またしてもの〈国家狂気〉の再来

日本人がゆえになす指摘

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私はいま75歳で、1946年生まれです。つまり、「先の戦争」が終わった翌年生れの、直接の戦争体験はないものの「焼け野原」世代です。そしてその「先の戦争」とは、日本が世界を相手に戦うこととなった「アジア・太平洋戦争」です。

そういう私が、ほぼ十年前、〈「日本人であることの不快感」 と、その解消〉との文章を書きました。その「不快感」とは、自分がその日本人であることによって抱いてきたものです。つまり、その戦争のもたらした加害者意識と被害者意識という“不快”で“ゆえ”もない二者の同居について書いたものでした。

それに続くかたちのこの文章は、「戦時中」にある片側を、いずれであろうと、「味方もしくは敵」として選び始めることの際限のない危険を言わんとするものです。

そして結論は、私たち人間同士に、殺し合うほどに敵視しなければならない理由なんて、もともとありはしない、というものです。

 

それが今、またしても、ウクライナでの戦争が世界を巻き込み始めています。

このように、人びとが戦争に巻き込まれることで、たとえ戦死はまぬがれえたとしても、あたかも加害者と被害者の二役に悩まされる「不快」が、またしても、発生しようとしています。

確かに、私たちの間には意見の違いはありますし、時に喧嘩沙汰になることもあります。しかし、それを収める知恵も持っています。

そうであるのに、日本が世界を相手とした先の戦争では、原子爆弾が二度も使われ、それ程の殺戮規模の実行をもってしか戦争を終結させえないとの狂気の論理が、戦争遂行者の双方の決断理由となりました。まるで、犠牲死が途方もなければ途方もないほど、戦争終結はしやすいかの論理です。結局、そんなことのために戦っていたのです。

 

日本が矢面となったその戦争も、今のウクライナの戦争も、はじめは意見対立程度であったものが、いつか収拾不可能なまでにエスカレートしてしまいました。しかし、そうなってしまうまでのどこかに、そこを越えなければまだ後戻りができる、そんな一線はあったはずです。あるいは、そうした一線を、意図して、しかも謀略を図って越えさせる勢力もいました。

1933年3月、日本は、日本による満州国設立をめぐる列強各国の批判に抗し、国際連盟を脱退しました。外相松岡洋右は、世界を説得しようと、連盟総会で英語で熱弁をふるいましたが、世界の姿勢は変えられませんでした。そして、1936年の2.26事件や日独防共協定、1937年の盧溝橋事件による日中戦争の開始、南京陥落、1938年の国家総動員令、1941年12月の真珠湾攻撃、そして1945年8月のヒロシマ・ナガサキとなりました。

現在、国連において、ウクライナをめぐるロシアの行動に対し、まさに、90年前の日本に重ね合わさるかの批判が展開されています。そして日本の場合のその結果は、上記のエスカレートでした。

1945年当時、その「新型爆弾」の開発を終えていたのは、ともあれ、アメリカだけでした。

ところが今や、核兵器の所有は両側にわたっており、その能力は桁違いに向上しています。しかもその総量は、地球自身を数回にわたっても破壊し尽くすに足る規模です。もはや、その戦争終結の唯一の手段は、二都市の消滅ではなく、地球自身の滅亡を意味します。

 

私は日本人なので、生きてきた場も経緯も日本内部で、先の戦争時の日本の動きに対して世界の各国でおこっていただろう批判については耳に届かぬ、まして今のウクライナ支援のような動きからは遮断された環境にあったと言えます。ただし、その戦争に突入してゆく日本社会での、反戦はおろか、進歩的な見解を表わすことすら残酷な弾圧を科されたことは、十分に認識してきているつもりです。

そうした片側のみの立場に立たされることで、加害と被害の同居にさらされた者の思いが、上に記した「不快感」であり、なかなか成せなかったその「解消」です。

そしてその「解消」までに、私は実に60余年を要し、その最後の“とどめ”となったのが、『天皇の陰謀』という、私の知る限り、その両側の出来事に最大限に目を配って書かれた本との出会いであり、その邦訳でした。

はたして、このウクライナ戦争がもたらすだろう「不快感」は、その「解消」までにどれくらいを、おそらく、一世紀は優に必要とするでしょう。それとも遂に、もはやその「解消」自体すら、永遠にありえないこととなるのでしょうか。

 

以上のように、私の75年の齢の長さがもたらすものとして、私が現在に目撃する光景とかつての光景との間に、確かに重なり合うものがあり、それを感じれば感じるほど、その指摘を発しておかねばならないと考え、この拙文とした次第です。

くり返しますが、結論は、私たち人間同士に、殺し合うほどに敵視しなければならない理由なんて、もともとありはしないのです。そこにまで立ち帰らないと、またしても「勝負をつける」話に終わってしまい、そんなことに終始していると、誰もそこまで意図していないにも関わらず個々の責務の追求により、世界壊滅の事態すらありうる土壇場にまで至ってしまいます。

この指摘は、かつて世界に対し戦争に訴え、かつヒロシマ・ナガサキを体験した日本人が、「その不快感とその解消」の中から見出しているものです。

 

 

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