「越界-両生学」へ

越界-両生学・あらまし編(その1)

前号で、「新たな10年紀」が始まる予感がする、と述べました。   

そうした予感の導きにしたがって、ここに、新たな10年紀の扉を開けてみたいと考えています。

そしてその第一歩として、これまでに段階を重ねてきた「両生学」をさらに生まれ変わらせ、新たな次元に船出させてゆこうと構想しています。

題して「越界-両生学」。

そして、この「越界」とは、いよいよ私も、現世からの旅立ちを逆算的に意識せざるをえない年齢に入ってきており、そういう私の想像の照らし出す視界内にその境界が垣間見し始めているからです。

そこで今回を第一回として、そうしたシリーズのあらまし図を広げてゆきたいと思います。

いうなれば、黄泉へと広がる海域へ“越界”する航海ビジョンです。

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 まずは、以下の5月14日付け日経記事をお読みください。

 

トヨタ、「OR」のワナをどう避ける  

   

  編集委員 梶原  誠

2014/5/14 7:00

日本経済新聞 電子版(有料会員限定記事)

 
 世界中の経営者はうらやむだろう。トヨタ自動車が成長に向けた投資を理由に収益が横ばいになると公表。それでも翌日の株式市場が株高で応じた一件だ。
 今月8日、トヨタが示した2015年3月期の営業利益の予想は2兆3000億円。過去最高だった前期の水準を維持するにとどまる。
 

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「未知多次元空間」と「移動生命体」

両生学講座=第三世紀=  第8回(最終回)

 

まず初めに、ちょっとおさらいをしておきます。

前々回の「村上春樹をめぐるマイクロとマクロ」で、こういう話を述べました。

 

そしてさらには、その両親の命にかかわる私と同様な課程、そしてそのまた両親の命のそれといった具合に過去へとさかのぼってゆけば、一瞬たりとて途切れることのなかった、命の連鎖の途方もない長さの世界へとつながってゆくはずです。/そうであるなら、仏教の輪廻思想のように、前世において、私の命が他の何かの命であったとの発想や、さらには、星や宇宙の誕生ともつらなっているとの考えも、さほど突飛なものではなさそうです。/ただ、今回のこの議論では、そこまでの発展には触れません。ここでは話を、もっと限定した範囲にとどめます。

 

また、前回の「東と西という座標軸」では、「自然との結びつき度」を縦軸に、「地理的移動度」を横軸にした座標で、その第二象限が「東洋世界」、第四象限が「西洋世界」とみなせることを指摘しました。そして、「A」とマークしたその第一象限は、東洋でも西洋でもある両義的世界で、さらにその上に立体的に、「“神”的奥行き」の軸を立ててみると、その世界は、今度は、キリスト教的絶対世界観と仏教的輪廻世界観を融合した、さらなる両義的世界が想像されると述べました。

そしてその世界を前回、《未知多次元世界》と名付け、その詳しい議論を今回へとあずけたわけでした。

さて、こうしたおさらいをした上で、さて、いよいよ今回では、前々回でのそうした限定を取り払い、「移動」や「抽象」を際限なく駆使して、この《未知多次元世界》を存分に想像してみようというものです。

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東と西という座標軸

両生学講座 =第三世紀= 第7回

1月17日から26日まで、ニュージーランド(NZ)へ“トランピング”(山歩き)に行ってきました。

NZと言えば、オージーにとってはもう一つの州みたいな親しさがあり、しかもその地形が対称的に異なっていて、特にアウトドアー派にとっては魅力の隣国です(ラグビーファンには宿敵ですが)。

そういうNZの南島の北端に、エイベル・タスマンという名称の小さな国立公園があります。今回の私たちの目的地は、その国立公園内の海岸沿いのルートで、その50数キロを、4泊5日というややゆっくりとしたペースで踏破してきました(別掲記事参照)。

その「トランピング」中に出会った人たちの多くは、地球のはるか反対側からの来訪者たちで、英国、ドイツ、オランダ、フランスあるいはイスラエルなどからのバックパッカーたちでした。むろん、当地は夏休み中で、地元キウイの家族連れにもいろいろと出会いました。

さてそうしたひと時の中で、私は、二つの《対照性》を見つけていました。 詳細記事

村上春樹をめぐるマイクロとマクロ

両生学講座 =第三世紀= 第6回

前回までの3回の村上春樹の世界への「移動」で、私は、三歳差という微妙な世代ギャップを通じて、彼の世代と私の世代を分ける原因に、《マイクロ・コスモス》と《マクロ・コスモス》という環境設定上の違いがあることを指摘しました。

季節の変化が通り過ぎるように、《コスモス》上の違いが、私と彼をめぐる二つの世代あたりを変わり目に通過し、そうしてどうやら、私たちをめぐる気候上のバロメーターが、《マクロ=巨視》から《マイクロ=微視》へと変化したらしいというものです。 詳細記事

村上春樹にとっての分水嶺

両生学講座 =第三世紀= 第5回

前回、「《スキゾフレニックなステレオ視野》について、それでもやはり『動を3,不動を7』に配分するこちら側から見ているのが私です。つまり、ここには、この此岸と彼岸を分けるギャップがあるはずなのですが、一体それは何ものなのでしょうか」と、今回への方向付けを予告しました。

そこで今回、この設問への回答を試みるわけですが、実は私には、こうして村上春樹の世界を体験していながら、逃げ水現象のようにつかみきれない、常に気になっていることがあります。

それは、彼の作品に幾度も登場する、音楽やその演奏家の具体的名称を挙げての描写です。しかもそれがけっこう頻繁であるだけでなく、単なる比喩や説明的な表現とするだけでは終わらない、何ごとかを漂わせていることです。 詳細記事

ランナー小説家、村上春樹

両生学講座 =第三世紀= 第4回

 前回、私にとっての村上春樹との出会いは、彼がランナーであるからだと述べました。

今回はまず初めに、その出会いのいきさつに触れておくと、私が最初に読んだ彼の作品は、『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)というエッセイでした。それも、数年前に当地シドニーで、熱心なランナーである知人から、その英訳版を奨められたことが発端でした。

このエッセイによると、彼は、私のような生半可なランナーではありません。日本語によるこの原本が出版された2007年現在で、彼は24回もフルマラソンを完走しています。そして、原則としてフルマラソンを年に一回のペースで続けると言っているところからすると、現在では30回ほどにも達しているはずです。 詳細記事

村上春樹に「移動」する

両生学講座 =第三世紀= 第3回

本講座の第一回で、移動と固定にまつわる様々な二元論をあげ、様々な移動に伴う様々な両眼視野が世界認識の有力な方法となった体験を述べました。続く第二回では、「動か、不動か」という分岐を通じて、「移動」と「自由」という二つの姿勢が、同義とは言わなくとも、類義ではあることを発見しました。そして、共に同じ想念を志していながら、「移動」ではその実現方法上の、「自由」ではその概念上の選択に、それぞれが焦点を当てたものであることを見てきました。

そこで今回では、そうした移動体験主の立場自体を対象とし、その「自明性」そのものに移動を与えてみたらどうか、そうした想定に取組んでみたいと思います。 詳細記事

動か、不動か

両生学講座 =第三世紀= 第2回

前回の本講座で、その「第三世紀」へのイントロして、移動と固定にまつわる様々な二元論をあげました。

この「動か、不動か」という分かれ目には、そう認識するしないに拘わらず、誰もが逃れようもなく関与することとなる、人の生き方の根本的な特徴を決定付けるものがあると思われます。

私も二十代前半、当時「世界無銭旅行」――今でいう「バックパッカー」旅行のはしり――と呼ばれていた若者世代間での一種の共通の憧れにさらされて、その分岐点に立たずんでいました。 詳細記事

新海域への船出

両生学講座 =第三世紀= 第1回

これまで、この「両生学講座」は、第一期第二期第三期第四期、そして 《老いへの一歩》シリーズというように、合わせて5期にわたる発展をとげてきました。

この5期の変化には、2005年9月から2013年10月までの8年間の歳月を要しました。年齢で言えば、59歳から67歳までの8年間ということとなります。言うなれば、還暦を節目とした、「二周目人生」の初の産物です。

ただこうした産物を、単にそれを時期順に羅列するだけでは、その発展の内実をあまりよくはつかめません。

そこでこうした発展を、大ぐくりに分けてみますと、第一期は地理的「両生」、第二期から《老いへの一歩》まではそれに観念や想像を加えたメタ「両生」だったと言うことができます。

つまり、そうしたホップ、ステップをへて、それがジャンプとなるかどうかは未知数ですが、これから、第3歩目へと入ってゆこうとしているわけです。そこで題して、「新海域への船出」です。 詳細記事