• 02月

    • 最近、日本をテーマとする2作を読んだ。『ぼくがアメリカ人をやめたワケ』(ロジャー・パルバース著)と『ロスジェネのすべて』(雨宮処凛編著)だ。一言でいって、惚れられた日本と、恨まれている日本。それも、外人からと日本人から。この外ずらはいいが、内ずらの悪い日本とは何か。私はこれを、「エリートにとって」と「庶民にとって」の違いと読む。ことに後者は、尻上がりで。

    • 日本が、スポーツをめぐり、世界の耳目を集める二人の人物を通して、恐ろしいほどの“古新”と男女と老若の二極対比を全世界に轟かせている。その一人は、東京オリンピックの今や成否を握るMr Mori。あわよくば、スポーツを通した健康老人の鑑にもならんとしていた。他方は、今や世界女子テニス界の彗星のみならず、女性の生き方そして人種問題でもの自己像の追求と、その影響力がゆえの世界のロールモデルをも意識しているNaomi。そうした二者が、いまや世界に拡散されるネット力をもって、前者が「旧弊」、後者が「新明」の日本代表とさえも理解され始めている。はたして、日本をめぐるこの実に多重かつ極端なコントラストは、日本への忌避あるいは好感を築く結果となるのだろうか。それとも、そうした対比を併せ持つ日本の矛盾やねじれと(もしやその“奥行き”とも)受け止められることとなるのだろうか。ともあれ、その成り行きが注目される。

    • 「強制投票制」と呼ぶと、いかにも聞こえが悪い。ところが、オーストラリアの選挙は強制で、毎回その実効投票率は90パーセント程。しないと罰金が科される。他国のように自由投票にせよとの声もなくはないが、1924年の制定以来、投票は義務という認識が国民に定着している。そして、その聞こえの悪さに反し、ここが重要なのだが、その実際効果は、これこそ民主的と言えるものだ。なにしろ、誰もが投票するということは、日本でいう“浮動票”(こんな失敬な言葉は当地にはない)が大勢を決するということ。それを軽々しいと言うなかれ。時には、政治への単なるムードが次の政府を決定すると言ってもいい。現在の日本のような惨憺たるムードでは、確実に政権は吹っ飛び、多数の「先生」が、ただのおっさん、おばさんに成り下がる。

  • 01月

    • 今日1月26日は、オーストラリア建国記念日。今年のオーストラリア人賞に選ばれたのは、レイプ被害者のGrace Tameさん26歳(写真)。15歳の時、学校の先生にレイプされ、沈黙を破って11年間闘い、法律を変えさせた。「すべての子供性被害者のみなさん、この賞は私たちへの賞です」とスピーチした。

    • 2021年を、どこにも《寄る辺のない時代》の始まりと考えてしまうのは、何も私の年齢のせいがゆえだけではないだろう。ここまで、幻想が幻想と暴かれるのには、コロナもトランプも一役果たしてきている。だが、際限なきQEへの依存継続や再開を見ても、人類の含み資産はすでに使い切られ、底なしの負の領域に移っている。どのみちの際限なしの実施なら、格差縮小をめざして、高レベルの全国民生活賃金の実施をやったらどうか。

    • どんな劣悪政治だろうと、それを選んだのは国民である、との議論がある。それほど、民意は正確に反映されているとの前提に立てるなら、それも言えよう。だが、良くて4分の1がその反映率という実態では、残りの4分の3は、結局、奴隷を任じるか、程度はともあれ犯罪をおかすのいずれか。そこでひとつのニッチは、法の隙間をぬった流民と化して、命をかすめ取られないよう漂流する。内なる“非国民”である。「あつまれ日本人非国民」。