• 11月

    • 本サイトのロングセラー記事に邦訳『天皇の陰謀』がある。これは、日本の昭和天皇とその戦争を日本の外から見た描写である。今でもほとんどの日本人は、その描写を読むに堪えない。というのは、その内外の両視野の著しいギャップを正視できないからである。ところが、類似した巨大な内外ギャップの存在する状況が隣国中国に生じてきている。この見方は、今の日本でも大勢となってきている。ということは、日本はこうした内外ギャップをそう克服できるまでに成熟を遂げてきたからなのか。もし、それもなくて隣国を批判しているとなると、それは深刻な内部矛盾――同じ専制状態なのに片方はOKで他方はNO――を抱えているということとなる。東アジアでの戦争状況を防ぐには、この辺の天皇制にまつわる自己矛盾から克服してゆく必要がある。

    • 岸田政権になって、一つ、新事態を感じされられる推移がある。それは、林外務大臣の任命をめぐって発生している、自民党内の軋轢である。そこには、二点の要所がある。ひとつは、保守の牙城のひとつ山口県における安倍vs林の選挙基盤争いである。ふたつめは、「AUKUS」の動きに見られる東アジアを舞台とした新冷戦化状況にあって、米中対立の枠組みに安易にはくみしないかの林外相の振る舞いである。いずれも、そうした緊張はまだほんのとば口にあって、不用意な予断は禁物である。ともあれ、この新冷戦状況への不気味な動向にあって、日本の立ち位置は、その行方を左右する要になるのは間違いない。声を大にして言いたいが、日本人の懸命さの見せ所である。

    • 選挙への最も露骨な現実論に立てば、50パーセントそこそこの投票率がゆえ、「目開き千人、目くら千人」(前回参照)と毒舌して、半分の人口に徹せよとなる。事実、選挙結果を見る限り、またしてもこの現実論レベルで勝負がついてしまった。勝ち誇った政治家は次に、「清濁併せ呑む」のが政治だと高をくくる。「併せ呑む」をどう割り引いても、彼らの使命は「濁を清める」ことで、「より濁る」ではないだろう。だがこの「半分参加登山」は、その取り付きからもうその登頂は考慮されていない。真に頂上を志す者たちの捲土重来を期したい。

    • 日豪の両社会を体験的に比べれる立場にあって、選挙の度に痛感させられることは、社会の雰囲気と選挙結果とのギャップの両国間での違いだ。豪州の場合、むろんゼロではないが、日本のそれと比べれば、そのギャップははるかに少ない。その原因は、94%と56%という投票率の違いにある。豪州の場合、投票は義務で、事実上、全員が投票する。昔、日本にいた時、保守政治家の言葉「目開き千人、目くら千人」を聞いた。つまり、半分の国民のことは眼中に置かないでいいという。そういう現制度を変えることを、与党にある者の誰が欲するだろう。120年前、豪州が連邦国家を作った時、この義務投票制を決めた。この国に住んでいると、この決定がどれほど重要だったかをしみじみと知る。

  • 10月

    • 10月末、ジャカランダの花が咲き始め、新たな一年の始まりを知る。37年昔のこの時季、オーストラリアにやってきた私を満開で迎えてくれたのがこの花だった。もう、長い付き合いだ。

    • 昨日、この総選挙のシドニーでの投票を済ませた。正直言って、この一票を投じるのは、恐ろしく手間暇を要する。まず、投票は、シドニー市内の領事館まで出向かねばならず、電車乗車時間だけで往復50分。それに両側での徒歩が往復で40分。その際、パスポートと在外選挙人証という言わば選挙用のパスポートを提示せねばならない。その選挙用パスポートの取得には、事前に、日本の戸籍所在の選挙区の選挙管理委員会と、三往復の書類郵送のやり取り(最短で2カ月)によってようやく得られる。これでも、今は投票できるからいい。十数年前までは、日本国民でありながら不可能だった。さて、その超重き一票はどう生きるか。

    • この総選挙とは、ピンボケな報道が何と言おうと、失政と無責任の逃げを重ねに重ねてきた与党が、政治制度によって、ついに自ら、国民の信を問わねばならないという、もっともしたくない窮地にまで追い詰められているということだ。国民にとっては、もう奴らを逃がさない、絶好かつ最後のチャンスだ。だから与党は、顔のすげ替えと速攻戦くらいの手しか打てない。岸田さんの公約も学者論文風の総花的な総論提起で、論点の拡散を意図したものだ。ここまで疲弊し切った国民生活をともかく蘇生しなければ何も始まらない時なのに、そのための政策の絞り込みからすら逃げている。他方、野党の公約は、総じてポピュリズム狙いだが、ともあれ、たるみ切った議員を落選させる手段には有効だろう。その結果、新議員によって、今期は、目覚めた国民の関心を反映させた議論を積み重ねて、国民と政府の噛み合った仕組みを立て直すことを最優先する。そして、次の総選挙で、本格的政府を確立させる。つまり、急がば回れなのだ。

    • 最近、「親ガチャ」という言葉があるのを知った。例えば「親ガチャ外れ」とかと使うらしい。その典型が「毒親」だ。私は、この言葉が一種の流行り言葉、つまり時代の特徴とさえなっていることに、正直、そこまで来たかと思わされた。これは、格差の放置が家族内にまでおよび、しかも親譲りとまで構造化されていることだ。ゆえにその子は、まず親と、次に社会と、少なくとも二重の闘いをせねば喰い殺される。オーストラリアでは問題はまだ「パラサイト」あたりだ。これも次には、英語の「親ガチャ」が流行ることとなるのか。

    • 散歩中に出会った、春爛漫。

      [caption id="attachment_17370" align="aligncenter" width="200"] 匂蕃茉莉(においばんまつり)[/caption] [caption id="attachment_17371" align="aligncenter" width="200"] アマリリス[/caption] [caption id="attachment_17372" align="aligncenter" width="200"] ブラシノキ[/caption] [caption id="attachment_17373" align="aligncenter" width="200"] シロツメクサ[/caption] [caption id="attachment_17374" align="aligncenter" width="200"] 極楽鳥[/caption] [caption id="attachment_17378" align="aligncenter" width="200"] 白いアマリリス[/caption]
  • 09月

    • コロナ感染がこれだけ騒がれるのだから、死者数総計は結局どうであったのかが気になる。オーストラリア政府統計によると、たしかに、2020年、コロナ感染による死者数は898人あった。だが、総死者数は2019年より8001人も減少して16万1300人逆に顕著な増加は、飲酒関連の死が8.3%増えて1452人。酒の消費量も26.5%伸びていた。他方、マスク着用など感染予防活動の徹底により、インフルエンザを含む呼吸器系の死亡数は統計記録上最大の24%減ってわずか55人。こうした統計の限りでは、オーストラリアのコロナ対策は有効に見えるが、死ぬほどの飲酒が増えているのを鑑みると、問題の要所は、身体より心理に移りつつあるかのようだ。

    • 歴史が作ってしまった、英米アングロサクソン民族の世界制覇の誇りは、どうしてもその面子に傷をつける新参勢力を許せない。日本にはかつて、二発の原爆という非人道兵器が使用されたし、今は、中国の台頭に対して、原子力潜水艦戦力をめぐり、オーストラリアを引き込んで、その宿痾がふたたび頭をもたげはじめている。日本は、非原潜の保有を越えずに防衛に徹し、また、軍拡競争には決して巻き込まれたくないアジアの各国の先頭に立って、中国をさとし、米国をいさめて、アジアの平和を維持させよう。絶対に、台湾を第二のアフガンにしてはいけないし、東アジアを新冷戦の舞台とさせてはならない。総裁選などとのコップ内論争にうつつをぬかさず、まして次の総選挙では、世界の危ない情勢が争点にされなければ、それこそこの「絶対」が起こってしまう。(英訳がAmphibious Spaceに

    • EU離脱した英国の世界戦略が見え始めた。またしてもの「冷戦」だ。第二次世界大戦後、英国は、世界を東西ブロックに分ける冷戦体制を世界戦略とし、英をしのいで世界覇権にのし上がった米国を巻き込んだ。いま、中国の台頭に対抗して、米国とともに、東アジア大陸を封じ込める新・冷戦体制を先導し始めている。この脈略で見ると、15日の英米豪戦略的枠組み「AUKUS」――英米が豪に原子力潜水艦技術を供与し、豪が仏と契約していた4兆円規模の非原潜共同開発計画を中止――の意味が見えてくる。そでにされたのが仏だが、EUも台湾を明記したインド太平洋提携戦略を打ち出しており、いずれ、新冷戦への合流は避けられまい。かくして、アジアの命運はそのアジアの二大国を埒外に置いて、とうとう分断が不可避とされてしまった。中東を見よ。インドを見よ。日本はその分断の最前線に立たされるというのに、頭ごなしで決められてしまった。総裁選などにうつつを抜かしているから、このざまだ。(英訳がAmphibious Spaceに

    • 人間の身体には、免疫系という、外敵の侵入を防衛するだけでなく、自己を新たに創生すらしてゆくという「スーパーシステム」〔次号9月22日更新記事参照〕が備わっているという。日本国という身体は、コロナビールスという外敵の侵入に、その防戦にすら手を焼いている。その「スーパーシステム」は使われる気配もなく、議論もされずに眠らされている。そこに、リーダーさえ匙を投げた政権党が次のリーダーを選んでどう展望が開けるというのか。イチかバチ人工免疫作りのワクチン頼りでなく、自前免疫力を全面発動させるためにも、大連合政権の樹立が本道だろう。驚かされることだが、その免疫力の本道の原理は、何と「あいまいさ」だという。それもあろう。

    • たとえアマチュア野球でも、チームを任された監督が、敗色の濃い試合中に、選手たちの人心が自分から離反して失望したと、その采配を放棄することなどがあるだろうか。それに、やむなくチームの首脳らは、即座に代行を立てて試合を続行し、挽回作戦に取り組むだろう。ところが、そうだと思いきや、試合もそっちのけで次の監督選びを開始し、選手のことも、観客のこともまるで眼中になく奔走する。むろんチームは不戦負けになるばかりか、もはやチームの体もなさずに、即、崩壊は必至である。スポーツ界のアマチュアレベルですら、いくらなんでも、そんな醜態は起こりそうもない。だが、そういう珍事が実際に起こっている。しかも、日本の国政レベルで、かつ、死ななくてもいい人たちが不要に死んでいっているコロナ危機の真っ最中にである。彼らは草野球以下の人種なのかといったら、草野球に興じる子供たちだって、一緒にするなと怒るだろう。

    • コロナ対策において、オーストラリアは、ウイルスの一感染例も潰す「コロナゼロ戦略」をとってきた。それは医主政従体制――労働党政権州ではより顕著――とも見れる、最大PCR検査と感染ルート徹底追跡に立つ、あたかも“医学全体主義”であった。それが、感染は「ゼロ」どころかしだいな「拡大」が収まらない。そこでついに、政府は連邦も州も、ワクチン有効性に頼った、接種率70から80パーセントを目途とした「コロナ共存戦略」へと方向転換し、あわせて都市封鎖の解除へと向かってゆきそう。はたして、敵はおとなしく、「共存」でいてくれるものか。

  • 08月

    • 遂にハマの自地盤票すら、しがらみを絶って彼に背を向けた。党内でも、もうその名のもとでは道連れ心中同然と敬遠され、完全な孤軍奮闘で政権の有終を飾らねばならない。良しきも悪しきも固き信念一筋の首相は、粉骨砕身型官吏の典型ではあっても、危機下の政治リーダーのタイプではない。今後の総裁選も衆院選も、所定の日程が彼式の采配の下でこなされるだけなのか。それでも彼は、信念の士の名くらいは残せるかもしれぬ。だが、この感染蔓延の危機下、たとえ一時の無為であろうと、それが多くの国民の命を奪うことにつながるのは必至。せめて信念を曲げてでも、「救国大連合政府」くらいはぶち上げれないものか。

    • コロナ感染の緊急事態宣言は13都府県に、重点措置は16道県と、事実上はもう全国的。一方、梅雨型前線は、8月末になろうというのに広域にわたって豪雨を降らし続けている。まさに災害に打ちのめされ放しの国民。加えて、五輪の宴後の国家財政難は必至ということは。なのに、緊急の国会も召集せず、先生方は選挙準備に奔走中という。1975年、オーストラリアの首相(労働党)が英国女王代理の総督によって解任されるという大事件があった。旧植民地時代の法が生き残っていてそれが使われた。理由は財政問題だったが、当時の豪州国民は今の日本ほどの目にあっていたわけではなく、政権争い上の保守派の奥の手だったというのが真相。さて日本の場合、天皇は「象徴」だし、やはり、天の声も奥の手も、国民しかない。

    • 山を登っていて、道に迷い危機寸前に陥った時、まず考えることは、ノーリターンポイントをもう過ぎてはいないか、ということだった。すでに体力を消耗し切り、もとの道まで戻る余力もないなら、自力での脱出はもうない。悪天候を押しての五輪山の登山でも、そのどこかに、ノーリターンポイントがあったはずだ。もう通り過ぎてしまっているのか。天候はさらなる悪化が顕著だ。荒れ狂う嵐の中で、予定通りに、選挙だけがやってくるのか。

    • 私がここオーストラリアより見る日本の若者たちは、五輪の競技場で、自分を懸けて戦っている選手たちとともに、毎日を生きるために、自分の人生すらが棒に振らされかねない人たちすべてのことです。誰もみな私の孫の世代で、皆、同じように日本や世界の将来を背負っている若者たちです。しかし、その若者たちの思いや努力の足下にも及ばないのが、じつに残念なことに、今の政治家。さあ日本の若者たちよ、今は、彼らの失敗をあげつらって済む時ではありません。そんな彼らにはただ、ワクチン接種と休業補償の行き渡りに奔走させよう。いま必要なのは、君たちの明るい将来です。オリンピックに勝って、コロナにも勝って、みんな全員で肩組み合って共の将来を祝福しよう。君たちの代表が世界えり抜きのタフな相手と戦っているように、代表を送り出したみんなは強敵コロナを相手に戦おう。きっと、そこに結果が付いてくる。

    • メダル獲得の五輪報道に湧くスポーツ王国オーストラリア。その歓喜には、いつも、彼ら彼女らの世界的達成をたたえる、どちらかと言えば国や組織より勝者本人やそれを支えた家族が前面に出た、やや田舎臭い飾り気抜きのヒロイズムがある。今回もむろんその例外ではなく、その気の利かない、空気の読めない「らしさ」は相変わらずだ。だが、それはむしろ「らしさ」を貫くことで、開催国の政治現実の片棒を担がされない予防線と深読みできなくもない。「オモテナシって、コロナも恐れず強行開催してくれること?」とかなんとか言って。

      [caption id="attachment_16712" align="aligncenter" width="200"] これも気の利かぬオージーらしさか、なぜか現地報道のスタジオの背景は、問題の飲み屋街の風景[/caption]
  • 07月

    • 東京オリンピックにまつわる国や組織の失態のおかげで、かえって余計な演出や目論見にまみれない、簡素で、“中抜き”された開催となって、参加選手たちのピュア―な競技がかすまずに観戦できそうな気配。そこで願いたいのは、そうした彼ら彼女らの誠心誠意の努力の結果への、まずった政治家たちによる、寄ってたかった食い散らかしを起こさせない気運の起こり。そして、さらに願いたいのは、それが“嫌政”ムードを克服して、どこまで“建政”機運に至れるのかということ。

    • 十人十色と言うように、誰もがそれぞれに特技をもっている。だのになぜ、スポーツだけに多種目を網羅するオリンピックがあって、他の特技、たとえば、料理や、お笑いや、家事や人の世話やき等々にそれがないのか。順位が付かないのも一理だが、人と人が競い合うことに熱狂する習性も一役以上に働いている。そういう習性っていったい何? ひょっとして、誰かや何かにあおられている差別意識? むろん自分の技を磨く向上心は貴重。世界のトップアスリートに、そんな熱狂に白々しさを見出す人も出てきているようだ。さて、熱狂の機会をことごとくそぎ落とされた今度の五輪。結果的に、そうした向上心を確かめ合う、けっこうまともな祭典になるのかも。

    • オーストラリア方式のコロナ撲滅への出口政策が提示された。豪連邦政府は7月2日、4段階の行動計画を示し、国民に協力を訴えた。それは、第1段階が期間は異なりながらほぼ各州首都がロックダウン中の現在で、第4段階がコロナ以前への完全復帰とするもの。そのゴールに向けて、連邦政府が責任を負う水際対策とワクチン確保、各州政府が責任を負うPCR検査とワクチン大量接種実施を組み合わせたこの先の3段階を一段一段、登って行こうというもの。それを「民主的」と呼ぶかどうかは別としても、国民の納得抜きではその協力も期待できない「オーストラリア」方式。罰則もあるが記者の質問に精力的にあるいは根気よく答える説明もある。ゴールにいつ到達するか連邦政府は明言していないが、オーストラリア国民は、予想を越える早さの経済の復活の中で、私見だが、この4段階方式を支持していると見受けられる。

  • 06月

    • 「死ねというのか」。日本からの報道で、ワクチン予約ができない人が受付係員にぶつける苛立ちの言葉だ。逆に私は、同じ言葉を、ワクチン接種を強要された時に発しそうだ。ワクチン接種の副作用で死ぬ確率は100万人に1人ほどらしいが、私自身にとって、自分の健康水準――74歳だが何の常用薬も必要でない――から言って、自分がコロナで死ぬ確率はもっと少ないと思っている。だからその予防のためにあえてリスクをとる必要を認めない。それに、自らの社会的責任という意味では、そんな数字の大小問題より、自分の健康維持の方が遥かに大きい貢献だと信じている。

    • 東アジアは、極東と呼ばれて西洋からは最も遠い地帯だった。それだけに、西洋による侵略は後回しになり、逆にその時間差の分、極東では西洋への対抗意識が燃えさかった。100年前、それを実行に移したのが日本。いま、同じことを中国が行っている。その当時の日本のイデオロギーは「神国日本」。対し、いまの中国のそれは「共産中国」。いずれも、追いつけ追い越せと国民を煽り立てる旗印。中国は日本の失敗を学ぶべきで、また日本は、その失敗の膨大な犠牲を忘れるべきではなく、果たしうる役割は大きい。新冷戦にせよ、東西文明の相克にせよ、学ぶべき知恵は、多様性の共存しかないだろう。

    • 東京オリンピック、あと50日に迫った。仮にコロナの発生は不可抗力だったとしても、それは誰しも同じだ。だが、オリンピックはもうここまでくれば、事態は「ババ抜き」ゲーム。世界のいずれの国も組織も、帳尻を他者に押し付けても、自己損害の最小化に奔走している。日本政府が、国民損害の最小化に腐心しているとは見えず、自政府のそれすらもおぼつかない体だ。日本国民は、次の選挙では現政権のやりたいようにやらせて責任を取らせ、次の次の準備に入ったほうがいい。いずれにしても、一度や二度の選挙で片付く問題ではない。

  • 05月

    • スーパームーン皆既月食の今夜、シドニーは快晴で、文句なしの観測日和。写真のように、月食が始まると、周囲の星々も見え始め、赤く変色した月を飾っているようです。ただ、南半球からは、月の下側端が完全には欠けないようでした。

    • 寒いと感じる季節となって、ようやく、ずっしり重く、みずみずしい白菜が出回るようになりました。値段は、一個200円ほどといったところでしょうか。いよいよ、白菜漬けのシーズンです。今季、3回ほど漬けたのですが、気温が高いので塩をきかせてきました。これからはその必要もないでしょう。適度な塩気と白菜の甘さに唐辛子を少々きかせ、おいしい漬け物が楽しめます。

    • オーストラリアNSW州では、過去50日間、一人のコロナ陽性者も出ていなかった。それがおととい、シドニーの一夫婦が陽性とわかり、昨日午後5時より警戒態勢に入った。ことに、このケースの感染経路がなぞで、他には、アメリカから帰国した別の一ケースがあるだけ。ただし、この両ケースの間には何の接触の可能性も見出されていない。そこで、まだ未検出の第三者が介在しているのではないかと、まずはシドニー全域に用心段階の警戒が敷かれている。このように、現在のオーストラリアでのコロナ対策は、個々の発生ケースをしらみつぶしに追う、理屈上は犯罪捜査同様の考えで実施されている。

    • やや私事に関わる話ですが、このところ、当サイトへの訪問者統計を洗い直していて、10年以上も昔の記事への、今でものけっこう多い数字にびっくりさせられています。例えば、その最古は、2003年11月12日付の『リタイアメントオーストラリア』第1号の記事です。先の4月22日号の訪問者データ分析グラフに「旧コンテンツ」とされて示されている数値(空色線で表示)が、この当サイトのオリジナル版(2013年9月に現行版に刷新)に掲載の諸記事へのヒット数です。なお、旧版はこのHP左下の「旧サイト」よりリンクされており、懐かしい記事が読めます。たとえば、この分析グラフに読み取れる昨年9月で顕著な山をなしたのは、「静と動」と題した記事への突然の多ヒットです。コロナによって釘付けとなっている心境の反映かとも解釈される記事です。

  • 04月

    • 日本郵政が、6200億円もの大金をつぎ込んで買ったオーストラリアの物流企業トールを、大損をかぶって売却するという(売却価格は10億円程度という報道)。6年前のその安易な決断については、その懸念を記事「日本の買い物構成と潜む懸念」にした。民営化されたといっても、国は過半数の株を所有する。結局、この損失は国民が被ることとなる。この買収を強引に進めた当時の社長西室泰三は、その前は東芝の社長を長く勤め、会長時代に米の原子炉企業ウエスチングハウスを高値で買収、今の身売り先を探す哀れな東芝に堕す原因を作った。日本の貴重な財産がどんどん流出していっている。

    • オリンピック考

      あと100日を切った。ここで何が可能か。

      こんな世界状況であるからこそ、従来視野の取り組みで成功できるわけはない。つまり、もし実施するとの決断なら、これまで、どこも、誰もしなかった、完璧に独自なものを目指さなければ、それこそ無駄な浪費でしかない。

      その独自な取り組みの核心は、勝者を決める競技会とするのではなく、誰もが背負っているはずの、この時期の困難をどう克服して、選手の一人ひとりが競技に臨んでいるかという、そのプロセスであり人間ならではのドラマのプロデュースとしての競技会だ。そしてそのストーリーを何とかして、日本だけでなく、世界の人々に送り届ける工夫だ。

      ここまで追い詰められているこのオリンピックに、世界の誰も、どの国も、有り体の祭典なぞ期待していない。言い換えれば、どんな知恵が出るのか、それを固唾をのんで見守っている。

      ゆえに、それを開催する側も、この時期がゆえの困難を、体裁やお仕着せにおちいらず、それでも参加してきてくれる選手たちを迎える極力の努力をどう行っているのかを示し、そういう共の困難を乗り越えて何とか意義ある開催にしようという、お互いの連帯意識の祭典を目指すしかない。

      ある意味でこれは、またとない、歴史的なチャンスである。

      日本にしてみれば、コロナ対応でばらけた国民意識結集のチャンスだ。

      そう、数々の大自然災害を経験し、そこから立ち直ってきている日本各地の災害地の人たちが行っているように。

      そういう知恵を絞る頭も時間も、厳しいが、まだ残されていると思う。

    • これを「木枯らし」と呼んでは大げさなのだが、昨日からその「木枯らし」が吹いている。日本のそれと比べれば、その冷たさは穏やかだが、南氷洋からの南寄りの風がNSW-Vic州境をなす山脈を越えて吹いてきて、気温がぐっと下がった。オーストラリアの最高峰コジオスコ山(2,228m)あたりは雪だろう。火の気が恋しくもなる。これで文字通り、木々は枯れて秋の装いに変わる。

  • 03月

    • 昨日の朝、我が家の上空に大鳥が現れた。最近、雲の美しさに見とれることが多い。青い空をバックに、伸び伸びと浮かぶ雲は、下界の喧騒を見下ろして、どこまでも悠々としている。この大鳥はまるで、アンテナから飛び立とうとしているかのようだ。

    • 一週間ぶりに青空がもどってきた。シドニー西北部の洪水地帯は、晴天なのに、上流でこれまでに降った雨が流下してきており、水が引くのは、明日以降。オーストラリアの川は勾配がゆるやかで、流れ下るのに日数がかかる。

    • 統計本日更新記事参照)が示すように、日本人の広義でのオーストラリア《移民》が着実に増えている。私もその古参の一例だが、別にコロナに始まらず、すでにそうした《リモートな》生き方は、ここでも始まっていたと言ってよい。つまり、もしそこが暮らしにくい場なら、そこから暮らしよい場へと、人々の移動が起こるのは当たり前だ。むしろ、日本語のローカル性や日本の島国性――どの国とも地続きでない――が、その移動の壁となっていた。だが、スローながら、そのトレンドが起こっている。ことに、日本社会でよりしわ寄せを喰っている、女性の間で。

    • いま、オーストラリアは、性暴力の頻発に怒る女性たちで揺れにゆれている。コロナすら負けそうである。なにせ、国の政治のてっぺんの国会で、しかも女性大臣の足下でそれが発生している。むろん、その告発を困難にする法的壁はあるし、男女不平等の問題もある。しかし、いまや女性たちの怒りは、その頻発を許してきた社会の文化、伝統へと向けられている。その声は言う。「うんざりも限界」「それは人間の問題」「女嫌いになって済む話?」

    • 世界中で放映されたメーガン妃へのインタビューが、英国の王室論争を炎上させている。私は、日本の天皇制に関する日本人の大勢について、先の出版本にも書いたように、「親離れ」との語を借りて、「天皇離れ」していない未成年国民、という持論をもっている。英国人についても、どうやら同様なところがあるようだ。ただ、大きく違っているのは、ジョンソン英首相が、「王室関係の事柄に関し、首相にとって正しいのは何も言わないことだと本当に思っている」と述べている点だ。菅首相は、皇室問題について、こう一線を引けるだろうか。ともあれ、歴史上の変化の一コマを目撃している感がある。

  • 02月

    • 最近、日本をテーマとする2作を読んだ。『ぼくがアメリカ人をやめたワケ』(ロジャー・パルバース著)と『ロスジェネのすべて』(雨宮処凛編著)だ。一言でいって、惚れられた日本と、恨まれている日本。それも、外人からと日本人から。この外ずらはいいが、内ずらの悪い日本とは何か。私はこれを、「エリートにとって」と「庶民にとって」の違いと読む。ことに後者は、尻上がりで。

    • 日本が、スポーツをめぐり、世界の耳目を集める二人の人物を通して、恐ろしいほどの“古新”と男女と老若の二極対比を全世界に轟かせている。その一人は、東京オリンピックの今や成否を握るMr Mori。あわよくば、スポーツを通した健康老人の鑑にもならんとしていた。他方は、今や世界女子テニス界の彗星のみならず、女性の生き方そして人種問題でもの自己像の追求と、その影響力がゆえの世界のロールモデルをも意識しているNaomi。そうした二者が、いまや世界に拡散されるネット力をもって、前者が「旧弊」、後者が「新明」の日本代表とさえも理解され始めている。はたして、日本をめぐるこの実に多重かつ極端なコントラストは、日本への忌避あるいは好感を築く結果となるのだろうか。それとも、そうした対比を併せ持つ日本の矛盾やねじれと(もしやその“奥行き”とも)受け止められることとなるのだろうか。ともあれ、その成り行きが注目される。

    • 「強制投票制」と呼ぶと、いかにも聞こえが悪い。ところが、オーストラリアの選挙は強制で、毎回その実効投票率は90パーセント程。しないと罰金が科される。他国のように自由投票にせよとの声もなくはないが、1924年の制定以来、投票は義務という認識が国民に定着している。そして、その聞こえの悪さに反し、ここが重要なのだが、その実際効果は、これこそ民主的と言えるものだ。なにしろ、誰もが投票するということは、日本でいう“浮動票”(こんな失敬な言葉は当地にはない)が大勢を決するということ。それを軽々しいと言うなかれ。時には、政治への単なるムードが次の政府を決定すると言ってもいい。現在の日本のような惨憺たるムードでは、確実に政権は吹っ飛び、多数の「先生」が、ただのおっさん、おばさんに成り下がる。

  • 01月

    • 今日1月26日は、オーストラリア建国記念日。今年のオーストラリア人賞に選ばれたのは、レイプ被害者のGrace Tameさん26歳(写真)。15歳の時、学校の先生にレイプされ、沈黙を破って11年間闘い、法律を変えさせた。「すべての子供性犯罪被害者のみなさん、この賞は私たちへの賞です」とスピーチした。

    • 2021年を、どこにも《寄る辺のない時代》の始まりと考えてしまうのは、何も私の年齢のせいがゆえだけではないだろう。ここまで、幻想が幻想と暴かれるのには、コロナもトランプも一役果たしてきている。だが、際限なきQEへの依存継続や再開を見ても、人類の含み資産はすでに使い切られ、底なしの負の領域に移っている。どのみちの際限なしの実施なら、格差縮小をめざして、高レベルの全国民生活賃金の実施をやったらどうか。

    • どんな劣悪政治だろうと、それを選んだのは国民である、との議論がある。それほど、民意は正確に反映されているとの前提に立てるなら、それも言えよう。だが、良くて4分の1がその反映率という実態では、残りの4分の3は、結局、奴隷を任じるか、程度はともあれ犯罪をおかすのいずれか。そこでひとつのニッチは、法の隙間をぬった流民と化して、命をかすめ取られないよう漂流する。内なる“非国民”である。「あつまれ日本人非国民」。