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二つの自然
私には、二つの自然があります。いや、もう少し正確に言うと、私は、二つの自然によって支えられていると感じています。
ただ、この 「二つ」 という見方にも、さらに二つの視角があります。
まず、第一の視角、つまり、ごく形態的、物体的な (つまり形而下的な) 分類といった角度においては、同心円をイメージして、そのコアに位置する自分の身体である自然と、それを幾重にも取り囲む環境としての自然があります。
第二の視角は、抽象的な観点によるもので、上に言う形態的、物体的自然観を一極として、その他極に “ある”、そしてゆえに、物質的な感知をこえるものでありながらもそれを 「自然」 と呼びたいとする、観念としての (つまり形而上的な) 自然があります。
そして、結論を先に述べるように表せば、この第二の、観念としての自然――これを私は 《メタ自然》 と名付けたいのですが――の存在感なくして、このごろの私を導きはじめている、ある 《精神の落ち着きどころ》 といったものは、発見できなかったように感じています。
ではまず、第一の視角である、形而下的な自然から入ってゆきたいと思います。
子供の頃から、屋外をほっつきまわるのが好きであった私は、大人になってせわしい日々を送るようになっても、気が付くと、いつの間にやら山野を歩くことに帰り着いており、いわゆる大自然というものへの愛着のほどは、人並み以上であったかと思っています。そういう私ですから、この形而下的な自然との交流は、生涯的なものと言えます。
そういう “周囲” としての自然に対するコアとしての身体について、それが、周囲の自然に並び、時にそれを上回るほど、つまり、探究的な関心の的となるほどとなったのは、この十数年来のことのように思います。中年末期にはいりつつ、心身のあちこちがぎくしゃくしはじめたのを痛感し始めてからのことです。つまりは、「体が資本」
としみじみ感じ入り、失い始めて、そのものの真価に気付いたわけでありました。
もちろん、それまでにも、先に 「 『自足自律機械』 しかけの私」 と題したエッセイに書いたように、若い頃からの、山歩き中の身体の働きへの関心といったような、ある特異な状況のもとでの身体へのそれなりの探究心は持っていました。
ところが、こと五十の声を聞く頃になってからの関心は、もっと日常的かつ一種差し迫ったもので、いわゆる 「健康法」 が関心の柱ともなって、はるかに防衛的な次元のものとなりました。そして、そうした態度のもとでは、身体としての自然への関心は、あたかも経済学が扱う対象のように、しごく打算的視点に満ちたものです。そう、健康法という会計学があるかのように。
そうした計数的な視点で言うと、私にとってのこれまでの六十年余の生活は、こうした健康という関心分野における、一連のデータ蓄積の時期であったかとも言えます。
たとえば、風邪の兆候はまず喉の違和感に現われるとか、それへの効果的対処は寸分を待たずに行ううがい (うがい薬がなければ塩水で) である、とかに始まり、運動がもたらす身体ばかりでない精神的健康増進効果とか、長い周期でやってくる鬱の潮の干満との微妙な付き合い方など々々と、ともあれ、体験的に集められてきた無数のデータがあるのは確かです。
人生 「二周目」 となった今、その蓄積されたデータが、じわじわと、生活全体、ひいては人生そのものに役立ち、噛み合ってきています。もちろん、手に負えない場合は医者の世話になりますが、それでも今では、私は通常、その医者にも多分に懐疑的で、まるまる信用しようとは思っていません。また、私は、薬を出来る限り飲まないようにもしています。自分の身体のもつ治癒力を信頼することを第一に、少々手間や時間を要しても、せっかくのその力の邪魔をしないように心がけています。
しかし、それでも、加齢と衰えは確実に進行しています。この必然には、後に述べる、観念つまり心の対応の面から、自然が単に物の集積でないとの次元で、落ち着きどころを探究してゆきたいと念じています。そういう意味では、私は、敬虔な、
自然教徒であります。
そこで、第二の視角である、観念としての自然です。
私が、こうした考えを抱くようになった経緯には、その根をたどれば、自然界がただの物体界だけでは終わらなさそうな、子供のころ以来の、自然に接した際のおどろおどろしい思いにまでさかのぼることができます。しかし、そうした前駆的期間をひとまず除外すると、その経緯は、人生の黄昏期にさしかかり、上記のような同心円状の物体的自然観を発展させながらも、中心たる自己と周囲たる自然が不連続で対立したものではなく、つながってある統合的な一体をなしているものとして受け止められるようになったことに端を発し、そしてその一体性を意識的に活用し始めてからのことです。しかも、そうした活用は、上記のように健康観に如実に現われているのですが、その実践がいっそうその確信を生むという、相乗のスパイラルを形成してきているようにも思えます。
やや突飛な例ながら、それを始めてはや一年半を経過した寿司修行にしても、そこに伴う、無視し、見下しさえしたくなるほどの、些細な具体性や身体作業へのこだわりに関心を寄せ続けられるのも、それを一極のミクロとし、その他極にマクロな自然を対置できる、総体としての
“大なるもの” から断絶されてはいないとの実感が確かめられるからかも知れません。
また、冒頭に、この観念としての自然を 《メタ自然》 と呼びたいと述べましたが、本 『両生空間』 の長年の読者には、またしても 《メタ X X 》 かと、あきれられている向きもおられるかもしれません。もちろん、先に、 《メタ認知》 とも、 《メタ客観性》 とも、また 《メタ人間性》 とも述べたのは、それぞれにそうするに必要な要請があったのは言うまでもありません。それに加えてさらにこの 《メタ自然》 であります。つまり、私にとっては、そのように繰り返される 《メタ X X 》 頻出に、もし意味があるとするなら、そこに通底する何ものかが存在するからではないか、とも考えたくなっています。
というのも、臓器、つまり物体としての脳がどのように意識―― 「私」 の根源――を発生させているのか、そのメカニズムは、今日の最先端の脳科学にあってもいまだなぞの分野です。つまり、人間の人間たる源泉とも言える脳をめぐって、その物体が意識や観念の発生源という、不連続な連続、あるいは、同一物たる飛躍、が存在していることは、まぎれもない事実です。この
「不連続な連続、あるいは、同一物たる飛躍」 を、たとえば、ひとつの 《メタ現象》 と言い換えても、論理矛盾は存在していないでしょう。
こうしたつながらない部分をつなげているその何かこそ、一連の 《メタ X X 》 の本質で、そもそも実体であるかのような、時にあやしき、私たち自身の意識も、この 《メタ X X 》 の働きの産物にほかなりません。
言うまでもなく、この 《メタ X X 》 の働きへの畏敬の念は、古くから、西洋では絶対神、日本では八百万の神として崇めらてきました。それが最近では、先にも触れたように、それが宇宙の意思である、との見方も表わされています。この点に関し、これは私見ですが、物体としての脳と意識という 《メタ現象》 が一方に実在することを思えば、その他方に、物質界としての宇宙に何らかの意識に相当するものがあるという 《メタ現象》 が実在していても、それほど不自然なことではないのじゃないか、とも思えるのです。
最後にやぶから棒に、卑近な話題を引き合いにして恐縮ですが、 「よこせし」 現実社会のもつ辛辣であこぎな審判にさらされる周囲環境にあって、 「事を成さぬ事を成さん」 と欲する時、その姿なき姿を座させるべき場は、こうして見えてきつつある、観念としての自然= 《メタ自然》 をはじめとする、 《メタ界》 以外には拠りどころを定めようがないと私には思えてきています。
また、その場の見えようの度合いに応じ、その形も姿も 「無」 の怖さに挑める勇気と深い安息が与えられるのではないかとも。
(松崎 元、2007年11月14日)
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