原爆はなぜ日本だけに落されたか

“米独の結託” が示唆するもの

「日本エソテリック論」その3

エソテリック論という西洋由来の考察手法を、「日本エソテリック論」として日本へ拡大適用しようとするにあたり、それを機械的に行うとの試みには慎重にならざるをえない、一つのチェックポイントがあります。それは、世界を巻き込んだその大戦の終結に向けて、原爆が日本に対してのみ使用されたという事実です。

その「原爆がなぜ日本だけに」とのデリケートな問いは、これまでに幾度かは耳にしたことがあります。そしてその問いに応えた「米兵死者の最小化」との米軍首脳による公的見解には、日本人が黄色人種であるとの、どこか当然視を言外に含んだかの、人種的偏見の動機の気配が漂っている話でした。

そしてこの問いを今再び問う時、人種にかかわる差別と被差別をめぐっての反発とそのねじ伏せは、現在もなお頻繁かつ陰惨に繰り返されているまさしく現実のシーンです。そして、人類が今なおそれに訴える、決着のためには〈殺しも辞さない〉野蛮な論理の行使が、なぜかくも執拗に続けられているのか。これほどまでに人々の交流が高まり、かってなく人間同士の血の通った接触が進んでいる時代に、それはじつに奇怪に感じさせられる光景です。

その意味では、かつて日本が始めた戦争も、反西洋の民族意識を燃やして偏狂な拡大主義へと向かったものでした。そしてそれに対峙する側は、原爆の非人道的使用を二発も容認してその日本を完膚なく叩きのめしたのでした。

それが今日、同様な野蛮さが西と東の境界、ウクライナで展開されています。そこでは、NATO拡大を警戒するロシア民族主義の改めての強調と、他方、それを違法侵略として自陣営のさらなる拡大をもって潰そうとする西側とが対峙しています。

こうして繰り返されるまたしてもの野蛮さの応酬は、はたしてそれが、まさか、人類の持つそういう止む無い本性なぞと解釈されて済まされるものではないでしょう。

一方、人類のそうした野蛮さの愚を、かつて自ら、被爆で肝に銘じた日本人の体験知は、こういう今であるからこそ、重たい教訓として表明され、人類全体で――いずれかの側に立つということでは決してなく――共有ができるはずのものと思われます。

それこそが「ノーモアヒロシマ」というひと言に託された、被爆した、あるいは広く戦禍に倒れた無数の人々の残した思いでしょう。

本稿が今回取り上げる議論は、「なぜ日本だけに」との問いが明るみに引き出す、人種対立を理由に広く容認される野蛮な論理の使用はもとより、ならばそれが人類の宿痾としてそれを繰り返す人類とはそこまでも無能なのか、それとも、それはそういう無能さを装っての意図的な所作なのか、との問いへと発展します。

本稿はエソテリック論という手法を通じて、そうしたあり得ざる容認が蔓延している、奇態な納得の出どころを探るものです。

 

野蛮さの出どころ ― その1

本シリーズはエソテリックな探索を主な手法とするのですが、その探索の対象としてまず、前回に引き続き、 “星” 際関係という〈宇宙からの影響や介入〉に照明を当ててみます。

エソテリック論でもいかにも特異なそのアプローチは、日本だけがやり玉とされたそうした人種的敵がい心の現れににじむ奇態さが、そうした星際関係が関与していたという別次元の要素の帰結とみるものです。

つまり、ET/宇宙人がもたらしていた地球外超先進技術を、米独はすでに第二次大戦以前から、ともにそれを狙っていた競合関係にあったと見ることをまず糸口とします。

そして、本サイトにその訳読が掲載されているエソテリック3部作、ことにその第3巻中の新たな首領の出現」に述べられているように、第二次大戦の末期には、独ナチスは、UFOの反重力技術など異星人由来の超先進技術をすでに獲得していたと断言されるものです。

つまり米国は第二次世界大戦の凱旋へと、ただドイツを徹底攻撃するのは愚で、ドイツがすでにもつ超先進技術の奪取がより重要で、そのためにそれを可能な限り残存しておく――あるいは妥協すらする――必要があったとするものです。

ましてや、当時、先進原子物理学の始祖たちの多くはヨーロッパ出身で、米国に亡命したアインシュタインはドイツ生まれです。したがって、彼らの協力や献身を引き出さずして原爆の開発自体もありえず、そこに米独協業の下地が出来あがっていたはずです。

こうして、第二次世界大戦は、片や連合国陣営と、対する西のドイツ、東の日本という、ともにファシズム国家との戦争でありながら、その野蛮な論理の適用が日本だけであった理由が(おそらく原爆の開発完成がドイツ降伏以前だったとしても)、その瞬時大量破壊最新兵器の使用の判断に、上記のような米独協業の下地が決定的に働いていたと考えられることです。

言うなれば、もし人種的動機がなかったと仮定しても、こうした高度な戦略的選択の観点がゆえに、その先取が優先される必要があったとされるものです。

それに加えて、その先に出現しつつあった第二次大戦終結後の東西のブロック対立、いわゆる冷戦状況をにらんで、そうした新世界情勢に向けた軍事的優先性は、西側にとって、何としてでも打ち立てねばならない将来的戦略課題であったことでしょう。

すなわち、「なぜ日本だけに」との問いかけに対するエソテリックな第一の回答は、米独の――共に白人同士であるとの――つるんだ人種的偏見に根差す動機が働いていたというより、〈宇宙からの影響と介入〉のもたらす飛躍的先進性の獲得が、米独の共通利害を生み、それによる新次元な結束ができていたがゆえにであると見るものです。

ただしこの見解は、野蛮さの出どころという意味では、その問いかけに潜む人種的偏見というデリケートな意味合いを回避する、西洋人にとって免罪符的効果を持つものであることに留意する必要があります。

ましてそれが真実であるとすると、その新次元の星際関係による高度で宇宙的な枠組みというのは、それほどに明解に地球離れした構想であるはずのものです。だがそうでありながら、そこに見出せるのは、宇宙を援用したまさに西洋中心の論理であり、それはなにやら、実に地球的な人間臭ささを伴っている気配があります。

 

野蛮さの出どころ ― その2

そうした米独の事情に焦点を当てる西洋中心のエソテリック論は、上記のように、星際関係といういかにも地球離れした論点を披瀝しながら、次には、宇宙人世界における「いい者とわる者」論、つまり、善意のETと悪意のETによる地球上で展開される代理戦争といった、さらに没地球的とも言うべき、いかにも人間世俗的な脈絡へと入ってゆきます。

ことに、前回に述べた米政府の「隠蔽問題」がもたらす、片や悪意のETと、他方、影の政府とそれを背後で牛耳る秘密エリート結社からなる、宇宙規模の秘密の腹黒い結託と深く絡んでいるとの議論です。

この議論は、耳目をふさがれた大衆には、仮にできえたとしてもSFストーリーを越えるものにはなりえないでしょう(事実ハリウッド産のSF映画では、こうしたストーリーの百花繚乱です)。ところが、エソテリックな探索、ことに「二重構え」を取る立場からは、地球を現実に覆う暗黒の支配構造が地球規模の構造を越えて宇宙からの言わば高度な入れ知恵も含んでのものであったという、より根の広大なそれではないかとの疑惑です。

言い換えれば、こうしたエソテリックな探索とは、そもそも、西洋社会というものが、そういう宇宙的悪の構造とも一体をなしており、それに気付こうと気付かなかろうと、自分たちは、それほどの次元の被災者であるとの議論と読めます。

加えて、実際の異星人の地球到来の問題は、そんな事実はないのかそれとも隠蔽されているのか、少なくともオープンな情報としては存在していない――あったとしても政府本意の「大本営発表」情報に過ぎない――問題です。それだけに、最低「二重構え」を揺るがせることなく、信じるに足る事柄に基づいた考察を片側に、他は一種の想定か仮説の内の議論を認めるしかない、ということに至ります。

要するに、事実の隠蔽が徹底されている限定状況――嘘で塗り固めた現実――がある限り、西洋社会は煙幕でおおわれて真実追究がうやむやにされ、追究者自体をも道連れにした、社会全体の自縛状況が発生しています。

もちろん、こうした状況下では、野蛮さの出どころへの視野なぞ、もう清濁一丸となって完全に喪失されていると言え、もはや麻酔にかかったのごとくの総自縛です。

 

野蛮さの出どころ ― その3

以上のような二段階の議論をへて、ならば、そうした自縛じみた西洋中心のエソテリック論から離れ、角度を変えたエソテリック論が望まれます。

それが本稿の動機で、その議論の出発点である「なぜ日本だけに」との問いを再度念頭に、西洋由来のこの「自縛状況の発生」に探索の照明をあててみることとなります。

そこで議論の簡明化のために要点を整理して述べると、そもそも西洋由来のエソテリック論には、西洋文明がその発展の基盤としてきたいわゆる合理思想の根底的見直しを動機としています。そしてそれは、西洋文明は、物ごとの根源原理を求めるといった還元論――科学の発展もその分析的思考の成果であり、一神教思想と相互に支持し合ってきた――という根幹的発想のうえに構築されているとの批判です。

そこに加える、これは本稿による視点ですが、そうした西洋文明の根幹は、それが根幹であるがゆえに、長年の発展のうちに産生されてきた再生産物、すなわち、「いい者」なり「悪者」なり、下手人はいったい誰かという還元論の発展である二元論的世界観に拠る、西洋文明のもたらした“自家中毒”的な自生の偏向による産物というものです。

たとえば、一神教の異教徒に対する野蛮行為のすさまじさは史実に枚挙は事欠きませんが、人種的差異やそれへの偏見というある意味での自然発生的要素すらも、そうした二元思想に立って、必要以上に対立を際立てるのがその自家中毒的な働きであり、その産生物の筆頭が自己選民思想であることです。

そして今日においてもなお、人種問題にからむ野蛮な論理が大手を振ってまかり通るのも、そうした選民思想に裏打ちされた優越史観が、その野蛮性を正当化してしまえる伝統そのものがゆえとすらみなされます。

さらにここには、先に採り上げた「隠蔽問題」が結果的にもたらす、疑心暗鬼な際限のない疑惑のスパイラルすら起こりえます。 

そしてこの「隠蔽問題」を土台として、さらに、オープンな情報を欠く窒息した議論がその上に築かれれば、星際関係という純粋論理的帰結すらが、その自己選民思想という火種に観念性という油をそそぎ、二重に輪をかけた「自家中毒」を生む事態すらも想定されます。

これがすなわち、地球上の秘密政府と悪意の異星人とが結託した宇宙規模の悪だくみという発想です。こうした高度に理知的な発展は、確かに「二重構え」の徹底によって導かれる一つの産物ではあると考えられます。しかし、どこか現実離れしすぎた、あるいは、そうした自縛具合に酔っているかの節さえ感じられます。

ただし、この「自縛具合に酔っているかの節」との見方は本稿独自の見方であって、〈宇宙からの影響と介入〉が事実無根との断定を行うものではありません。

要するに、西洋文明という輝かしい歴史的成果を誇る奔流に潜む、地政学的、宗教的、思想的な特性、そしてそれに加わる「隠蔽問題」が、ストーリーを混迷の極へと持って行き、結果として、持ち前の優越史観という幻影に拍車をかけ、宇宙次元にまで肥大化させている“空回り”状況を、本稿は指摘するものです。

言うなれば、西洋文明が自らの歴史慣習がゆえに発症させた癌とも言うべきこうした二重自家中毒の治癒こそが、その重なる空疎性を立て直す起点であることです。

 

東洋という非西洋、日本という思考的脱出ルート

そこでいよいよ、本稿が持つチェックポイントである「なぜ日本だけに」を起点とする「日本エソテリック論」に立ち返るのですが、以上のような三段階にわたる西洋文明の特性――野蛮さの出どころのうやむや化――に対し、そうした歴史的伝統の枠外に発展してきた東洋文明という視点をおいてみます。

ことに、そうした西洋文明圏からもっとも離れた極東というローカル性に育成されてきた日本という“局地文明”のエソテリック論です。

そこで、前回に指摘したように、その特徴に見出せるのは、神話としてのたとえば「天孫降臨」との伝統です。それは、現在までの調査研究の限りでは、物的あるいは現実としての〈宇宙からの影響と介入〉の証拠やそれらしきものは取り上げられてきてはいません。

つまり日本は、8世紀ころより、中国文明の摂取を国家的事業として取り組み始めるまでは、もっぱら、アジアの東端の、半ば孤立した環境において、神話的な構想の世界をその存在理由として形成し、発展してきていた「局地文明」です。

そして、中国文明の摂取が進むにつれ、仏教として出来上がっていた、たとえば「梵我一如」思想といった宇宙規模の世界観が輸入され、それが定着してきたものです

それだけに、日本土着の信仰は、一般にシャーマニズムと分類される、自然界の存在のあらゆるものに神性を見出す宗教、すなわち「神道」を土壌としています。

つまりこうした日本的伝統は、広く多神教のひとつと分類される宗教的土壌に育成されてきたものです。そこには、一神教のもたらす唯一絶対存在への依拠という、一種の特権性や優越性に立つものではなく、むしろ、分権的で多様性を許容する「ローカル文明」の伝統でありました。

むろん、そうしたローカル性に根付くものであるだけに、そこに偏狭な民族意識が形成される要因は強く、その発露も体験することとなったのは既述の通りです。

他方、島国として、他世界との交流や融合が地理的に限られていたがゆえ、〈他文化の摂取と自文化の保持〉にいずれも積極さをもって取り組むという二面性ある発達を特徴とするようにもなりました。

 

このように「日本エソテリック論」の特徴を概説する時、日本は確かに、一時の民族主義への点火による対外侵略に全力をあげた時期はありましたが、それの誤りを身をもって体験し、以降、世界に名だたる平和主義を掲げる国として――主体性を欠く他者依存主義との指摘は受けながらも――、今日へと至っている状況に再認識させられます。

また、こうした「日本エソテリック論」によれば、日本が、文明論としても一つの独自性を形成してきた経緯と、くわえて、日本自らの体験知の上でも、西洋由来のエソテリック論にもっとも距離を置いた視点を備えているものと考えられます。

言い換えれば、本流の西洋由来エソテリック論が到達する〈宇宙からの影響と介入〉との観点においても、物証的議論に言及する展開もその必要もなく、またそうであるだけに「隠蔽問題」に加担する行きがかりも負わず、単に神話的な説話に限定され、そしてその後の輸入された仏教的伝統を取り入れた、まさにメタフィジカルな伝統を特徴とするものとなっています。

もちろん、〈宇宙からの影響と介入〉は、それがあるとするなら、それこそ論理的帰結として全地球にあまねく達してきているはずのものであり、日本だけ、それから外れているとするのはあり得ないことです。従って、そうした〈宇宙からの影響と介入〉の普遍性という意味では、神話といった非物質的つまりメタな影響に限られている点にこそ、一種の真実性の特徴を示唆していると考えられます。

つまり日本の伝統は、仏教が言う宇宙との本源的関係「縁起」に見られるように、その影響は、いわゆる物証的観点を必ずとも必要としない非物象性――一種の情報――を主潮流としているということです。(この点はむしろ、量子理論との親近性として、後続の回で改めて議論します。)

こうした非物象界での発展をその思想的柱としてきたという東洋的な特徴に注目する時、ならば、「隠蔽問題」の起点となっている、宇宙人の到来の事実の有無論争とは一体何であるのでしょうか。

ただし、いまだオープンな議論が保証されていない現実がある限り、その有無の議論は内実のあるものに進みようがなく、「二重構え」にどこまでも留まらされてしまうしかないでしょう。換言すれば、「隠蔽問題」がある限り、言わば水掛け論のごとく、自家中毒から陰謀論に至るまで、虚構としての空疎な産物ばかりが生み出されるということとなります。

 

今後、西洋文明に代わりうる文明とは

かくして「なぜ日本だけに」との問いをチェックポイントとした本稿の結論として、少なくとも以下の仮説を提示できそうです。

従来、西洋文明は物質的繁栄のもっとも近代的方法と考えられ、実際にそれを築いてきました。しかし、上記のように、そのもっとも現在的状況は、西洋文明の特色をなす還元的かつ分析的働きが、思想上ばかりでなく、さまざまな実際分野で、世界全体の現実の存在をも分断する結果をもたらし、それが世界の不安定要因を増幅し、不必要な対立をまねき、世界の分断化をもたらしてきました。

そしてさらに、そうした世界の分断の結果、市場という物的繁栄の基盤をも分断し、世界の経済活動のトータルな規模をも縮小する結果をもたらしています。これは現在、ウクライナ戦争にも関連して起こっている、まさに眼前の出来事です。

つまり、今後、世界のこれまで以上の発展を期待するには、その還元論的かつ分析的機能に代わる、全体視が可能で、かつ、世界各地ごとの違いを認めた多様性の認識に立った、いずれもが共存しうる文明観が決定的に必要であることが浮上してきます。

そこでそういう文明観とは何か、現存する限りのそれでは、東洋的な文明であるということとなりましょう。

 

【まとめ読み】

(その1)あり得るか「日本エソテリック論」

(その2)貴方の中にひそむ異星人痕跡

(その4)「包摂と排除」を越えて

(その5)日本的伝統とは何であったのか

(その6)「局地」的で「非局地」的な日本

 

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