「場」という“空気”

パラダイム変化:霊性から非局所性へ(その5)

私は、一本のイチョウの古木に出会うことで、人生を蘇生させることができた人を知っています。また、別掲記事のように、植物との対話が実際に可能であることを実証している科学者がいます。あるいは、下の写真のように、花が人の心に触れるシーンを実に精彩に撮影し続けている写真家がおられます。

【撮影:山本哲朗】

すなわち、そうした体験は、誰もが実感できることではないにしても、植物と人間とのコミュニケーションが可能であるのは確かなことを物語っています。

ただ、私がここで取り上げるのは、もはやそうした事実の有無についてではなく、それが可能なのは、いったい、どういう回路や方途をへて可能なのか、という観点です。

そこで出てくるのが、前回で予告したように、「場(field)」と呼ばれる、素人にはいかにも敬遠したくなりそうな、まずは物理学上の先端概念として登場してきているものです。なのですが、それはどうやら、私たちにもっと身近なものであるようです。

 

日本人の間には、「空気」と呼ばれる摩訶不思議な世界があります。

かつては、その「空気」によって、世界を相手の戦争をも辞さない日本人総意志たるものが形成されました。あるいは近年では、KYと呼ばれる、そうした「空気が読めない」人を、一種の変わり者、さらには排除すらされて当然な人と扱う通念も生まれています。

もしそうであるなら、そのように呼ばれる「空気」というものは、一体、それほどに強い効力をおよぼすに足る何か本物の実体なのでしょうか。

ただし本稿のテーマは、そういう「空気の研究」ではありません。

むしろ、そういう日本人の「空気感覚」の例を借りて、そうした「空気」と同列に扱われてもいいような、これまでにまったく対象とされてきていない、一種の「媒体」のようなものが存在するのではないか、そういう謎の「媒体らしきもの」を「場」と呼んで明確な対象とし、それを考察するものです。

 

花と交信する「場」

そこでまず、その「場」の一例として、磁場――磁界とも呼ばれる――をあげてみましょう。

磁場といえば、磁石がおこすその周囲への磁力影響圏です。地球もそうした磁石の一つで、その磁石が引き起こす磁界ををとらえる道具が、私たちの日常でも親しいコンパス(磁石)です。

地球にある磁場は、地球中のコンパスに作用して、それがどこにあろうが、その針を北に向けさせます。しかも、地球上にはおそらく無数のコンパスがあるでしょうが、その数がいくらあろうが、その数にかかわらずそれは働きます。つまり、無限の影響力をもっています。

しかし、そうした磁場は、私たちの目には見えず、肌で感じることもできません。それほどに微妙なものです。でありながら、渡り鳥や渡り蝶たちが、その遠大な旅を正確に成し遂ることが出来るのは、その脳が磁場を感じ取ってそれをなしているらしいことが解ってきています。私たち人間は、コンパスの力を借りないでは、磁場の活用はできません。私たち人間が光を的確に感じ、暗闇をおそれ、明るさを求めて行動するように、渡り鳥たちは磁場を正確に感じ取って、その旅を行っているのでしょう。私たちにとって重要なその光とは、電磁波の特定波長部分で、電磁波は、磁場に並ぶもう一つの「場」です。

つまり、こうした「場」には、人間にとって、感じられるものもあれば、感じられないものもあるということです。したがって、私たちが感じられない、あるいは知らない「場」が、ほかにもないとは断言できず、おそらく、それがどれほどあるのかも解っていないでしょう。

前回に述べましたように、虚数は、そうした未知の場の存在を、少なくとも最初に、その数学上の技巧を駆使して示唆しました。そしてその示唆は、いったん実験等でその実在が立証されるや、いまや物理学の先導役となっています。

ここで、飛躍を覚悟で言うと、上記のような人間と植物の間のコミュニケーションにも、こうした「場」が存在するのではないか、と考えられます。そして、渡り鳥たちの脳には、磁場を探知する量子力学レベルの機能があるらしい、ということが解明されつつあります。

ならば、人間の脳にも、渡り鳥に相当するような機能があったとしても不思議ではないでしょう。問題はそれをどう明らかにしてゆくかです。

 

「場」とは何か

そうした「場」がいったいどういうものか、そこには何か媒体が充満しているのか、それとも、それは我々人間が看取できない、まったく別次元のものなのか。

そこで、前回に紹介した『虚数の情緒』はこう述べています。

空間的に離れた二つの対象に力が働いている場合、この二体の間に“何物もなく”一気に力が伝わるとする考え方を「遠隔作用」の考え方と呼ぶ。(略)

一方、二つの対象に力が働いている場合でも、力はその二体を結ぶ空間の各点各点を経由して順に“波の如く”伝わるとする考え方を「近接作用」の考え方と呼ぶ。(略)

ところが、波の現象を考える場合には、その波を伝えるものが必要となった。実際、よく考えてみると「波」などという「物」が存在する訳ではなく、変化の様子が順番に動いていく、それを「波」と呼んでいたに過ぎない。こうした波を伝える要素、近接作用の考え方に基づいて、“一旦そこに何か変化があれば”それを順に伝えていく、そうした“空間の違和感〔下線は引用者〕のことを、物理学では「場」と呼んでいるのである。

私は、この「空間の違和感」という、擬人化された比喩に注目します。というのは、そもそも人間は、未知でありそれを定義する言葉がない場合には、その何かを知ってるもの似させて近似表現するしかありません。つまり、その「場」とは、何かが充満した空間のようなものではなく、ただ、働きだけが存在している何かであるようです。

だとすると、そういう働きだけが存在する何かが、そうした「違和感」を伝えた結果が、例えば、上記の植物と人とのコミュニケーションではないか、と考えられます。

こうした、私たちの知る物質としては何も捉えられないながら、そうした伝達の機能だけが行われるところ、あるいはことを、「場」とするわけです。そして、それが実際にあって、例えば「磁場」として発見されているのです。

また、光や電波は、総称して電磁波とされる同類の現象です。そして、そうした現象現象を起こす根源原理は、超ミクロ世界に存在する、電気的作用によることも解明されてきています。

これまで、通説レベルのこうした議論の中では、こうして登場してきている「場」は、ただひとまとめにして「異次元」とよばれ、それがいくつもありそうだとされてきました。

 

人間への適用

そこでですが、上記のような考察を私たち自身に向けて見ると、人間の脳の働きの根幹をなす脳神経機能は、一般に脳波とよばれる微弱な電気現象によっており、すでにそうした微細な電気反応をキャッチする装置も開発されています。そして、いまだ単純ながら、人が考えるだけで義手を動かせるような装置も試作されています。

私見ながら、こうした「場」の考えは、地球次元の私たちの世界を、宇宙次元の世界へと広げて行く決定的な突破口になると思われます。

つまり、いまだ未知ながら何らかの「場」があって、それが宇宙の交信や移動――上述のの「空間の違和感」のいろいろ――の手段となっているとするなら、現在の人類が行っている、まさに地球次元の化学反応を駆使した宇宙ロケットによる宇宙移動などというのは、まるで、現代人が古代人の仕草――例えば、木をこすり合って火をおこす――を、いかにも素朴と見下すようなものに過ぎないのでしょう。

つまり、こうした関係を逆に見れば、私たちの未来には、新たな「場」の発見を通じた新たな活動の世界が開けてくるはずです。そして、人間という生命体が動物や植物との交信はおろか、宇宙のどこかに存在する他の生命体との交信すら、その「場」を通じて交わせるようになることでしょう。

また、さらに人間のもっと個的な変遷について言えば、誕生から成長、成人、成熟、老化をへて、やがて達する「し」を通過点と見て、死後の世界との連続性を紐解いてゆくのも、そうした「場」の考えの、別の展開と言えるでしょう。

 

さて、これは次回への予告にもなりますが、仏教語に「縁」と呼ばれる考えがあります。これも私見に過ぎないのですが、どうやら、二千年以上も昔の人たちも、こうした「場」の概念を、「縁」という言葉として、日常の生活上のいろんな関係を超えた、感覚的には超越的な関係を表していたようです。

そういう勘所から、次回は、仏典の中に、本連載のテーマであるパラダイム変化を目ざした、量子理論、ことに非局地性との類似性を探って行きたいと思います…

 

つづく

その4へ

 

 

 

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