ウイルスとは《情報体》であって、ことに今問題の新型コロナウイルスとは、それを「病原体」として敵視する見方では捉えきれないものであることは、これまでにも繰り返し述べてきた。それを、ここ数カ月の経緯を見ていてさらに思わされることは、その情報体が、まるで人間社会を映す鏡のごとく、“憎らしい”ほどもの悪さを働いていることだ。

そうした驚くほどの“ぴったり攻勢”を成功させているのは、このウイルスのもつステルス性――2週間の潜伏期間――と、感染を繰り返すたびに微妙な変異をとげて、特定の社会への特異な適合性をもった《社会寄生》――個人への寄生をこえて社会集団への寄生現象――をも成し遂げているがゆえにだ。 詳細記事

「あってはならない」
だから 《理論》

 独自サイトの設置準備(その9)

誰もみな、事前の相談があって、この世に生まれてきたわけではない。そうだよね、誰も。

気が付いたら、もうそうなっていて、今さらNOと言うにも、後の祭りだった。そうだよね。

でも、たいていの場合、そのことの始めには、まあ合意はあったろうね、親同士のレベルで。たとえ形やムードの上だったとしても。

むろん、二人で欲してなら、大メデタシだ。

私の出生のヒミツを話そうか。 詳細記事

この三カ月余り、コロナに振り回されてきましたが、ようやく、その何たるかがつかめたところで、本来の立ち位置に戻ります。そしてこのコロナについては、その発生は「自然現象」――エコロジカルには両属現象――だが、その感染拡大は「人為操作現象」とするのが私の結論です。そこで考えられる人為操作とは、そのウイルス――情報病原体――の発生に乗じた「世界のヘゲモニー奪取」です。「乗っ取り」と言った方が解りやすいかも知れません。2001年の9.11「偽旗テロ事件」は、その発端とも言うべきものでしたが、それからほぼ20年をへて、今度は、ウイルス感染を発火装置に利用した「情報戦争」――つまり感染の恐怖をあおることで世界の人々の「頭を乗っ取る」――戦争です。むろんその下手人は「資本の論理」で、それが敵とする相手は私たち地球の平民です。 詳細記事

本シリーズでは、コロナ・パンデミックについて、いくつかの設定を敷いてそれを考えてきた。しかし、それでもまだ残されている“極め付け”の設定がある。それは、コロナ感染が正真正銘な《自然現象》――これまでの設定に含めた人為要素を排した純粋な自然現象――として起こっているという設定である。そしてそのために、これまでとは異なったアプローチの枠組みをもってのぞむ。つまり、自然の仕組み――ことにエコロジー体系――は、人類が登場するはるか以前から存在しており、その摂理にそって進化もしてきているはずである。その自然の延々たる変遷上でいえば、そうした人間の作為なぞ、最後の些細な瞬間に生じている微々たる要素にすぎない。だがコロナをその壮大な変遷から見た自然現象とする場合、それに応じた新展望をもたらす可能性がある。今おこっているコロナ騒動のように、世界が揺るがされる度ごとに登場するまたしてもの新標語「ニューノーマル(新常態)」に踊らされないためにも、この設定の効果が期待されよう。 詳細記事

今回もコロナについて考えるのだが、議論を進めるにあたって二つの設定を置きたい。ただし、この設定には、余りに極論だとの異論があるはずだ。しかし、そもそも設定とはそういうもので、そういう条件をあえて与えて考察の位置を明瞭にし、議論をより精密にするためのものである。そして結論では、そうした設定から得たものと、その設定のないものとを見比べ、私なりの見解を見出したい。

まず、そのひとつ目の設定とは、世の大勢に反して、その感染による危険性について、それは「大したことはない」というものである。ことに、それを「致死的感染」とするのは過剰反応で、そこには可能性として「恐怖心の植え付け目的」を疑うべきものがある。そしてその恐怖心がゆえの、感染制圧のための経済活動の停止と、その結果の「生活破壊」までもが容認されている。すなわち、感染の危険度とその対策による社会生活の制約度に、アンバランス――平たく言えば「コスパ」の悪さ――がある。

二つ目は、さらに、この過剰反応は意図的とする設定で、その目的が、世界の投資家にとっての投資効果の確保、拡大にあるとするものである。それは、片やで世界の実体経済の行き詰まりがあり、他方でじわじわと進む企業活動の社会的責任を問う締め付けが広がるなどの収益環境が変化しており、そうした流れを変えるために、むろん「資本の論理」に立った、《超法規的効果》が期待される手段としての疫病利用とするものである。次元は違うが、そうした感染対策にあたる政府にとって、疫病の恐怖は、国民を従わせるには都合よく働く。

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前回では、コロナ危機をめぐる「資本の論理」〔Logic of Capitalist〕の関わりを、歴史的な足跡をたどって探索し、それがこの危機の不可視な頂上推進者であることを推論した。ならば、その推論をさらに進め、現在進行中のこのコロナ危機においても、その「資本の論理」の果している実際の――ひょっとすると予断をもくつがえす――「推進」がないわけはないだろう。それについて考えてみたい。

その考察に当たって本稿では、これまでのような「人為説」や「自然説」といった二分法はとらず、むしろ、その両者をあえて分けないアプローチ、言わば《人為自然両属》説をとる。というのは、今の世界の趨勢を見渡せば、そのウイルスの正体解明もすすまぬまま、人類は、防戦一方の感染抑え込みの戦いに奔走させられている。それはあたかも、コロナウイルスの先制攻撃により、人類のヘゲモニー(主導権)が乗っ取られたのも同然な様相であり、いかにも不気味な発展である。

つまり、現在、世界で進行していることは、その感染発生の人為説や自然説といった順当な設問など、はなから吹っ飛ばされたにも等しい設定が先行しているかのごとき「事件」である

それがパンデミックの現実だと納得できる人はそれもいいだろう。だが、人類は、WHOという専門の世界機関も持ちながら、あるいは、ウイルス感染ほどの体験ならこれまでに幾度もしてきたはずなのに、この現在の発展は、じつに変である。

帰するところ、人類はいま、「天災」と見まがう、異論をはさむ余地のない「ウイルス犯事件」によって、突如、大きく変質させられてしまう「不連続な変貌」を体験している。だから私はこれを《人為自然両属“事件”》と受け止める。

今のコロナ危機は、そうした極めて異様な状況をもたらしている。しかもこの事件はなお、いかにも人為臭い側面を、しぶとく留めたままである。 詳細記事

それにしても、ほんの数週間で一国を、わずか数カ月のうちに全世界を、これほどまでにも激変させてしまう新型コロナウイルスとは、一体、何なのか。これは今、世界の誰もが抱いている疑問だろう。ただ、それを、人類を襲うそれ程の歴史的疫病がゆえと納得するのは早計すぎるのではないか。むろん病原体が悪さをしているのは確かだが、そうした《病原体単独原因説》は、こうした世界規模の疫病に関する限りは「木を見て森を見ず」で、あまりな単純視だろう。そこで本稿においては、そうした「コロナ釘付け」の議論は大勢に任せ、このコロナ危機が、なぜこの時期に、かくも根こそぎに世界を揺さぶっているのか、そうした背景を含めた間口を広げた考察をこころみ、合わせて、コロナ後の世界がどうなるのか、それもうらなってみたい。 詳細記事

「コロナウイルス」考

《情報資源社会》への陣痛

 独自サイトの設置準備(その3)

前回の「『理論人間生命学』の独自サイト設立準備(その2)」では、新型コロナウイルスについて、それを人類の自覚をさとすかの「点火装置」とたとえた。だが、いまだにその挙動に謎の多いこの病原体について、どうもその役どころはそれにとどまらず、どうやら、人類の向かう方向をリセットさせる「通告者」の使命を果たしているかのようである。ならば、その方向とは? そこで問題は、そのような世界の変曲点たる今にあって、この災厄を体験した私たちが、自らの立つ位置をどのように定め直して行くのか、前回につづく、その考察の続編。 詳細記事

今、世界を震撼させている新型コロナウイルスについて、「理論人間生命学」の見地からそれを見ると、ある興味深い視野に達する。

このウイルスの出どころが中国だろうが米国だろうが、また、その発生起源が自然だろうが人造だろうが、その世界の憎まれ者は、世界のあらゆる国を麻痺に陥らせるに足る破壊力を縦横に見せつけている。

確認しておこう。ウイルスとは、生物体であると同時に情報体でもある。それは自己繁殖力は持たないが、寄生相手に取り付いて情報を植え付ける。コロナの場合、即座の発症はさせないが二週間ほど身を隠し、その間に密かに感染を広げた後に発病させるとの“戦略”を展開している。その戦略に、世界は、ものの見事に打ちのめされている。 詳細記事

前号で完結した「“KENKYOFUKAI”シリーズ」で《理論人間生命学》を提唱しましたが、それを本サイトが到達した新パラダイムとし、いっそう発展させたいと構想しています。現在、そのための新サイト――新たなアドレス(URL)を使用――の立ち上げに取り掛かっています。その発足までにはしばらく時間を要します。それが整うまで、その準備の議論をこころみてゆく積もりです。

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