「本当のことを言おうか」

話の居酒屋

第四十三話

今回は、半世紀ほどもの年齢差間での、あたかもタイムスリップな「居酒屋談義」である。世俗的には、じいさんと孫との、いわば昔語りを軸としたごときの遣り取りだ。しかしその交換の軸が、世代にかかわらず人であるなら誰でも遭遇せざるをえない人生上の懸案にかかわるものとするならば、そこに世代の違いは問題とはならないどころか、片や未知と他方は既知とが合いまった、実に噛み合ったキャッチボールが交わされることとなる。

 

A 君にも話したが、今度、大江健三郎の郷里を訪ねて、これまでに彼の著作を通じて得てきた読者・作者体験では得られなかった、時間的にも地理的にも、みごとに立体的な体験をしてきたよ。

B それはそれは、実に面白そうな体験ですね。

A そうなんだ。しかもそれはね、私と君との間のまるで“祖父・孫間対話”と相似してるだけでなく、それに輪をかけた面白さすら見出せたんだよ。

B ー、そんなことってあるんですか。マジに、どういうことなんですか。

A 実はそれは二重な構造となっている。そしてそこにはその背景に、私世代と大江世代との間に類似した世代体験があること。つまり、私と彼とは11歳の差があるのだが、こうした二つの世代が、ことに学生時代に遭遇した政治的体験として、共通するところがある。それは、いわゆる「60年安保」と「70年安保」と言われる二世代のことなんだ。ところでこの「安保」とは、日米間の安全保障条約のことだが、どちらの場合もその条約の更新に学生たちが大規模な反対運動をしたものだ。念のために、コメントしておくが。
 こう前置きをした上で、その二重構造のひとつは、そうした両世代がその嵐の季節を体験するなかで、それに猪突猛進するものと、慎重な参加や不参加に留まるものといった、二別される対応差を生み出した。言ってみれば、この二つの対応に板挟みされる時代的な苦悩のうち、60年安保を題材にしたのが、『万延元年のフットボール』さ。兄弟間の対立としてそれを描くことでね。
 もうひとつは、70年安保の世代も、それに重なり合う体験をしている、つまり、私の世代でもね。そこには大江に類似した時代の刻印が、やはりその世代の深部を決定づけているんだよ。これは私の体験としてそう告白するのだが。

B 僕の生まれるはるか前に、そんな二世代の類似関係があったんですか。まさか、それが僕たちにも関係しているって言うんじゃないでしょうね。

A それがそういうことなんだよ。

B ええ、マジですか?

A 百パーセントね。つまり、それがまず大江の物語では、その苦悩を象徴する語りとして「本当のことを言おうか」と表現されて、読者の心理を鷲づかみにするような技巧が使われている。つまり、憎しみ会う主人公兄弟の間での激しい葛藤がそう展開されている。あたかも、人間の苦悩の二つの極限をモデル化するかのようにね。

B そうなんですか。ではその「本当のこと」って何なんです。ネタバレを聞くみたいですが。

A それはね、その兄弟の知恵遅れの妹を、弟がレイプし続け、それで彼女が自殺してしまうとの話を兄に告げることなんだ。あたかも、きれいごとに逃げている兄をその悪道をもって攻撃するようにね。

B それは確かにむごい話ですけれど、いかにもフィクション臭いどぎつさって感じかも。

A しかもその小説ではそれに終わらず、さらに、その弟が兄の妻を寝取ってしまう展開も付け加わって、時代にもまれる人物たちの苦悩をそう象徴化させる、創作上の技巧が凝らされている。だが、なにもそんな技巧に頼らずとも、人間にはもっと読者を引き付ける事実ってのはあるはずだろう。つまり、そういう時代のヤスリにかけられた、いずれの時代でもの若い生命の悩みや苦しみってやつをなら。

B なにやら、身につまされるものを感じます。

A そのはずだよ。だからこそ、君にもまつわる話となる。それが、先日、我々が夕食を共にして語り尽くしたあと、帰りの夜道にぽつりと君が言った、君のバージョンの「本当のことを言おうか」だ。

B ええ、それって、これまで他の誰にも言ったことがないってAさんに語った、あの話のことですか。

A そうだ。まあ君は「本当のことを言おうか」とは言わなかったが、それでも君は、君が本当にかかえてきた実際の過去として、君が十代のころの荒れ狂った生活とその結末の少年院体験のことを語ってくれた。そしてそれを独り噛みしめるようにして今に至っている、君のこれまでの変転もね。それはまだ30年にもならないことなのだが、この私の80年と君のその30年との間の、形は大いに違うが、人間同士として、同じようにくぐり抜けてきている、共に苦い体験があるんだよ。

B 僕がAさんの話を伺って大きく力付けられるのは、なぜかそれに心底、共鳴できるからなんです。

A 共鳴どころじゃないね。互いに環境や身体は違っても、まるで自分のこと同士のようにシェアーできる、そうした感慨だ。それが先に僕が書いた「未必の必然」という、まさに作品上の話の、その具体例にさえなっているってことだ。

B 、ということは、自分の少年期のワル集団同士の抗争と、60年や70年の学生運動とが同じことだというんですか。

A むろん同じはずはないんだが、若い命にまつわるそのほとばしる熱気の発露という意味で、それらは同等なものだと言えるよ。だから、君が生きた2000年代はじめは、我々時代のいわば古典的な発揮の道がすべて摘み取られた後の、若い命にとっての荒野だったのさ。たとえ新しそうな見かけはあったとしても。そこで干からびそうになっている若き生命が、反乱を起こさないわけがない。もちろん、それも摘み取られて、君が体験したように、そのワル矯正体制が適用されたわけだが。

B じゃあ、みんなワルらの行動として、同じことだと言うんですね。

A 私が言いたいのは、それだけじゃあない。そうやって大江が取り組んだのは、その若い命のほとばしりを、作品に託してフィクションに終らせたということ。だけどだよ、我々実際に生きている人間って、それこそ、それを創作になぞに逃げ込んで済ましていられないじゃないか。「事実は小説より奇なり」なんて、評論家みたいなことを言っているんじゃないよ。誰もがそうである、生の人生のことはみなそういうことなんだってこと。

B ならば、僕の体験は、大江のノーベル賞行為どころのものじゃない、それこそ本物の、「本当のこと」ってことですか?

A まあ、大江を越えてるなんては言わないが、職業的作家の宿命がそこにあるってことじゃないかな。たとえそんな大それた賞まで与えられたとしても。

B 普通に生活している庶民こそが本物ということですね。だれもの庶民生活にどんな賞にも値するものがあるってことですね。

A 才能を持って生まれた人でも、そんなちんけな立場に導きこまれてしまう、悪しき仕組みが働いているってことかな。

B 用心用心ですね。

 

 

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