• 06月

    • 先の日本滞在の際、一緒に秩父の武甲山に登った若き冒険家――世界七大陸最高峰全登頂を目指している――市川高詩君がエベレストに挑戦中で、5月24日登頂成功。下山中悪天候で凍傷を負い、ヘリで運ばれて現在入院中とのこと。無事回復を祈っています。これで「セブンサミッツ」の残すは南極大陸ヴィンソン・マシフ(4892m)のみ。

      [caption id="attachment_22893" align="aligncenter" width="200"] 向かって左が本人[/caption]
  • 05月

    • エクササイズの際、まず近所の公園に行くのだが、いつも私の姿を見ると、どこからともなく、数十羽の鳩が舞い降りてくる。エサをもらえると期待しているらしいのだが、それは私ではない。それでも物欲しげに回りに集まり、クック―、クック―と催促する。エサ目当てでないなら可愛いのだが。

    • 日本の報道で最近「神対応」との表現によく出会う。一種の賞賛のそれも最上級の意味のようだ。英語なら、「ジーザス・クライスト」とか「オー・マイ・ゴッド」になろうか。だがその英語表現が、私にはどこか宗教臭く聞こえる。ところが日本のこの場合、そんな臭さはなく、いかにも大衆的。これを日本人の無宗教性の故とするのは、私の独断か。

  • 04月

    • 誰も、一度は宇宙飛行士となって、宇宙を飛んでみたいと願望します。また、そうした願望を先取りして、宇宙観光めいた宇宙旅行パッケージが恐ろしい値段で売り出されています。そこで想うのですが、もし「死」を通過点と考えるなら、その永遠の旅立ちとは、宇宙旅行への旅立ちとして、大いに歓迎すべきであるし、そんなに金をかける必要もなさそうです。そうなんです、「死」とは、宇宙社会へ船出する「成人式=通過儀式」なのです。

  • 03月

    • WBC日本優勝。いやみに聞こえるかも知れないが「たかが野球、されど野球」。つまり、全体がそこに凝縮している。そして「多様と一体」があって、それがじつに清涼だった。個々にとっては「たかが自分、されど自分」なのだが、私たちにとっては「たかが日本、されど日本」。そして願うべきは「たかがアジア、されどアジア」そして「たかが地球、されど地球」だ。

    • 袴田事件。今日、検察が特別抗告を断念し、再審が決定した。袴田さんは1966年にこの事件に遭遇、以来、57年間、自分の無罪を訴え続けてきた。ただ、そのために人生のすべてを費やしてきた。再審の決定とは、無罪が確実だからこその裁判のやり直し。もうすこしで完全に自由の身となる。袴田さんは87歳。私よりちょうど10歳上。これで本件が物証を警察がでっち上げた冤罪ケースであったことが浮かび上がる。それにしても、こういうことができた警察や国とは、何であったのだろうか。私は、それと同じ時代を生きてきている。

    • 東日本大震災から12年。右の写真は、2017年に現地を訪れた際、復興中の南三陸町の佐藤信一氏の写真館で入手したものです。

  • 02月

    • 前回紹介した本『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』を、キンドル版の白黒で読んだためか、それとも、「人生は旅」との思いと絡めすぎて読んだためか、この本をクラシックに『夫婦善哉』と並べてしまった。そしてそこに描かれているのは、そんなはちゃめちゃの旅人生をたくましく生きる夫婦愛の物語として。むろん舞台は戦前の大阪ではなく、まさに現代の世界随所だが。

  • 01月

    • マツダの軽で地球を放浪車旅中の友人ごフーフが本を出しました。写真のようにどれが書名か分らんですが、『今夜世界が終わったとしても、ここにはお知らせが来そうにない。』で、著者は石澤義裕。まだ現物未見で、無精ながらのご案内。

    • 新年を迎え、自らを《検出器》としてゆこうとの思いをあらたにしている。健康であることも、そのための条件作り。年金生活者であれることも、また、別の意味での条件のひとつ。こうした諸幸いを得られて、この仕事をより充実させて行きたい。むろん、良き人たちと出会えていることも。