地球にパラサイトする未成人たち

《理論人間生命学》から見た「地球人」

“KENKYOFUKAI”シリーズ(その5・最終回)

前回まで4回の議論の成果として、私は、「理論人間生命学」という新たな思考領域を提唱しました。そして、この新領域を一言で表現すれば、生命というものを、《脱地球》した視点――人の生命をその生みの親たる地球から“乳離れ”した「理論上の場」――において考察しようとするものです。そこで本連載最後の今回は、この一連の議論の締めくくりとして、その“デビュー”なった「理論人間生命学」の場から観測した「地球人」という視座を提示します。本連載はKENFUKAという独自な手法からパラダイム変化を探ってきたのですが、以下に示す観測こそ、そのパラダイム変化したその先からの“ライブ”な視界の実例です。

 

地球人という未成人、脱地球人という自立人

上述のように、この理論人間生命学の立場を、「地球から“乳離れ”」し、地球という親から自立した“成人”像を探究することとすると、「《し》という通過点」は、言うなれば、その成人式の日ということとなりましょう。

そこで、その「通過」以前の彼ら/彼女らが、地球を親とした未成人期にあるとするなら、その未成人たちが、地球に散々にパラサイトし、その寄食のあまりに親を食い潰してきたかの地球環境の劣化も、ありうる因果応報のごときで、抵抗なく納得させられます。

その地球人のうち、私のような老境人たちには、「地球離れ」は、ほっておいても時間の問題でやってきます。しかし、若境人たちにとって、それはまさに「命尽きる」話で、また実際に、私たち老境人にとってもこの地球は、言わば、その命を懸けるに値する冒険心さそうプラネットでもありました。

しかし、そうした血を沸かせる冒険も、また好奇心を掻き立てる世界遍歴の旅も、時を経ればへるほど、さまざまに挑戦され、体験され、語り尽くされてゆく運命にあります。そこで、後続者になればなるほど、やむなく、一層の困難を求めたテクニカルな極端をねらうとか、あたかも奇をてらう狂騒でも演じない限り、その新味を実感する余地はいっそう狭まってきています。

かくして、今の私らの老境世代が、まだ若かった地球を満喫できたほぼ最後の世代であるとするなら、もはや地球とは、そこに自らの将来を託そうとする人々にとって、それほどの新味や興奮を得難いどころか、近年に頻発する異常気象が示唆するように、その地球すらもが、「老境」とは言わずとも、もはや何らかの重篤な疾病状態に入ってきているかの印象はぬぐえません。

そのような人間社会および地球環境にあって、理論人間生命学の言う「理論」とは、どうにかして、何らかの「越境」をもってそのどん詰まりから《脱》地球して行こうとする、その「脱し法」すなわち《自立》へのトレーニング・フィールドを確保しようとするものです。

かくして同「理論」とは「脱地球人化」を探る場であるとするならば、それは、そのような《理論上の場》が、一方の老境者にはすぐ明日の世界ということであり、他方の若境者には、それがまだ遠い未来を扱う場であるどころか、すでに逃れがたく自分の近未来へと迫ってきている「不気味なリアリティー」をモニターする場である、ということにほかならないでしょう。

 

ところで、私は、かくして確実にやって来る自分のその「越境」の現実を、そうした地球史上の大環境変化と同期して迎えようとしているわけです。そしてそれは、その偶然の重なりがゆえなのか、それとももっと広い何らかの必然がゆえなのか。私には、その越境先の「脱地球界」――風習的には「来世」などと呼ばれ、「理論」的考察の対象ではまるでなかった――とは、伝習や迷信話としては到底受け止めらない、なにやら真実味迫る未踏領域となっています。

そこでこれまでに、先に「越境」した親友をテーマとしたSFストーリー「MOTEJI 越境レポート」を創作しました。つまりその段階では、そのテーマはまだ未熟で、フィクションとして扱うしかない対象でした。

しかし、自分の「臨死体験」をへて、今や「越境問題」は、心身ともに、そんなフィクションの域を越えて成熟してきています。

また他方では、前回までに述べた通り、科学分野の地平線上にも、それは確かな姿を出現させてきています。

たとえば、一方では、地球の成因や地球上の生物の発生――小惑星探査機「はやぶさ 2」の使命は宇宙起源の生命の種の採取――が宇宙の進化と結び付けられて考えられているように、人類が「宇宙の孤児」ではなさそうであるとの着想がそうしたプロジェクトを走らせています。

また他方では、極小世界を突き詰めていった素粒子研究において、もはや地球枠内に根差す発想では、とうてい捉え切れない脱地球的な諸エビデンスが確認されてきていることがあります。そしてそれがブレークスルーとなって、今や、古典的科学の枠組みが根底から塗り替えられつつあります。

このようにして、科学の分野においても、私個人に照らしても、自分の命をめぐって、そうした「脱地球環境」を想定せざるをえない域に入ってきており、それはリアルなテーマとして避けがたく登場してきているわけです。

こうして、多様に重なりあった「リアル」な諸意義を伴って、この理論人間生命学では、「脱地球人」をその想定対象とするものです。そして、何を隠そう、実は私たち自身が、地球にパラサイトする「未成人」ではないかとの気付きは、その老若にかかわらず、この「理論」を、自らの《自立》を追究する有用な手掛かりとさせるものでありましょう。

さらに、以下では、その「地球にパラサイト」し、たとえ無意識にではあっても、「未成人」に甘んじていることの起源が、いったいどこに、そして何ゆえにあるのか、それを探ってみます。

 

「意識は幻想」という《映画館現象》

前回で私は、「意識は幻想」と称し、以下のように述べました。

意識は私たちの身体が起こすその諸感覚が統合されて出来上がった集積イメージのなす幻像――スクリーンに映った映像――に過ぎません。そして、それを逆に言えば、意識は、もともと実体としての制約も固着も持たず、その集積情報次第では、実に壮大な世界が描きえるわけです。

これをひと言で《映画館現象》と呼ぶことにしましょう。

いきなりですが、上記の「起源」に関し、この《映画館現象》が、それを説明する主たる結論です。

 

すなわち、その《映画館現象》にあっては、「私」という意識の主とは、私という映画館の一人の観客で、そのスクリーン映像を根拠に、自分の身体を中心として同心円状に広がる世界観を持っている存在です。そしてこの世界観が、いわゆる「現実」です。

たとえば、私がエクササイズのため、自宅付近の公園の芝生の上で、準備のストレッチを行っている場面を採り上げましょう。

空には青空が広がり、白い雲が点々と浮かんでいます。芝は最近の雨ですっかり生えそろい、みごとな緑の絨毯を敷きつめたようです。公園を囲んで樹木が茂り、その木陰にはベンチがポツンと設置されています。遠くからの車の騒音にまじって、鳥のさえずりが聞こえます。公園の広さはサッカーグランドを置いてもまだたっぷり余裕があるほどで、公園の向こう側を流れる川にそって送電線が走り、それを保持する鉄塔が立っています。

こうした現実の光景は、私の諸感覚器官が捉えたその公園や周囲についての諸情報を統合して私が表現したものです。ただし、そうした樹木のどの一本も、雲のどの一つも、こうした情報をこのような光景としてはキャッチしておらず、ましてそれを言葉で表現するなどは考えられないことです。むろん、それを記憶することもなく、決して、自意識を持つこともないでしょう。それを行っているのは、この「私」という一人の人間が成している現象です。

そこでは、私の脳が、それらの諸感覚器官から送られてくる情報を統合し、記憶し、私の意識として組み立てています。そしてそれは、私の他の膨大な情報群に取り込まれ、日常意識、すなわち現実感を形成します。むろん、それらはさらに集積され、私の私たるものを支える情報体系の基盤となります。

そうして、その公園での準備を済ませ、やがて走り始めた私は、今度はその脳が、身体各部からの情報を捉えます。たとえば、その両足のだるい重さを、まだ身体が暖まっていないからだと判断します。そして止めないよう指令し、その結果に高じてくる一連の身体的苦痛も、健康のための必要と断定し、脳は、想定の通りに、その運動の継続を全身体に命じます。

近代哲学の父デカルトは17世紀に、そういう自分を、「我思う、ゆえに我あり」と述べました。他のどんなものの存在をも疑えるとしても、そう思っている「我」の存在は疑えないとし、それは「デカルト命題」と呼ばれました。

そういう「我」を保持できるのは、デカルトがその「命題」を唱えようとなかろうと、その彼自身の「意識」の継続した“点灯”がゆえです。つまりその「命題」とは、その「点灯内」での話です。その上でその「我」が自分の内にあり続けて、自分はそれを「所有している」との意識が起源します。

そういう「点灯」した「私」を、私は、上述のように《映画館現象》と捉えます。ということは、そうした点灯現象たる意識の下部機構としての身体機能――つまり諸感覚器官からの情報入力――が停止すれば、その「我」という意識は立ちどころに消滅し、あたかも停電した映画館のように真っ暗となり、ただの無用の建物に終わってしまうということです。まさに「ゾンビ」です。むろんそこでは、「意識」のスクリーンには何も映し出されておらず、かくして、意識とは、そして「我」とは、そういう「点灯現象」の産物だということを疑えなくなります。

むろんその「映画館」はいかなるフィルムをも上映できます。そしてその映像から、愛とか悲しみとか笑いとか、戦争とか平和とか、さらに社会とか、国とか、世界とか、地球とか、宇宙とかと、なんでもをイメージとして映写し、そして記憶をつうじて意識内に《所有》されます。そしてそれの総体として、私は私自身、私の日常生活、そして最終的には私の人生という一大ドラマを描きえます。むろん、そうして所有される無形資産の中には、自分もろとも、スクリーンに映じる周囲の世界までも含めることができます。

つまり、そのように、点灯した「我」の存在を起点として、自分の意識から、その意識が認識している世界まで、そのすべてをあたかも「自分のもの」と理解しているその自分中心の世界像ができ、それがその人のもつ《全現実》とされます。

上記の地球へのパラサイト行為も、そうした「自分のもの」意識に起源するものであるのはもはや明瞭でしょう。

すなわちここで決定的なのは、私は、たとえその《現実》がいかなるものであれ、それが、脳の「点灯」機能がもたらす、集大成された情報群――実体ではなくイメージ体――であることです。

私は、いわゆる瞑想という仏教界での心身鍛錬法を実践したことはありません。ですが、それは、こうした自分が所有していると信じている「我」というものを、瞑想といういわば映写行為の遮断を通じて人為的な暗闇をつくり、その映像ともども、「我」を「無くする」訓練と理解しています。

私にとって、公園でのそうした準備を整えて「走る」こととは、そういう「瞑想」と、類似した効果をえる別法と考えています。したがって、そうして数キロを走り終わって、疲れた身体を再び芝生の上に大の字に投げ出して空を仰ぐ時、じつに清々しい気持ちを得ることができています。つまり、何かが消え去ってしまっています。走るという“苦行”による一種の意識の遮断行為を通して、所有していたはずの「我」はいつか消え去り、ミニマムのただ感覚するのみの自分へと成っています。そして、今度はクールダウンしながら、再び芝生上で、公園の光景そう受け止めており、身体も自分もその光景の一部でしかなくなっています。実に爽快です。

そして時には、そうして芝生上に座して光景の一部となっていると、どこやらから、リードを解かれて自由となった犬がやってきていて、私のすぐ脇で、同じ目の高さをもって、私を見つめています。そこにはなぜか、ふだん、上から見下ろす「犬」」との認識も視線も、人間対動物といった線引き意識もありません。ただ、どちらも同じ高さで同等にお互いを見やっているだけです。

 

私とは、こうした一連のエクササイズ体験と同じく、私という映画館にかかる無数のフィルムを鑑賞し、それに捉えられ、作られる一観客たる存在です。そして興に乗ると、自分でフィルムさえ作成して自己上映し、さらに興じます。

こうした映画館たる自分とその膨大な映像鑑賞が成した自己をかかえて、私は数十年を過ごしてきました。今、その到達点において、「越境問題」に遭遇しています。

むろん、この《映画館現象》の提唱も、私の意識の産物にほかなりません。そういう意味では、それは私の所有する「資産」です。しかし私は、それが私の意識の中のただの抽象であり、幻像であり、何の実体でもない一つのイメージ群に過ぎないことは承知しています。そしてそれが、「越境」してその点灯が終わるとき、跡形もなく消え去ります。そして、おそらく、以上のように書き残した情報のみが残ります。それは確かに、私の生命の産物と呼ぶべきものです。そしてモノでもマネーでもなく情報であり、形の上では「理論」と分類されるものです。

こうして書き残される生命の足跡こそ、理論人間生命学のコンテンツです。

 

最後に、理論人間生命学に関するある誤解を避けるために、ひとつの造語を披露したいと思います。

そこでまずその誤解とは、理論人間生命学が「脱地球」を説けばとくほど、それが地球との結びつきに背を向ける発想や行いと受け止められかねないということです。

そこで披露したいのが、ある造語、すなわち、英語ではPhilearth、日本語では「フィラース」、あえて訳せば「愛地球」です。この造語は、哲学を意味するPhilosophyが、ラテン語の「philo+sophy」つまり「愛+智」のことで、それをもじって、Phil+earthとしたものです。そこで、理論人間生命学という生命学をなす両輪とは、一つは「理論」であり、他は「フィラース」である、と表明しておきたいと思います。

ご記憶の読者もいらっしゃるでしょうが、前号の「今月のコンテント」の「サンダース・リボリューション」に出てくる架空の惑星の名が、この「フィラース」でした。

実はこの名は、私が学生の時――1960年代半ば――、自分が学ぶある工科大学の土木工学科のクラスで出版し始めた雑誌の名です(当時の地球を切り刻むイメージ一色の土木工学に、環境志向のアイデアを込めようとの発想でした)。それをいまさら使うのは、いささか公私混同のきらいもありますが、その愛着がゆえに、ぜひともリバイバルさせたいと願っているからです。

 

【完】

 

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