ヒマラヤ“奇”行

「ローカル」視野からの脱皮

ヒマラヤという〈世界の屋根〉は、人類にとっての極限への挑戦場の最たるものとなってきた。突出したクライマーたちにとっては、それこそ「世界初」と冠せられる偉業を成し遂げるための壮大な舞台であった。そうした数々の偉業によって照らし出されたこの地は、いまや、すさまじい数の「人生のクライマー」たちによって、さまざまな形の挑戦がなされている。その中に、私という76歳の老年者の、そこそこの挑戦があった。

チョムロン村(標高2170m)からの遠望

これまで私は、この世界の屋根について、ことにネパールのそれに関しては、世界からの注目を集め過ぎているがゆえの殺到を敬遠する気分が強かった。そのため、私なりの挑戦はこれまで、インドヒマラヤという、トップ好みの人たちにはひとランクもふたランクも落ちるその屋根に対して行われてきた。私にとって、山の有名無名、高い低いに貴賤はない。ただ、自然造形がそこにありさえすればよい。

それが今回、いくつかのめぐり合わせがあって、ネパール中西部のアンナプルナ山域の一つのトレッキングに加わることとなった。そしてそれは、自身にとっての成し遂げという意味では申し分のない、いくつかの意味で、予想以上の成果を得ることとなった。

だが、かくしてこの世界の最注目の地を訪れてその目的を達成することとは、そうした世界各地からのおびただしい数の老若男女の挑戦者の一員となる結果となり、その個的達成感とは裏腹に、何やら、どこか禁制に触れてしまったかのような、ある種の後味の悪さを見出してしまうこととなった。そこまでとは十分承知していなかったとはいえ、寄ってたかって何かにむさぼりついてきたかの、集団的暴挙への片棒担ぎ感を抱いてしまっている。

それがどういうことか、以下の動画を視聴していただければ、おおよそ見当がつくだろうと思う。

 

【本サイトの容量制限のため、画質を落としてあります。】

 

この音声に注目いただきたい。

というのは、この動画は、アンナプルナ・サーキットの要所の村、ゴレパニ(Ghorepani)から1時間ほど、標高差400メートル近くを登ったプーンヒル(Poon Hill 標高3193m)頂上の展望台で収録したもの。その360度のパラノマを撮ろうとしてカメラを回しただけなのに、こんな音声まで拾ってしまっていた。決して町の雑踏での録音を重ねたものではない。そんな高山でしかも早朝の頂上というのに、これほどの賑やかさなのだ。

というのは、この村には、およそ500人ほどの宿泊が可能な数々のロッジがあり、しかもモンスーン開けのシーズン中とあってどれも満杯の状態となっていた。そうした各宿から、夜明けのアンナプルナ山群の雄大な眺望を得ようと、その500人ほどが一斉に、日の出前の暗がりの中を登頂してきた結果がこれである。映像にはまったく似合わない、それこそ、都会並の人ごみが、このシーンのこちら側に出現していたのだった。

 

ところで、人間、この歳ほどにもなると、どんな場においても、相手を尊重することが何よりも大切であることが分ってくる。それは、人間相手ばかりでなく、自然や山々についてもまったく同じである。相手に挑んだり、見下げたりすることは、百害あって一利なしである。

そうした心がけは、人間相手の場合はまだ比較的分りやすい。ところが、自然相手となると、その懐の大きさが故に、どうしても、相手が無限の包容力を持っていると思い込み、奔放に対しがちである。

まして相手が、ヒマラヤといった壮大な美を体現している場合、それに魅されたものは盲目的にすらなって、その獲得達成にわれ先に奔走することとなる。しかもそれは、そうは容易に得られるものではなく、その獲得には、それこそ命すら脅かす、挑戦と言うに等しい一貫した努力が必要となる。

かくして、通り一遍な休暇、ことに並な旅行に飽き足らなくなった人たちが、自己達成を含めた意欲にも押され、この地に集中してくることとなる。つまり、一種の高山志向の大衆化現象が生じている。よって、その楽しみの追求がどれほど困難なものであろうと、とてつもない大勢がそれを追求するとなる。そしてそこでは、相手の尊重という思慮を欠いたものとなりがちである。いまやそれほど、世界のあこがれの対象となっているのである。

 

これは厳密には量子理論用語なのだが、「ローカル」と「ノンローカル」という一対の専門語がある。そして以下は、その専門領域で用いられる意味に基づきかつそれを越えて――それこそ牽強付会な私独自の見解を多分に含んで――、私たちの自己認識における、思い込みの盲目からの自由度、開眼度を区別する用語であるとの解釈である。すなわち、私たちが、そのさまざまに刷り込まれたその思い込み――生命的ホログラム――に基づく見方が「ローカル」であり、そうした思い込みを振り払いえた視界による見方が「ノンローカル」である。

ちなみに、量子理論では、従来の科学による物質の素の素が、微細な粒子であるとの考えを退け、もはやそれは、物質というより、エネルギーや情報と呼ぶにふさわしいものであって、従来の物理学原理は適用不能なものとするものである。そして私たち人間は、そうした微細要素の集合体であって、当然に、従来の科学認識では把握しきれない要素を持つものである。

 

つまり、私にとってのヒマラヤ行きは、そのノンローカルな境地に触れるためのアプローチなのであり、自分にとって、それはそれで極めて“神聖で非世俗的”な領域に属すものである。そういうヒマラヤが、人生中に味わうことさら別格の旅先として人気を高め、世界中からの来訪者でまるで雑踏のごとくにごった返しているのであるから、当然に違和感をこえて、嫌悪感すら持たざるをえなくなってしまっている。

そう言う次第で、その人気の的であるネパールヒマラヤを避け、インドヒマラヤに傾倒していたのは正解であったとの結論が導かれる。ただ、そのインドヒマラヤすら、近年、中産階級の増加するインド社会があって、その雑踏化の途上を進んでいるのは間違いない。

ゆえに、私の一種の挑戦の場としてのヒマラヤが、もうその目的にそわなくなってきたことを認識すべき時であるようだ。

というより、そもそも、そうした他国の奥深くを、勝手に自分の聖地と思い込み、意気込んで臨んできた自分こそ、おおいに反省すべきであると思い知らされる。ヒマラヤを故郷とする人びとが、まさに聖地として崇拝の対象としている峰々を、無神経に自分自分勝手に、自分のエゴや思い込みがゆえの挑戦の対象として乗り込んできたわけだから、まさに恥じ入る行為だったと言われるべきであろう。

 

たとえば、今回のトレッキング中、頂上直下、ゆうに高度差2千メートルはあるだろう、鋭く切り立った氷壁をなしそそり立つフィッシュテイル峰(6997m)【右写真】を眼前にした際、「クライマーなら挑戦心をそそられるにちがいない」と思わず私の感慨を漏らすと、それにこたえた同伴のガイドは、そうした挑戦に誰も成功していないばかりか、幾人かの挑戦者はまだ帰ってきてすらいないと、一種の畏敬を込めてその峰への神聖な思いを語っていたことが印象深く思いだされる。

要するに、その大自然と共に生きている人びとにとって、その畏敬心は人のこの世の挑戦の対象を超える、人間の抱ける思いの深淵さの表現なのだ。登頂が出来る出来ないの問題なぞではない。

 

むろんいつの日か、いくつかの果敢な命の犠牲の後、物理的――つまりローカル――に征服される時はあるのだろうが、それとは無関係に、ノンローカルなその存在意味は、人間に対して、その卑小さ、つまりローカルさを教えつづけているのだ。

 

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