死とは何であり死後へも意識は存続するのか。こうした難題についての100年以上にわたる探究で、エビデンスを探すいっそう精緻な方法が見出されつつある。多くのインタビューと広範な文献に基づき、ランス・バトラー(フランス、ポー大学文学部教授)は、科学と共に超然的経験に立った新たな見解を概説している。
【Lance St John Butler(Professor of British Literature in the University of Pau)学会雑誌『The Scientific & Medical Network [Winter 2010]』より】
他のあらゆるものと同じく、死後の世界さえも変化をとげている。意識の死後存続についての考えには――もしそう呼びえるとするなら――過去と未来の両方がある。まず、霊魂観に捕らわれていた頃から始め、つぎに19世紀後半の心霊研究学会の創設を振り返り、さらに20世紀後半に進むと、ゆるやかながらいくつかの変化に注目できる。その霊魂観の盛時に「ウィージャ」との商標の霊応盤〔占いに使用〕は、今日では、臨死体験研究がそれに代わっている。だがその一方、この間、同じであるとの印象――最近ではむしろ停滞感――があるのも確かである。
最近の20-30年の間でも、事は徐々にしか進展しておらず、その分野の概要や調査の主な文献――例えば、2003年のGary Schwartzの『The Afterlife Experiments [死後体験]』あるいは2005年のDavid Fontanaの『Is There An Afterlife? [来世はあるのか]』――を読んで受ける印象は、パラダイムは変わっていないということである。たとえば、最近の霊媒現象の諸事例、1975年のRaymond Moodyの『Life after Life [死後の生命]』以降に収集された臨死体験の資料、(現代的との定義による)ITC〔不明略称〕、スコール現象〔英国の町スコールで生じた超然現象体験〕を総括して言えば、それらはほぼ35年前と、あるいは霊媒現象の場合では135年前と、ほとんど同種のエビデンスである。
たとえばFontanaは、19世紀の資料、1920年代から1940年代の事例、1960年代の研究、1980年代の彼自身のポルターガイスト体験、2000年頃のスコール現象の資料などを縦横に引用している。それはすべて最適で、死後存続説にとって興味深く、現在もいまだに起こっている諸事例を列記している。死後存続説の最も強い主張のひとつは、現代の懐疑論や現代的分析と調査に基づくテクニックにもかかわらず、死後の世界は、燃焼素理論や天動説や骨相学や瀉血のようには忘れ去られていないという事実である。ゆえに、Fontanaの論証は、新種のものというより、むしろ、確固となっているということである。
新たなパラダイムの必要
エビデンスはそのように累積され続けてはいるのだが、21世紀初頭の10年間の末にあっても、パラダイム自体はあまり変わっていない。より真実味あるチャンネリング、チューンされていない(時には電源すら入っていない)ラジオからの死者の識別可能な声の聴取、より確かな臨死体験、スコールで起こったすべてのこと、これらはどれも死後持続説には有用な材料だが、死後の世界の科学的容認の拡大にはあまり役立ってはいない。ことに言えるのは、私たちはまだ量子物理学を適正に理解しておらず、最近の意識研究における考え方も、いまだに妥当ではない。
こうした状況にあって、2009年に私は、「死後の世界」に関して「それは今どこに存在するか」を明らかにするため、当「科学および医学ネットワーク学会」ではよく知られた人々にインタビューを行い、現在、私たちの死後存続のパラダイムに何か進展があるかどうかを発見しようとした。その相手は、Rupert Sheldrake、Bernard Carr、Peter Fenwick、David Lorimer、Iain McGilchrist、Matthew Manning、Pim van Lommelであった。
まずはじめに、死後の世界について尋ねた私の質問に対するPim van Lommel(オランダ人心臓医)の答えには少し驚かされた。「私は死後の世界について語ったことはない」と彼は言う。私はこれには少々が落胆させられた。私は質問の相手を間違えていたのだろうか。だがそうではなく、彼が言う意味は、「死後の世界」が私たちの知っている世界とは似てもつかない、と言うことである。そしてさらに重要なことは、その世界の量子「非局所性」とは、時間をもたぬことであり、過去、現在、そして未来を同時に「含む」と見なせることを意味し、そこは「場所や時間のない空間または次元」であることなのである。多くの臨死体験時における〔自分の〕生涯の一望視はよく知られており、それは、「永遠の意識」についてのヒント――確かに私たちを待っている(実際に待っているのではないとしても)――となるかもしれないのである。
さらに、多くの人々は、非二元性、非局所性、遠大もしくは「宇宙」意識を経験しているとvan Lommel は言う。それは、時間と無関係にそこにある「何か」であり、それが、我々が非常に特別な時にだけ接する、理解を超えた遠大な「場」である。こうした量子領域の観点にあっては、もはや生も死も無関係である。したがって、現世での「命」とは、私たちの誰もが共にもつ一種の幻覚体験にすぎない。 すなわち、「向こう側の」世界とは、確かに「私たちが知っているような世界」ではないのである。
興味深いことに、van Lommelは、臨死体験者が自分たちの体験を適切に説明するのに適切な言葉を見つけることができないということを取り上げる。むろんそれを見つけることはできない。 私たちの言葉は、この現在とこの時空を表現するための道具である。量子物理学の場合と同様に、私たちは宇宙の経験についての言葉を作ることはできるが、その言葉はどんな重要な内容をも表示が困難なのである。
自己を超えて
私は本論稿の最後で再びvan Lommelに触れるが、ここでは次にPeter Fenwick〔英国の神経精神科医・神経生理学者〕を挙げたい。彼は、私が彼に質問した際、私の意にそって、彼の「命の終末体験」に関する研究をたっぷり一時間かけて説明した後、微笑みながらこう語った。 「だが、私たちの自己があるのはそこではない。私たちは、宇宙のマトリックスに組み込まれていて、それが私たちの意識である」。これは、van Lommel が言っていたことや、それに付随してNeale Donald Walsch が彼の「神との対話」シリーズ(の「There is only one of us」)で繰り返し言っていることとは、かなり違った言葉である。
Fenwick は、Alain Forget のように、私たちはこの世で(宇宙意識のレベルまで)「目覚める」ことができると示唆し、エゴは「私たちの意識を覆い隠してしまう」と言う。私たちは全体の一部であり、夢の中でそれと同様な状態を体験するように、「光る身体を」具現化する必要がある。「限られたエゴ」は「偽りの自己」であるのだが、普遍的な意識(「今すぐにでも得られる」)を垣間見ることによって、私たちはより大きな自己に触れることができる。
Fenwick は、極度の臨死体験の場合、人々は非常に遠くまで行ってしまうようで、そこで「分離幻覚までへと完全に崩壊してしまう」と指摘する。この世でのみ、私たちは生と死の物語を語りうる。本当のものが普遍的な意識であることを私たちが認識した時、死後存続の問題は何ら疑問ではなくなる。なぜなら、実際には誕生も死もなく、意識だけが継続しているからである。宗教――未救済の人から救済された人へとの空しい変遷を追い求める――は、この普遍性を認めないことによって自らの霊魂的〔非局所的〕特質を失ってしまっている。
Bernard Carr〔ロンドンのクイーンメアリー大学、数学・天文学教授〕は、急進的でかなり仏教的な来世の概念を詳細に述べている。 彼は「次元段階」を提起し、究極の意識(「アナタ」――万事の無の核心)に至りそれで終わるか、あるいは、私たちの誰もが目指すアストラルと輪廻転生を可能とする次元があり、それがゆえに、それが遂げねばならない唯一可能な目標であるという。Carrにとって、これらの次元に合った異なるレベルの宇宙があり、心は、この世と、一種の「夢の世界」として私たちを待つあの世という、両世界を創造する。
新たなメタファー
Rupert Sheldrake 〔英国の超心理学の分野の研究者〕の見解では、私たちは眠っている間に「夢の体」を持つという体験をしているため、それが分離されることがどのようなことなのかについてすでに知っている。そしてもちろん、Carrのような物理学者にとっては、すべてはエネルギー、つまり波動数に帰着する。だがSheldrake にとっては、有名となった形態場〔morphic fields〕がすでに存在し、そこでは未知のエネルギー――おそらく「非局所的」な「量子界」のエネルギー――が働いている。そして、冒頭のvan Lommel の説に戻れば、それらすべてがここにあり、それは死後に「初めてその場所を知る」時、明らかになるのであろう。
Sheldrake も、今日の多くの人が少なくとも一時的に体験するように、私たちは予想の死後の世界に達しうる、と見る。私たちは願望や夢想への閉塞を超えて、より高くそしてより在りありとした何かに期待することができるが、私たちは現在の生活から完全に脱出することはできない。 Sheldrakeは、神話、おとぎ話、そして夢の形での想像を取り上げ、これらは物質的現実性に基づいていない分野であると指摘する。 つまり、それらは無限の量子場に含まれる可能性のを起動させるものである。Carr のように、Sheldrake は「二元主義的」でも「超自然主義者」でもなく、私たちが 「行く」ことができる領域に何らの区別もしない。
Mathew Manning〔英国の作家兼ヒーラー〕 は、精神的、霊魂的、あるいは今日では「非局所的」と称される事柄の最も深く広範な経験から言って、死後の世界に関する知識は通常の知識ではないと論じる。 彼の見解では、私たちはこの世で知っておくべきことを学び、その後、未知の分野に移る。 彼はまた、死後存続のメタファーとして、「生命」よりもエネルギーに関心をもつ。Durer の絵画や、彼の解しない言語で書かれた多くの芸術作品や文章について、彼の有名な超然的再創造はさほど顕著ではなく、彼が言うには、「Durer が成し遂げた」のは、(おそらく死後の世界の古いバージョンとして)、芸術的創造の源エネルギーを超然的に取り上げたことであり、それは個人の死後存続の問題であるというより、科学者の言うエネルギー循環の問題である。
個人性とその超越
私はこれまでに、パラダイム変化について、何らかのパターンが形成されてきていると感じている。そうした新パラダイムは、おそらく古いパラダイムとは微妙に異なっているだけだが、いくつかの新しい有用な注目点が見られる。
死後存続について今日の主張は、それがかつて個々に取り上げられたような個人的な事柄ではなく、量子物理学の考え方としての関心がいっそう強まってきている。たとえば、David Lorimer は、死後の世界は「もうひとつの意識の状態」であり、そこでは「あなた自身はさほど識別されない」だろうと語る。そして彼は、死後存続にもはや自分自身はさほど重要ではないと言う。私たちは、各々の「自分自身」が「(宇宙の)普遍性の現れ」であると知るようになるだろう。彼は、Betty Kovacs を引用して、「誕生は(私の)外形であり、そして死はその外形の解消である」と言う。そうした宇宙意識は「あらゆる境界線の消滅」を意味する。私たちは宇宙意識という南極海に浮かぶ氷山のようなものであり、発展や進化がこの世や来世にはあるものの、結局は、私たちはみな同じ海に属し、同じ海に戻ってゆくのである。もちろん、これは新しい考えではなく、ヒンズー教や仏教でも唱えられてきており、それはまた、Lorimer によれば、1994年のJournal of Consciousness Studiesの創刊以来追求されてきた意識研究の向かうべき方向でもある。
私がインタビューした中で最も「物質主義」の人物は Iain McGilchrist 〔英国の精神科医、作家〕だった。 彼にとって、「物質性は私たちが持ちうるあらゆる種類の存在の中の重要部分で」、「宇宙はこの物質界を作り出すために、とてつもなく多くの事象をもたらしてきた」と指摘する。確かに有用な修正見解である。腹蔵なく言って、宇宙意識がそれほどに素晴らしいものとするなら、どうしてそれは、すでに存在していた宇宙の膨大な量子的挙動にではなく、 無茶なことに、私たちに与えなければならななかったのか。もし、完璧に存在し続けることができるのなら、なぜビッグバンに頭を悩ませたりするのか。私は、これらの質問には良き答えがあることを知っているが、McGilchrist の取り組みは、私たちの食事、行動、身体がそれとは全く関係なく行われているように、霊魂にまつわる罠にはまり込まないようにと私たちに教えている。
しかし、McGilchristも、今ではやや改訂されたが、賛美歌集の同じページを歌っている。彼が言うように、「自身の存在が永遠との考えはおぞましいものだ」。彼にとっては、意識は私たち以前から存在し、自分の脳の産物ではない。私たちの脳は単にそれを伝達したり、変換したりするだけのものである。だが、それでも常に「私」たるものは在り、その私たちが出会うのが、だれにとってもの「偉大な私」である「神」である。
新たな方向
Pim van Lommelによる2010年出版の『Life Beyond Life』は、本考察にとって非常に有用であった。「臨死体験の科学」との的確な副題をもつその著書は、私たちが必要とする考え方の変化に力を与えている。それは大きな変化ではないが、議論の質を変えるべきものである。
私のインタビューは、Lommelの本が英訳される前に行われたが、彼の主張にとても即応するもので、また私を励ますものであった。そしてインタビュー後にその本を読み、私は移りつつあるパラダイムの要所を、次のように確かめることとなった。
◆私たちは、死後の世界の可能性に無頓着であってはならない。 死の床にある肉親が現れたり、臨死を実体験したり、ことにチャンネリングを体験するということは、祖母が昔からの生活を変わりなく続けていることを意味しているのではない。 別の「次元」での命とは、私たちの思考の問題、願望の問題、そしてまさしく出現の問題である。
◆目下の量子物理学と死後存続の間のかすかな関連は、あたかも、高度に知的な世界で、つま先のみで足場を確保しているかのようである。「非局所性」という量子物理学での専門用語は、「霊魂的」という古い用語に置き代わるべき用語である。物理学もまた、その19世紀の自身から変身するのは不可避となっており、言い換えれば、それはより不気味に、より捉えどころなく、より解き放たれ、より意識と密接に関連したものとなり、そしてそれこそ、より「非局所的」になり、ますます「物質的」でなくなっている。
◆死後の「命」は、私たちが知っているような「生命」でも、私たちの知っているような「死後」のいずれでもなく、「非局所性」が、常に私たちと共にあり、私たちの世界を常に支え、あるいは「常に無時間」といった、いかにも考えられない表現に頼るべき次元である。
◆臨死体験は、必ず、脳が非常事態にある時に発生する。他に何を意味していようと、それは、意識を説明するにあたり、脳が話の全てではないということの明確なエビデンスである。 Lommelの研究は物事を変えつつあり、そしてそれは長いプロセスの始まりに過ぎず、その到達点は、少なくとも私達がそれを知っているような単純な物質主義論ではない地点である。
◆死後存続によって、私たちには「あらゆるもの」と「限られたもの」との二面が予期される。「あらゆるもの」とは、結局すべてが何らかの形で幻覚であったとの視点より、死後存続が宇宙的あるいは無窮の意識に連なるからである。そして「限られたもの」とは、意識が物質から解放されることによって見通せる主なことである、「自分」自身である。
◆「エネルギー」とは、非局所的(あるいは超然的または霊魂的)な世界を物理学の世界と最もよく結び付けるメタファーである。その「次元」には時間も空間もないので、それがゆえ、移動に関与するエネルギーが不要のはずの非局所性において、どのようにエネルギーが存在しうるのかはまだ分かっていない。しかし、そこに何らかのエネルギー態があるということ――おそらくダークマターあるいはダークエネルギーとして――は、私たちがまさにそれであるという事実がエビデンスとなる。ビッグバンをもたらしたのはある種のエネルギーであり、宇宙誕生以前はそれがゆえ、局所性は存在しない。
◆現在もそして今後も、私たちは局所的な個別意識を通して私たちの世界を作り出すものと思われる。たが、偉大かつ宇宙的な意識というものが、宇宙を創造しているのかもしれない。 私たちはただ、自身の「世界」と「命」を創造するという些細な仕事をするのだろう。 言語はなんでも作れるが、宇宙を創造するプロセスを適切に描写することはできない。
◆仏教徒、ヒンズー教徒そしてすべて種類の神秘主義者は、正しくアプローチしている。 私たちは、あまたな学問としての哲学書よりも、Angelus Silesius〔神秘的で宗教的な詩人のドイツのカトリック司祭兼医師〕を読む必要がある。私たち、またはその一部は、一時的に生まれ変わりうる。死後しばらく、私たちは認識する場所に「居る」(おそらくそこを発見するのは難しくはない)必要はあるだろうが、やがて、文字通り説明不可能な場へと移行することになる。
◆身体は粒子であり、意識は波である。 私達の死んだ粒子は、それは常になすべきことをなして何か他のものへと変化する。科学者たちが述べるように、すべてのエネルギー形態が不変なように、意識の波も持続される。しかし、現在、私たちは自らが考えている「自分自身」として無限に存続できるわけではなく、「自分」が意識の波であるならば、果てしなく「より偉大な」何かとして存続できてゆ区画だろう。
◆これらは、多くの宗教教理とびっくりするほどに似ている。だがそれ自体は、全く宗教ではない。
◆こうした個々の分野には、括弧をつけておく必要がある。すなわち、「死」「後」の「世界」と。つまり私たちは、それらすべてを知っているわけではなく、実際、「知る」ことはできない。それは、たとえ賢明で着実な科学知識をもってしてもなお、できない。
【翻訳:松崎 元】
(注記)文中のリンクは、訳者が参照文献として入れたもので、原著にあるものではない。