お金が消える時

〈訳読‐2〉「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性 (その1)

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「国の通貨を発行し支配すること、そして、その法の制定者でなく、私がそれを管理することを許可されたい」

 

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1744-1812)

 

お金は、近代生活のほぼあらゆる舞台での主役である。そして私たちのほとんどが、現行金融制度を当たり前のものと受止めている。だがそれは、私たちの全生涯にわたる重大かつ顕著な誤認である。お金はもはや「機能」していない。つまり、元来それは抽象的概念で、人々の間での交換を効率的にするために考案されたものだった。それが今日では、お金がお金を生むことができ、その概念は要するにギャンブルの概念――無から有を生む――を持ち込んだものなっている。そして、世界の会計基準および金融市場が人を欺くものと化していることによって、それがもはや本来の機能を失っているばかりか、実際に存在すらしていないという見方すらできるのである。つまり、その背後の全体をおおう、まったくの幻がある。それはほんの一瞬すらも実在ではない。だからこそ、私たちはそれを捨て去るべきなのである。それは、早ければ早いほど良い。お金の消滅は、大半の人々にとって、ユートピア世界の始まりを印すものとなるのである。

とは言っても、生活必需品を手に入れ、住処を得るために、私たちは何を糧として働くのだろうか。お金なくして、新たな世界など築けるのだろうか。社会はどのように動かせるのだろうか。このように、むろん物事はそれほど黒白明瞭であるわけではない。通貨の供給やそれに伴う各々の独占力を支配する者は実在しているのであって、当然に、彼らはその終了など、今だろうが将来だろうが、決して望んでなどいない。そうしたエリートは、そのような変化には、全力をあげて抵抗する。そして彼らは、その自らの権力を消滅しようとする者に対し、とてつもない敵と化すであろう。

はるか昔、老子が喝破したように、法律を持てば持つほど犯罪は増える。すなわち、私たちに必要な唯一の法律は、平等な生活と平等な糧の保障である。それは、いつの時代でも、誰にとっても、最善の制度である。自由放任(Laissez-faire)は、平和と幸福の基礎であり、現実的な進歩を実際的に進めるために有用である。要するに、瑣事の寄せ集めでなく、満足の持ち寄りである。ギリシャの哲学者ソクラテスの名言を借りれば、「もっとも少なきに満足する者こそもっとも裕福な者である。なぜなら、満足とは自然が与える富であるからだ」。私たちは、それぞれの生き方を誰にもに最善の道へと向かわせることができる。そしてその結果、あらゆる意味で、誰にとってもの最善の社会がもたらされる。一度でも私たちが、それが格差をつくることを覚ってお金を拒否すれば、私たちは世界を、様々な国の集合体とは見なくなる。それに代わって、私たちは、世界を一体の人々、一つの惑星、そしてすべての人々とその生活が結びつき合い、かつ、相互独立しているものと見るようになる。私たちは、お金を追い求めることに代わって、地球への愛着とそれを支える生活を誓い合おう。私たちには、この惑星を、誰にとっても満ち足りた世界とすることが可能である。この惑星は、私たちの配慮次第では、誰にとってものよすがと感謝の対象となりうる。そしてその最初の一歩は、お金が作り出す格差の壁を撤去することである。

 

ともあれ、お金って何? 

自分自身に問うてみよう、お金ってどこから来て、どこに行くのか。誰が作ったのか。そして、その根拠は何なのか。もし私たちが、お金の魔術師の秘密を明かすことができたら、そこに何を見つけるだろう。もし私たちが、お金と呼ばれる大幻想を演出する、これまでの舞台装置――煙を吹き出し輪や歯車や鏡で出来上がった――を点検することができたなら、私たちはきっと、世界史上でもっともあくどいペテン装置を発見することとなるだろう。しかもそれは、戦争、騰貴暴落サイクル、インフレ、恐慌、富の偏りと著しい格差を作り出す、世界共通の原因でなのである。

今日、お金は、金でも、銀でも、他のいかなる価値でも、何ら保証されていない。その理由は単純で、こうした貴金属が、需要を満たせるよう出回れるほどには存在していないからである。世界の指導者たちは、二世紀昔、この金不足という問題を解決する唯一の方法が、彼らの通貨から金の裏打ちを除去することにあると確信した。以来、お金は、「不換」通貨として発行されるようになった。しかし、いかなる国においても、不換通貨制度と兌換通貨制度とを共存させることは不可能である。「不換」という言葉は、どの経済学者にとっても、「悪魔の約束」と言っているのも同然である。そもそも、不換通貨の背後にある原初の考えには、富というものが人々によって創造されたもの、ということがある。英国の経済学者、アダム・スミスは、1776年、『国富論』の冒頭において、以下のようにこの考えを表した。「世界のあらゆる富は、最初に、金や銀によってではなく、労働によって得られる。そして、それを所有する者やそれを新たな生産物と交換を望む者にとってのそれの価値は、厳密に、それを獲得あるいは自由にすることができる労働の量に等しい」。

しかし、1971年、アメリカのニクソン大統領が金との兌換制を放棄した時、ドルは完全な不換通貨となった。そしてドルは、何らかには値するだろうが、米連邦政府の約束以外には何ものにも保証されない通貨となった。これが、ニクソン・ショックと言われるもので、米ドルが、世界の中央銀行制度国にとって、それを支える唯一の基準通貨となる状況を生んだ。

もし、いずれかの国が兌換通貨を持った場合、「何の根拠もない」通貨を持つ国に対して不公平な有利さを持つに至る。こうして、世界の人々は、当然に、「無価値」の紙幣などより兌換通貨への投資を欲するようになる。かくして、不換通貨を維持するために、唯一強力通貨はより強化されねばならず、弱力通貨はより弱くされる。力とは最終的には堕落するものだが、その唯一通貨力も最終的に、他にはみられぬ堕落をとげることとなる。

3 7 3 Continental dollars with permission, (c) Brad Olsen, 2015

上の写真は「大陸ドル」と呼ばれるもので、〔アメリカが〕植民地時代、実際に金あるいは銀との交換が可能であった。驚くべき事実は、西洋世界の金融システムは幻で、秘密集団が私たちを隷属させるためにそれを駆使していることである。この広まりつつある認識は、そうして私たちが、今、その根も葉もない期待を乗越えることで、真の自由を得ようとしていることである。

 

お金の君臨 

「太陽の沈まない帝国を支配する英国の王位を誰があやつろうと、私は構わない」。1820年までにイングランド銀行の確固とした支配を確立したナザム・メイヤー・ロスチャイルドはそう豪語した。そして彼は続けた。「英国のお金の供給を支配するものが大英帝国を支配し、そして英国のお金の供給を支配するものは、私である」。第二合衆国銀行(The Second Bank of the United States)もまた、ロスチャイルド所有のイングランド銀行の公認もので、米英戦争の〔米国の〕負債を処理するための銀行であった。1836年にその公認期限が切れた時、アンドリュー・ジャクソン大統領は、中央銀行は余りに大きな権力が選挙で選ばれた者でない銀行家の手に集中していると述べて、その更新を拒否した。

トーマス・ジェファーソンは、アメリカの通貨の発行を民間所有の中央銀行に許している危険を指摘して言った。「もし、アメリカ人民が民間銀行に彼らの通貨発行の支配を許したならば、最初はインフレによって、次にはデフレによって、その銀行とその周囲に成長した企業は、アメリカ人民のあらゆる資産を奪い取り、その子供たちは、父親たちが築き上げた大陸の上でホームレスにされるであろう」。今となっては、銀行の力は限度を超え、記録的な不動産差押え数と永続する負債から逃れられない人々の数を見ても、ジェファーソンの予言があまりに正しかったことが解る。

1923年から1929年の間、アメリカの経済階層のトップへの富の集中は、米国史上、最大となった。そして1929年、株式市場が暴落して大恐慌におちいり、何百万人ものアメリカ人を落ちぶれ果てた貧困に追い込んだ。だがその後数十年間に、アメリカ社会における中産階級はもっとも早い速度で成長し、1976年には、アメリカのもっとも裕福な1パーセントは、国の収入のわずか9パーセントを占めるのみとなった。この数字は、しかし、最近の数十年間で、急激に上昇することとなった。今日、アメリカのもっとも裕福な1パーセントは、一年間に発生したすべての収入の24パーセントを貯め込んでいる。タイム誌――先進的リベラル派の出版社とはとても言えないのだが――は、富の集中は再び1929年レベルに達したとの警告を発した。例を示せば、アメリカのもっとも富裕な1パーセントは、国の総合した富の40パーセント以上を所有し、底辺の80パーセントは、わずかその7パーセントを所有するのみである。アメリカのもっとも富裕な1パーセントは、この国のすべての株式、債券、投資信託の51パーセントを所有し、底辺の50パーセントは、その0.5パーセントを所有しているのみである。2011年秋のオキュパイ運動が、強欲な1パーセントが誰であるかをあばいて、野火のように広がったのも決して不可解ではない。富の分配の閉塞は、大恐慌以来の過酷さに至っているのである。

現行のアメリカや世界の富の分配システムは、おそろしいほどの欠陥を持っている。強力な投資家と金融機関は、通貨の使用と投資の概念自体を悪用している。そのシステムは、エリートたちに有利となるよう、ことごとく操作されている。というのは、それはお金を基としたシステムであるからで、その結果、飢えや貧困や不足の発生という不適切な社会状態をもたらしている。社会においてお金が使われる限り、そこに負債と経済的不安の大規模発生が避けられず、その蔓延は、犯罪、不法状態、怒りを継続的に発生させてゆく。

 

欧米による世界支配

お金を通じてすべての人々の支配をねらう「新世界秩序」という構想は、何も新しいものではない。この構想は、少なくとも1915年以来、使われてきている。だが、支配者や統治者の権限を凌駕する力をもつ隠れた秘密勢力が世界全般を支配し大衆を操作するとの考えは、はるかに古い歴史をもつ。しかし、その秘密勢力は今日、長くねらってきた単一の世界政府の設立に、かつてなく近づいている。事実、その計画はもはや実行にさえ移されている。

イルミナティ――彼らは自らが誰かを隠すことに多大な努力を払った――の発足は、遅く見ても、それが「イルミナティ」との名前の使用を止めた1780年代頃にまでさかのぼる。そして名前はどうであれ、その派生体は今日までも存続し、その影響をいまだに貫徹し、さらにそれが強化される一方であることは、衆知の通りである。そうした彼らの末裔は、一つの集権的世界政府を築くことでいまだにその軌道を走っており、第二次世界大戦の火付け役となった共産党革命を煽る後ろ盾にすらなった。彼らは現在、国際連合、ヨーロッパ連合、ビルダーバーグ、三極委員会、そして数々の金融カルテルのような国際機関を通じて、その暗躍を続けている。当初のイルミナティは、ユダヤ人銀行家による潜入や乗っ取りが行われ、1782年、イルミナティ・フリーメイソンの本部は、ドイツのフランクフルト――ロスチャイルド家の金融支配の中心地――に移された。そこでユダヤ人は、フリーメイソン史上で初めて、その儀式に加わることを許された。それどころか、ロスチャイルドの家族もしくはその提携者は、アダム・ウェイシャウトのイルミナティ・フリーメイソンの神秘主義に染まることとなり、かくて、その教義と金融の世界が直結することとなった。

ナポレオン・ボナパルトは、そうした銀行家の力と危険を察知して、こう述べた。「与える手は、受け取る手の上にかざされる。お金には祖国はなく、金融家は愛国心と寛大さを持っていない。彼らの目的は、ただ獲得することのみである」。1815年、ナザム・メイヤー・ロスチャイルドは、ウォータールーの戦いに〔英国が〕勝ったという情報を先に得て、英国株式取引所のトレイダーたちに、ナポレオンが勝ったと、有名となった偽情報を流し、パニック売り市場を演出した。そのほんの数時間後(二束三文となったのを確認して)、彼は、だました同じ投資家から大量の株を買戻し始めた。そしてこれにより、ナザム・メイヤー・ロスチャイルドはイングランド銀行の支配を手に入れて〔世界で〕最初の民間所有の中央銀行とし、これが世界に新たに設立されてゆく中央銀行のモデルとなった。

ロスチャイルド王朝は、今日でも、世界でもっとも支配的銀行組織である。彼らは、過去三世紀、世界での最富豪家族としての名を轟かせてきている。その初期、ロスチャイルド家がまず学んだことは、政府や王に融資することは、民間個人に信用貸するより、はるかに儲かることであった。その融資金額が巨額でより利子が稼げるばかりでなく、その債権は、国の税収によって保証されているからである。1850年代までに、フランスのジェームス・ロスチャイルドの資産は、フランスの他の全部の銀行家の合計より、数倍も大きくなった。こうしてロスチャイルド家は、部分準備銀行制度〔訳注〕を編み出す首謀者となった。19世紀末までに、ロスチャイルド家の資産は、世界全体の半分までに達したとの試算がある。20世紀の初期には、ロスチャイルド家の投資によって、J・P・モーガンは人為的な破綻を作り、中央銀行はその穴埋めをおこなうことができた。それに続いて1913年、彼らは合衆国連邦準備銀行の設立に成功した。連邦準備銀行の創設者ポール・ワーバーグは、ロスチャイルドの代理人なのである。

〔訳注〕 部分準備銀行制度とは、預金者が銀行にお金を預けた額以上の額を貸し出す制度。その部分準備率は常に1より小さく――例えば、1億円の預金に対し2億円を貸し出した場合、その準備率は0.5――、これにより、銀行は、預金者からの負債を活用して、あたかも無から有を生じさせるように、お金を創出する効果(あるいは「からくり」)を得ることができる。

英国の貴族階級およびロスチャイルドの表看板の銀行家たち――たとえばワーバーグ家、シュローダー家、ラザード家――の利害を代表して、「円卓会議(Round Table)」は、フリーメイソンとイルミナティの考えに基づく「世界新秩序」の構想を前進させることを堅持、促進した。ロスチャイルド家は、円卓会議の創設者でダイアモンド産業の大御所であるセシル・ローズ――アフリカに住んでいた――に出資したことが知られている。円卓会議は、当時も今日も、すべての国家主権の破壊やそのエリート支配組織への従属など、イルミナティの考えの明らかな反映を推進してきている。その典型が、高らかにも唱導された「世界新秩序」で、その原型の趣旨は、少なくとも、フリーメイソン以前の、1600年代における薔薇十字会〔ローゼンクロイツ派の神秘主義的秘密結社〕以来の秘密主義組織の考えを踏襲している。円卓会議グループは、内部に「先導サークル」を持つ「フリーメイソン・ライン」に沿って形成され、(セシル・ローズによると)その「サークル」には、ローズ、ミルナー卿、後の首相アーサー・バルフォア、そしてロスチャイルド卿らがおり、そうした銀行家秘密結社は、英国の円卓会議の運営を金融支援し、影響力を行使した。それが現代に蘇ったものが「三百人委員会」で、この国際評議会は、中央集権化〔つまり世界国家化〕した全地球的活動のために、政治、通商、金融、メディアそして軍事の各方面の方向を指令している。

今日、エヴェリン・ロスチャイルド卿は、エリザベス英国女王のもっとも信頼する助言者である。ロスチャイルド、シフ、オッペンハイマー、そしてワーバーグの各家は、「権力の輪」を形成し、すべて国王の所有である「ロンドン市」を切り回す、13の最有力銀行家族の一員である。ロスチャイルド卿は、世界で二番目の富豪で、三つの大手テレビ局や通信社のAPとロイターの権益を支配している。

3 7 2 silver dollar notewith permission, (c) Brad Olsen, 2015

連邦準備銀行システムは、根拠も用意せずお金を印刷することで、常に私たちのドルの価値を下げてきた。今私たちが使っている不換通貨は、かつての金や銀の裏付けがあったドルとは違って、何にも基づいていない。1913年の連邦準備銀行法は廃止されなければならず、現在も有効な大統領命令11110号――利子も負債も負わぬ合衆国通貨の印刷、発行、流通の権限を財務省に与える――の復権がされなけれならない。合衆国政府とアメリカ国民は、もはや、エリート銀行家秘密集団が私的に発行するお金を負債することに永遠に頼ることを止めなければならない。 

 

3 7 1 DOLLAR BILL SYMBOLISM (2)with permission, (c) Brad Olsen, 2015

なぜ、合衆国のドル紙幣には、こんなオカルトめいたシンボルが多用されているのか。ある人たちが言うには、そうしたシンボルは、米国を支配する本当の力のそれであり、彼らが傀儡政府を操っている印だ。E pluribus unum とは「多くの中からの一」という意味だが、これも、「多くの政府からの一つの世界政府」と解される。

 

お金に追随する

お金の流れは、権力の流れである。ドルは、世界における倫理性を欠いた力の単位を意味し、他者を搾取し、貧困化し、隷属化するために使われている。ドルは、大金持ち――彼らの冷淡さが他者を悩ませていることに気付かないでいるようだ――によって圧倒的に保有されている。大金持ちの中には、その富を用いて、利他的計画や慈善基金を設立した者もいる。だが残念なことに、そうした機関の多くは、強欲さと権力欲で腐敗し、内部の一部の人物が、そうした資産を自らの利害のために使いそして蓄積している。人はお金の流れに近づけば近づくほど、お金を自分の懐へと誘導し、その結果、信じ難いほどの富を保有した銀行家となる。一方、人はお金の流れから遠ざかるれば遠ざかるほど、より貧困となる。公徳心、公的価値、倫理性、公平さ、正義、合理性などといった言葉は、お金の流れの中には少しの居場所もない。お金は、人がその源や流れに近ければ近いほどより良いという、「本流現象」そのものである。だから、金持ちはその本流性を確保しようとし、他方、普通の人々は取り残された自分を発見する。そうしたお金の流れからもっとも遠い人たちは、国の援助や寄付を求めるか、乞食になるしかない。まして貧困国にあっては、彼らは毎夜、栄養不足か空腹のまま眠りにつく。よりよい道があらねばなるまい。

エリートの1パーセントは、世界の大半の資産を支配し、高慢で、他者を遮断し、かけ離れた界隈に居住する。彼らは法を支配し、そのため告発されることはめったになく、公共の金庫から際限のない盗みを働いても、それを合法と押し通す図々しさをもつ。世界のいたるところで、破産した銀行のため、緊急支援が行われ、それが2008年、世界の経済の崩壊を防いだというのは、実際は、そうしたエリートによる、自らを破産から救おうとする窃盗犯罪行為であったに過ぎない。そもそも、彼らが金融危機を起こしたのに、貧しい者がその勘定を払わされたのである。エリートは今や、かつてなく富裕でありながら、彼らは納税者ですらない。大金持ちがよく行うことは、彼らの資産を海外の口座に隠し、納税を完全に逃れるために、いかなる国の市民権すら放棄する。エリートは、今日の世界をおおっているような経済状況の荒廃に、大きな責任を有する。彼らの病害的獲得が増加する分、納税者は、そのエリートの借金の責任を負わされ、馬鹿を見さされる。国家の借金はいまや余りにも膨大で、どのようにすれば、1933年のドイツで第三帝国が崩壊した時のような破局やハイパーインフレを迎えることなく、それを返済し切ることができるのか、それを示すのは不可能ですらある。

エリートは、彼ら自身を除く人たちの世界を破壊した。どんな文明国の法にてらしても、彼らは犯罪者である。もし、彼らが頼みとするお金のシステムを消滅させうるなら、全世界に根元的な改善がもたらされるであろう。エリートがその富の蓄積の悪用を改める気配はないがゆえに、お金は、天然痘がそうであったように、残された私たちにとって撲滅される病気と見なされるべきである。お金をすべて消滅させることは、そうした秘密集団の権威と権力を根本的に消し去る唯一の道である。 

 

 連邦準備銀行の終り 

〔ドイツ〕ババリア―イルミナティの末裔は、世界銀行や他の大金融機関を設立し、それを支配し続けている。世界の石油価格を隠密に操っているのは世界銀行である。世界銀行の個々の株主はまた、連邦準備銀行システムを支配している。欧米の各政府は、自国の通貨供給を支配する権利をもっているが、その権利は、その中央銀行との妥協姿勢がゆえに、ほとんど行使されていない。世界の国々は、その中央銀行システムという多種な民間所有銀行のために、ほとんど裁量の余地を持てない。部分準備銀行のからくりを通じ、そうした中央銀行は負債を通じて無からお金を創出し、それを融資してその金利から利益を稼いでいる。

世界の多くのお金と資産を支配する個人たちはまた、すべての欧米政府への巨大な支配力を駆使し、かつ、最大手報道機関を所有して報道内容を支配することが可能となっている。この私有秘密帝国は、その金融支配の中心として一平方マイルの「ロンドン市」を、精神支配をになう「バチカン市」を、そして、軍事支配の中心を果たす「ワシントンDC」を利用し続けている。そのすべては、企業国家、すなわち、巨大ビジネスの支配のもとにある。この秘密帝国を牛耳る私人たちは、世界の通貨制度を支配しているがゆえ、世界でもっとも力ある者たちである。イングランド銀行は、ほぼ世界のどの国もが持つ中央銀行の最初のモデルである。こうした民有中央銀行は、その支配者や投資者が公表されることはないものの、それが運営されている各国はその金権政治によって牛耳られている。そうした情報は固く隠蔽されているものの、〔米国〕連邦準備銀行を所有する基幹銀行家族が誰であるかは充分に洩らされてきている。

退職連邦職員全国連盟によると、連邦準備システムは「連邦組織ではなく、以下の者たち、すなわち、ロンドンとベルリンのロスチャイルド銀行、パリのラザフォード・ブラザーズ銀行、イタリアのイスラエル・モーセズ・シーフ銀行、ハンブルグとアムステルダムのワーバーグ銀行、ニューヨークのチェース・マンハッタン銀行とクーン・アンド・ロエフ銀行そしてゴールデン・サックス銀行によって所有された私企業である」。公認会計士であり研究者のトーマス・D・シャウフもほとんど同じ見方をしており、10銀行が連邦準備銀行の12支店を支配しているとし、それらの名を挙げている。すなわち、ロンドンのN・M・ロスチャイルド、ベルリンのロスチャイルド銀行、ハンブルグのワーバーグ銀行、アムステルダムのワーバーグ銀行、ニューヨークのリーマン・ブラザーズ、パリのラザード・ブラザーズ、ニューヨークのクーン・アンド・ロエブ銀行、イタリアのイスラエル・モーセズ・シーフ銀行、ニューヨークのゴールドマン・サックス銀行とJP・モーガン・チェイス銀行である。シャウフは、ウィリアム・ロックレラー、ポール・ワーバーグ、ヤコブ・シフそしてジェームス・スティルマンを、連邦準備銀行の4大個人株主としている。シフ家はクーン・アンド・ロエブの内輪筋である。スティルマン家とシティー・フループの内輪筋は、今世紀の初め、ロックフェラー一族と婚姻関係を結んでいる。

合衆国連邦準備銀行は連邦政府管轄ではまったくなく、銀行家たちの私企業である。それらの銀行家たちは、第一次大戦の時に合衆国政府が破綻した際、それを「自主的に」に救済した。その時、通貨を法的に発行できるのはその財務省であるにも関わらず、紙幣を印刷する特別許可をそうした銀行家たちに与える議会決定がなされた。以来、アメリカ政府内では、通貨を作ることは「ローン」と呼ばれている。つまり、アメリカ政府は、このローンをアメリカ国民の税金で返金することに合意したのであった。ただその段階では、国庫から国の借金のほんの一部、つまり利子のみが払われたが、元金は返済されなかった。かくして、これらの銀行家が国の利子を決定し、経済を支配している。米国の国家債務はこれらの銀行家へのものであり、税金が利子として彼らの懐に流れこんでいる。この国は文字通り破産しているのであり、そうした少数銀行家により所有されているのである。

しかしながら、問題は指数的に深刻の度を深めている。その結果、連銀は、世界の全部の富の80パーセントを稼ぐ巨大企業群の「結合役員会」の中央司令部となっている。ディビッド・ウィルコックは、その画期的な2012年エッセー集の、『金融独裁:史上最悪の隠蔽を暴く』とふさわしく題された論考で、世界の富の20パーセントを直接支配する中核1,318企業を暴き出しいている。加えて、そうした企業群はまた、世界の大企業――世界の総収益の60パーセントを稼ぎ出す優良株企業であり製造業企業の大半――の株式の過半数を“持ち合って”いる。この連結した147社の「超企業」の75パーセントは金融機関である。それらの名を挙げれば、バークレイ銀行、JPモーガン・チェイス、メリルリンチ、UBS、ニューヨーク銀行、ドイッチェ銀行、ゴールドマン・サックスなどである。連銀の12名の取締役および役員はさらに、巨大金融機関を率いてもいる。

わずか5つの銀行――JPモーガン、バンカメ、シティー・グループ、ウェルス・ファーゴ、そしてゴールドマン・サックス・グループ――は、連銀の幹部銀行家によれば、2011年末現在、合わせて8.5兆ドルの資産を持ち、それは、米経済の56パーセント(2006年では43パーセントだった)に相当する。世界金融危機の5年後〔の現在〕にあっても、そのうちの一つとて縮小していない。実に、それらはすべて、その規模とリスクを拡大し続けている。 

 

部分準備ねずみ講 

現行の「部分準備」銀行制度は、自らの成長のため、ひたすら負債の増大を重ねる〔ねずみ講〕制度である。こういう表現は非現実的に響くかも知れないが、それは事実に基づく。この制度でもし負債が縮小すれば、それ自身デフレ的となり、やがて崩壊する。お金が預け入れられる〔つまり負債する〕度にそれは利子をつけて貸し出され、それが繰り返されるところがミソである。それは明らかにいかがわしい、ねずみ講式べてん行為である。身を隠した民間銀行家によって印刷された通貨を使う特権に、私たちは税金から使用料を払う。かくのごとく、私たちの通貨制度そのものが、みごとなからくりである。しかもそれは実在しているものではない。それは、私たちがみな同じ夢を見ているゆえのものであり、私たちがその夢から覚めれば直ちに、その世界の銀行家たちの企みは幻と消える類のものなのである。

部分準備銀行制度とは何であり、それはどう働き、その実用がどのような弊害を持つのか、それをしっかりと理解しておくことを、高校上級生、遅くとも大学1年生の必須項目とする運動が必要である。多くの人が、それが真実との前提のもとにその全生涯にわたり言い聞かされてきたことに関し、そのほぼすべてを問い直し始めている。むろんそれは、一つの理由において、学生にすら教えられてこなかった。すなわち、部分準備銀行制度が、本来価値のない不換貨幣を用いたもので、人類史上かつてない、もっとも狡猾かつもっとも破滅的な策謀であるがゆえである。

国家の政策原則としての部分準備銀行制度は、あらゆる子供がある効力のある麻薬の胎内中毒患者として生まれ、それを生涯にわたって使い続けることをねらって仕組まれた制度である。過去の列強は、国民の行動をどう引き出そうかとの必要に立ち、その〔制度〕を過剰に排除あるいは導入してきた。部分準備銀行制度は、一握りの人たちに、負債付けとなった意志をもたぬ群衆を作り出す力を許し、それは著しく機能を果たした。そして彼らは、そうして個人が至りついた不幸を、その人たちの知識不足とか、稼ぎの悪さとか、勤労精神の貧しさというように、もっぱら自分を責めるように仕向け、人々がそうした制度を転覆させるために立ち上がらることを封じた。すなわち、そうした経済システムに反対する代わりに、個々の人たちは、自分が無能で自分に責任があるように思いこまされたのであった。そして彼らは鬱な心理や精神状態に追い込まれ、意欲をそがれ、行動が抑制された。いわば、行動のないところに、革命は生じないのであった。

今日の通貨制度は「そういうもの」であり、いまのところ、その内で動くしかないのであるが、この通貨を作る制度が実際にどのように機能しているのかをさらに突っ込んで学ぶことは、私たちに最大の恩恵をもたらす。つまり、私たちは、借金、ことに過大あるいは危険な借金を決してしないことで、個人的な脱出路を選択することが可能である。もし私たちが、このように「危うきに近寄らず」を選べば、この制度に「塩を送る」ことにはならず、かつ、個人としての自由や解放度や独立性をいっそう獲得できることとなるだろう。一個人として、自分を金貸しに仕える借金奴隷とならない道を堅持することは可能である。

そのような身を隠した銀行家が、私たちの経済的将来を牛耳っているのは間違いない。その地球的エリートが米ドルを国際的に弱め、IMF通貨に置換えようとしている。中国やロシアを含むいくつかの国が、米ドルを世界の準備通貨から外すことを提案している。2009年の国連の通商開発報告は、この提案を後押しし、現行の通貨システムと資本規制が金融・経済危機をもたらしていると非難している。英国の『テレグラフ』紙は、同報告の提案する変更は、「第二次大戦以来の世界金融制度の最大の改革」と指摘している。新たな世界通貨がドルに置き換わるべきと示唆するのは国連ばかりでなく、バチカンもこの提案を後押ししている。ここに再び、同じ下手人が、高慢にも、過ちの解決法を提案しているのである。もはや常套手段とも言うべきであろう。

 

秘密集団を告訴する 

挑戦的な金融ジャーナリストのベンジャミン・フルフォード〔2009年、古歩道ベンジャミンとの名で日本に帰化(ウィキペディア)と著述家のディビッド・ウィルコックは、その事実を公に発表するものとなる、1兆ドルの訴訟ケースをおこした。111ページにのぼる告訴文書は、2011年11月末に採録され、ニューヨークの南部地区地方裁判所に提出された。その被告には、イタリア共和国、イタリア金融警察、イタリア前首相のシルビオ・ベルスコーニ、世界経済フォーラム、国連総長のバン・キ・ムン、そして、国連自身が含まれている。だが、この訴訟が公表されて幾日もたたないうちに、フルフォードとウィルコックに対し、いくつもの死の脅迫が行われた。

この訴訟が金融システムを動かしている人たちを戦慄させたのは、「黒幕」として知られてきた事柄が、今や、法的権利の下で白日にさらされるからである。フルフォードはその「黒幕」を、膨大な額のマネーが隠されているはずの最ハイテク・コンピュータ・ネットワーク装置と表現する。そしてそうした「黒幕」は、ブレトンウッズ――不換通貨体制が作られた場――で作られた金融システムと同根のものであるという。ブレトンウッズの合意は、世界の銀行を支配し管理する方法を定めたものである。第二次世界大戦の後始末をしたその会議はまた、国際通貨基金(IMF)と、今日、世界銀行と呼ばれる復興銀行を設立した。今や、数千兆ドルがそのシステムに注ぎ込まれている。さらに、フルフォードによると、そうしたマネーの規模は、世界の実経済の規模の約33倍にもなるという。彼に言わせれば、これは、金融上の「奥義(esoteric)」であって、何千兆ドルもが関わっているという。そして彼は、この擬制装置を伴うお金の幻像について、それを私たちにこう警告する。「世界のお金の95パーセントは、コンピュータの中の数字に過ぎないということを忘れてはならない。ほんの5パーセントだけが、現金として存在している。」

ブレトンウッズ体制の結果、各中央銀行は、互いの直接取引きを禁じられている。それらは、民間の仲介者を経なければならないことになっているのだが、そいいう彼らはそうした銀行の債券保持者で、つまりそれは自分の私的口座に預けられているものなのである。ブレトンウッズの合意の一部に、利潤の80パーセントを(このお金自体も無からひねり出したものだが)、人道的救援計画に預託することとなっている。つまりこれが、なぜ国連がその訴訟に連座されているか、その理由である。

その秘密集団内の諸分子を相手とした訴訟は、「マクルマートの本」と呼ばれるものを証拠の一つにあげている。この本は、世界の多くの金(ゴールド)について、ドラゴン家と呼ばれるアジアの皇族集団による所有を歴史的に詳述したものである。彼らはまた、現金証書の原本の写しを入手し、そうした現金が、国際世界に代わってそれを使うと称して、いかに国連や米国連邦準備銀行の保管となるに至ったかの証拠として挙げている。この証拠は、米連銀の民間所有者がそうした現金を盗み、50年にわたって不法に使ってきていることを証明する狙いをもって、〔彼らの行為の〕最小範囲の証拠として取り上げられているものである。そして最終的に、そうした化けの皮を剥がすこの訴訟がもし成功すれば、私たちの現在の金融システムの中核がいかに腐り切っているかを、白日のもとにあばき出すものとなる。 

 

お金のない世界を描く 

銀行がなく、現金がなく、賃金がなく、いかなる形のお金もない世界を想像してみよう。あなたなら、それをどう受け止めるだろうか。それは、農奴のような原始的な物々交換生活へ舞い戻ることを想像させるのだろうか。それともそれは、法も秩序もない完璧に乱れた社会で、人々は生き抜くために、必死となって自分の食物を確保するか、あるいは平気で他人の食物を盗んで暮らすことなのか。多分、そうでないだろうとはしても、ならば、お金が完全に消え去る前に、私たちはまず何を準備すればよいのだろうか。

その恩恵を考えてみよう。お金を敢えて使わないという決断は、私たちの生活を何倍もより良くするだろう。今日の自分たちの生活をちょっと振り返ってみよう。あなたは本当に自由だろうか? あなたは銀行や、カード会社や、教育ローンや、住宅ローンなど、誰かに借金をしていないだろうか? そして確かにそれら〔債務〕を無視できないはずだ。そしてもしそう無視したなら、家を失ったり、何の借入れもできなくなるはめとなる。

あなたの仕事はどうだろう? ほとんどの人は、自分の仕事を、そうしなければならないからそうしている。でなければ、請求書を払えなくなってしまう。もし働かず収入が絶えれば、電気は消え、水は止まり、電話も切られ、食べ物も買えなくなるということである。つまり、私たちは、少しも自由ではない。ほかの誰とも同じように、あなたは、悲しいながらも、これが生きることの現実だとおそらく考えている。あなたは、生きるためのお金を得るために、働かなくてはならない。両親たちがそうしてきたように。だがしかし、これはもはや、人生の避けられない事実ではないのである。

私たちは、お金自身が必要なのではないことを、しっかりと心しておこう。つまり、私たちは、物――食べ物、衣服、家、電気、コンピュータ等々――が必要なのであって、お金自体ではない。お金そのものは、単なる媒介物である。お金それだけでは、まったく役に立たない。確かに、それを充分持たない人をみじめにはさせるが、それは誰にとっても同じであるにすぎない。

 

幻を追い求めて 

社会、宗教、政治、貨幣、そして地位といった概念をゴミ箱に捨て去ることから始めよう。それらはみな幻である。しかし、多くの場合で、人々はその事実を知りたがらない。そうした幻想が破壊されたくないからである。ことわざの魚〔「魚の目に水見えず」か〕のように、彼らは水が何かを知らない。同じように、私たちはお金でできた経済の海を泳いでいるのだが、その仕組みを理解している人はほとんどいない。だが、お金の進化のさらに次の段階を見ることは、現在の集権化し政治化したお金の拘束から私たちを解放する。しかしながら、必要なことは、進歩した別のお金基盤のシステムではなく、地区、地方、国、そしてグローバルの金融システムのための、新たなデザインの提案であり、新たな交換システムである。新たな「法貨」は斬新な形態をとり、国や世界の各社会の中の、地方経済を促進するために設置される。その変換の中で、もし私たちが何らかの形のお金や物々交換(サービスの非通貨交換)を維持しようとした場合、私たちが最初に行う必要があるのは経済の民主化であり、「信用共有体」の復活、すなわち、「サービス」信用に基づく、誰もが必要物を入手できることの復活である。

健康な世界での健康なお金についての新しい地図を得ることは、身体にとっての食物、水そして空気のように、私たちの知性にとっての必需品である。新たな金融システムは、スウェット・エクイティ〔所有者の個人的努力で生まれた改善により、財産や住宅の価値が増すこと〕や個人の知識のように、メリット〔業績価値〕を基礎とすべきである。人が物やサービスを生産した時、その人はその分の価値あるいは富を得る。それは何らかの価値を創造していること、もしくは、不動産とか貴金属といった価値を伴うイクィティー〔等価物〕によって裏打ちされることである。だが今日、お金を得ることは自分の健康を失うことであり、健康を保持することはお金を失うことである。私たちはあたかも、決して死ねないように生き、かつ、決して生きなかったように死ぬかのごとくである。お金や商売によって私たちの深い正義が左右されてしまう代わりに、世話、コミュニティー、そして地球の保存を主張しよう。要するに、お金は繰り返し悪用されているだけに、長い目で見て、それはできるだけ早く廃棄されるのがよいのである。

現行システムは極めて画一的で、あらゆる権力がそうであるように、お金とはただお金であったとしか思い出せない。だが、貨幣システムは、広告やポルノと並ぶ、もう一つの幻で、その役割はいずれも怖れや欲望を作り出すことであり、私たちを催眠術にかけ、不活発にし、自己不信によって自信喪失させる。こうした幻の体系は、私たちの心を空虚にし、あるいは、苦痛に満ちさせる。と言うのは、私たちはあれもこれも、彼も彼女も持っておらず、そしてそれらを持っている人はどこか優れていそうで、そしてもし、それらを買ったり持てたりしたら、そうした怖さが無くなり、もうそんなみじめなものは消えて胸をはれそうになる、と言ったものだ。そしてその幻は、もしそれを持っていなければ、恥ずかしい気分にさせられるか、それを持ちたいとの欲求をもたらす。ゆえに、資本主義も強欲さも、限りがないのである。

現行のシステムは、もし、失業していたり、安い賃金だったり、借金していたり、障害を持っていたり、無視されていたり、そして、お金持ちでなくて世間で影が薄かったりしたら、自分が二流人間であるような気分にさせられる。それは何も、落ちるところまで落ちたからではなく、ほぼ誰もがそうなのである。そしてもし、そのシステムが私たちの価値づけを変え、もし自分や他人をただありのままに愛することが始められたなら、 世界は根底から変化し、みごとに異なったものとなるだろう。私たちがこうむっているいかにも逃げられないかのごとき幻は、ただお金を求めさせて、私たちを隷属させ、鬱屈させ、他人同士お互いに落とし込め合うばかりである。それがゆえにそれは、ただ単純に、無くされるべきものだ。お金が消える時こそ、それは人間にとって、輝かしい時となるだろう。

 

資本主義の破綻 

資本主義は、成長、進歩、そして変化を伴う。資本主義体制下では、野心、先取性、そして競争力といった精神が賞賛される。それは、そうした精神が資本主義にダイナミズムを与えるからである。そこでは人々は、常に、もっと蓄積するよう奨励され、達成されたものに決して満足しない。資本主義体制下では、資本主義がダイナミックに働くよう、人々は、なにがしかの自由となにがしかの繁栄を持つ必要がある。いくらかの自由がなくては野心は起らず、いくらかの繁栄なくしては蓄積の追究がしえない。資本主義はまた、最高かつ最鋭を必要とするが、それにはコストが伴う。

ピューリッツア賞ジャーナリストでありベストセラー作家のクリス・ヘッジスは、教育と資本主義の欠陥について、興味深い洞察を述べている。「私たちは、教育とは、批判的に考え挑戦することよりむしろ、お金で定義される修練と“成功”に関して学ぶもの、という考えを持っている。だが私たちが忘れてはならないことは、教育の真の目的が知性を育てることであり、学歴を作ることではないことだ。倫理性と権力の間の活性ある確執をもたらしえない文化は、知恵と管理知識を混同し、文明の度とは同情心で測られるものであって速さや消費力ではないことを理解できず、結局、自らを死へと向かわせている。」

お金の追求が、多くの人々を非倫理的にさせていることは明白である。我々の資本主義システム――成長と進歩と前向きの変化といった楽観視から始まった――が、腐敗と浪費を蔓延させているのも明白である。資本主義は、強欲と心なき消費を旨とするがゆえに、おそらく、本性的に腐敗している。人々は、互いに競って争い、足の引っ張り合いにまい進している。だが、必要なもののみを生産し、持続可能な程度のみ使用するといった、もっと心ある経済という考えを主柱としたらどうなのか。私たちの必要枠内で生活し、割当てられた義務を受入れ、それが何であれ人間性への貢献をするといったように、もっと賢明にはなれないのだろうか。

こうした次第な気付きとポスト資本主義へと向かう変化の兆しの中で、私たちは、経済、政治、地政学、そして神話学の理性的オーケストラ演奏――覚醒した人々による調和的達成――へと至りつつある。そうしたことごとく新たな現実味、すなわち、新たな地球文化が創生されつつあるのだ。それがいつ現実のものとなるか、それは、文化を変換する能力が究極の力の形に結実する否かにかかっている。だがわずか一世代で、人々が過去を振り返り、再びそうした時代を繰り返したくはないと覚る、新たな文化が広がりつつある。

進行するこうした体制変化の兆しに大銀行家族がどのように反応するか、考えてみよう。ひとつのありえる想定は、ポスト資本主義の「世界新秩序」計画の中においては、企業家精神が悪魔化することである。これは忌々しきことである。というのは、それが人々に、貧困と戦時態勢化を受け入れるように操ることであるからだ。 

 

お金に頼らない新モデル 

今日のジレンマを要約すると、現行の近代的利潤文化の中で、私たちは、自らの必要に応じて物品を生産しているわけでもなく、自らの必要に基づいて住宅を建てているわけでもない。貨幣制度は現在、個々人の存在と成長を実現する手段としてより、むしろ生存の障害として機能している。お金というこの架空の道具は、その有用性を超えた存在となってしまっている。貨幣システムを全く抜きにし、わずか数人々に供されるための生来の力といった、より望ましい道が存在するとしたらどうなのであろうか。どこの誰であろうが、ある人が栄養不足におちいらされたり、今日の世界の6人に1人が空腹のまま眠りにつかされたりすることを、正当とする理由などない。お金が力をもつ唯一の根拠は、私たちがそう信じるから、それだけである。もし私たちがお金の本性についての見方を変えたなら、ただちに、私たちは自分の生き方を変えうる。結局、お金とは、人々の間における、債務の流通手段にすぎないのだ。

今日の欠陥ある貨幣制度――世界の人々に悲劇的制約を与えている――は、直ちに、消滅させられるべきである。人々が必要なのはお金ではなく、物とサービスの入手である。人間は、生存のために物資を必要とするがゆえに、自分勝手な金融および政治勢力による横やりのない、人々による直接の交換システムを通して、そうした物資が提供されるべきである。よってその交換システムは、「ビーナス・プロジェクト」というシンクタンクが提唱する「必要ベース経済」――永続可能社会のための総合的計画――の一部となるべきである。このグローバルな必要ベース経済は、一方で貨幣制度が消滅してゆく中で、段階的に導入される。健康な食品、汚染のない水、そして清浄な空気は、私たちの生得権である。世界の人々が一体となる時、現在の支配システムは、紙の家のように崩壊する。数千年にわたり人々大衆を支配してきた秘密のベールは、いまや取り去られつつある。それが完了するまで、お金や物々交換が使われている限り、人々や諸国は、自らの強みの有利さを活用してゆく。そしてそれがもし、通商上の方法でそれが活用できなくなった時、彼らは軍事的介入にうったえるであろう。この問題もまた、自覚した直接的行動と同様な働きによって露呈されて行かなければならない。

お金なき社会はまた、物々交換社会を歓迎しない。と言うのは、物々交換もお金と類似しており、同じ方法をもって悪用がなされる。そもそも、お金は交換の必要から考案されたものだが、問題を解決はしなかった。お金なき社会の真の効用は、他者への貢献を通じ、個人の至高の情熱と高揚が発揮されるところにある。ことにそれは、個人が与えられた組織体――あらゆる必要物資が提供され、単調かつ繰り返し労働は、専門分野に情熱と使命をもつ人たちによって開発された技術を駆使して自動的にこなされる――において、自らに最適と考える職務を追求してゆく社会である。そこでは、人は他者のためにより多くの時間を用い、至高の情熱と高揚を傾け、さらには、人間性の進化やスピリチュアルな進歩を増進かつ加速させる。加えて、もしあらゆるものが無償で誰にでも入手できる場合、盗みやだましを働く必要はなくなる。

社会が全面的に人の能力に基づいて動くことを、「メリトクラシー」と言い、そこでは、誰もが、真にそれを追求する限り、自らの才能を伸ばし開発することが可能となる。これは、財力と権力がそれにとって代わるまで、「アメリカン・ドリーム」とみなされていたものだ。お金なきメリトクラシーは、今日、既存システムを腐らせている腐敗の多くを効果的に消滅させ、地球上の誰もの生活の質を顕著に改善させる。だが、お金が完全になくならない移行中段階のシステムでは、そこにおける別のアイデアがある、それは、産品ベース通貨の再発行で、そこでは、一国の通貨は産品の裏付けをもって発行される。小麦、トウモロコシ、鉄、銅、そして他のすべての商品は、倉庫に蓄積され、担保とされる。

 

贈与経済 

贈与経済、あるいは、無償経済は、人々が余剰な物品を共有し、必要な物品を得ることができる制度である。贈与経済では、もし不可能ならそれを贈与する必要はない。なぜなら、与えることも、受け取ることも、完全に任意であるからである。寛大と無駄にしない精神に立って、1976年以来、コロラド州テルライドで、「フリー・ボックス」〔無料商品店〕が営業している【写真】。この店で“買い物”する人は、自分が使えるだけのものを受け取り、あるいは、次の買い物客に価値のあるものを提供することが奨励されている。このテルライド・モデルに基づいた代表的な店がカリフォルニア州ロングビーチに開店し、その後も別の無料商品店が各地でオープンしている。

3 7 4 Free Box

with permission, (c) Brad Olsen, 2015 

ところで、何のためのお金? 必要な物やサービスを得るためだ。これは、贈与経済を厳密に実行するイベント、Burning Manでの「フリーボックス」。

贈与経済は、「カウチ・サーファー」〔「寝椅子利用」の意〕たちの突飛なネットワークで、現実的かつ全地球的なものとなっている。2003年の創設以来、ウェブサイト couchsurfing.org は、世界的な現象となっている。すでに世界中からほぼ200万人の登録者を集め、数百万の宿泊と受入れ体験を実現している。寝椅子に無料宿泊することは、230ヶ国、74,000都市や町で提供されている。

ネバダ州のBurning Man Festival は、厳密に、贈与経済にたって運営されている。外部からの商人は、一軒の中央カフェを営業し、〔食品保存用の〕氷を売る団体以外には、Burning Manでは許可されない。Burning Manが参加者に贈与経済を教えることに成功したことは、その催しの風変りぶりを高めるという結果となったが、それは、単純に、受けるのではなく与えることを奨励することによってであった。

人は慈善心を持った時、幸福感を抱くという特徴ある反応を示す。神経科学者は、脳の「慈善部位」――利他的な個人ほど脳の頂点後部の活動が活発――を特定している。脳のこの部位は、自分自身か他者かいずれを優先するかを決定する。科学は、人はなぜ、自分を犠牲にしてでも、他人の面倒を見ることを自分のこと以上に優先させようとするのか、そうした問題の解明に取り組んできた。一般的な進化論の見方に立てば、それは、誰にとっても自分の遺伝子を伝える機会を増やさないため、ほとんど意味をなさない。しかし、調査研究によれば、他に貢献することは、免疫の働きを向上させる。さらには、慈善行為は、脳のもっとも高等な部分に関与し、多くの寄付提供者が与える行為から学んだと表現する温情心をもった成長をもたらす。寛大であることは、セックス、おいしい食事、あるいはヘロインや他の多幸感ドラッグを使用した後の、気持ちの良い気分の高揚に関係するのと同じ脳の機能を刺激する。

感謝心についての先導的研究者、カリフォルニア大学デビス校教授ロバート・エモンズ博士は、信念をもった寛大性をもつ人は、物的、心理的そして社会的恩恵の提供者になっているとの発見をしている。感謝心は、贈り物を良しとし、否定的感情を抑え、そして、より大きな外界の要素を知ることを通じた善良さを自ら確立させる。感謝心をもつ人は、自分の利得に奔走する人たちを常に〔冷静に〕見ているために、より高い自尊心を持っている。それはまた、単純に、愛を共有し合うことによって満足を得ることでもある。例えば、ヘッジファンド富豪、ワーレン・ヘルマンは、サンフランシスコの金門橋公園での Hardly Strictly Bluegrass フリー・コンサートを十年間持続させるために遺産を残し、2011年12月、不幸にも逝去した。このワーレン・ヘルマンや、「くれてやらぁ」と大金を残して亡くなった匿名の富豪ほど、誰もから歓迎されて思い出される人はいないだろう。私たちの目からうろこがとれる時、自分がいくら稼いでいるかではなく、いくらを与えることができているかが、いっそう高い目標となっているだろう。墓に入ろうが誰よりも金持ちとなる、そんな理由なぞあるのだろうか。

贈与経済は強欲と競争の現文化を、協力と共有、そして、限られた資源を競い合う必要を無くすようにと変えてゆく。今をうんざりと思うなら、毎日の働く時間のいくらかを、共通の善のために用いることを考えてみるのも意味あることである。すべての人々の必要は、それが寄り集まって、社会が機能してゆくことである。それを、愛の新たな流れと呼ぼう。共有するために共に働き、他の人をいっそう助けることを、人々と呼ぼう。人が誰かに貢献することを目指す時、自分勝手であることは、もはや何の役も果さない。ヘルマン・ヘッセの小説、『東への旅』からの究極の教えを引用しよう。「下僕こそが主人だ」。

 

必要ベース経済

「必要ベース経済」とは、人間の健康とこの惑星の持続可能性のために必要な社会システムのことである。それを信じようと信じまいと、我々の惑星は誰にでも提供しうる潤沢な資源をもっている。たった一つ不足しているものが、お金なのである。であるなら、どうして、すべてをフリー、つまりただにしないのだろうか。お金のことは、みんな忘れてしまおう。どうしてそれができないのだろうか。ここは、私たちの世界のはずだ。ならば、私たちのルールを作ればよい。人間の行いは、私たちの現実性が何に依存しているかについての健全な科学的原理を知ることにより、それに拠るべきである。すべての人間にとって、健康な生活に必要なものは、きれいな空気、汚染のない水、広い土地、そして、ふさわしい住居である。その上に、技術と機械を含めることで、私たちはさらに高い生活水準を得ることができる。どの国も、その真実の富とは、その潜在および実際の資源に加え、人間的な暮らしの方法のいっそうの発展度によって計られる。必要ベース経済は、明らかに希少な資源を克服するために、それまで存在した希少性が解消されるまで、再生可能かつフリー・エネルギーを活用するように技術を活用する。技術はまた、コンピュータ化し自動化した製造、在庫そして流通を可能とする。また技術を、安全で効率的な都市を設計することにも用いることができる。技術はさらに、あらゆる人に、皆民医療制度と必要な教育を提供する。そしてとりわけ、技術は、人間と環境の両関係を基礎とした新たな動機づけの体系を生み出す。

国際経済学者のディビット・コーテンは、低所得国にビジネス学校を創設し、人々が政治的参加を増すこと通じ、実際の富を増加させることを提案している。これは、価値をお金のシステムによらず生活のシステムに基礎づけ、作用の場をグローバル金融市場からローカル共同体基盤経済に移し、そして、私たちの生活圏を、贈与経済と無私の交換、相互援助、そしてより大きな善に基づくものへと拡大することで達成しようとするものである。あらゆる社会機構は、究極的には、政治思想、宗教信念、社会慣習とは無関係で、資産、すなわち、お金の単一システムではなく、生活の諸システムに基づくものとなる。

いかなる未来の社会であっても、人間の問題がその原初的関心でなければならず、この目標が第一であって、技術の問題は第二である。これは、誰にとっても、余暇時間を顕著に増大する結果をもたらす。私たちは、古代ギリシャ――神の思し召しとして、毎日、哲学的議論や浜辺での運動に興じた――に立ち返り、それを見習うべきである。生産が基本的にコンピュータや機械によってなされ、また、産物やサービスが誰にでも手に入れられる今後の経済においては、「働く」とか「生計を立てる」といった概念は重要ではなくなる。共有の良さを掲げるコミュニティーは、いっそう協力し合い、犯罪、紛争、不平等を減少させる。そしてその結果、誰もが、自分や他人を好感をこめて受け止めるようになる。サイバネーションすなわち社会システムへのコンピュータやオートメーションの導入は、もしそれが人間的かつ理性的に用いられるなら、人類にとっての解放宣言とも見なせる。もはや嫌な仕事のために骨折ることはなくなる。そしてその全面的適用は、ついに人々に、苦難な労働のない、考えられる限り最高の生活水準をもたらすこととなる。必要ベース経済は、今日までの、高度に構造化され、繰り返す単調さと下俗な活動の外的強要から、人類史で初めて、人々を自由とさせる。それは、私たちを、奴隷が大半の労働を行い市民はその精神を開拓する時間を持っていた、ギリシャの余暇の考えへと立ち返ることを可能とする。そして私たちの未来においては、誰もが、ギリシャのように百万人もの奴隷を働かせるのではなく、百万台の機械的、電気的奴隷を働かせることでそれはなされ、決して再び、同朋の人々を隷属化することはないのである。

必要ベース経済は、その定義により、その恩恵を共有するため、すべての人々の参加を条件とする。それに加えて、お金では、マナーや倫理や知性といったものは買えないことである。金融システムには、腐敗をまねく本性的理由があり、他人をさておいて自分の競争力を得ようとする。既得権やお金の使用があるからこそ、偽られた情報や他を出し抜くことが有利となり利得の発生をもたらす。誰もの参加を許さず、新たなアイデアの導入を拘束するといった、隠されながらも実在する社会的障壁は、もうこれ以上、不必要である。真実は決して隠せず、子供にでもわかることである。そこで立ち返るべき目的とは、あらゆる人々に、情報の入手と物品とサービスの提供がなされることである。強欲さと競争を伴わず、かつ充分な準備をもって、人々はこの新社会のわくわくする挑戦に参加できる。学ぶことは、終生の取組みである。そしてもし、人口の過剰が壁となった場合は、訓練を受けた隊員が志願して、他の地球に似た惑星への移住にチャレンジするだろう。

物品とサービスの分配方法は、お金や代理通貨の使用によってではなく、公共図書館や博覧会のような役割を果たす、分配センターの設置を通じてなされ、そこでは、新製品の利便性が説明され実演される。必要ベース経済の定着をもってただちに、私たちは、新たに汚染のないフリー・エネルギーの供給を受け、それには量的制限はなく、かつ、今後数千年にわたる文明の源となってゆく。

 

宇宙時代へ

 今日のあらゆる必要品を生産する技術は、機械とコンピュータによってなされる。機械は多種の仕事にとってかわるため、これがいたるところで高い失業を生むひとつの理由となっている。しかし、これはいいことであるのかもしれない。つまり、最終的には、技術は私たちを辛い労働から完璧に解放でき、そうであるなら、私たちはそれを喜ぶべきである。そしてそればかりでなく、もし私たちが消費物を生産するために人を必要としないなら、もはや生産はそれほどに容易なことであり、そして物品の生産が容易な問題なら、人はあらゆる人のために、つまり雇い主のためにではない働き方があってはならない理由は全くない。そこでどれだけ無駄が省かれるか考えてみよう。現在のところ、私たちの経済は、すべてがお金の動きに基づき、利益を生むことに関わっている。そこでは、それを必要とする世界の人々のために、真にそれが行なわれている訳ではない。私たちが必要とする物品が生産できない理由は、それが物理的に不可能なためでのみあるべきで、収益性のなさがゆえではない。

お金が作り出す唯一の結末は、ひどい格差であり、人間に点数をつけ、それによって誰が何を得るかを決定し、大半の人々を片隅に追いやるシステムである。だが、私たちの技術は、史上初めて、持つ者と持たざる者という概念を追い払うことを可能としている。しかも、それはほんの第一歩である。私たちの世界をお金のない世とすることは、私たちの技術的可能性をフルに解き放ち、私たちを革命的な無汚染かつフリーなエネルギー源への立ち入りを可能とする。それは意味深い繁栄と世界すべてについての知識をもたらし、永遠に、戦争と不正義のない世界を約束する。

私たちの世界は、お金をなくすことで、はるかに改善される。食べ物が、最高の品質で豊富に生産されることを考えてみよう。飢えは完璧かつ永遠に消滅する。私たちは、いかなる予算的問題もなく、大きくよりよい病院や学校を持つことが可能となる。あらゆる人々に、豊富なエネルギー、便利なコミュニケーション、宇宙開発、そして海中都市が使用可能となる。そしてこれらのすべてが、地球外の宇宙界の友好的存在との意義ある接触への平和的な移行を用意する。あまりに現実離れした想像だろうか? UFOとは、あるいは、タイムトラベルとは何だろうか? 伝説の作家かつ映画プロデューサー、ジーン・ロッデンベリーは、未来の世界を予見したシーンに興奮したはずだ。だが、映画「スタートレック」に、お金の消滅を描いたストーリーは登場しなかった。

もはやコストの問題ではない。唯一の限界は、私たちの想像力と、何を望もうと、それを作り出すために必要な自然資源だ。今日の社会にあっては、もしあなたにお金がなければ、ついには死なねばならない。これは間違いであるばかりか、完全に倫理に反し、単純明快に不必要なことである。だがそれに代わる道がある。新しい、よりよい道で、お金を廃し、なにもがフリーで、どこにゆくのも自由であり、私たちはあらゆる人たちのために働き、そして最終的には、栄養不足、貧困そして、あらゆる社会的不正の消滅を目の当りにすることとなる。これが、この地球上の黄金時代である。私たちは、その社会が可能な限り公正であり、技術はコストの問題に苦しまずに発達をとげ、私たちは長生きのために世代の区別すら難しくなる。もし私たちが、子供たちとこの惑星のためにお金のない世界を選択したならば、それらがことごとく可能となる。そして、あらゆる搾取は消滅するのである。

 

四つの原則 

どんな動物種も自己保存を行うが、奇妙にも、人間のみが例外である。もし私たちが、伝説のユートピア世界に到達するつもりであるなら、それを変えねばならない。あらゆる開明された社会とは、そのすべての市民に、基本的支給を提供することができる社会である。可能なことをすればそれで足りるのではなく、そうした提供が私たちの集団的進歩のための絶対的必要である。しかし、お金を廃して平等な新社会を創設するにあたって、私たちは自分たちの原則条件を明確にする必要がある。第一の原則は、誰もふたたび、空腹にさらされることがあってはならない。この〔人類社会の〕最大の弱点をめぐって、それは常に、社会全体の最高の可能性に達しているのか、それとも最低の水準にとどまっているのかの指標となる。第二の原則は、誰もが、住居、電気、清浄な水、栄養豊富な食物、そして適切な医療といった、基本的必要を無料で入手できることである。第三は、すでに私たち〔米国人〕はそれを持っているが、基本的教育を受ける権利である。しかし、学ぶことは、生涯にわたって続く過程である。本書のユートピア的統合理論モデルにおいては、すべての人々は「一貫性の原則」に従い、引き続く世代に新しいすべての情報が委譲されねばならない。それが衆知ものとなり、成熟した成人となってそれを改善し、さらに新たな進歩の突破口を開くように受け継がれる。そして〔真に〕「透明性の時代」となった時には、何事も隠されず、一人が得られるどの財産も、誰もが得られるものでなければならない。そして最後の第四の原則は、私たちの教育システムが、完璧に腐敗を廃したものであり、普遍的真理へと連らなってゆくものであることだ。その結果、私たちは、個人向けの立体画像(holographic)技術の導入と、社会巨視的および個人微視的の両レベルに基づいて、人々に意味深いスピリチュアリティーを教える教育過程を得るに至る。こうして誰もが、自発的に内的平和、他者と共の自分の平和、そして自然界との平和を追い求める。

この開明なった社会において、子供たちは幼い時から、フリー・エネルギーや「必要ベース社会」に貢献する務を教えられる。もし、ある人が大学を続けたくなくなった時、その人には、何らかの仕事につくか、それとも、無就業のままでいるかの選択が与えられる。そしてもしその人が、寮の部屋で一日中ビデオゲームに浸りたいなら、それも許される。つまり、誰もが、何によってその生涯を輝かしいものとするのか、それを自ら選択できる。他方、無料教育を受け続け特別な専門分野に入って行きたい者はそれを追究し、そしてそれを持続するには、それぞれ異なったレベルでその意欲の度を見せねばならない。そして、成人となって教育を終えた後、その人は選んだ職種において、自分の時間をさいた貢献が求められる。動物が好きな男性なら、彼はその労働日を牧場で働き、科学に興味のある女性なら、彼女は研究施設で働くだろう。働くことはもはや退屈仕事ではない。個人は経験をへて、その仕事が誰かにとっての恩恵に僅かながらにでも貢献したとの成果は、あらゆる人たちによって認められる。また、個人がある仕事を最適に成し遂げた時、その人には褒章が与えられ、そして、その人が得た教育や経験のように、その褒章は必ずしも物的なものではない。他方、個人として充分な達成を見せられなかった人、あるいは障害を持つ人は、常に、必要に充分な提供が用意される。誰かを援助したり、文化を高めようと決心した人は、彼らがもっとも満足と思う方式が報酬として与えられる。お金を廃した新世界では、私たちは、新たな倫理を作り上げなければならず、その事情が何であれ、誰かが放置されることは許されない。必要なものはすべて与えられ、スピリチュアルな訓練すらも与えられる。最終的には、こうしたシステムはあらゆる人を高め、この惑星を未来の世代のために、かってなくダイナミックなユートピア世界へと成長させるのである。

 

参考文献

Bretton Woods gatherings: 

www2.econ.iastate.edu/classes/econ355/choi/bre.htm 

A great essay by the Venus Project on the resource-based economy: www.thevenusproject.com/a-new-social-design/essay#the

David Wilcock’s essay on “Financial Tyranny”:  http://divinecosmos.com/start-here/davids-blog/1023-financial-tyranny

Altruism’s positive effects: www.bhutanobserver.bt/good/ http://psychology.ucdavis.edu/faculty/Emmons/

 

 

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Future Esoteric: The Unseen Realms by  Brad Olsen

http://cccpublishing.com/FutureEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2015


 

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