場であり、人間の戦う本能が、すべてその苦しみと悲惨さの原因の撲滅と、その弱点と無知の克服と、そしてその能力の限界や不足を乗り越えるためにのみ使われる場である。つまりそこは、霊性の必要と進歩への考慮が、欲望と情熱の満足や快楽と物質的楽しみの追求よりも優先される場所である。
その場所にあっては、子供たちは自分の心との接触を失うことなく、統合して能力開発され、成長することができる。ひとつのユートピア像が、「一貫性の法則」――既知となったすべての新情報を子供に与えることを許す――を導入してゆく。保留されるものは何もなく、利用可能なツールはすべて誰にも利用できる。教育は、試験に合格し証書と地位を得るという視点からではなく、既存の部門を豊かにし、新しいものを生み出すために行われる。各世代は、前世代に知られたすべてのものの上に立って構築するでしょう。子供が大人になれば、地位と役職は仕えるに足るほどの意味はもたなくなる。そしてそれは誰もに、平等に提供される。このユートピア像では、知的、道徳的、霊性的な優位性は、人生の快楽と権力の強化にではなく、深い満足のいく職務遂行と徳性ある責任の達成において表現される。
絵画、彫刻、音楽、文学といったあらゆる形態の芸術美が、社会的または財政的影響力を持つ人々だけでなく、すべての人びとに同じように提供される。芸術家は、彼らがもたらす楽しみを共有する機会を伴って、その栄華を奨励される。芸術家の燃える心は、世界を変える炎の始まりである。
こうした理想的な場所では、お金はもはや主人公ではない。そしてお金は、その存在を停止する。物的富や社会的地位よりも、個人的なメリットがいっそう重要性をもつ。仕事は生計を立てることを第一の目的とするのではなく、能力を開発し、潜在能力を発揮すると同時に、グループ全体に貢献を提供する手段となる。
要するに、それは、以前ではもっぱら競争と闘いに明け暮れていた人間関係が、より大きな善のための協力と協業に基づくものとなり、真の尊敬の関係と兄弟愛を育む。いったんこうした場が花咲けば、世界の他の部分もそれに続くに違いない。私たちは誰も、壮大な冒険の淵に立っている。そして、私たち一人ひとりがその旅の充足を味わう度合いは、もはや私たちには無用な筋書きを取り除く程度によって決まると言える。

近ごろ、「真実」という標的は揺れ動いている。私たちはグローバル経済を持っているが、それは、地球を維持し、復元し、新しくするより、実際のところ、地球を破壊してしまう方が安上がりだと告げている。人類は銀行を救済するためにお金を印刷できる。だが、世界を救済するために生命を印刷することが可能なのだろうか。現在、私たちは未来を盗んで、現在に売りつけ、それを国内総生産と呼んでいる。私たちが地球を搾取するたびに、私たちは人々を搾取し、果てしない苦悩のもとを作り続けている。 地球を守るとは、豊かさを得る方法ではなく、豊かである方法なのだ。ユートピア社会の概念は、どこからどこまで、限りなく地球を尊重し、すべての生き物を保存することだ。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)
ダライ・ラマに誰かが、世界で一番驚いたことは何かを尋ねた。彼の答えは「人」で、その理由はこうだった。「人はお金を稼ぐため、自分の健康を犠牲にするから。そして人は、自分の健康を回復するためにお金を犠牲にする。加えて人は、未来がとても心配なため、現在を楽しめない。その結果、人は現在にも、未来にも生きていない。そういう人の人生は、あたかも決して死なないかのようで、かつ、その人は決して生きたことののないまま、死んでゆく。」
幸福は、暗闇の中でさえも、光を灯すことさえ知っていれば、いつでも見つけることができる。世界は私たちの鏡である、と言う古い諺のように、これも幸福を通じた健康に適用される。もし人々に光を見せれば、暗闇はもはや重要ではないようである。私たちがこうむっている苦痛の多くは、実際には私たちの考えによる。そしていつかは、私たちは誰も、体を離れる。死は恐れるべきではなく、ただ理解すべきものである。時には、光を理解し、感謝するために、暗闇の中を行かなければならない。テレンス・マッケナは、この課題をこう的確に述べている。
世は無常です。これが唯一、人生から、幻覚作用から、あるいは注意を払って、学ぶことです。永続するものは、ほとんどありません。そう説く仏教徒らは、冗談を言っているのではありません。あなたは、ほんの瞬間ここにいて、あなたの思うがまま、望むことを何でもできますが、だが実際には時間は過ぎ去っています。あなたはそこで何をするつもりですか。あなたはそんなことは無視しますか、それとも快楽主義者に成り切りますか。あなたはそれについて、何をするつもりですか。ほとんどの人々が没頭してそれにのめり込めば、よりたくさんの地獄が、注意と傾倒と意図をもってなされるでしょう。そして、彼らは常に――目的を持て――と語っています。・・・私はいつも高速道路上で、死がでいまにも襲ってくると考えてしまうので、それを整理する時間がありません。数ヶ月も数ヶ月もかけて、それについて考え、人々と話をし、そして彼らが言わなければならないことを聞きます。それは一種の祝福です。それは確かに、成長し、把握し、整理するいい機会です。白いコートを着た無表情の男に、あなたは四カ月のうちに間違いなく死のうとしている、灯りを点けなさい、と告げられるだけなのですが。・・・それは人生を豊かにも痛恨にもします。最初にそれが起き、そう診断を得た時、私は永遠の光、ウィリアム・ブレイク式に言えば、すべての葉が輝いているのを見ることができるのです。つまり、地面をはっていた一匹の虫が、私に涙を流させるのです。
地球上のユートピア的なシナリオを追求するにあたり、人間は、ひとつの戒律が必要である。すなわち、「他者(人間以外の他者も含む)に自らの欲することを成せ」である。この戒律によれば、人々は何でも自分が望むことを成せる。だが、何であろうと自らの欲望にそって望めるが、それは他人に害を与えない限りである。つまり、暴力、恐怖、怒りはこうして、もはや人々の感情の中に位置しえなくなる。また、あなたの感情的な道具箱から怒りをなくすことが、あなたの最大の利益になる。肉体があらゆる病気に罹りやすいように、怒りと激しい心配は、生命物体的な存在のすべてを不活性化させる。それに対し、愛情は体を再充電する。自然界は神秘界に発する。混沌が秩序を生む。あなたの思考は、はかない存在に見えるが、意外にあなたを支配する力がある。
著者不詳の物語『スピニング・ギャラクシーの愛』は、宇宙の高次元存在を代弁している話だが、その表現によれば、私たちの至高の目的は、自己を研鑽して完成させ、ここ地球上に天国を共に創造することである。この呼びかけを聞いて私たちは、この数十年に目撃してきた大きな変化のさ中で、敏感であろうと決心してきた。この問いかけに応えて私たちは、恐怖と孤立の幻想が私たちを追い立てているこの惑星を、進化の惑星にしようとしている。求められる才能と資質を持っている人たちは、この問題多き惑星の平和使節として働き、純粋に愛の存在を具現化し定着させることによって、地球の周波数を上げ、変化させるよう呼びかけている。上の愛の物語では、私たちはそれぞれに、新しい現実の創造者、黄金の諧調の実現者になってゆく。また他の場面では、私たち一人ひとりは、目覚めた意識と、純粋な愛と、思いやりをもった献身の姿勢に心を同調させ、「感性のナビゲーター」であろうとしている。太陽の使者あるいは聖火保持者として、私たち一人ひとりはすでに光を高く掲げうることを体験している。そして、この愛の物語は私たちに、変化へと導くガイアとその子供たちを後押しするため、地球の誰もがもろ手を挙げて変貌することを希望している。
この物語が告げているのは、私たちが忘れてしまった構想である。だが、私たちの各々が子供のような無垢と信頼を思い出すなら、私たちは地球のために、脱皮運動における調和した拡大をなせるだろう。そして私たちはそれぞれの戦略を、多くの場合、地球上の最も情緒的に緻密な地域で、実現させるであろう。ある人たちには、愛を断たれるとの錯覚が、頼りなさ、絶望感、孤立感を生むかもしれない。しかし、私たちの人間性を取り入れることで、私たちが受け入れる愛は二重の深みへと変わり、その光は私たちを加速させる。
この探究に参加する私たちの各々の選択は、純粋に任意である。だが、この地球の変化への移行は、極めてまれで貴重であることを忘れてはならない。あなたがいったんこの使命を受け入れることを選択すれば、意識にまれに提示される量子的跳躍をえた化身が生じて、すべての触媒となり生成をなしとげる機会をえるだろう。あなたが、女神ガイアと彼女の子供たちとの――彼女の光明の儀式を完成する際の――舞いを選ぶかどうかは、あなた次第である。
だからゆえにそれは、スピニング・ギャラクシー――その星々の間では、信義ある同盟、連邦そして協議会を無数に締結し、惑星「地球」のその決定的出来事を支援し、その実現を選んでいる――での輝きの始まりであり、眠る地球からの目覚めなのである。地球人を、蔓延している孤立と忘却の幻想の覆いから目覚めさせようとの構想には、安全機構すら組み込まれている。そのガイアの援助を求める栄光の人たちは、お互いの思い出を呼び起こし合うことに同意している。このように、星に種まく者たちは、音、色、光、映像、言語、そして記号(その光明への取り組みを忘れないための共鳴振動)による、多くの手段で解読し合っている。このように交信し合った手がかりは、創造的芸術や音楽、魅力的な外見、スピーチや感情など、どこにでも現れうる手段で合意され、目覚めへの深い共感と愛の実現となっている。
そこで、創造主「スピニング・ギャラクシーの愛」は、私たちの各々を魅了して、至高の呼びかけに達せよと言えり。だからこそ、地球の子供たちである私たちは、古くて新しい神話の約束を実現する虹の戦士によって用意された、記憶の水に浴しているのである。愛の働きを地球に定着させるだけで、私たち各々は愛情こめて神を隠すものを取り去り、癒しと愛の波動をガイアの熱心で寛大な身体に行き渡らせる。そういうこの時にあなたが出現すると、あなたの贈り物が他人を目を覚まし、力を与える。笑い、歌、踊り、ユーモア、喜び、信頼、そして愛の道具を使って、私たちの各々は、二元性と分離の古い神話の限界を変え、変革の強力な波を地球上にもたらす。
この物語では、私たちは、ガイアに代わって人間の特性を活用するよう奨励されている。意識の超新星では、ガイアとその子どもたちは、輝く光の服をまとって上昇して愛の光体を形成し、星々のひとつに生まれ代わる。そしてその神話の呼び声は響きわたり、偉大な探求が始まる。つまり、虹の戦士、銀河同盟、連邦、協議会からの輝く存在の目覚めである。この瞬間に新たに形成された古代スカイウォーカーは、ガイアへの愛の無条件の贈り物として、あなたの真のアイデンティティの美と力の中に位置する。自己疑心はやめよう。私たちはそれぞれ神の子供たちである。心が求める、あなたの偉大な資質を分かち合えるところへ行こう。魔法と光に降伏しよう。奇跡は地球上に現れる。私たちはここで、一つの心のために、踊り、歌おう。
ここ地球上には、それを自己認識しているかどうかにかかわらず、自身の必要と目的に応じた非常に多くの異なる生命形態がある。誰も悪でも善でもなく、誰も他よりいっそう「特別」でもない。すべて、ただ、そうあるだけである。その一方、私たちは確かにETには会いたくない。というのは、彼らは、私たち人類が「低次元生命形態」を扱うのと同じように、私たちを扱うからである。私たちというある種がその必要に応じ、他の種を「養殖」するとのコンセプトを考えてみよう。そして、そうする中では、私たちはその必要を面倒みなければならない。牛を飼育するときは、捕食者からの保護、新鮮な食べ物や水、病気の治療を必要とするのである。それは一見、「野生」でいなければならない場合よりも、より良い扱いとなるだろう。ET状況の厳密な「真実」は、本質的にこのシナリオに等しい。いかにして、私たちは、私たちが作られ、操作され、そして養殖された種であることを、私たちの心を失うことなく、受け入れられるのだろうか。「エリート」は、「農場」の監督者として設置され任命され、その血統の完全性を維持することが主な関心事である。必要とあらば、彼らの「指示」は私たちの数を増やすことで、それは、文明全体の創造とコントロールを手段としてなされる。
人類はそもそも〔地球に〕宿る者であるという見方の一方、この惑星に厳密にかつ意図的にそのように捕獲されたもので、この惑星は一種の監獄となっていると捉える者もいる。この見方によれば、私たちがここにいる理由、つまり私たちの魂――実際のあなたや私――は、作られたものであるということを自己証明していることとなる。そして完璧なユートピア世界にしてみれば、そんな〔おぞましい〕ことが可能となるわけがない。
UFOに関連しかつユートピア的エソテリック情報の大部分は、本書の姉妹書『Future Esoteric:Unseen Realms〔邦訳:「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性〕』に述べられているので、本書ではその重複は避けたい。しかし、私たちが現在、ユートピア前夜状態のこの惑星にいるとの文脈では、地球上には悪意のあるETの存在があり、その存在が長い間にわたっているということに言及せねばならない。だがその一方、友好的なETの存在もあるのであり、私たちはいくつかの理由で彼らとは非常に強固な結びつきを保っている。私たちは、そうした「いい者たち」――非介入の仕方で私たちを世話している――をもつ幸運にめぐまれており、彼らは、悪意のある影響を取り除くよう、私たちを援助している。
私たちは奴隷ではないが、私たちは悪意もつETによっていくつかのレベルで操作されている。それでも、私たちは彼らから恩恵を受けている。私たち人類が、60年も経ないうちに、鉄道馬車から宇宙シャトルに乗り変えれたことは、一体、他にどのように説明できるだろうか。私たちがそれを成しえた唯一の理由は、私たちが助けられたからだ。現代のロケット工学の父であるハーマン・オーベット博士〔1894-1989〕でさえ、かつてこう述べている。
UFOは、非常に高次の知的存在によって考案され、実用化され、重力場を歪ませ、重力を使用可能なエネルギーに変換して推進する。私が見るに、こうした物体はある種の惑星間宇宙船であることは疑いない。私と私の同僚は、彼らが私たちの太陽系には由来していないのは確かだが、火星やその他の天体を一種の駅のように使っていると考えている。彼らはおそらく太陽系に発するのではなく、私たちの銀河系でさえもないだろう。
このコメントは、1954年内になされたものであるのは確かで、1954年10月24日付のThe American Weekly 誌に引用された以下の彼の発言と矛盾していない。「空飛ぶ円盤は本物で、他の太陽系からやってきた宇宙船である、という論文は私のものです」。1960年、退職後の記者団への声明で、彼はこう語っている。「私たちは、ある科学分野だけにおいては、我々の記録的前進があったとは自賛できない。私たちは助けられてきた」。そこで記者が「誰によって」と尋ねると、オーベルトは暗に「他の世界の人々」と答えた。
そのようには見えないかもしれないが、より高いエネルギーが生まれつつある。そのエネルギーは、私たちを、そうなろうと目指してきた、いっそう純粋な存在へと方向付け、形付けている。私たちは、間違ったシステムの崩壊段階に入り、そしてそれを促進させることができる。というのは、私たちはそれぞれ光をもっているからである。コメディアンのビル・ヒックスは、この新しい時代をこう展望している。
みんな、目を覚まそう。進化の時がやってきた。だから我々は悩んでいるんだ。 判っているだろう、私たちの制度はもう役立っていない。教会にしろ、州政府にしろ、なにもかもだ。それは、もはや私たちとは無縁だからだ。私たちは進化し続けれるはずだ。進化は私たちと、向かい合い続けて、終わらなかった。あなたは知ってるね。私たちの脳には、まだ働かせなくてはならない別の90パーセントがある。・・・私たちは自身の創造的進化の推進者だ。私たちは自身の想像力の産物だ。
私たちが困っている人々のために思いやりを失ったとき、私たちが誰かの世話をする能力をそいだとき、私たちが仲間の苦しみを無視するとき、何が失われるのでしょうか。まったく単純に、それは、かつて私たち一人ひとりが向上に立ち上がることを可能にした資質、かつて私たちを人間にした美徳である。私たちの世代の最大の発見は、人間が心の態度を変えることによって人生を変えることができることだ。私たちは、考えるように、なるべきだ。
ニコラ・テスラは、誰もの人生を改善するテクノロジーを手がけた素晴らしい発明家であった。彼のアイデアは、しばしば純粋なインスピレーションの瞬間から生まれてきた。彼の想像と創造の能力は、計画や図面を描く前に、彼の発明がどのように働くかをビジョン化できているものだった。これは、テスラが生涯、左脳と右脳の両方の思考様式を発達させ、彼の生存中、両者を育成し続けたために可能となった。彼は自分の能力をこう説明している。
神秘的な体験を受け入れられないのは、知的無能力どころではない。有機体と環境の基本的な統合について気付けないことは、深刻かつ危険な錯覚である。巨大な技術力を備えた文明では、人間と自然の間の疎外感は、知的な自然との協力ではなく、自然の「征服」という敵対的な精神の中で、技術を使用することにつながる。
私たちの感覚は、外界のわずかな部分だけを知覚しているにすぎない。私たちの聴覚は小さな距離の範囲内のものである。私たちの視覚は、介在する物体や影によって妨げられる。したがって、お互いを知り合うためには、私たちの感覚の領域を超えなければならない。私たちは知性を伝え、旅をし、物質を輸送し、存在に必要なエネルギーを移転しなければならない。ニコラ・テスラは、彼の驚くべき発明が、情報を感知したという感覚に始まる。彼は言っている。「私の脳はただの受信機であり、宇宙には核心があり、私たちはそれから、知識、力、インスピレーションを得られる。私はこの核心の秘密を解明してはいないが、それが存在することは知っている」。
1890年代、ニコラ・テスラは、自分の発明を使って世界に革命を起こした。そうして実用にもたらされた電気上の発明は、誘導電動モーター、交流(AC)電流、無線電信、無線リモコン、蛍光灯などの科学的な驚異である。今日の技術時代を切り拓いたのは、トーマス・エジソンの直流(DC)ではなく、ニコラ・テスラの交流(AC)であった。テスラは彼の栄光に甘んじることなく、エネルギーと物質の分野で抜本的な発見を続けた。彼は、ミリカンの数十年前に前に宇宙線を、マルコーニの前にラジオを発見し、そして、X線、陰極線および他の真空管の初期開発者であった。
しかし、ニコラ・テスラの最も重要と考えられる発見は、電気エネルギーが地球や地球の周囲のシューマン・キャビティと呼ばれる大気ゾーンを伝播して得られるということだった。そのゾーンは、地球表面から高度約80キロメートルの電離層まで広がっている。8ヘルツという電磁波のきわめて低い周波数――シューマン共鳴あるいは地球の磁界の波動――は、事実上、地球上のどの地点へも、損失なしで伝播できる。テスラの配電システムとフリー・エネルギーへの彼の献身が意味したことは、その電力伝送に正しく調整された適切な電気装置をもってすれば、世界の誰でも電気を取り出せるということだった。
ワーデンクリックフェ無線システムは、電線なしで地球上のどの地点とも信号や電力の両方を送信する世界最初のシステムとして計画された。テスラの無線電気のコンセプトは、海上船舶、飛行中の航空機、産業および運送業に電力を供給し、そして、世界中のすべての場所と瞬時にコミュニケーションを発信するために使用されるものであった。その送信塔の最終的な使用についての J・P・モーガンとテルサの間の紛争のために、モーガンは資金を撤回してしまった。その金融家の典型的なコメントは、「誰でも電力を引き出せるならば、メーターはどこに置くのだ」であった。
この利益と電力の供給販売への脅威は、大きすぎるものであった。テスラの発見は地球自身の持つ無料のエネルギーを集めるもので、それは、財政支援の撤回、主流科学界からの追放、そして歴史書から彼の名前を徐々の抹殺を結果した。テスラは、1895年には科学的なスーパースターの地位を得ていたが、1917年までには実質的に「法的弱者」とされ、事実上の隔離状態の中で、小規模の科学実験を行うことに限られてしまった。にもかかわらず彼は、真実がただ後回しにされるだけであることを知っていた。「宇宙中にエネルギーが存在し、たとえ動的だとしても、確かに私たちはその存在を知っており、人間が自分の機械をその自然の歯車装置につなげるて成功するのは、単なる時間の問題である」。
テスラは、無線で動力供給され、しかも排気ガスを出さない、大型〔エレクトリック〕カーの運転を実証した。1931年の夏、ノキア・テスラ博士は、1800rpmのAC電気モーターを搭載した豪華な「ピアース・アロー」〔ロールスロイスの上をゆくアメリカの超高級車モデル〕セダンを路上でテストし、「エーテル」からエネルギーを取り出すよう調整したレシーバーによって電源が供給された。彼はニューヨーク、バッファロー近くで、彼の養子の甥――テスラの死後そのテストの体験を語った――といっしょに運転た。もしこの技術が進歩し、改良され、規模が拡大されていれば、今日では、たった一例の排気ガスも存在していなかっただろう。
科学は、倫理的に中立であるべきことを忘れてはならない。倫理的に中立ではあるが、科学的知識は蓄積的であるため、歴史と人間の進歩も蓄積的であるという錯覚をもちやすい。そうした科学や技術は単に人類の野望に役立つだけである。残念なことに、企業や政府によって与えられた細分化した任務を超えた、より広い視野をもっている科学者はほとんどいない。彼らは暗闇の技法を使用し、かつ、その結果に盲目であることが多く、セキュリティと監視のシステム、環境破壊のシステムに固執し、集団的奴隷化と人口の大量抹消をもたらす。私たちが環境破壊に舵を切る時、搾取と死から利益を得る機関に忠誠である多くの専門家、科学者、技術者に対して、自分自身を戦わせねばならない。
合理的な世界――生態系を保護し、公平に配分される持続可能経済を構築する世界――は、科学者や技術者によっては、私たちに決してもたらされることはない。彼らのほぼすべてが、搾取の推進者と同盟関係にある。科学に関与する良心を欠く人々は、彼らの産物が自身と私たちにまで歯向かってくるまで、休みなく推進し、搾取し、虐待し、技術と科学の恐ろしい道具を完成させる。そして今、彼らは私たちを完全に支配できなさそうなので、彼らは私たちを破壊しようとする。
貪欲な人間が運営しているシステムが、核爆弾を作り出した。彼らのプラントは、タールサンドから油を抽出した。彼らはアパラチア地方を、石炭を採取するための荒れ地に変えた。彼らは、グローバリズムと金融の悪魔に仕える。彼らは化石燃料産業を経営する。彼らは大気に炭素ガスを放出し、海を汚染し、両極の氷を溶かし、干ばつと洪水を引き起こし、熱波や異常な嵐やハリケーンを解き放つ。私たちがそれを認識するかどうかを問わず、第二次世界大戦後、ポーランドのアウシュヴィッツと日本の広島は、人類と技術が驚異的な惨禍を生み出した記念碑となった。
それは望みなく見えようとも、それを変える方法はある。革命は、意識の根本的な変化に左右される。変化は、多くの様式を通して始まっている。同じく、世界のリーダーや産業を引きずり下ろすのではなく、ソーシャルメディアを通じて、世界を良くすることを始めるよう仕向けることができる。私たちは、これがうまくいくことを知っている。なぜなら、歴史は、リーダーや産業が世論に従わなければならない、でなければ失敗する、ということを繰り返し示してきたからだ。合法的なグローバル民主主義の創造は、ソーシャルメディアから始まってすでにオンライン化されている。これはまた、重要な問題についての意見、懸念、投票を表明できる方法でもある。いつかこのシステムを使えば、代表政府を廃止し、最終的にマネーシステムを終わらせ、さらには生活のために働くことを終わらせることさえできる。偉大な発明家、バックミンスター・フラーは――インターネット時代の前、1983年に亡くなった――、社会の優先事項の誤りについて言わざるを得なかった。
私たちは、誰もが食うためには働かなければならない、といういかにももっともらしい考えを無くさなければならない。今日、1万人に1人が、世界を支えることができる技術的なブレークスルーを成すことができるというのは確かである。今日の若者たちは、生計のために稼ぐというこのナンセンスを絶対的に正しいと認める。私たちは、この誤った考え――マルサスとダーウィンの理論によれば、自らの存在権を得るためには誰もが何らかの形でばかばかしく雇用されなければならない――のゆえに、仕事をでっちあげ続けている。だからゆえに私たちは、管理者と管理者を管理する装置を作る人たちを管理しなければならない。人々が真に成すべき仕事とは、学校に戻り、誰かがやってきて食うために働かなくてはならないと告げる以前に、彼らが考えるべきことが何であるのか、それついて考えねばならないことである。
何百万人もの人間を消滅させる能力を持つ武器システムについて、あまたの科学者がアメリカ中の研究所で働いている。これは「合理的な」企てだろうか。それは倫理的だろうか。それは、人間の種を前進させるのだろうか。それは生命を守るのだろうか。科学者は、ヒポクラテスの誓い――人を害することなく、倫理的、誠実に科学を適用する――をした医師と同様に、善のみに向かうと宣誓する必要がある。
DhammavadakaまたはShravasti Dhammikaは、謙虚なウィットを利かせて、自分は偉大なラマの5番目あるいは9番目の生まれ代わりでも、また、エンパワーメントやイニシエーションも受けていないと言う。彼は、いかなる血統の所有者でもなく、また、まだjhânasのいずれをも達成していないとも言う。jhânasは瞑想の状態であり、そこでは、心は5つの障害(欲求不満、嫌悪、怠惰、興奮、疑い)から自由である。 Dhammavadakaは間違いなく、私たちの無常観に関し、以下のように、知恵の言葉をさずけている。
あなたは、この世への旅行者であり、ただ、通り過ぎているだけでことを常に覚えておきなさい。あなたの滞在は束の間だが、出発の時がいつかは判らない。誰も辛苦なくは生きられず、あなたに必要をもたらす手技があるのは恩恵である。しかし、もしあなたの苦役に休養がなく、疲れと困憊があなたをとらえるなら、あなたが労働を終えた際の喜びはない。静かに親切に話し、意見や助言を押し付けないようにしよう。もし話し過ぎるなら、あなたには他者の言うことが聞こえなくなる。あなたは、他者から学べる賢明な人が、ほとんどいないことを知るべきである。助けが必要な時には近くにいて、賞賛やお礼がなされる時は遠くにいなさい。力、富、名声は控え目に受け取ろう。というのは、それらはすぐに通り過ぎ、忘れられる。代わりに、あなたの中の愛を育み、誰もの友人になるよう努めよう。本当に、思いやりは多くの傷のぬり薬となる。それが必要なら、沈黙を珍重しよう。そして、あなたの任務に留意しながら、時間とともに独自でいよう。
偽りや自己欺瞞から脱却し、あなたの本当の自分自身を見なさい。どんな外見にもかかわらず、本当の悪人は誰もいない。彼らは無知によって迷わされている。あなたがこの真実を常に熟考すれば、あなたはそれを責めたり非難したりせず、より多くの光を提供するだろう。あなたはすべての存在以上に、仏陀の質を持っている。あなたの根底の心は純粋です。したがって、つまずきや転倒が原因で汚れてしまっても、あまりにも悔しい思いをしないでよい。自分を許して、学んだ教訓に注目しよう。歓声とこの理解にあって、強さを招き、歩き続けなさい。信念はランプのようであり、知恵は炎を明るく燃やす。このランプを常に持ち歩き、楽しい時には闇が去り、あなたは光の中に自分を見る。
ユートピアに関するどんな話も、満足して前向きな人々を含まねばならない。私たちがそこに到達する方法は、私たちの高い自己をその内に見て、自らを活性化することである。いかなる師であろうと、エゴは失うに足るに美しいものだと言うであろう。自分自身を上回って考えなさい。なぜなら、この人生は、慈善活動に、思いやりに、そして知恵の中に生きる限り、あなたのものであるからだ。より高い感情に自分自身をゆだね、否定的な感情を追い払おう。焦点を当てた考えが鍵となる。あなたが欲し、成功させたいことを、選べるような力を持とう。あなたが人生で欲しいものを愛する力を持ち、そしてそれを正直に愛そう。森の中を歩いて自然の一部になる力を持とう。自分の人生をコントロールする力を持とう。誰もあなたに代わってそれをすることはできない。あなたの人生を幸せにする力を持とう。ポジティブな状態で生活するだけで、病気のリスクが大幅に軽減される。あなたはその人生の使命に必要な、あらゆるユニークな能力、知識、才能を持って生まれている。あなたを他の誰とも比較する必要はない。自分が喜びの源になり、批評家や嫌悪者が世界に不平を言うのは勝手にさせておこう。外に何が起こっているかに関わらず、平和な内なるものを選んで自分を導こう。ただあなた自身であることが、光りの始まりである。
あなたの考えは、あなたの内の振動を活性化させる。私たちについての他者の思考でさえ、もしそれに気付けば、私たちが自分についての考え方に影響を与えている。再び、相互関連した複雑なネットワークは、非常に、非常にリアルである。幸福の追求を維持するために、どのように振動を制御することが可能か。ただ、あなたらしくいよう。あなたには、他よりも優れたことをすることができる。内なる声に耳を傾け、あなただけのものとしてそれに従がおう。あなたは、振動とエネルギーの出力を持つ、生きた磁石である。あなたの人生に引き付けられるものは、あなた自身の考えと調和している。要するに、あなたをもっと幸せにすることを実行しよう。そして、愚かになってはいけない。成功は幸福の鍵ではない。幸福が成功への鍵である。

ヒエロニムス・ボスの最も有名で非凡なこの絵は、「地球の喜びの庭」と称され、1500年頃にマドリードのプラドで描かれた。この三部構成の祭壇画は、三位一体をなし、恐らく貴族の個人的な楽しみのために作成された。その名は、中央部の美しい庭園に付けられたもので、そこは、豊かな果実や牧歌的な景色を眺めながら、裸の婦人や巨大な鳥で満たされている。その三部構成は、世界の歴史と罪の進化を描写している。左側より、世界の創造から始まって、アダムとイブの物語から、右側の地獄の苦痛、暗く、氷っている不快な悪夢のような原罪の視界へと続く。中央部の喜びの庭は、罪深い喜びに深く関わっている世界を示している。私たちが動くにつれて私たちの暗い過去の拷問や罪を越えて、ユートピア時代の約束が今私たちに迫っている。新しい三部構成画は黄金時代を描くだろう。(with permission, (C) Brad Olsen, 2018。カラー版はウィキペディアより)
これはシャムのワチラーウット王(ラーマ6世)の肖像写真で、法曹界のシーア・クーリ・ガウンをまとっている。1918年、タイ王のワチラーウットはユートピア社会を想像し、そこでは、人々が理想的自由と幸福の中に暮らしていた。彼はこの場をDusit Thaniと呼んだが、それは文字通り翻訳すると「天国の町」であった。タイの人々は現在の王をそのような高い関心を持って敬っているのは疑いない。(with permission, (C) Brad Olsen, 2018)
【本章完了】
参考文献
Dialogues of Plato: http://www.sacred-texts.com/cla/plato/
Duff, Godon. “Gordon Duff Interview, 3 Hour Marathon (video).” Veterans Today . n. page. Print. http://www.veteranstoday.com/2012/12/09/
gordon-duff-interview-3-hour-marathon-video/
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Modern Esoteric: Beyond Our Senses, by Brad Olsen
http://cccpublishing.com/ModernEsoteric www.bradolsen.com
with permission, (c) Brad Olsen, 2018