今回の居酒屋談は、ほとんど僕のひとりごとなのだが、これは、タイミングの遅れた、第五話「秋の日本へ」や第六話「きれい好き日本」の続編でもある。
実は先日、なんとも鬱っぽい気分にとらわれ、その午後、悶々としているよりも行動と急に思い立ち、クリスマスの買い物客でにぎわう市内へ出かけた。そして、紀伊国屋書店シドニー支店で、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)を購入した。というのは、この10月の日本滞在の際、出発前から予定に入れていた、宮崎駿監督の同名アニメ映画を鑑賞したのだが、その事前の期待が、あえなく空を切らされてしまっていたからだ。 詳細記事 →
いつもの居酒屋、今夜は静かで、お客は二人のみ。だからむしろ邪魔が入らず、落ち着いて踏み込んだ話ができている様子だ。
客の一人は常連のAさんだが、今日は、年のころは四十路に見える専門職風の女性がそのお相手である。娘さんに見えなくもないが、二人のやり取りからは、そんな親子の近しさは感じられない。むろんAさんは「子なし」なので、父娘のはずもない。
その女性は、昔なら「男まさり」とも見られそうな「おひとりさま」の実践者のようで、その風貌からは、独身でやはり子なしらしく、家庭臭さなぞまったく伺えない。むしろ、しっかり自立した医療プロフェッショナルのようである。 詳細記事 →
私、この「話の居酒屋」の店主でございます。そんな私がしゃしゃり出て恐縮なんですが、少々、事情説明をさせてください。
先に「第三話」では、「子なしおひとりさま」との話があったんですが、それは上野千鶴子の「入籍」にまつわる週刊誌記事に触れたものでした。そして当居酒屋話では、その「子なしおひとりさま」とは、「子あり」の可能性はありながら、たまたま「子なし」の「おひとりさま」との意味でした。 詳細記事 →
人生喜寿にも達すると、かつて、共に土木工学を学んだ同窓の徒たちも、もうそのほとんどが現役を退いている。
その中のひとり、トンネル一筋にその専門を貫いたN氏から、トンネル技術者としての生涯を綴った、専門誌『トンネルと地下』掲載記事の別刷り(文末に添付)をいただいた。 詳細記事 →
もう十年以上にもなりますか、いかにもひとりよがりなんだけど、こいつはね、「道路と鉄道の融合」とかという構想をあっためているんですよ、いっぱしに。
それはSF風に言うとですね、道路と鉄道を融合させ、車が線路化した道路上を、列車のように連なって高速走行する輸送インフラなんだとか。 詳細記事 →
今度の日本再訪で、改めて驚かされたことがあります。
それは、よく言われるように街にゴミが落ちていないだけでなく、山にも、まったくゴミが落ちていなかったことです(山行きの詳細は「第五話」へ)。
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先月20日、めでたくというか自動的にというか、とにもかくにも、喜寿、77歳に達しました。
いやはや、これほどスムーズかつ意気軒昂にこの節目に至れるとは、正直なところ驚きです。たとえば、20年前に想像していたこの齢の自分なら、もっとしょぼくれたジジイです。
それがいま、実際にその歳になった自分がここに実在していて、幸いなことに、そんなネガティブな思いはまずありません。
身体面でも、男ならほぼ誰もが持つ前立腺肥大とそのヤヤ癌兆候はあるものの、そのほかでは、何の問題もないと言えるほどです。むろん油断は禁物ですが、常用する薬もゼロで、定期健診に訪れるドクターからも、「その歳にしては、、、」と、一目置かれています。
そんな具合で、今後迎えることになるだろう、おそらく、二、三十年の年月をどう有意義に“終活”しようかと、意欲の萎える気配もありません。
そんな先日、快眠でリフレッシュされた寝起きの頭に、ふと、SF風なストーリーが浮かんできました。
数百年か数千年か、ともあれ、人間社会のけっこうな変遷をとげた後の話らしい。 詳細記事 →
同じ口によるコミュニケーションにも、本連載の第一話のように、味覚を介するものと言葉を介するものという二種があります。しかし今回は、同じく口によるコミュニケーションでも、別の口を使ったコミュニケーションです。
この「別の口」とは、居酒屋談らしく下ネタに絡んでいて、男が持たない何とも残念な口のことです。そこで男同士の隠語では、それをただ「上下」と区別して暗示したり勿体ぶったりする、その「下の口」のことです。
言うまでもなく、このコミュニケーションとは、味覚や言葉という情報をやり取りするそれではなく、本来、生殖行為としてのそれです。あるいは、最近の先端生物学の分野で言えば、遺伝子レベルの生命情報上の交換とも言えます。 詳細記事 →
筆者 「ひいきの引き倒し」という言葉があるよね。ひいきもやり過ぎると、かえって逆効果になる、という意味なんだろうけど、いまの日本を見ていると、それが、そうなってるとも気付かれずに、ずんずん広がってる。
友人 それって、「ひいき」するのが外人でなく、日本人が日本をってこと?
筆者 そう。
友人 解らんでもないが、でも、どこが「引き倒し」なんだ。しかも「気付かれずに」って? 詳細記事 →
今号より「話の居酒屋」と題した新連載を始めます。これは、今月20日が私の喜寿(77歳)の誕生日で、本来なら次号(22日発行)からの掲載が順当な節目かなとは考えていました。ですが、思い立ったが吉日で、月初めの区切りよさもあって、今号より、題目どおりの、いっぱいやりながらの談話気分で進めてゆこうと思います。それというのも、なんとも当サイトは、論文調の堅苦しい話がほどんどで、目を通すにしても、難儀させられるところも少なくなかったはずです。しかし、そんな面ばかりが本旨ではなく、それこそ「ホーリスティック」に、膝を交えて友と語り合う、そんな話も大事にしたいと思います。
筆者は、まもなく喜寿を迎える、暦上ではまぎれもないジジイです。
そんないい年にいたっても、やはり、異性は気になるもんです。
そこでこの初回での話題は、そんな私の近年での実感で、料理でいくらか気の利いたものが作れ、サーブできれば、それは年には関係なく、そうした気になることにでも、なかなか役に立ってくれているという話です。 詳細記事 →
今度の6月11日から23日までのベトナム旅行の感想として、〈体にとって健康、脳にとって知性とは何〉と言うと、なにやら落語の大喜利のやり取りのようです。つまり、先にこの旅行の特徴を「偶然ゲーム」と表現したのですが、そうした興味を違った風に言ってみると、こうした大喜利まがいの「なぞかけゲーム」の味わいとなります。
大喜利は、「何々とかけて」という問いがあって、「何々と解く」との返答あり、そして「その心は」と落ちがきます。そういう三ステップの「話のゲーム」です。
ではあらためて、大喜利風に言いますと、
「ベトナム旅行とかけて」
「体にとっての健康、脳にとって知性、と解く」
さて、「その心は」、、、、、
降り立った乗客でごった返す終着サイゴン駅ホーム
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どうもこのベトナム旅行レポートは、自分の昔と重ね合わせた、ノスタルジックな感慨が毎回の主題となっている感があります。ただそれもそのはずで、来月に喜寿を迎える者による旅とその報告ですから、それも当たり前な話と言えます。
そこでなのですが、こうした年寄りのノスタルジック傾向に対して、若い世代の夢追い志向というのも、対称的な「当たり前」な傾向と言えるでしょう。それを図示すれば、こうなります。
背景写真は、ベトナム中部ホイアンの町の広場にて
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今回の「地球工学」の章は、きわめてテクニカルな内容となっています。しかも、その地球工学という一見穏当な名称にも拘わらず、その議論は、とても信じられないような奇異な問題を指摘しています。すなわち、この地球全体の環境を操作する工学の大義名分が気候変動への対策とされていながら、実は、それは見せかけのもであるとの議論です。 詳細記事 →
いま、ベトナム中部のフエのホテルでこれをつづっています。
フエと言えば、ベトナム戦争中、僧侶が抗議の焼身自殺をした町として思い出されます。
三日前、シドニーよりクアラルンプール経由のLCCでハノイに入り、二泊して、昨夜、8時間を要した夜行バスで、今朝、この町に着きました。
そのベトナム首都での二日間、行き先といえば、石灰岩地形の川を手漕ぎボートで行く観光【下写真】をしたくらいで、あとは、文字通りの行き当たりばったりの〈偶然のゲーム〉を楽しんでいます。便利なサービスに頼らぬ虚心坦懐と言えば聞こえはよいですが、ある面、ずぼらでもあり、また、年に似合わぬ無鉄砲なスタイルでもあります。
ハノイ市街から2時間ほど、チャンアン渓谷と呼ばれる景勝地。
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こんな「どんな旅でもない旅」をしていて、ふと気付かされたことがあります。
それは、昔、若かった頃、ふと思い立って行当たりばったりの汽車に乗り、たまたまに降り立った駅で案内された、たまたまの民宿のお世話になった、そんな時代やスタイルに近いものがあることです。
フエを流れるフォン川ごしに山々が遠望される光景は、どこか日本の地方の町を思い出させる
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今回の「ビッグブラザー」の章が指摘しているのは、まさに、現在の世界をおおういかんともしがたい悲惨さの根源だろう。
著者のオルセンの論じる米国社会の実像が真実だとするなら、日本の存在とは何なのだろうか。そうした米国の実像からは分離されたものなのか、それとも、それに追随しているどころか、その下敷きにされているのだろうか。戦後史を見るだけでも、それを無関係とすること自体、非現実であろう。 詳細記事 →
前号までに、二編の連載記事「日本エソテリック論」と「人生はメタ旅に向かう」を完結し、別々に頂上をめざしてきた二つの登山のはずなのに、実際に登頂してみれば、実は一つの山であったとの感慨を述べました。本稿が述べるのは、その〈二登山同時達成〉によって得られた、その頂上からの思いがけないほどの眺望です。そしてそれは、「人生談」と「学的分野」の間において見出せる、ひとつの《実験のもたらした視界》です。つまりその同時登頂とは、人生というリアルと、実験というメタの、人間だからこそ可能な自己自身を対象とした〈実験〉を通した、その二つの〈運動=旅〉の融合であったのです。
登頂を終えて(なおこの山々については、この記事を参照)
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前号の「アメリカン・ナチ」に続く、アメリカ社会の陰惨な大衆支配の、徹底して隠されてきている実態のレポートです。
非常に詳細な情報の集積であり、むろんおおやけに報道される種類の話のレベルではありません。それだけに、なかなか、読むことに努力がいるものともなっています。
それを注意深く読むとき、今日のアメリカで、どうしてそのようになってきているのか、おおよその納得がゆくものと思われます。
著者が指摘するように、一度、嘘や隠蔽が始まれば、それは上塗りに継ぐ上塗りを続けるしかない。
それでは、「MKウルトラ計画」にご案内いたします。
この一か月少々で、二つのサイトで連載してきました二つの連載記事――「日本エソテリック論」と「人生はメタ旅に向かう」――がなんとか完結を見ましました。
一方、本号が発行される丁度この時、広島ではG7が開催中で、それにウクライナのゼレンスキー大統領が意表をついて合流し、日本のヒロシマの地が、あたかも世界の対立を物語る焦点となっているかのようです。 詳細記事 →
今回のテーマは「バチカン」。著者のエソテリックな懐疑の視力は、とうとう、この世界の聖域の頂点にまで達しています。しかも、その眼力が見抜いているものは、隠されに隠された、どこまでもどす黒いその裏の裏の世界です。
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この「日本エソテリック論」では過去5回にわたり、外国、ことに西洋と日本との間にある、独特な対立軸の存在を見てきました。今回はその最終回で、その結論へのキータームは〈収れん〉です。
というのは、こうした西洋と日本のせめぎ合いに関し、たとえば、〈最近の日本〉と〈一世紀半前の幕末の日本〉との二つの時代間でそれを見た場合、どちらの時代においても、一種同質の選択、〈西洋的栄華か日本独自の栄華か〉が問われている/いたことに気付かされます。ただ、それが問う内容については、この150年の時の経過はそれを大きく変えてきており、あたかも二時代間で逆向きにさえなっているかのごときです。すなわち、今、ここで問われていることは、もはや一辺倒の西洋化ではないのは明白としても、だからと言って、代わって日本独自性の選択といった逆選択をすればよいということでもないでしょう。つまり、本当に問われていることとは、そうした〈AかBか〉といった二者択一の問題ではないようであることです。 詳細記事 →
ある種の“ウンザリ”感―――正直言って、このエソテリック三部作を訳読していて、それがあるのは否定しません。しかし同時に、著者ブラッド・オルセンがアメリカ人の一人として発する深い〈うめき〉の響きが、私には伝わってきます。そしてそれほどの泥沼の深さがいまのアメリカ社会なんだろうと認識されてきます。 詳細記事 →
前回のテーマ「カミングアウトする日本」といういわば総論に続いて、今回は、東洋や日本の伝統を見直すとの観点をさらに掘り下げるため、いくつかの既存文献をひも解いてその各論としてゆきます。
また、本稿と平行して進めてきた、兄弟サイトの「フィラース Philearth」の「人生はメタ旅へ向かう」の議論とが、それぞれ結論部に近づくにつれて、論点が収れんしてくるような流れとなってきています。つまり、この「日本エソテリック論」という広く世界から日本へと絞り込んでゆく視点と、他方の「人生はメタ旅へ向かう」という個人の視点が日本から世界へと広がってゆく視点とが、いよいよ出会い、融合する発展となってきています。
なにやら、お互いが別々の山を登っていたつもりだったのに、その頂上で出会うこととなるような、結局、目指しているのは同じ山だったのかと、驚きとともに納得させられるような話です。 詳細記事 →
この「エソテリック・シリーズ」第三巻『「東西融合〈涅槃〉思想」を越えて』のもくじのように、この「ネオファシズム」の部は、その第一部とされています。その順序が著者が判断する重要さの順序だとすると、そうした情報に私たちがあまりに疎いことに気付かされるとともに、逆に、それほどに、事態の隠蔽が深いかが暗示されていることとなります。 詳細記事 →
前回の「日本エソテリック論」;「原爆はなぜ日本だけに落されたか」の結論は、「今後、西洋文明に代わりうる文明」としての東洋文明という指摘でした。そこで、もしそうであるならば、では、世界が東洋化すればそれで済むのか、ということです。つまり、世界規範としての東洋の浮上、ということとなります。
しかし、本稿が述べたいのは、そういう「西洋か東洋か」との二者択一な、これまた還元論的発想の結論としての東洋ということではありません。そういう話なら、それは還元先が西洋から東洋に置き換わっただけのことで、(「中国世界モデル論」のように)いずれ同様なあい路に入り込む、もとの木阿弥となるのでしょう。 詳細記事 →
もし私が、この部のタイトルである「ネオファシズム」というアメリカにいての命名を、例えば、10年前に読んでいたいたとしたら、多分、それに納得できなかったでしょう。しかし、それを今読むと、まさしく、それがアメリカ社会であることに深くうなずけます。
たとえば、この表現です。 詳細記事 →
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ネオファシズム
群衆、暴徒、洗脳されていない大衆は家畜とみなされ、飼育係から真実を知ることを許されることは、めったにない。彼らは信じ、草を食み、鳴き、言われたことによって生き、死ぬのです。
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以前に述べたことではありますが、私にとっての「訳読」とは、その書物の「本読」を前に、それが期待にそう本であるかどうかを判断する、一種の準備作業のことです。
それが日本語で書かれた本の場合、事前にさっと内容に目を通すことでおおむねそうした判断ができるのがほとんどです。しかし、それが外国語で書かれた未邦訳本の場合、そうした「さっと見」ができず、ともあれまず内容をいったん通読可能な日本語にし、それをもって判断しなければならない、おそろしく手間ひま要する下ごしらえが避けられません。 詳細記事 →
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超人間主義構想
「もし人々がどんな食べ物を食べ、どんな薬を飲むかを政府に決めさせたら、彼らの体はやがて専制政治の下で生きる魂と同じくらい気の毒な状態になるだろう。」――トーマス・ジェファーソン(1778年)
このことに気づいている人はほとんどいないが、人類はまったくユニークな新しい種になろうとしている。このHuman 2.0は、Homo Evolutisと名づけられた。バイオテクノミー会長兼CEOであるフアン・エンリケスが2009年のTEDで語ったところによると、この新種のユニークさは、「種の進化を直接、意図的にコントロールすること」だという。彼はそれを「究極の再起動」と呼び、DNA操作と治療、組織生成、ロボット工学の融合がこの偉大な飛躍を可能にしていると述べた。だが、はっきり言って、トランスヒューマニズム〔超人間主義〕は、作り出された人類の進化の終末点である。 詳細記事 →
エソテリック論という西洋由来の考察手法を、「日本エソテリック論」として日本へ拡大適用しようとするにあたり、それを機械的に行うとの試みには慎重にならざるをえない、一つのチェックポイントがあります。それは、世界を巻き込んだその大戦の終結に向けて、原爆が日本に対してのみ使用されたという事実です。
その「原爆がなぜ日本だけに」とのデリケートな問いは、これまでに幾度かは耳にしたことがあります。そしてその問いに応えた「米兵死者の最小化」との米軍首脳による公的見解には、日本人が黄色人種であるとの、どこか当然視を言外に含んだかの、人種的偏見の動機の気配が漂っている話でした。 詳細記事 →
「ETはすでに居る」とのタイトルの今回の訳読は、この地球はすでに、ETたちが必要とする食品を飼育する“牧場”となっており、まさに私たちは、ETの“家畜”にされているとの話です。 詳細記事 →
地球上の生命の発生をめぐって、その宇宙起源説(パンスペルミア説)が、宇宙探査機「はやぶさ」の二回のサンプルリターンの成功も貢献して、しだいに現実味を帯びつつあります。そこで同説を敷延して宇宙を生命の母体と考えれば、宇宙の遥かどこかに生息しているだろう別の生命や人種も存在しているはずで、その意味では、人類の“親類”が宇宙のどこかで繁栄している可能性があります。そうした地球人と宇宙の誰かとの“親類”関係をめぐって、「エソテリック論」が開拓する独自分野の筆頭に挙げられるのが、人類文明の起こりへのこの親類関係そしてそれの拡大した “星” 際関係的探索、すなわち、〈宇宙からの影響や介入〉という観点です。
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私はこの「エソテリック三部作」を、ひとつの角度、すなわち〈知的アメリカ人による自国観〉と見て、訳読の趣旨のひとつとしています。というのは、私にとって、アメリカとは、戦後生まれの私の成長の背後に設定されていた隠れたバックボーンであり、ポジにもネガにも、私の世界観の形成の一つの所定条件となってきました。そういうアメリカには旅行で訪問したことはありますが、住んだ体験はなく、その理解の土台は一般的報道の域を越えるものではありません。そういう米国で、ことに親しいアメリカ人の友人もいませんが、この三部作の著者のブラッド・オルセンとは、その旅行の際、彼の在住するサンフランシスコで一度お会いしています。
この三部作なり『天皇の陰謀』なり、私が米国人による著書を、けっこう慎重に読んできているのも(いずれも「両生図書館」に蔵書)、そうした私のなかに刷り込まれた部分の出所を検証したいからでもあります。 詳細記事 →
本サイトでは、すでに8年間にわたって、「エソテリック・シリーズ」三部作を訳読してきました。そしてそれは、別掲記事の案内のように、その訳読作業は今なお続いています。そこでなのですが、この「エソテリック」という、〈定着した通説をくつがえし深奥な探究を行う〉という中心テーマ――翻訳書名上では「東西融合〈涅槃〉思想」と意訳――について、本稿では、その対象を日本に絞ることで、二つのレベルからのさらなる探究を試みます。というのは、その米国人著者による西洋由来の視点をグローバルつまり東洋にまで適用した場合、どこまで妥当性を持っているのか。そしてそれをことに日本に適用することで、西洋視野と日本視野の両方を相互に照射し合って考察し、その有効性を吟味――今回はそのイントロダクションに――しようとするものです。
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一つの仮説を立てて考えてみます―――。この世は、丸々が真実による世界と、その全部が嘘っぱちからなる世界という、二極をもったスペクトラム世界であると仮定します。すると、実際の世界とは、その二極の中間に存在する、真実と嘘がそれぞれの濃淡をもって混じり合ったグラデーション状のものとなります。そこでですが、その実際世界のグラデーションも、昔は曲がりなりにも結構な真実味を含んだグラデーションだったと、今年77になる私なぞには思えます。しかし、それが最近では、グラデーションなどとは生ぬるい話で、もう嘘で塗り固めた世界が大手を振ってのし歩き、真実味などはとうに吹っ飛ばされ、やりたい放題を先にやったもの勝の「なんでもあり」式の、かつての無法時代の再来とも見えてくるほどです。かくして、今や私たちは、嘘に騙されない猜疑心は言わずもがな、暴力に巻き込まれないよう物心共に扉すら開けないと言った、もはや真実自体が、フィクション上でしかありえない架空物にさえせざるを得ない時代へと変貌してきています。 詳細記事 →