• 11月

    • 東京に着き、ホテルで見た新聞の記事からだが、新語・流行語大賞の候補に「顔パンツ」が選ばれたという。その意味は、マスクを外す羞恥心がパンツを着けない羞恥心に通じるからだという。これが日本の常識のようだ。確かに、誰も“パンツ”を顔に着けている。私なぞ、ついマスクを忘れて戸外を歩き、その恥ずかしさをさらしてしまっている。以前、顔を覆うベールを着けないでいるイスラム女性の抱く恥ずかしさという話を聞いたことがある。

    • 今年もジャカランダのシーズンがやってきた。ただ今年はやや咲きが遅い。なかなか夏らしい日にならない。毎年書くように、この花は私にとって、年の具切りをつけるもの。これで、オーストラリア上陸満38年が過ぎたこととなる。39年目はどんな年となるのか。

      [caption id="attachment_20999" align="aligncenter" width="200"] 近所の通称ジャカランダ通りにて[/caption]
  • 10月

    • 今日はトレッキング9日目。前回の4日目以来、7日目の目的地アンナプルナベースキャンプ(ABC、標高4200m)到達を無事終わらせ、ようやくネット可能域まで下山してきた。あと2日でポカラの町に到着。この間、初日を、連日快晴に恵まれ、今日からまた雨天に向かっている。そういう次第で、天候の点でもベストタイミングのトレッキングとなった。写真は、ABCから見上げたアンナプルナ南峰(7219m)。

    • ネット環境の悪さのため、日が跳んで、今日は日程4日目。写真は今朝、尾根上の村Tadapani(標高2630m)のロッジから見たアンナプル南峰(7219m)。この宿は、人気のアンナプルナ・サーキットの二つのルートの交差点にあり、宿はほぼ満員。夕食が出るまでに一時間以上待たされる。その間、登山客同士の国際色満点の会話が楽しい。

       

       

    • トレッキング初日、ポカラから車で一時間のBirethantiで下車、徒歩を開始。この標高900m地点より約4時間、標高1960mのUlleriに到着。最後の1時間余り、谷底から尾根までの急登りではへばりかける。荷物はポーター頼りのほぼ空荷なのだが。写真は、今日宿泊のロッジからの展望。尾根上に設けられていて、今日たどったルートを見渡せる。写真の右奥がポカラの町。

    • ポカラの町に到着。町はお祭りの最中で、写真のように縁日が開かれている。カトマンズからポカラまで200キロ少々の道のりなのだが、道路が最悪で10時間を要した。しかも、大揺れするバスの最後部席で、跳ね上がった際に腰を炒めさせられた。歩くには支障はないが、急に姿勢を変えたりすると痛みがある。明日朝、アンナプルナ・ベースキャンプへのトレッキング開始。12日間の予定。

    • プーチンのウクライナ四州の「併合」との文字が報道のトップを占めている。そして、欧州の1930年代との酷似を指摘している。しかし、「併合」を問題とするなら、それと同時代、東アジアで行なわれた「併合」も指摘すべきだ。日本による、朝鮮、満州の「併合」である。そうして始まったアジア太平洋戦争は、二発の原爆投下で終結した。第三次大戦状況をも思わせるいま、核兵器はもはや紛争解決手段の域を越えている。私見だが、日本は、その併合と世界初のその核受難を根拠に、愚行を繰り返すなと、自戒をこめた諌言を発しうる世界唯一の国ではないかと思う。(English)

  • 09月

    • あえて一つの命題を掲げて時代を俯瞰する必要に遭遇しているかの感がある。すなわち、人類は《合理主義と非合理主義の相克》の泥沼からどう脱出できるのか。いまのウクライナ戦争をこの命題を当てはめてみれば、《〈合理主義=西欧各国+ウクライナ〉と〈非合理主義=ロシアの相克〉》となるだろうし、イタリアでまた新たな事例が出現してきたポピュリズムの台頭も、また始まるアメリカの選挙情勢にも同様の相克の脈略が見てとれる。そういう視点では、かつての日本の西洋世界を相手にした戦争も、その早熟なバージョンであった。私としては、この命題は、究極的には、量子論的な、「非局地性」と「局地性」の相克から、その両属性と相補性の会得へと成熟してゆくしかないだろうと見るのだが。〔English

    • 9月となってこよみの上は春のはずだが、今日も冷たい雨が降って、もう月も半ばというのにまだ冬が去ってくれない。ただ、確かに日は伸びて、草花もあちこちに春の到来をつげる開花をみせている。運動前後のストレッチを行う公園の芝生にも、クローバーの白い花が海に浮かぶ島のように咲いている。例年なら、春らしくなったと思うといきなりの初夏となるのがふつう。だが今年のペースなら、次はいきなり真夏入りか。

    • 9月から、こちら南半球では「暦の上の春」ということになります。ただ、今年はまだ肌寒く、実感としての春にはいま一歩です。その9月を機会に、本サイトの表紙デザインを新しくしました。しかし、刷新というほどのものではなく、記事での説明のように、背景の地色に代え、江戸小紋の模様をあしらったものです。地味ながら味わい深さを持つといった狙いの新装です。いかがでしょうか、皆さん。

       

  • 08月

    • タイ、カンボジアの旅から帰宅して、なにより、暑さから解放された安堵一色。といっても、30度少々の昔の日本の夏程度だったが、真冬からいきなりの真夏への移動で、けっこうこたえたし、食当たりも響いた。一方、今の日本の40度近い暑さとコロナ制限。日本が遠くなりにけり。

    • 昨日より、タイの首都バンコックに滞在している。パートナーからの私の76歳のバースデープレゼント。言い換えれば、彼女の旅人人生の追憶の旅への同伴。私の人生も旅だが、私のは思念的なそれで、その産物がこの『両生歩き』。それぞれの持ち味をこうして交換し合えるのも、オールディーズがゆえの選択。あと二日滞在の後、陸路、カンボジアへ向かう。

  • 07月

    • 今度の安倍元首相の死をもって、日本と日本人は、かつての侵略に伴う朝鮮半島の人々への人道的負債は、十分に負い終わったと考えていいと思う。これから日本は、あのファシズム時代を二度と繰り返さないとの反省を肝に、どう健全な日本を生かしてゆくか、その道に、国を割ることなく、全国民一致して進んでゆけばよいと思う。そして、それぞれ脈絡は違うが、中国にも、ましてアメリカにも、同様なことが言えると思う。世界はそれをほぼ理解しているだろう。日本、頑張れ。

    • 「自分探し」か「行く先探し」か。これらの自問は、誰にとっても、いつにあっても、ついて回る問いだろう。そしておおむね、前者は若い時代に、そして後者は、前者をひとまず終えた、成熟した証しと言える問いだろう。ところで私は、来月で76になるが、この二つの問いのいずれもの熱心な追求者だ。ことに、自分の健康に関しては、いまだに「自分探し」が欠かせない。

    • 誤解を恐れずに書くと、この“暗殺”事件(日本では不思議とこの言葉での報道はない)を契機に、突如思い出したかのように「民主主義を守れ」の報道だ。だが、果たしてこれまで、それは「守られ」ていたのだろうか。もしそうであったなら、この事件は発生しなかったのではないか。もちろん事件は起こり、それは重い犯罪だ。だからこそ、社会のもっとも弱い部分に、そう犯罪の種が生じないようにすることが民主主義の「根幹」だったのではないかと切に思う。誰も感じているだろうが、そうした狂気沙汰の事件があまりに多く、ついにここまで来てしまった。

  • 06月

    • 私は、自分が使う身辺の電子機器には、高性能ではない(どのみちフルには使い切れない)、安い製品をあえて選ぶことが多い。その安物がゆえか、このところそれらがやたら故障する。それも電源部で発生し、たいていスイッチが効かなくなる。素人判断だが、電源部とは、もっとも基軸となる基本的部分で手抜かりはできないはず。それがおろそかというのは、常態かそれとも奥の手か、今日の社会の本性の現れのようだ。

    • SF的な「タイムトラベル」と言えば、それは、未来や過去への旅のことで、時間や時代を数字上の変数とした、その変数上の移動を旅としている。ただ、それを今の自分の旅に取り入れるには余りに絵空事で、小説や映画で楽しむしかない。だが、私は実質的に同様の旅を「時空トラベル」と呼んで、現実に楽しみ始めている。それは、時間を数字ではなく、私たちの人生体験に置き換えて、それを変数とする旅である。ある意味で、それは、《人を旅する旅》とも言え、人生に新たな興をもたらしてくれている。もちろん、人を旅することも、自分を旅することも、ともに可能である。

    • 私の待ちにまった結論が、ついに出された。探査機「はやぶさ2」が小惑星「りゅうぐう」から持ち帰ったサンプルに、生命の源となる物質のアミノ酸が含まれていることが分かった。こうして、地球外の天体にもアミノ酸が存在する可能性が濃厚となり、生命の起源が宇宙にあることが有力となった。ということは、人類は、宇宙の孤児ではない可能性が大いに高くなったということ。おちおち、戦争なぞしている場合でない。他星人に叱られるぞ。

  • 05月

    • [caption id="attachment_19631" align="alignnone" width="190"] 2022年5月22日付AFR紙より[/caption]

      21日の総選挙の結果、オーストラリアの政権が交代し、9年ぶりの労働党政府が生まれた。勝利宣言に立ったアルバニージー新首相は、自分がシングルマザーの子で、そんな〔貧民向けの〕州営住宅で育った人間が国の首相になれる、そういう開かれた国であるオーストラリアを誇りとした。力強く感動的な挨拶を送ったあと、現在のパートナーと、離婚した元妻との間の息子の手をとり(写真)、誰もに平等に機会が開かれていることを身をもって示した。彼は月曜、新首相として日本に行き、日米豪印による「Quad(クアッド)」首脳会議に出席する。

    • この歳になって、「ランニング靴を買う幸せ」とでも言おうか。足のトラブルもあって、日本人の足をより研究しているはずのアシックスのものを選んだのだが、高校生の部活時代からの馴染みの「おにつかタイガー」の製品。十年ほど前、新たにザックを買った時もそう思った。要するに、走ったり、山に行ったりするためのそうした用品は、常識として、自分の歳にはもう不必要と暗に思わされていたからだった。そういう常識破りの気分の良さなのだが、スーツなど、昔、仕事関連で必要とされた出費は、逆にもう必要はない。健康をめぐって、運動関係のこうした出費が、今になっての、《仕事》関連の出費ということか。

  • 04月

    • 地球自体のヒロシマ・ナガサキ化を避けられたとしても、起こりうる事態が新たな東西分裂という結末は、結局、1945年の「ふりだしに戻る」との双六ゲーム。ただ、その〈恐怖の均衡下の平和〉も二度目となれば、それに白ける人は桁違いに増えるに違いない。そこで究極に至るのは、無数の分裂。つまり人の頭数だけの分化という、これこそまさに《多様化》の事態。だがそれは、別に戦争なぞを経ずとも、すでに私たちの間に拡散している生存競争の産物として起こっている。「大山鳴動して鼠一匹」ならぬ、「地球疲弊して個人ようやく」。

    • 次号用の原稿を書いていて、ある個所にふさわしい言葉をさがしていた。そこには結局「戦時中」を選んだが、私には、この言葉にあるはずの緊迫感がわかなくて迷わされていた。なぜかとしばらく考えた末、そのわけに気付いた。この「せんじちゅう」は、子供のころ、よく亡母から聞かされていた言葉だった。母はその時代のことを話す時、必ずこの言葉を使った。そんな耳慣れた言葉のため、子供心には「その頃」といった意味くらいにしか聞こえておらず、その記憶が残っていたせいだった。母にしてみれば、当時、何かにつけ聞かされていた、叩き込まれた言葉だったのだろう。つまり、実際は、父は戦場へかり出され、食べ物も事欠き、毎日を空襲におびえながら過ごした時、という意味だった。80年前の日本での話である。

    • 4月4日、シドニー西部の有名観光地ブルーマウンテンで、実に不運な事故が発生した。英国から休暇で訪れていた5人ずれの家族が、山中のハイキングコースを楽しんでいたところに岩崩れが襲い、父親と息子の一人が死亡、母親ともう一人の息子が重症、15歳の一人娘は無傷で生き残った。このコースは、私もよく歩くところで、合計すれば10回も越えるだろう。切り立った崖下を歩くコースで、見上げる岸壁は迫力そのもの。それが崩れるなど地質学的出来事。まして、それに遭遇するなんて天文学的確率だが、最近の大雨で地盤が緩み、それがこの時となった可能性が指摘されている。

      [caption id="attachment_19132" align="aligncenter" width="190"] 事故現場付近(ABCニュースより)[/caption]
  • 03月

    • 真の国民の代表が選ばれる、民主主義の根付きの貴重さが、今ほどに思い知らされる時はない。世界のどこにいる誰とでも瞬時に話の交わせるこの時代に、武器をもって、殺し合ってでも意志を通そうとする行いなんて、時代錯誤もはなはだしい。民族の誇りも、領土の線引きも、それを実証したいなら、その手段はほかにいくらでもあるはず。だいたい、顔もなく、声もあげられず、命すら自分のものでない兵隊に、今時、だれがなりたいだろう。どうしてこうなってしまうのか、それは、それを必要とする、そんな独りよがりの人物が国のトップに座ってしまったから。

    • 人は何か疑問や疑いを感じた時、当然、その原因を探り始める。それを調査とか探求と言う。いずれも人間であるなら自然でもっともな行為だ。だがその解明をし始めると、事と場合によっては、それを快く思わない者が現れる。そういう彼らは、あからさまに反論すると墓穴を掘ることにもなりかねないので、それを〈はぐらかし〉でウヤムヤにしようとする。その〈はぐらかし〉のための逆宣伝が「陰謀論」で、その解明に「陰謀説」とレッテルを貼って世論との分断をはかろうとする。 これって「陰謀論」?

  • 02月

    • きわめて大ぐくりに言うと、いまや世界の関心は、マクロとミクロに二極化してきている。マクロとは、むろん国際政治の「新冷戦」状況で、その二つのブロックの境界であるウクライナでは、まさに開戦前夜の緊迫に達している。台湾も、そういう境界のもうひとつの実例だ。他方、ミクロとは、自分の人生の拠り所を、昔のように「寄らば大樹」つまり、有名企業とか大組織に求めるのではなく、もっと身近だがこれまで手付かずだった分野、たとえば、人助けの仕事や環境蘇生NPOなどで、その規模はとても小さい。ところで、これも大ぐくりな言だが、そうした二極化は、事の決定権が少数者(独裁者)にあるのか、それとも一般大衆にあるのかの違いに究極的には由来する。日本も、1945年の軍事敗戦、最近の経済敗戦をへて、ミクロ主体の社会が成熟してきている。これが歴史の流れなのだろう。

    • 5月中の総選挙にむけて、オーストラリア社会が選挙モードに入っているのは当然なのだが、ひどく短絡的で好戦的なキャンペーンが始まっている。それは、現自由国民連立政府から労働党政府への政権交代の可能性を示す諸世論調査を受けて、広がる嫌中世論を利用する、中国が労働党政府を歓迎しているというもの。そこでだが、オーストラリアの労働党も、日本のどの政党も、対中国政策は、敵か味方かの択一問題では終わらない最重要近隣国際政策――友好関係の維持拡大――と位置付けない限り、不毛な交戦論に終わってしまう。豪総選挙に向けては、いずれが挙党の対中国論を打ち出せるか、そこが見もの。

    • [caption id="attachment_18594" align="aligncenter" width="200"] モリソン首相に迫る二人の被害者運動家[/caption]

      オーストラリアでは、レイプやセクハラ被害者のMeToo運動が広がり、マイノリティーや差別運動とも結合しながら、大きな社会的うねりとなっている。ことに、男エゴの暗黙の是認が当たり前な職場や人物には、強い風当たりが始まっている。今年5月中には総選挙が予定され、もはや、与野党の区別すら無きも同然。写真は状況を揶揄するもじり画像。

    • 晴れ間をえらんで、ブルーマウンテンの奥、Hassan’s Wallの展望台へ山歩き。シドニーからは西へ約150kmのリスゴウ駅(電車で2時間半ほど)から片道約4キロ。暑さの中なのでほんのハイキング程度。写真のように、眼下にグレートウェスタン街道がさらに西へと走っている。

  • 01月

    • 「メタバース」といっても結局のところ、手の込んだデジタルゲームを越え得ていない。むしろ、そんな新趣向を編み出し、目先を変えてまたも大儲けしようとのプラットフォーム「メタ」なんて、レトロビジネス過ぎる。そんなことより、人は、自分の物品依存の弱みから自分自身を解放するだけで、明日からだって、自由に自分のアバターを駆使できる。それを「サイコ」というのは石頭の証拠。《モノ憑依》から自分を解き放って、自分の主さえ確立させれば、「メタゲーム」上ではなく、リアルで、自らのアバターくらい扱える。それって何って? そういう話、近日公開。

    • オーストラリア・オープン(AO)が始まった。大坂なおみは、危なげなく初戦をこなした。だが、世界No. 1のジョコビッチの姿はない。彼は、入国条件であるワクチン接種を拒否しているため、国も入国を拒否した。裁判所も、公共の利益を優先する政府の判断を支持した。もし、自分が彼だったらどうしたろう。私も、自分の体はそれこそ「資本」と考える。ましてプロのスポーツ選手の彼なら、ワクチンという異物――安全の確認より迅速を優先して導入――の体内注入に神経をとがらすのは理解できる。私の場合、私権は引っ込め、事実上の国民の条件とされている二度の接種をした。だが彼は、目下のAOタイトルより、将来にわたる自分の身体の安全を優先したということだろう。後年になって、このワクチン接種の功罪が明らかになる。

    • 昨年末に「これほど先の見通せない刹那発想に没している時はない」との認識を書いた。そこでだが、ということは、「何が起こる分からない」つまり「なんでもありうる」ということで、主客をひっくり返せば「拘束されない」という意味でもある。この「混迷」を言い換えればそういうことで、「自由」とすら解釈できる。大勢が出そろうのを待つのも一つの手だがそれはいつのことか。リスクの覚悟さえ持ちうるなら、今ほどのチャンスはない。私などオールディーには、来たるどのみちの決定的リスクが避けられない。ならば、たとえダメモト発想でも、何やら前向きな姿勢に思えてくる。