今号の目次

新年を前に、本号より、《多様多彩》と題した新コーナーを設けました。その趣旨は、本サイトの読者からの投稿を掲載するもので、陥りがちな運営者の独断を避ける狙いも含め、読者が自由に独自のコンテンツを発表する場であるというものです。なお、この《多様多彩》のコーナーは、その旨、申し出ていただければどなたでも設置ができ、自らの作品を適時に発表する場にできるというものす。

【注記】 申し出は、HPの「このサイトについて」のアドレスを用いて行ってください。また、違法あるいは甚だしく有害と判断される内容については、訂正要請あるいは削除の場合があります。

その初回では、アマチュア写真家、山本哲朗氏のコーナーを設けます。「花との交信」と題して、花のもつ美を映像化してゆきます。その第1回は「白バラ」です。なお、同氏には、先に別記事で一作品を使わせていただきました。

【撮影者 山本 哲朗】

花言葉:純潔、尊敬(旧古河庭園にて)

この「“KENKYOFUKAI”シリーズ”」の初回では、イントロとして、「同じもの」をキータームに、一見、結び付きそうもない二者を「同じもの」と扱う視野を提示しました。そうした結び付けは、シリーズのスタイルである「KENKYOFUKAI」――略して「KENFUKA」――をフル展開したがゆえの産物です。今回は、この手段とした「KENFUKAの手法」の今一度の説明もかねて、その有効性を吟味します。 詳細記事

以下は「牽強付会」〔(けんきょうふかい)自説への無理なこじつけ〕も甚だしいと言われかねない話です。そこで最後までお付き合い願えるものかどうか心もとないのですが、そう願って書き始めることといたします。

そのまずはじめに、これがどう“牽強付会的”なのかを言っておきますと、ここに挙げます二つの話は、結局、同じことではないかという、私としては一種の発見談なのです。ただ、その二つの話の出どころが、あまりに隔たり過ぎているがゆえに、両者を結び付けることに、一抹の危惧があるからです。

そういう次第で、“冒険”をかえりみず、むしろ、その「こじつけ」を武器とすらして、今回より「“KENKYOFUKAI”シリーズ」を開始し、先に連載した「パラダイム変化」シリーズの第二弾ともしたいと思います。

そこでまずその初回として、そのイントロともいうべき一つの発想――違って見えても「同じもの」――を提示いたします。

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先に「EDを“カミングアウト”する」との副題で、「ようやく枯れてきた」と題して近年の自らの感慨を綴ったのですが、そういう話には、「おいおい、そんな情けない話はよしてくれ」との反応が予想されるところです。そして本稿は、この言わば一種の“敗退宣言”に関連したその発展版です。つまり、興味深いことに、その「敗退」の境地はその聞こえの悪さに反して、その当事者にとってはやけに心地よいのです。そしてさらに、断言さえしたいところですが、自分が「男」として当然と信じ込んできたもろもろに、そのようにして一線を引くことに、予想もしていなかった爽快感が、とにもかくにも格別な味わいをもたらしてくれているのです。確かに、《男という役割》に決別してみることは、ED告白どころの話ではなさそうです。 詳細記事

これまでの6回にわたり、「非局所性」を起点に、仏教思想と量子理論との間の架橋をめざして、私たちの思考のパラダイム変化に役立てうる手掛かりを探ってきました。ことに、「場」の概念は、その気配の濃厚なものとして注目してきました。

そこで、本連載の最終回として、あらためてその「場」の概念を点検するのですが、率直に言って、量子物理学で言う「場」と、本稿が述べてきた「場」の間には、まだまだ大きな隔たりがあります。むろんそれは当然と言えばその通りで、私のいう「場」とは、それくらい異端な発想ではあります。しかし、その物理学の世界にはそれ自体で、「場」について、少なくとも狭義と広義の二義性があることは指摘できます。つまり、「場」とは、まだまだそのようによく煮込まれていない――故に大いに興味を引かれる――新鮮な分野であることは確かで、今回はその二義性に焦点をあて、本連載の最終回といたします。 詳細記事

この9月末から10月初めにかけて訪れた、フンザ渓谷レポートの続編です(前編へ)。

フンザ渓谷の中心地カリマバード【下記地図上黄番号(2)付近】に到着後、さっそく、町を探索しました。町は、フンザ川が作る深い谷の北岸(右岸)にあり、海抜千7百メートル前後の山麓にあります。相当な涼しさを予想していたのですが、町は南向きの斜面に広がっていて、日当たりがよく乾燥していて、その分、輻射熱で日中の気温は30度を上回ります。周囲の7千メートルを越える氷雪に覆われた山々の光景とその真夏のような暑さは、マッチしにくい何とも不思議な取り合わせです。 詳細記事

ひとことで言ってしまえば、以下の議論は、宗教ことに仏教思想と量子理論の間に橋を架けようとする“身の程知らずな”こころみです。つまり、仏教思想にある、「縁」とか「縁起」という、万物が互いに結び付き合っているとの発想に着目し、それと「場〔field〕」――前回に提起――とが互いに関連付けうるのではないか、とするものです。 詳細記事

 この9月末から10月初めにかけて、私たちが訪れたのは、フンザ渓谷の主要部である、下流のライコット(Raikot)橋から上流のソスト(Sost)村まで、約200kmにわたる一帯です。この深くえぐられた谷にもかかわらず、日本なら1級国道並みのカラコルム街道が貫通しており、ゆうに時速80キロでもとばせる快適なインフラが整備されています。そのため、後述するように、同街道脇の休憩所から、一歩も山道に踏み入ることなく、高さ7,788m(世界27位)のラカポシ峰北壁を文字通り眼前にできます。実に6,000mを超す圧倒される高度感の体験です。さらに、下流では、世界9位のナンガパルバット峰(8,126m)の雄姿も車中にいながらにして望めます。これほどのアプローチの良さで、7~8千メートル級の高峰群をほしいままに体験できるのは、世界でもここだけと言えましょう。 詳細記事

私は、一本のイチョウの古木に出会うことで、人生を蘇生させることができた人を知っています。また、別掲記事のように、植物との対話が実際に可能であることを実証している科学者がいます。あるいは、下の写真のように、花が人の心に触れるシーンを実に精彩に撮影し続けている写真家がおられます。

【撮影:山本哲朗】

すなわち、そうした体験は、誰もが実感できることではないにしても、植物と人間とのコミュニケーションが可能であるのは確かなことを物語っています。

ただ、私がここで取り上げるのは、もはやそうした事実の有無についてではなく、それが可能なのは、いったい、どういう回路や方途をへて可能なのか、という観点です。

そこで出てくるのが、前回で予告したように、「場(field)」と呼ばれる、素人にはいかにも敬遠したくなりそうな、まずは物理学上の先端概念として登場してきているものです。なのですが、それはどうやら、私たちにもっと身近なものであるようです。 詳細記事

植物を研究する博士モニカ・ガリアーノ(Monica Gagliano)は、非科学的とは承知の上で、植物に話しかけると返答があることを証明しようとしている。

Ellie Shechet 記者,  The New York Times,

2019年8月31日付 Australian Financial Review に転載

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手元に一冊の本があります。これが、索引も入れると千ページにもなる大冊で、しかも数学の専門書とくれば、誰もが敬遠すること疑いなしの本です。ところがです、その題名が『虚数の情緒』(吉田武著、東海大学出版部)と、この種の本にしては異色で、それがなんと私が抱いてきた勘どころをズバリと突いているのです(その副題も歳に似つかぬ勇気を奮い立たせてくれます)。そこで飛びつくようにさっそく取り寄せ、この数ヶ月、その大書と格闘してきています。

その結果は、うれしいことに私の勘は図星だったことが判り、まさに「虚数」は、地球言語から脱出して宇宙言語を紐解いてゆくための鍵――まさに現代の最先端科学知識――であることを発見しつつあります。まるで、宇宙旅行への切符を入手したかのごとき感激です。 詳細記事

前回そして前々回にも述べましたように、このシリーズに取り掛かる動機には、私の人生行路が、遠望ながら、永遠の旅立ち〔注〕がしだいに視界に入るところまできていることと、それに同期して、何やら日本や世界が、文明的な終末観をすら漂わせ始めていることとも関連しています。そうした個と世の両方にわたる大転換の気配と、だからゆえの、旧次元を越えるパラダイム変化への要請を意識しないでは済ませられない空気を呼吸しています。つまり、そこでは、文明の根源である、生命とその再生産にまつわる人的営みへの再考察に踏み込まざるをえません。

〔注〕 ある意味で、本稿は「終活」論です。ただし、いわゆる「終活」は、海外旅行に出るのに、肝心な旅先のことを、言葉や地理や文化など、何の知識も持たずに出かけるようなものです。本シリーズは、その知識にも関するものです。

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本シリーズは、私の人生の長年のテーマである「両生学」をめぐる「二元構造」――片や霊性問題、片や量子理論――に関し、その両者の間隙を結び付けるに当たり、量子理論の「非局所性」という専門用語がそのパラダイム変化として役立ちそうだとの考えに基づくものです。シリーズ2回目の本稿では、急きょ予定を変更し、量子理論への関心をすでに遙かに早くから持たれている知人からの見解をいただきましたので、その遣り取りを中心に展開します。 詳細記事

今日、日々刻々と深刻度をます高齢化社会にあって、まして自らがその当事者であるならなおさら、出来るなら「アンチエイジング」したいというのも正直なところです。それに確かに、その可能性がないわけでもないようです。しかし、私はそうした傾向を、決して見下す積もりではありませんが、それがもし人の自然な移り変わりに逆らう営みであるのなら、「アンチ」ではなく、進んでそれを受け入れる方向を探りたいと思っています。

すなわち、エイジングという生命の自然なサイクルにおける“秋季”現象について、私はさほどネガティブには考えられません。先に《「し」という通過点》という見解を表したのも、この秋季現象は、この世界への誕生と同様に、誰にも与えられる《別界への誕生》として、むしろ歓迎され、祝福すらされてもよいことではないかと考えるからです。

そこで、こうした《再・誕生》の発想に立って、今回より新たなシリーズを開始し、過去十数年にわたって取り組んできている「両生学」の新たな発展の場にしたいと構想しています。そして、この新たなシリーズのタイトルを「パラダイム変化:霊性から非局所性へ」とし、これまで使ってきた「霊性」という言葉に代わり、「非局所性」という言葉をつうじて――少なくとも自分の世界観、生死観の――パラダイムを変えたいと考えています。 詳細記事

死とは何であり死後へも意識は存続するのか。こうした難題についての100年以上にわたる探究で、エビデンスを探すいっそう精緻な方法が見出されつつある。多くのインタビューと広範な文献に基づき、ランス・バトラー(フランス、ポー大学文学部教授)は、科学と共に超然的経験に立った新たな見解を概説している。

Lance St John Butler(Professor of British Literature in the University of Pau)学会雑誌『The Scientific & Medical Network [Winter 2010]』より】

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日本という自分の生国を、「一時帰国」として旅する体験は、年々、新味を帯びつつある。

それはどうも、その生国がスローペースながらも変わりつつあることと関連し、また当の本人も加齢につれ、その地の古えのものにかえって新鮮なものを見い出すようになってきていることも手伝っている。それに、意図して外国暮らしを続け、あえて身にまとってきている「無・帰属志向」があるのだが、それの一方で期せずに芽生えてきた、国や社会には限られない普遍土壌を掘り起こしたいとの気持ちも、別の角度からの照明を与えている。そういう地球的、ひいては宇宙的広がりも、その新味さにまつわるバックグラウンドとなっている。

そういう次第で、すでに観光気分での訪問には到底なれず、かと言って、旧知を温めたいとするのも時にお仕着せがましく、ましてや、今さら古き良き郷里心なぞにひたれるはずもなく、何やら“半外人”風のひとり旅が落ち付く格好となっている。

そこで今回は、愛車「バーディ(折り畳み自転車のブランド名)」をオーストラリアより持ち込み、渥美半島から志摩へと、初夏の日本の“地ずら”をペダル旅してみることにした。 詳細記事

旅というのは一種の取捨選択で、自らを日常から切り離して、地を選び、そこならではの予期せぬ出会いへの期待である。それは、たとえ自分の生国への「一時帰国」の旅であったとしても。

そうした選択として、この日本の初夏の旅では、ひとつは渥美半島から志摩を自転車でツアーし、もうひとつは、奈良県の山ふところ深く、また、大阪・奈良県境、金剛山麓の千早赤坂村(楠木正成の千早城の地)を訪れた。 詳細記事

【お断り】細かい文字が読めるように解像度を上げてあるため、ダウンロードに時間がかかります。 詳細記事

天皇の代替わりを祝うオシキセ「10連休」が終わりました。この間、私の住むこの南半球まで、太平洋を渡ってその祝賀一色の津波が押し寄せてきていました。本稿は、日本のメディアが伝えるその「一色性」が、どうやら作為的で作られたものに過ぎなかったこと――言い換えれば政治的演出と見るべきこと――を、本サイトを訪れる読者数の変化より検証しようというものです。

全般に本サイトが扱う記事は長いものが多く、それを読むには、まとまった時間が必要となります。そのためか、毎年の夏や冬のいわゆる休暇シーズンに、訪問者数が増える傾向があります。先にも書いたように、今回の特例な「10連休」の際でもその増加傾向が見られたのですが、それに終わらず、ことに5月5日には一日訪問者数が2,030人にもはね上がり、本サイト始まって以来の破格の記録となりました。

そこで本稿ではで、本サイト掲載記事のうちから特徴的な『天皇の陰謀』の記事を取り上げ、それへの訪問者数合計の全体に占める割合の変化を見て行きます。そしてその変化の度合いを探ることを通じて、その「一色性」が、少なくとも本サイトの読者数に関する限りは、決して事実ではなかったことを述べるものです。 詳細記事

第七章(最終章)

生まれたどんな子をも歓迎する国に

 

たまらんよ、こんな人たち。男尊女卑の天皇制が根絶できないわけだ。

国連も問題視し、是正勧告した男子偏重。これに対し、安倍首相は社交辞令のかけらもない石頭丸出しの反論をし、世界の更なるひんしゅくを買った。

象徴天皇制。ごくごく近年貼り付けた、神聖にして侵すべからずの「現人神(あらひとがみ)」が剥(は)がれ落ち、その後、尚、剥(は)がれ損なった瘡蓋(かさぶた)のように、この国に、しがみ付くあの醜態。

はたまた、庶民は、歴史も浅い謎の因習、夫婦同姓をわが国古来の伝統のように盲信し、今や世界標準の夫婦別姓にさえ、到達できない。日本で以下の事実が報道されることはない。 詳細記事

モノとコトは世界の二大構成要素である。そのコトを構成する情報にはインターネットという最新技術が開発され、世界の通信方式のみならず、生活様式を一変させてきている。その一方、モノの流れである物流は、いくらかの速度の改善やIT化の組み込みはあるものの、その主軸は、車輛に頼った旧来の移動システムがいまだに主流をなしている。つまり、世界の二大要素の進歩に、致命的な「片手落ち」があるのは、先にも指摘した通りである。言うなれば、モノの行き先はほぼ瞬時に決められるのに、その輸送自体は、ゴトゴト、古代の大発明のひとつ、車輪に頼っているのである。

そこで、この片手落ちにバランスを与えるため、情報の世界を一変させたインターネット技術に相当するものを、モノの世界にも導入できないものかという発想が湧く。つまり、物流のインターネットである。 詳細記事

交通運輸を「点と線」になぞらえば、クルマは「点」、道路は「線」となろう。

その点としてのクルマは、EV化と自動運転化によりその進化・発展上の大転換期にさしかかっている。また、クルマことに自家用車は庶民には高価な商品として発展し、その大部分は私有が前提とされ、使用価値に加えてステータス・シンボルの価値をも生み、かくして、市場経済における基幹産業として多様に発達してきた。

他方、線としての道路は、社会の血管ともたとえられる社会資本のひとつとして、公有が原則――競争は成り立たない――であった。だが、新市場経済思想の広がりにより、民営化という公・私有折衷の手法が導入されて、ことに高規格の有料道路は、資本投資対象としての性格を強めてきている。 詳細記事

第六章

ヴァギナの逆襲

 

さて、今から20年近くも前だろうか、私もまだ40代頃の話。ある女性との談話のなかで、性生活の話が出てきた時、彼女が、私にこう言った。

「ご主人からのお誘いを断ってはだめよ。あなた、誰に食べさせてもらってると思ってるの?」

これにはどう応じたらいいものか、私は途方に暮れた。女も生身の人間、気の進む時も、進まない時もある。断って悪い筈ないと私は思ったが、即答もできなかった。その後の、食べさせてもらってる云々の発想について行けなかったからだ。一体いつの時代だ? 昔、女性の経済的自立を故意に阻(はば)んで、男に頼らざるを得ない社会を作り上げた連中がいたが、その罠にもろにハマった思想ではないか。今時(いまどき)パート勤めもしない全くの専業主婦は少ないし、また全くの専業でも、主婦自体が一つの職業。主婦に現金収入がなくても、夫に養ってもらっているとは言えない。家事労働を賃金に換算したら夫の収入の約半分という数字も出ている。それに加えて、外で買えばけっこう値の張る性的快感も提供しているではないか。 詳細記事

近未来の交通システムを予想する時、誰しも期待するのが空、つまり飛行です。そして最新テクノロジーの粋を集めて構想されているのが、“空飛ぶタクシー”たる自動操縦ドローンです。

すでに、ウーバーを筆頭に、その実現へと向けた準備が着々と進められており、投資家も大きな期待を寄せています。過密化した大都市での交通混雑を回避する方法として、三次元空間を使う自動化した“車輛”交通システムです。

前号に投稿した「交通システムの進化」においては、鉄道と道路の融合に焦点を当てました。しかし、そうした構想に、空路を抜いては未来的ではない、との問いが当然に生じています。

むろん、地表に限った交通システムは、ことに都市部では、一部は地下化を遂げているものの、その輻輳は限界に達し、新たな突破口を、空に向けて立体的に探る方法が当然に問われるわけです。 詳細記事

第五章

快感が教えてくれること

 

人は、子ども時代、と一口に言うが、私のそれと息子のそれとは、思い切り違うものだ。

 

じじばばの支持ない命は根なし草、浮いて漂う根なし草

 

じじばばは、跡取(あとと)り息子の、そのまた息子、その中の跡取り孫だけ後生大事。

それ以外は、皆雑魚(ざこ)だから、捨てるも食うも気分次第。

赤子の手は、ねじる為。娘は売る為、稼がせる為、飼いならしておく家畜。

全く、もの言う家畜は扱いにくい。黙って稼げばいいものを。

おまえさんらはそう思っていたわけだ。 詳細記事

自動車産業が二つの面で転換点にさしかかっている。

第一は、電気自動車へのシフトで、石油を燃料とする車は、環境負荷が大きすぎ、もはや撤退の運命にさらされている。

第二は、自動運転技術の開発やカーシェアリングの普及で、(乗用)車の主たるメリットは、もっぱら移動のための手段に変貌しつつあり、それを所有、まして高いコストに代えてまで個人で私有する動機は薄れつつある。言い換えれば、民間セクターの参入も含め、移動手段としての車の「公共化」である。

そこでもし、この電気化と非所有による公共化が不可避とするなら、輸送における車と鉄道を分ける境界はさほど明瞭ではなくなり、運輸システムの枠組みに根本的変化が生じてくる。

すなわち、別々に発達してきた車と列車、あるいは道路と鉄道という二種の交通方式は、そうした区別を不必要とし始めている。 詳細記事

第四章

選ばれた誕生

 

突然だが、こんな自分が、ある日、人の親になった。

それが見栄っ張りの延長だったか、逆に断念だったか、よくわからない。延長ではない気がする。一応は女性だった私が、実は20代から30代のある期間、生理がなく、しかし、生活に不自由は感じなかったので、苦にもならなかった。煩わしさがなくてよかった。男ではないから、女。それで十分だった。それが30代の半ば、ある男に出会ってほどなく生理が再開。え?と思ったが、正直、彼にときめいたわけでもなかった。小柄で痩せてタバコ臭もある男。(まだ腹も出ていず、髪も豊かだったが)私と同い年だが、初めての会話で「僕、甘えたいんです」などと言う。その他、頼もしさの正反対をあれこれ聞かされ、こちらの緊張がほぐれたのは確か。初対面でカネの話をする率直さも驚きだった。給与明細見せて、「これに家族手当が加わると…」などと、現実そのもの。家族手当など、当時の私自身の収入に比べたら些細なもので、とても引き換えにできるものではなかったが、当時は主婦の税制がどんどん優遇されていた。主婦になれるなら、ならなきゃ損だとまで思わせる迫力だった。私もそれにのまれたようだ。フルタイム勤務は諦めて、パート勤務の主婦も悪くない…などと考え始めたのだから。 詳細記事

第三章

子どもの見栄

 

子どもが自分の家庭内の貧困や不和を隠したがるのはなぜだろう?

暖房節約で寒すぎる部屋では、ぐっすり眠れない、防音も効かない壁からは、騒音が筒抜けで安眠できない。同居の大人はそれを訴えても何もしない。

何とバカな大人だろうと子どもは思うが、会話はとっくに諦めている。言っても無駄。ニコチン中毒のこの男とは会話が成り立たない。それは自分の経験から思い知っている。10年そこそこの人生経験だが、十分だ。言い返せば殴られるがオチ。痛い思いして成果も上がらぬことは、子どもでもしない。この大人は、威張りたいだけで人の親になったな、と、子どもは見抜いている。子どもの健康や幸せなどどうでもいいのだ。顔色や表情など更にどうでも。それどころか、悪いとなじる。子どもらしくない、よその子のように明るくない、素直でない。贅沢だ、等々。女親までがなじり倒す。よその家では子供が具合悪そうだったら、女親が気遣ってくれるという。無理して登校せず、休めとさえ言うらしい。うちではありえない。女親がどなる。「気持ちがたるんどるからや! 這(ほ)うてでも行け!」 詳細記事

ニュージーランド南島のネルソン湖国立公園を行くこの5泊6日のトレッキング(Travers-Sabine周回コース、下地図参照)は、その計画の段階から、内心を白状してしまえば、気の重いところのぬぐえない行き先でした。というのは、このコースは、小屋使用は可能なものの、それは宿泊だけで、その他のもの、特に食料、料理器具、燃料、寝袋等を持参せねばならず、ことに日数が6日にもなって、それらの重さが相当な負担となるからでした。現に4年前にミルフォードサウンド(3泊4日)に行った際、肩にザック擦れを作って痛い目に遭った体験があります。加えて、自分の体力の減退も日ごろより気掛かりとなっており、私にとってこのトレッキングの実行は、相当にチャレンジングなものでありました。以下は、その6日間の映像レポートです。【なお、別掲でこのトレッキングの体験考をレポートしています】
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第二章

「強制性交等罪」の新設:

「強姦罪」が消えた日

 

殺されたも同然なほど、親に人生台無しにされた子が、その親を殺したら? 世間はその人をほめるか?

ほめない。断じて。百発百中、犯罪者にされる。未成年なら鑑別所、成人なら刑務所行きだ。1968年、栃木尊属殺人事件の被告を見るがいい。長年実父に強姦され続けた娘が、ある日ついに実父を殺した。「強制性交等罪」の規定もなく「強姦罪」はあっても、親告罪で被害者の告訴がなければ処罰されない時代のことだ。親を告訴? 詳細記事

自分の誕生は、どこまでも、自己選択の問題ではない。どんな自分も、それに気付いた時、すでに誕生してしまっている。だが、もし自分の誕生が、絶対に選びたくない誕生として、誕生してしまっていたのであったなら、あなたはその誕生をどう生きればよいのだろうか。この投稿作品は、そうした望まれない誕生を与えられた命の、自己再誕生の物語である。しかも興味深いのは、その物語が、自らのセックス行為の体験を通して、語られていることである。そのいまわしい誕生をもたらした苦痛と強要の根源でしかなかったはずのものが、あたかも、人生の悦びと実りの根源へと再生しえた如くに。【サイト管理人】

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『Modern Esoteric』の訳読をぴったり昨年末に終えて、先の『Future Esoteric』と合わせた二部作は、『「東西融合<涅槃>思想」の将来性』(2017年3月)と『現代の「東西融合<涅槃>思想」』(今回)となって訳読が完結しました。そしていま、私はある感慨と読後感を抱いています。それは、4年前にこの訳読作業に着手した際、両原題のキーワードである「Esoteric」を「東西融合<涅槃〔ねはん〕>思想」と意訳〔「「ワームホール」体験の文末参照」〕した、そのほとんど直観的な《着眼》に関わっています。つまり、「<涅槃>思想」は果たして「東西融合」の基軸概念となりうるのか、との視点です。言い換えれば、この意訳は正鵠を得ていたのかとの反省です。
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この作品は、2016年12月から2年間にわたり、「両生“META-MANGA”ストーリー」に連載された「MOTEJIレポート」を統合したもので、「両生図書館」の蔵書に加えました。当作品は、早死にしたMOTEJIが、現世の旧友MATSUに《META交信》してくるレポートで、場所や時間を超越したその世界から、現世に捕らわれている友人に、そういうMOTEJIにしかできない視界――現世人類中心主義を脱せよ――を提供しています。

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