「学問のすすめ」と聞けば、誰しも福沢諭吉のそれを思い浮かべることでしょう。明治5年(1872年)にその初編が出版されました。142年前のことです。
ここに「新学問のすすめ」と題してネット出版するものは、しかし、こう申しては不遜ながら、その開化思想の今風焼き直しではありません。つまり、「“新”学問のすすめ」ではなく、「“新学問”のすすめ」です。
ただし、この「新学問」とは、学問と聞いて連想されるような、小難しい書物やそれを教える学校を意味するものではなく、むしろその反対のものです。敢えて言えば、《反学問》といっていいかもしれません。
ひとことで言えば、この「新学問」とは、権威をともなって上から教えられるものではなく、私たち一人ひとりの《生きる感覚》として、自分自身に根差すものから「学びとろう」というものです。
そうした「新学問」は、諭吉の「学問のすすめ」を起点に今日まで、一世紀半にわたって植付けられてきた一連のものの考え方、いわばそういう常識を、その根底から改めるものと言ってよいでしょう。
そしてもし、こうした「新学問」を生き方の伴侶とするならば、その人生を導くものは、少なくともこれまでに常識とされてきているような価値観とは一線を画すもので、その人生路も、きわめて異なった道行きをたどるものとなるでしょう。
であるからこそ、この「新学問」は「反学問」と呼んでみても差し支えないものです。つまり、物理学の世界に「物質」と「反物質」があるように、私たちが親しんできた常識の世界にもその「反対世界」があるようであり、旧来の常識とは、よく言っても、世界の半分を越えるものではないことです。それどころか、宇宙全体で言うならば、それを構成する全物質のうち、私たち人類が知りえているものは、全体のわずか4.4パーセントにすぎないといいます。これまでの世界観のそれほどばかりのはかない存在を、改めて考えてみる時がやってきていると言えましょう。
ちなみに、一対の物質と反物質が反応して消滅するとき、その質量の200パーセントのエネルギーを発生させるといいます。ところが、今日の原発に使用されている核反応では質量のわずか千分の一、太陽の核融合反応ですら百分の一がエネルギーに変換されるだけといいますから、それはそれは次元の異なる世界です。
もしわたしたちが、自分にまつわる「学問」と「反学問」を反応させえたとすると、そこに、旧来をはるかに越える人的エネルギーとその働きが発揮される可能性がひそんでいます。むろん、そこに放射能など、まったく発生しません。
そういう《物的世界と心的世界》が交接し合う、「“新学問”のすすめ」です。
ではそのまずはじめに、本書の出版方式上の選択について少々。
すでにご覧いただいているように、本書は、ネット出版を通じ、フリーで出版している“書物”です。ハードプリントした、いわゆる「本」としての出版物ではありません。
私は、このネットかつフリー出版という方式に、ひとつの手段的可能性を見出しています。というのは、本としての出版とは、既成のいずれかの出版元の手をへ、その名が冠せられ、値段がつけられ、宣伝もされてその販売ルートに乗せられて読者の手に届くというルートをへます。つまりそれは、出版という事業がそれなりの専門性や設備やそのノウハウを必要とした時代の方式です。そしてそうして出版される本は、そうした既成の権威の磁界に置かれ、その支配力の下の一連の慣行や評価や値踏みのもとの産物となります。早い話が、「売れそうもない本」は永遠に出版されず、それが人目に触れることはまずありません。
しかし、もし、別のインフラが発達し、書き手側がそれだけの必要手段を曲がりなりにも自ら備え、しかも、その磁界を振り切ったその圏外の世界をも描こうとする時、その圏内での出版に依存する必要は見出せないばかりか、無意味でもあります。言うなれば、インターネットが、かって存在した百科事典出版――豪華なセットが常だった――という“恐竜”事業を絶滅させたように、それが「恐竜」と化していない生物であるなら、それなしでも生き抜いてゆけるはずです。
今後の各章を読めばご理解いただけるように、この「新学問=反学問」の核心は、外からの評価や測定をできる限りなくし(無視を前提にしているわけでは決してありません)、読み手自身の無色透明で無拘束な判断と呼応しあってゆくことが決定的に重要だ、というところにあります。いうなれば、既成のルートに乗った段階で、もはやその出版の趣旨は大なり小なり損なわれているのです。
むろん、ネットによるフリー出版自体にも、何らかの限界――作者の“体力”や、読み手も誰でも完全に「無色透明で無拘束」に利用されうるものではない――はあります。つまり、現実的に選びうる可能な方法として、この方式がそうした外的制約を最小化するものであると考えます。
それは、誰か未知の人と出会う時、何らの予断もなく、自分がそう決めたとも思えぬ、ほとんど偶然のようにも起こった出会いが、もっとも新鮮で劇的であることと似ています。
以下に述べるように、次元をまたぐ新旧が問題とされる時、片やの世界から他方の世界の観測や測定は、もはや、有効な手法とはならないのです。
さて、前置きはこれくらいにして、この第1章のタイトルは「量子的生き方」です。
ではこの「量子的」とはどういうことなのか、本題に入ってゆくこととにしましょう。
この「量子」という用語は、もう周知と言ってもよいでしょう、物理学から来ています。
1900年、溶鉱炉生産を探究していたドイツの研究者が、温度とそこから出る光というエネルギーとの関係が、ある温度を越えると、それまでの連続的に変化する関係でなく、「とびとび」の関係――グラフで言うと、斜めになめらかに変化する線でなく、階段状にぎざぎざに変化する線――を示すことを発見したことに、量子という考えの始まりがあります。そして1905年、アインシュタインが「光量子仮説」を発表し、この解釈により、1921年のノーベル物理学賞を受賞します。つまり、光として発散するエネルギーは、それまで考えられていたような波ではなく、粒子ではないかとの考えの始まりです。
こうして、物質の元となるもの――「量子」と名付けられます――が、波と粒子の両方の性格をもつという難題に遭遇します。「真理はひとつ」といいますが、それまで、そもそも「元」というものは、ひとつしかないはずだから「元」であったわけですが、それが二つになってしまったわけです。これは“えらごと”です。
こうした難題を出発点に、従来の古典的物理学では常識とされていた見方に多くの疑問が提出され、以来、哲学や宗教までをも巻き込む遠大な議論が展開されてきました。その結果、それまでの常識をくつがえした新たな物理学が生まれてきています。それが量子物理学(通常「量子力学」とよばれる)です。
こうした物理学上の発展は、今日では科学技術方面にも応用され、昨今のIT技術のめざましい発展をも支えて、産業上の進歩にも結びついています。
そのようにして到達してきた今の先端の量子物理学の特徴を、『ようこそ量子』(根本香絵・池谷瑠絵共著、2006年、丸善ライブラリー)と題した書物から引用してみます(ちなみに、この本の著者の一人の根本氏は「量子コンピュータ」の開発者です)。
その中で著者は、古典物理学と量子物理学を比較する以下のようなリストをあげています(同書、p. 36-8)。
《古典力学の場合》
1.自然における変化は連続量である。
2.物質の性格には大きく「波」と「粒子」の二つがある。
3.万物の世界を支配しているのは(古典)物理的な法則である。
4.物質の運動は、「運動方程式」で求められる。
5.物質は、初期状態を明らかにすればその運動(軌道)を決定できる。
6.物質の状態は、客観的事実であり、観測によって違いが生じるべきではない。
《量子力学の場合》
1.(量子は)とびとびの値をとる。
2.物質には、「波動と粒子の二重性」がある。
3.ミクロの世界を支配しているのは量子的な法則である。
4.物質の運動は、「波動方程式」で求められる。
5.物質は、空間的な広がりをもって確率的に存在する。
6.物質の状態は、観測されることによって変化する。
しかし、こうした発展は、今や、物理学や科学技術の分野に終わるものではなく、哲学、倫理、宗教の領域にもおよぶ、考え方の大変革をもたらしつつあります。そしてその大変革の兆しは、そうした権威世界内の“学際”的発展にとどまらない、むしろ、そうした体系の枠組みすら取り払って越境し、新次元の世界がその舞台として登場し始めているようです。
従って、上の最初の二つのリストの各々の項目の「学的」説明については、ここでは深入りしませんし、その立場にもありません。ただ、物理学など別世界のことと受止める方々も含め、もしその専門世界のあらましでもつかみたい向きは、まず上記の本などから始められてはいかがでしょう。ことにその前半は、とても平易に書かれています。
つまり、私がここで採り上げる観点は、むしろ私たちの日常体験感覚の方が、物理学の知識の範囲を超えるところがあり、そういう意味では、新旧物理学上の知識への深入りをあえて避けます。そして、二つのリストをその原表現のままにとどめ、それをそれなりに読んでいただき、読者の直観に頼っていただいた方が理解の早道かと思います。
さてそこでですが、こうした物理学上の進展からヒントをもらい、私は、以下のように、「新学問」上の特徴を、同じく6項目にわたり挙げてみます。
《新学問の場合》
1.人間の意識は「とびとび」に発展する。
2.人間の存在には、「二重性」が避けられない。
3.脳の神経細胞の世界の根底には量子的な現象がある。
4.意識の活動は量子的である。
5.意識は、多次元的な広がりをもって確率的に存在する。
6.意識の状態は、測定されることによって疎外される。
読者のなかで、すでに本サイトに掲載してきた他の諸記事に接した方は、この第三のリストを見て、私がこれまでに述べてきたいろいろな議論が、この6項目のそれぞれに、どことなくか関連していることにお気付きかと思います。
むろんそうした議論は、様々な分野の私なりの理解を総動員した結果のものですが、いずれの議論でも強調しているように、何と言ってもその土台は、毎日の生活上の経験――それは度々、「生活者」とも表現されています――です。決してけっして、各種学会の権威や学位がゆえのものではありません。誰もがそうである、一人ひとりの人間が日々を生きている、それが発想の主たる源となっているものです。
次回以降、ほぼこの6項目の特徴にそって、「新学問」というのは何か、を述べてゆきます。
その全体を眺望するこの章では、上記のように過去ほぼ一世紀にわたった物理学上の発展が、そうした特定の学問の発展に終わらず、私たち一人ひとりの生活や生き方にも関連して、人生上の知恵とも結びつけられそうだとの展望を提示するものです。言うなれば、そうした学的発展も一世紀にもおよべば、そろそろその果実は、世界の個々の人々にも分かち与えられてもよいほどに、熟してきているのではないかと思う次第です。だからこそ、それは「“新学問”のすすめ」であるわけです。
もちろん、極めて専門的で精緻であるそうした現代物理学上の知見が、どのようにして私たち個々に関連するのか、その捕えどころの難しい関連性の科学的根拠については、おおいに疑問視されるところではあります。
しかし、私がこうして「新学問」とそれを呼び、さらには「反学問」とすら提起するものは、その「新」あるいは「反」とする観点の核心とは、そういう疑問視をも疑問視する、そのもう一歩の踏み込みにあることをことを強調したいがゆえです。つまり、ある学問自体が旧来の学問の次元の境界を越えたものになろうとする際には、その思考の中身全体を、がらっと反転させたり裏返したりする飛躍が必要だということです。
言い換えれば、私たち一人ひとりが、すでに生まれつき持ち備えている世界や“宇宙”に耳を傾けさえすれば、こうした「新学問」も「反学問」も自明のことであるという、主客の反転にあります。
今日の現実世界を見渡してみれば、日本の原発溶解・核汚染放置の問題を含め、世界をおおう禍(わざわい)の深さには、もはや世界は、あたかも自身の終末に向かって急いでいるかとの忌々(ゆゆ)しさがあります。
その頼るべき何ものもが消え失せたかの時に、それでもなんとか希望を見出す手掛かりのひとつは、そうした反転に着目することにあるのではないかと思う次第です。
後の章でより詳しく述べてゆくつもりですが、たとえば上のそれぞれの比較リストの第6項目にあるように、「物質の状態は、客観的事実であり、観測によって違いが生じるべきではない」から「物質の状態は、観測されることによって変化する」との進展は、物理学の世界において、物質の元をなす微細粒子の実像がいわゆる観測ではとらえきれないことが、科学的事実として解明されてきているということです。
そこでですが、そうした解明は、私たちの生活と切っても切れない「測定されることによって疎外される」感覚――例えば私たちの日常のひとこまとも言うべき「君の人間的価値は、その給料の額に等しい」――とどこか酷似しています。つまり、そうした解明と、私たち一人ひとりの実像が既成の権威やその実務による断定や想定ではとらえ切れていないばかりか、その生きいきとしたエネルギーまでも疎外され殺されてすらいる現場シーンとが、重なり合って見えないかということです。
以下の各章で明らかとされるように、私たち自身の意識のあり方と、こうした最先端物理学の知見とが、どうしてこのような類似性をもつのか、その不思議さの厳密な科学的解明は今後の課題ではあります。
しかし、少なくともひとつの仮説としてそうした一連の類似性は提示できます。そして、刻々と禍々(まがまが)しさを深める切迫した現実世界にあって、その科学的解明の進展にそれはそれで期待しつつ、その一方で、まさに待ったなしの実人生や実生活へのそうした仮説の適用を、「新学問のすすめ」とのタイトルのもとに、こうして述べてみようとするものです。
人生とは畢竟(ひっきょう)、自分による自分の実験であり、誰にも泣きつけるものではありません。それは権威がいみじくも言う、「自己責任」そのものの行為の実践です。それが、そういう自分の責任の範囲のことであり、自分の人生の実行の意味であるのならば、たとえ仮説であろうがそれを採り上げることは、それこそ、私たちの名による、私たちの自由であるはずです。