第7(最終)章 次元新たな融合を求めて

今日、世界をながめてみて、いずれを見ても、狭苦しい我利々々根性が蔓延し、不必要ないざこざをあえて招いているような光景ばかりに行き着きます。たしかに、アメリカという最強の覇権国が衰退途上にあって、世界ににらみを利かしてきた重石の戦線離脱という国際政治上の情勢変化はあります。しかし、最後で二度目の世界大戦の惨劇の終結から80年余りが経過し、それに至った経緯と教訓が、もはや忘れ去られてしまったかのような、あまりにも浅はかな、新たながら無益な国際的紛争と駆引きの時代に入ってきています。他の機会にも書いたように、私という戦後初の世代は、むろん直接の戦争体験はないものの、子供時代、その硝煙の臭いの消え去らぬ社会の雰囲気をかぎながら育ち、また、その戦争実体験者の文芸作品等を通じ、その体験をあたかも近親者らの体験――何も語らぬ父親も戦争帰還者の一人だった――であるかのように身につまされて受止めつつ成人してきました。そういうこの世代にとって、戦争という政治手段は、それこそ憲法第9条が宣言しているように、国際紛争の解決手段として、決してそれを採用してはならない禁断の手であると、心底からそう受け止めるものがありました。その思いは、無数ともいうべき命であがなった、それがゆえに後世にひきつがれるべき“逆数的社会遺産”です。そうした意味とその認識が、じりじりと浸食、忘却され、なし崩しに削り取られている日々が続いています。この「新学問」が、なんとかそうした進行を食い止める一助になれればと、そうした切なる思いを込めるものがあります。

 

既述の各章で強調してきた本学問の基盤は、私たちの毎日の生活です。そういう基盤をもった私たちを、本学問は、「生活者」とか、そうした経験による知見を「生活の知恵」とかと呼んできました。

こうした、いわばありきたりな分野への傾注は、巷の「人生談義」ならともかく、ことに学問と名のつく働きにあっては、正規の対象とはされぬ埒外への関心に過ぎませんでした。

それでも最近では、この領域に注目する動きは現れてきており、たとえばそれは、その現れ方は急進運動的ですが、労働の搾取を地球規模に蔓延させ、生み出された富はほんの一握りの人たちに集中しているというグローバリズムに反対する若い世代らのスローガン、「I am a 99%」に垣間見られます。

また、もっと精緻な学問的取組みの分野では、たとえば、脳科学者の茂木健一郎の言う、「世界知」と「生活知」というアプローチがあります(「作品としての脳」参照)。これは、いわゆる諸科学が扱う知見を「世界知」とよぶ一方、それには汲み上げられない私たちの身近な体験上の知見を、「生活知」と呼ぶものです。そして、茂木はこの概念を、科学が取り扱う繰り返しうる実験結果にもとづく普遍的知見に対し、私たちの生活が持つ一回限りの体験の持つ貴重さに注目を置いて採り上げています。つまり、本「新学問」に引き付けて言えば、この「生活知」という概念は、本学問のいう「生活の知恵」と同等なものと見てよいかと思います。

ただ、私がこの「新学問」でとりあげる視点は、その「生活知」と同等な概念が、茂木のいうそうした個々の体験の一回性の貴重さは言うまでもなく、その「一回性」の集積したものを人間一般に共通する諸要素として備えた、「ヒューマン子」という概念に次元を移動させたところに特色をもっています。つまりそれは、個人的体験ではなく、私たち一般の、それこそ上記の「99%」の共通体験であります。

そして、そういう個人性という特殊性は、この「ヒューマン子」の考察にあっては、揺らぎのある現象中の「確率」の問題として、ある種の幅の内に含められて、様々な要素を加味しうる概念であり、それがゆえに抽象性の高い概念となっています。

 

本「新学問」が、そうした展開を持ちうる根拠は、第1章から着目してきている「量子論」のもつ可能性に所在しています。

先にも引用したハイゼンベルグの『部分と全体』に、以下のようなくだりがあります。これは、二次大戦が終了した直後、山中の湖畔に疎開して暮らしているハイゼンベルグを、政治学者のカール・フリードリッヒ(ドイツ人だがナチス支配を逃れて米国に亡命した同胞)が訪ねてきた時の対話です。

 

 われわれを訪れたカール・フリードリッヒは、彼の試みの基本的な考え方を私に説明した。「自然についてのすべての熟慮は、たしかに不可避的に、大きな円、あるいは螺旋の中を動くにちがいない。なぜならば、われわれが自然について熟慮したときにだけ、それについてわれわれは何かを理解することができ、そして思考も含めてわれわれのすべての行動は、結局、自然法則に従う自然の歴史から生じてきたものであるからだ。したがって原理的には、どこか任意のところからやりはじめることができるだろう。しかしわれわれの思考は、最も簡単なものからやりはじめることが目的にかなうようになっているようだ。そして最も簡単なものというのは、一種の二者択一である。イエスかノーか、存在か非存在か、善か悪か。そのような日常の生活において起こる二者択一を考える限り、そこからはそれ以上のものは生まれてこない。しかしながら、われわれは量子論において確かに、二者択一の際にも、イエスとノーとだけの答が存在するのでなく、他のそれに相補的な答えも存在するということを知っている。すなわちその中ではイエスかノーの確率は定まっていて、さらにその上にイエスとノーとの間に一つの供述価値をもったある種の干渉が確定しているのだ。それだから可能な答の、一つの連続体が存在するわけだ。数学的には、それは二つの複素変数をもった一次変換の連続群の問題である。この群の中には、相対性理論のローレンツ変換はすでに含まれている。もしも人がこの可能な答の一つについてその当否を尋ねるとすると、それはすでに現実の世界の時空連続体と同質の一つの空間についての問題を提起したことになる。このようにして僕は、君たちの場の方程式によってとらえられ、ある意味で世界を張っている群構造を、二者択一の重なり合った層によって展開することをやってみたいと思う。」(p.390-91、下線は引用者)

 

私の別の著作、両生学講座の中に「(両生量子物理学)両方を選ぶ二者択一」という議論があります。これは、それまで二者択一問題にしか見えなかった問題が、ある機会をもって、その両方を選ぶことが正解であると開眼する、そうした体験を論じたものです。上記の引用も、対象とする分野は異なりながら、まさにそうした開眼に注目した議論と言えます。

そして、上引用中で下線を付けて示した「二つの複素変数をもった一次変換の連続群の問題」とは、こうした認識の数学的表現であるわけですが、これは、前の第6章での数学的表示の議論の中で、複素数平面という座標の意味について論じた本学問の認識とも通じ合うものがあります。つまり、ここで対話する二人にとって、「両方を選ぶ二者択一」とは、そうした数学上の「変換の連続群」の現象として理解しているのだと受け取れます。

そして二人の議論はさらにこう進みます。

 

「だから君は次のことに価値をおくのだね」と私が問い返した。「パウリが話していた二分割は、アリストテレスの論理学の意味での二分割ではなく、相補性がここで決定的な役割をはたすということに。アリストテレスの意味での二分割は、まさしくパウリが手紙の中で書いていたように悪魔の象徴であり、それは繰返しを継続することによってただ混沌(カオス)に導くだけだ。しかし量子力学的な相補性と共に出現した第三の可能性は、実りあるものになり得るし、そして繰返しによって現実の世界の空間に導き得る。事実、古い密教において“三”という数は神格的な原理と結びついている。密教にまでさかのぼらなくても、人はヘーゲルの三段論法を考えてみることもできる。命題(テーゼ)、反命題(アンチテーゼ)、総合(シンテーゼ)。総合は単に一つの混合、命題と反命題からの妥協ではなく、それは命題と反命題の結びつきから、何か定性的に新しいものが生まれたときにのみ、実りのあるものとなるだろう。」(p.391-92)

 〔注: かっこ中に小文字で表したものは、原文ではルビで表示されたもの、以下同じ〕

 

ここでいう「総合(シンテーゼ)」とは、第4章で述べた、弁証論でいう「正」「反」「合」のその「合」に相当する「止揚」という概念と同等のものです。すなわち、私の言う、二者択一の「両方を取る選択」のことです(「トヨタも到達した『究極の選択』参照)。

 

カール・フリードリッヒはやや不満そうだった。「そうだ、それは全く見事な一般的な哲学的思考だが、しかし僕はそれをもっと正確に知りたい。僕はもともと、このようにしてまさしく現実の自然法則に達することを希望する。自然を正しく表現するものかどうかが、まだ確かにはわかっていない君たちの場の方程式は、二者択一のこの哲学から生まれえるもののように見える。しかし、そのことは最終的には数学において普通とされる程度の厳密さをもって示されねばならないことだ。」

私が付け加えた。「だから君は、ちょうどプラトンが彼の正多面体を、さらにそれを使って世界をも、三角形から作り出したいと思ったのと同じように、素粒子を、さらにそれでもって世界を、二者択一から作りあげたいというのだね。二者択一はプラトンの『ティマイオス』における三角形と全く同じように物質ではない。しかしながら量子論の論理を基礎においた場合には、二者択一はそれの繰返しによってもっと複雑な基本形式を生み出せるような一つの基本形式になる。そうすると、もしも僕が君のいうことを正しく理解したとすると、進むべき方向は、二者択一から対称群というある種の性質に導くはずである。一つ、あるいはいくつかの性質は、素粒子を表すところの数学的形式によって表現される。この形式は、ついには客体である素粒子に対応するような、いわば素粒子の理念(イデー)である。この一般的な論理構成は、僕には実によくわかる。二者択一もまた、たしかに三角形よりははるかに基本的なわれわれの思考の構造である。しかしこのプログラムを正確に遂行することは、ぼくにはやはり非常にむずかしいと思われる。なぜなら、それには今まで少なくとも物理学においては全然お目にかからなかったような、非常に高度の抽象性をもった思考を必要とするからである。たしかに、ぼくにはそれはむずかし過ぎる。しかし抽象的に考えることは若い世代にとってはずっと容易なのだ。だから君は君の協力者たちとそれを是非ともやるべきだ。」(p.392-93)

 

読者もお気づきのように、カール・フリードリッヒは、二者択一の引力圏内に強く固着しています。それに対してハイゼンベルグは、下線部分のように、二者択一圏を逸脱した「基本形式」を「素粒子の理念(イデー)」と呼んで、その極めて抽象性の高い思考について語っています。

ただ、こうしたハイゼンベルグの表現は、あくまでも量子物理学の世界での話です。

しかしその一方、本新学問が主眼をおいてきている「生活者」あるいは「生活知」という立場から、私は7年前のちょうど今頃に書いた、以下のような展望を引用したいと思います。上にも紹介した「両方を選ぶ二者択一」からの引用です。

 

すなわち、思考の構造が変えられ、新たな言語も探究され、高められた次元に立つそこでは、人間性の分断が解消され、人間化された至高の自在存在として、あるいは、ミクロ・現世・コスモスな存在が合一された「メタ客観的」な実在として、私の意識は、他者の意識と共に、また、他の生物や物質とも統合され、まさに宇宙一体化した唯一の実在につながってゆく自身(物理的には微塵な一部にすぎませんが)を予期できます。

それは、それは抽象ではありますが具体でもあります。主観でもありますが客観にも通じています。もちろん、精神的なものではありますが物質の裏付けも備えています。

ここで、私はこの、人にまつわるこうした変化をひとくくりにして、《メタ人間化》と呼びたいと思います。

 

こうして、私は、私たちの実人生の苦や矛盾に満ちた有りようも、量子物理学が突破したのと同じ手法にのっとって突破し、それを上記の引用のごとく《メタ人間化》とよび、これがすなわち、本「新学問」が言う、その「反学問」たるところの神髄にしようと考えます。

私は、この《メタ人間化》をなしえた立場は、上記引用中でハイゼンベルグがいう「ぼくにはそれはむずかし過ぎる。しかし抽象的に考えることは若い世代にとってはずっと容易なのだ」と言うその「若い世代」として、この抽象的考えを踏襲してゆきたいと思います。

ただ、彼の後に続く「若い世代」であったはずの私も、いまでは還暦をはるかに過ぎ(一つの課題の病も患って)、やがて遭遇する「出口期」に接近しつつあるとの思いを深めています(「《老いへの一歩》シリーズ」参照)。

そして、今年二月に終了した「両生学講座=第三世紀=」では、その最終回として、「 「未知多次元空間」と「移動生命体」」と題した議論を行い、いわゆる黄泉の世界を「未知多次元空間」と呼んで、一抹の考察をこころみています。

 

以上のように、本「新学問」は、旅立ち、あるいは、オープンエンドな結論をもって、ひとまずの終結をしようとしています。

そこで以下は、その終結に当り、前章末に予告した「奇想天外」な考察を試みたくだりとなります。

誰しも、自分の死をもって、その身体は土に帰ると認識しても、その精神はどうなるのかとの疑問はあるはずです。そうした疑問に際して、そのように旅立つ自分を、「未知多次元空間」への「移動生命体」と見たて、そこで、私たちの精神はおそらく、今日の人類の言語では捉えきれない、ハイゼンベルグの言う「理念(イデー)」と化した《メタ人間化》を経て、一種の宇宙の“エネルギー態”に帰一してゆくのではないかと「理念(イデー)」しています。

そしてさらに想像をたくましくすると、この「エネルギー態」とは、本「新学問」の第1章の冒頭で触れた、宇宙の96パーセントを占めるという、人類が知り得ていない未知の構成体のひとつ、「暗黒エネルギー」と呼ばれるものの部分となってゆくのではないかとも考えられます。

そこで、もしこの想像が的を得ているとすると、まず、それはなんとも広大なる世界への帰一であり、さらにそれを説明する言語として、量子を説明するために複素数という想像上の数学的言語が考案されたように、何らかのさらに新たな概念がひねり出され――それを「メタ複素数」とでも呼びましょうか――、この「時空間」に釘付けにされている私たち人類に、新たな橋渡しをもたらしてくれるものと期待されます。蛇足ながら、その新概念が案出されるべき領域は、おそらく、その精神と物質との境界上に発生するであろう、二態の「干渉・共鳴現象」を扱う新「理念(イデー)」であるのでしょう。

 

こうしてひとめぐりの思考を締めくくって、本章の冒頭の視点へと帰ってゆくのですが、かくして到達する《メタ人間化》の世界は、いくつかの角度から述べてきたように、思想発展の経緯としての西洋的なものと東洋的なものが、相互に融合されて生成された、そういう意味では、真に《地球的》な次元に立ったものであることです。

今日、各方面で取りざたされる「グローバリズム」たるものは、このような思想の真に《地球的》なるものとは程遠い、それこそ、19世紀以前の「二者択一」な原理を踏襲した、分断的、搾取的なものに外なりません。その古典的立場を宇宙に向かって発信したとき、同時に対抗して発信されるであろう「We are the 99%」というメッセージを共に受け取った宇宙の《メタ生命態》は、いかにも地球が無残にも分断されている悲惨さに、深く胸を痛めることでしょう。