• 05月

    • この歳になって、「ランニング靴を買う幸せ」とでも言おうか。足のトラブルもあって、日本人の足をより研究しているはずのアシックスのものを選んだのだが、高校生の部活時代からの馴染みの「おにつかタイガー」の製品。十年ほど前、新たにザックを買った時もそう思った。要するに、走ったり、山に行ったりするためのそうした用品は、常識として、自分の歳にはもう不必要と暗に思わされていたからだった。そういう常識破りの気分の良さなのだが、スーツなど、昔、仕事関連で必要とされた出費は、逆にもう必要はない。健康をめぐって、運動関係のこうした出費が、今になっての、《仕事》関連の出費ということか。

  • 04月

    • 地球自体のヒロシマ・ナガサキ化を避けられたとしても、起こりうる事態が新たな東西分裂という結末は、結局、1945年の「ふりだしに戻る」との双六ゲーム。ただ、その〈恐怖の均衡下の平和〉も二度目となれば、それに白ける人は桁違いに増えるに違いない。そこで究極に至るのは、無数の分裂。つまり人の頭数だけの分化という、これこそまさに《多様化》の事態。だがそれは、別に戦争なぞを経ずとも、すでに私たちの間に拡散している生存競争の産物として起こっている。「大山鳴動して鼠一匹」ならぬ、「地球疲弊して個人ようやく」。

    • 次号用の原稿を書いていて、ある個所にふさわしい言葉をさがしていた。そこには結局「戦時中」を選んだが、私には、この言葉にあるはずの緊迫感がわかなくて迷わされていた。なぜかとしばらく考えた末、そのわけに気付いた。この「せんじちゅう」は、子供のころ、よく亡母から聞かされていた言葉だった。母はその時代のことを話す時、必ずこの言葉を使った。そんな耳慣れた言葉のため、子供心には「その頃」といった意味くらいにしか聞こえておらず、その記憶が残っていたせいだった。母にしてみれば、当時、何かにつけ聞かされていた、叩き込まれた言葉だったのだろう。つまり、実際は、父は戦場へかり出され、食べ物も事欠き、毎日を空襲におびえながら過ごした時、という意味だった。80年前の日本での話である。

    • 4月4日、シドニー西部の有名観光地ブルーマウンテンで、実に不運な事故が発生した。英国から休暇で訪れていた5人ずれの家族が、山中のハイキングコースを楽しんでいたところに岩崩れが襲い、父親と息子の一人が死亡、母親ともう一人の息子が重症、15歳の一人娘は無傷で生き残った。このコースは、私もよく歩くところで、合計すれば10回も越えるだろう。切り立った崖下を歩くコースで、見上げる岸壁は迫力そのもの。それが崩れるなど地質学的出来事。まして、それに遭遇するなんて天文学的確率だが、最近の大雨で地盤が緩み、それがこの時となった可能性が指摘されている。

      [caption id="attachment_19132" align="aligncenter" width="190"] 事故現場付近(ABCニュースより)[/caption]
  • 03月

    • 真の国民の代表が選ばれる、民主主義の根付きの貴重さが、今ほどに思い知らされる時はない。世界のどこにいる誰とでも瞬時に話の交わせるこの時代に、武器をもって、殺し合ってでも意志を通そうとする行いなんて、時代錯誤もはなはだしい。民族の誇りも、領土の線引きも、それを実証したいなら、その手段はほかにいくらでもあるはず。だいたい、顔もなく、声もあげられず、命すら自分のものでない兵隊に、今時、だれがなりたいだろう。どうしてこうなってしまうのか、それは、それを必要とする、そんな独りよがりの人物が国のトップに座ってしまったから。

    • 人は何か疑問や疑いを感じた時、当然、その原因を探り始める。それを調査とか探求と言う。いずれも人間であるなら自然でもっともな行為だ。だがその解明をし始めると、事と場合によっては、それを快く思わない者が現れる。そういう彼らは、あからさまに反論すると墓穴を掘ることにもなりかねないので、それを〈はぐらかし〉でウヤムヤにしようとする。その〈はぐらかし〉のための逆宣伝が「陰謀論」で、その解明に「陰謀説」とレッテルを貼って世論との分断をはかろうとする。 これって「陰謀論」?

  • 02月

    • きわめて大ぐくりに言うと、いまや世界の関心は、マクロとミクロに二極化してきている。マクロとは、むろん国際政治の「新冷戦」状況で、その二つのブロックの境界であるウクライナでは、まさに開戦前夜の緊迫に達している。台湾も、そういう境界のもうひとつの実例だ。他方、ミクロとは、自分の人生の拠り所を、昔のように「寄らば大樹」つまり、有名企業とか大組織に求めるのではなく、もっと身近だがこれまで手付かずだった分野、たとえば、人助けの仕事や環境蘇生NPOなどで、その規模はとても小さい。ところで、これも大ぐくりな言だが、そうした二極化は、事の決定権が少数者(独裁者)にあるのか、それとも一般大衆にあるのかの違いに究極的には由来する。日本も、1945年の軍事敗戦、最近の経済敗戦をへて、ミクロ主体の社会が成熟してきている。これが歴史の流れなのだろう。

    • 5月中の総選挙にむけて、オーストラリア社会が選挙モードに入っているのは当然なのだが、ひどく短絡的で好戦的なキャンペーンが始まっている。それは、現自由国民連立政府から労働党政府への政権交代の可能性を示す諸世論調査を受けて、広がる嫌中世論を利用する、中国が労働党政府を歓迎しているというもの。そこでだが、オーストラリアの労働党も、日本のどの政党も、対中国政策は、敵か味方かの択一問題では終わらない最重要近隣国際政策――友好関係の維持拡大――と位置付けない限り、不毛な交戦論に終わってしまう。豪総選挙に向けては、いずれが挙党の対中国論を打ち出せるか、そこが見もの。

    • [caption id="attachment_18594" align="aligncenter" width="200"] モリソン首相に迫る二人の被害者運動家[/caption]

      オーストラリアでは、レイプやセクハラ被害者のMeToo運動が広がり、マイノリティーや差別運動とも結合しながら、大きな社会的うねりとなっている。ことに、男エゴの暗黙の是認が当たり前な職場や人物には、強い風当たりが始まっている。今年5月中には総選挙が予定され、もはや、与野党の区別すら無きも同然。写真は状況を揶揄するもじり画像。

    • 晴れ間をえらんで、ブルーマウンテンの奥、Hassan’s Wallの展望台へ山歩き。シドニーからは西へ約150kmのリスゴウ駅(電車で2時間半ほど)から片道約4キロ。暑さの中なのでほんのハイキング程度。写真のように、眼下にグレートウェスタン街道がさらに西へと走っている。

  • 01月

    • 「メタバース」といっても結局のところ、手の込んだデジタルゲームを越え得ていない。むしろ、そんな新趣向を編み出し、目先を変えてまたも大儲けしようとのプラットフォーム「メタ」なんて、レトロビジネス過ぎる。そんなことより、人は、自分の物品依存の弱みから自分自身を解放するだけで、明日からだって、自由に自分のアバターを駆使できる。それを「サイコ」というのは石頭の証拠。《モノ憑依》から自分を解き放って、自分の主さえ確立させれば、「メタゲーム」上ではなく、リアルで、自らのアバターくらい扱える。それって何って? そういう話、近日公開。

    • オーストラリア・オープン(AO)が始まった。大坂なおみは、危なげなく初戦をこなした。だが、世界No. 1のジョコビッチの姿はない。彼は、入国条件であるワクチン接種を拒否しているため、国も入国を拒否した。裁判所も、公共の利益を優先する政府の判断を支持した。もし、自分が彼だったらどうしたろう。私も、自分の体はそれこそ「資本」と考える。ましてプロのスポーツ選手の彼なら、ワクチンという異物――安全の確認より迅速を優先して導入――の体内注入に神経をとがらすのは理解できる。私の場合、私権は引っ込め、事実上の国民の条件とされている二度の接種をした。だが彼は、目下のAOタイトルより、将来にわたる自分の身体の安全を優先したということだろう。後年になって、このワクチン接種の功罪が明らかになる。

    • 昨年末に「これほど先の見通せない刹那発想に没している時はない」との認識を書いた。そこでだが、ということは、「何が起こる分からない」つまり「なんでもありうる」ということで、主客をひっくり返せば「拘束されない」という意味でもある。この「混迷」を言い換えればそういうことで、「自由」とすら解釈できる。大勢が出そろうのを待つのも一つの手だがそれはいつのことか。リスクの覚悟さえ持ちうるなら、今ほどのチャンスはない。私などオールディーには、来たるどのみちの決定的リスクが避けられない。ならば、たとえダメモト発想でも、何やら前向きな姿勢に思えてくる。