私は、一本のイチョウの古木に出会うことで、人生を蘇生させることができた人を知っています。また、別掲記事のように、植物との対話が実際に可能であることを実証している科学者がいます。あるいは、写真のように、花が人の心に触れるシーンを実に精彩に撮影し続けている写真家がおられます。

【撮影:山本哲朗】

すなわち、そうした体験は、誰もが実感できることではないにしても、植物と人間とのコミュニケーションが可能であるのは確かなことを物語っています。

ただ、私がここで取り上げるのは、もはやそうした事実の有無についてではなく、それが可能なのは、いったい、どういう回路や方途をへて可能なのか、という観点です。

そこで出てくるのが、前回で予告したように、「場(field)」と呼ばれる、素人にはいかにも敬遠したくなりそうな、まずは物理学上の先端概念として登場してきているものです。なのですが、それはどうやら、私たちにもっと身近なものであるようです。 詳細記事

植物を研究する博士モニカ・ガリアーノ(Monica Gagliano)は、非科学的とは承知の上で、植物に話しかけると返答があることを証明しようとしている。

Ellie Shechet 記者,  The New York Times,

2019年8月31日付 Australian Financial Review に転載

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手元に一冊の本があります。これが、索引も入れると千ページにもなる大冊で、しかも数学の専門書とくれば、誰もが敬遠すること疑いなしの本です。ところがです、その題名が『虚数の情緒』(吉田武著、東海大学出版部)と、この種の本にしては異色で、それがなんと私が抱いてきた勘どころをズバリと突いているのです(その副題も歳に似つかぬ勇気を奮い立たせてくれます)。そこで飛びつくようにさっそく取り寄せ、この数ヶ月、その大書と格闘してきています。

その結果は、うれしいことに私の勘は図星だったことが判り、まさに「虚数」は、地球言語から脱出して宇宙言語を紐解いてゆくための鍵――まさに現代の最先端科学知識――であることを発見しつつあります。まるで、宇宙旅行への切符を入手したかのごとき感激です。 詳細記事

前回そして前々回にも述べましたように、このシリーズに取り掛かる動機には、私の人生行路が、遠望ながら、永遠の旅立ち〔注〕がしだいに視界に入るところまできていることと、それに同期して、何やら日本や世界が、文明的な終末観をすら漂わせ始めていることとも関連しています。そうした個と世の両方にわたる大転換の気配と、だからゆえの、旧次元を越えるパラダイム変化への要請を意識しないでは済ませられない空気を呼吸しています。つまり、そこでは、文明の根源である、生命とその再生産にまつわる人的営みへの再考察に踏み込まざるをえません。

〔注〕 ある意味で、本稿は「終活」論です。ただし、いわゆる「終活」は、海外旅行に出るのに、肝心な旅先のことを、言葉や地理や文化など、何の知識も持たずに出かけるようなものです。本シリーズは、その知識にも関するものです。

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本シリーズは、私の人生の長年のテーマである「両生学」をめぐる「二元構造」――片や霊性問題、片や量子理論――に関し、その両者の間隙を結び付けるに当たり、量子理論の「非局所性」という専門用語がそのパラダイム変化として役立ちそうだとの考えに基づくものです。シリーズ2回目の本稿では、急きょ予定を変更し、量子理論への関心をすでに遙かに早くから持たれている知人からの見解をいただきましたので、その遣り取りを中心に展開します。 詳細記事

今日、日々刻々と深刻度をます高齢化社会にあって、まして自らがその当事者であるならなおさら、出来るなら「アンチエイジング」したいというのも正直なところです。それに確かに、その可能性がないわけでもないようです。しかし、私はそうした傾向を、決して見下す積もりではありませんが、それがもし人の自然な移り変わりに逆らう営みであるのなら、「アンチ」ではなく、進んでそれを受け入れる方向を探りたいと思っています。

すなわち、エイジングという生命の自然なサイクルにおける“秋季”現象について、私はさほどネガティブには考えられません。先に《「し」という通過点》という見解を表したのも、この秋季現象は、この世界への誕生と同様に、誰にも与えられる《別界への誕生》として、むしろ歓迎され、祝福すらされてもよいことではないかと考えるからです。

そこで、こうした《再・誕生》の発想に立って、今回より新たなシリーズを開始し、過去十数年にわたって取り組んできている「両生学」の新たな発展の場にしたいと構想しています。そして、この新たなシリーズのタイトルを「パラダイム変化:霊性から非局所性へ」とし、これまで使ってきた「霊性」という言葉に代わり、「非局所性」という言葉をつうじて――少なくとも自分の世界観、生死観の――パラダイムを変えたいと考えています。 詳細記事

死とは何であり死後へも意識は存続するのか。こうした難題についての100年以上にわたる探究で、エビデンスを探すいっそう精緻な方法が見出されつつある。多くのインタビューと広範な文献に基づき、ランス・バトラー(フランス、ポー大学文学部教授)は、科学と共に超然的経験に立った新たな見解を概説している。

Lance St John Butler(Professor of British Literature in the University of Pau)学会雑誌『The Scientific & Medical Network [Winter 2010]』より】

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前回、霊理学を科学と見るための定義のひとつとして、「人間-生命=霊理」という方程式をあげました。

そう考えながら、以前、日野原重明(聖路加国際病院名誉院長)氏が、明日の世界を担う子供たちに教えたい最も大切なこととして、「命とはその人が持っている時間のこと」との言葉を思い出しました。

私は、氏の著作や講演でこの言葉に出会いながら、正直なところ、いまひとつピンとこないところがありました。

しかし今、自分で編み出した「霊理」と言う、用語ばかりでなくそれが対象とする領域を想定する時、あらためて、氏の言わんとしていたことが何であったのか、それが浮上してきています。 詳細記事

この「越界-両生学」という枠組みを設定して、その「第一本編」とやらを昨年の7月に書きました。それがほぼ一年余りの潜伏期をへて、いよいよ、動きを開始しそうです。そして、この新たな気配は、私の70歳の誕生日の二週間後にやってきて、どうやら、この先10年間の新たな十年紀のメインテーマの一つになりそうです。

その新たな気配とは、別掲のように、訳読作業の必要から出てきた新語「霊理」にかかわっています。 詳細記事

いまやここオーストラリアでは、ブーマー(団塊)世代が大挙してリタイア生活に入り、行楽地はもちろん、盛り場に行っても、くつろいだスタイルの「二周目」ライフの享受者を多々見かけます。またテレビでも、そうしたご夫妻らをターゲットにした、海外旅行の宣伝がうるさいほどです。

私は、そうした現況に同席するブーマーの同類ながら、オージー特有の開けっ広げでケンコー過ぎる物質主義に、むろんお付き合いできる蓄財もなく、自然な分岐が始っています。

ただこの分岐は、非物質的には、これまでたどってきた「両生学」街道を延長する、私なりに蓄積されたものと思っています。加えて、昨年の《ガンとの遭遇》を境に、それは地図のない未踏領域へと入ってきており、ともあれそれを「越界」と名付けています。

そこで手掛け始めているのがこの「越界-両生学」で、これまで7回にわたる「あらまし編」でその導入を述べてきました。そしてそれに続いて、今回より、その本編に入ってゆきます。

そこでその本編ですが、過去の「両生学講座」のもくじのように、そのカバー範囲は広域におよぶはずです。したがって、この「越界-両生学」も、その登山道は結局、多くを数えることになると予想されます。そういう次第で、今回より始まる本編も、番号式でやや味を欠きますが、まずは「第一本編」と名付けました。 詳細記事