前回まで4回の議論の成果として、私は、「理論人間生命学」という新たな思考領域を提唱しました。そして、この新領域を一言で表現すれば、生命というものを、《脱地球》した視点――人の生命をその生みの親たる地球から“乳離れ”した「理論上の場」――において考察しようとするものです。そこで本連載最後の今回は、この一連の議論の締めくくりとして、その“デビュー”なった「理論人間生命学」の場から観測した「地球人」という視座を提示します。本連載はKENFUKAという独自な手法からパラダイム変化を探ってきたのですが、以下に示す観測こそ、そのパラダイム変化したその先からの“ライブ”な視界の実例です。 詳細記事

前回において、「ひも理論」と「両生論」とがどうして相並び称せるのか、その類似視野の根拠として《双対性》〔そうついせい〕との概念に注目しました。そこで今回では、まず、前回での予告のように、《双対性》を通じて結びつく「ひも理論」と「両生論」との間の類似性にはどのようなダイナミズムが潜んでいるのかを論じます。そして次に、そうした導入にもとづき、目下の焦点である「両生論」のとどのつまりに立ちはだかる懸案「越境問題」に、この《双対性》関係を適用して、その意味を探ってみます。そして、その結果、予想を超える大きな可能性が見出されてきます。 詳細記事

私の今の立場といえば、もはや現役の一専門職からは退きながらも、いくらかのパートタイム働きにかかわることで、幸いに心身健康な年金生活人であることです。ただ、「人生100年」などとミスリードされる“絵空”年金談義には一線も二線も画さざるをえず、くしくも達したこの境地ならではの精神的自由度を存分に活用したいと望んでいます。また、たとえ興味本位であろうとも、新たな挑戦にはたゆまずひるまず臨みたいところで、なかでも、これまでにも取り組んできた「『し』という通過点」をめぐる「越境問題」は、この場に至ったがゆえの、そしてこの“辺境”ならではの、アプローチ可能な関心事でしょう。

「“KENKYOFUKAI”シリーズ」第3回の今回は、そうした立場や関心から、現代理論物理学の最先端の仮説である「ひも理論」をとりあげ、「KENFUKA」してみようとするものです。

そこでなぜ、私がこの「ひも理論」に傾注するかですが、それは、この理論が人類の目下の最先端の科学的知見であるという“新し物好き”であることと、同理論と私の人生体験からの無形資産とも言うべき「両生論」とが、何やら類似し合っている気配があり、さらに、その最先端知見がもたらす新たな世界観の幕開け、つまりそういうパラダイム変化に、私も是非ともあやかってみたいと望むからです。 詳細記事

この「“KENKYOFUKAI”シリーズ”」の初回では、イントロとして、「同じもの」をキータームに、一見、結び付きそうもない二者を「同じもの」と扱う視野を提示しました。そうした結び付けは、シリーズのスタイルである「KENKYOFUKAI」――略して「KENFUKA」――をフル展開したがゆえの産物です。今回は、この手段とした「KENFUKAの手法」の今一度の説明もかねて、その有効性を吟味します。 詳細記事

以下は「牽強付会」〔(けんきょうふかい)自説への無理なこじつけ〕も甚だしいと言われかねない話です。そこで最後までお付き合い願えるものかどうか心もとないのですが、そう願って書き始めることといたします。

そのまずはじめに、これがどう“牽強付会的”なのかを言っておきますと、ここに挙げます二つの話は、結局、同じことではないかという、私としては一種の発見談なのです。ただ、その二つの話の出どころが、あまりに隔たり過ぎているがゆえに、両者を結び付けることに、一抹の危惧があるからです。

そういう次第で、“冒険”をかえりみず、むしろ、その「こじつけ」を武器とすらして、今回より「“KENKYOFUKAI”シリーズ」を開始し、先に連載した「パラダイム変化」シリーズの第二弾ともしたいと思います。

そこでまずその初回として、そのイントロともいうべき一つの発想――違って見えても「同じもの」――を提示いたします。

詳細記事

これまでの6回にわたり、「非局所性」を起点に、仏教思想と量子理論との間の架橋をめざして、私たちの思考のパラダイム変化に役立てうる手掛かりを探ってきました。ことに、「場」の概念は、その気配の濃厚なものとして注目してきました。

そこで、本連載の最終回として、あらためてその「場」の概念を点検するのですが、率直に言って、量子物理学で言う「場」と、本稿が述べてきた「場」の間には、まだまだ大きな隔たりがあります。むろんそれは当然と言えばその通りで、私のいう「場」とは、それくらい異端な発想ではあります。しかし、その物理学の世界にはそれ自体で、「場」について、少なくとも狭義と広義の二義性があることは指摘できます。つまり、「場」とは、まだまだそのようによく煮込まれていない――故に大いに興味を引かれる――新鮮な分野であることは確かで、今回はその二義性に焦点をあて、本連載の最終回といたします。 詳細記事

ひとことで言ってしまえば、以下の議論は、宗教ことに仏教思想と量子理論の間に橋を架けようとする“身の程知らずな”こころみです。つまり、仏教思想にある、「縁」とか「縁起」という、万物が互いに結び付き合っているとの発想に着目し、それと「場〔field〕」――前回に提起――とが互いに関連付けうるのではないか、とするものです。 詳細記事

私は、一本のイチョウの古木に出会うことで、人生を蘇生させることができた人を知っています。また、別掲記事のように、植物との対話が実際に可能であることを実証している科学者がいます。あるいは、下の写真のように、花が人の心に触れるシーンを実に精彩に撮影し続けている写真家がおられます。

【撮影:山本哲朗】

すなわち、そうした体験は、誰もが実感できることではないにしても、植物と人間とのコミュニケーションが可能であるのは確かなことを物語っています。

ただ、私がここで取り上げるのは、もはやそうした事実の有無についてではなく、それが可能なのは、いったい、どういう回路や方途をへて可能なのか、という観点です。

そこで出てくるのが、前回で予告したように、「場(field)」と呼ばれる、素人にはいかにも敬遠したくなりそうな、まずは物理学上の先端概念として登場してきているものです。なのですが、それはどうやら、私たちにもっと身近なものであるようです。 詳細記事

植物を研究する博士モニカ・ガリアーノ(Monica Gagliano)は、非科学的とは承知の上で、植物に話しかけると返答があることを証明しようとしている。

Ellie Shechet 記者,  The New York Times,

2019年8月31日付 Australian Financial Review に転載

詳細記事

手元に一冊の本があります。これが、索引も入れると千ページにもなる大冊で、しかも数学の専門書とくれば、誰もが敬遠すること疑いなしの本です。ところがです、その題名が『虚数の情緒』(吉田武著、東海大学出版部)と、この種の本にしては異色で、それがなんと私が抱いてきた勘どころをズバリと突いているのです(その副題も歳に似つかぬ勇気を奮い立たせてくれます)。そこで飛びつくようにさっそく取り寄せ、この数ヶ月、その大書と格闘してきています。

その結果は、うれしいことに私の勘は図星だったことが判り、まさに「虚数」は、地球言語から脱出して宇宙言語を紐解いてゆくための鍵――まさに現代の最先端科学知識――であることを発見しつつあります。まるで、宇宙旅行への切符を入手したかのごとき感激です。 詳細記事