動か、不動か

両生学講座 =第三世紀= 第2回

前回の本講座で、その「第三世紀」へのイントロして、移動と固定にまつわる様々な二元論をあげました。

この「動か、不動か」という分かれ目には、そう認識するしないに拘わらず、誰もが逃れようもなく関与することとなる、人の生き方の根本的な特徴を決定付けるものがあると思われます。

私も二十代前半、当時「世界無銭旅行」――今でいう「バックパッカー」旅行のはしり――と呼ばれていた若者世代間での一種の共通の憧れにさらされて、その分岐点に立たずんでいました。

大学を出て間もなく、社会の歯車の一つとなって日々を送っている頃、私は、親友の一人が、大地を蹴るようにその旅に単独で旅立って行くのを見送り、複雑な思いを噛みしめていたことを思いだします。

相互邂逅」でもそのことには触れており、その思いを以下のように書いています。

僕は、喉から手が出るほどに、旅立つ彼がうらやましかった。僕も、決心ひとつで、そうした旅は不可能ではなかった。ただ、そういう自分の飛躍が、それをさせなかった。飛躍する自分に不連続を感じ、それに自分を任せることに抵抗があった。

かくして私は、その時は「不動」を選んでいたのでした。

それが、その後まもなく、自分が育った環境――都会のサラリーマン家庭育ち――とは大違いな、新潟出身の米作農家の次女と結婚し、「動と不動」という対比においては、そもそも自分こそ、その「動」の典型ではないかという思いにかられました。

というのは、結婚後、当然ながら幾度も、彼女の実家宅を訪れることとなりました。それは、こんもりとした林に囲まれた旧家でした。そしてある初夏の日、彼女は、庭先のケヤキの新緑の梢ごしに見える空を見上げ、「これが私の青空」と私に紹介してくれました。そうした彼女に接して私は、この人の心には、木々がしっかりと根を張っているんだと感じさせられ、それに対し自分は、そうした木も根も持たない、せいぜい都会を転々とする、小動物なんだなと気付かされたものでした。

この動物と樹木というメタファーは、「動と不動」を象徴するばかりでなく、時代の流れも示唆しています。

この地球上から森林が次々と消えてゆくように、米作農家を維持するのは、一人息子の弟の働きだけで十分で、しかも、その弟をそうするよう、なんとか釘づけにしてようやく可能にできることでした。時代はもはや、彼女の生きれる世界をそこには用意していませんでした。

しかし、都会生活で体をこわした彼女は、その療養のねらいもあって、私とともにオーストラリアに移動を決心します。

そうして、共に生国を飛び出すという大移動を手を取り合って果しながらも、樹木と動物という二人はやがて、互いの違いを象徴するかのように、パースとシドニーという大陸の東西両端に分かれて暮らすようになりました。そしてその数年の後、もはやその法的婚姻関係が無用となっていることを確認することとなりました。

 

そのようにして、二人の第二の母国であるかになったオーストラリアは、その国民全体が、「動物」の国でした。正確に言えば、大挙して移民してきたその白い「動物」たちが動物同然に扱った黒い人間たちを除いて、この国は、近代と合理性と物的繁栄を象徴する動物移動の新天地のひとつでした。言い換えれば、こうした移民国は、そのそれぞれの歴史に、移民国成立前の長い先史はあっても、それ自体、中世も封建時代も体験してはいません。歴史的アノマリー(変態)です。

ちなみに、そこで営まれてきている途方もない規模の農業は、新潟の片隅で営まれていた米作り農業とは似て非なるものでした。この地での農業とは、その太古からの自然とは縁もゆかりもない近代農業で、それはビジネスのひとつといった方がふさわしい、農業上の異態でした。その作物もその技術も共に自生のものではなく、移動してきた移民たちの持ち込んだ異世界のそれらが、そこに人工移植されたものでした。

そこでの根のない樹木たる動物たちは、それがゆえに、一見、歴史のしがらみから解放されたかの、新世界を構築できました。

私という、その地に渡ったこれまた類似種の動物は、そこに展開されている合理的社会に魅され、そのモナド文化に同化してゆきました。

 

いったん生国を離れて外国暮らしを始めると、どうしても最初にお近づきになるのは、後にした国と到達地の心理的中間点とも言うべき、そこに先に来ている先達たちでした。彼らはすでにその経験をいかして、そこで何らかの生計を立てていました。その典型は、その地で始めた様々な日本料理店で、そこに後からやってきた新参者たちは、まずは彼らに頼って、とりあえずの生活のつてを得ることとなりました。

そうして、何らかの理由で生国の腐れ縁をのがれて脱出した人たち――彼ら彼女らを「脱国者」あるいは「社会難民」と呼びましょう――は、かくしてそれぞれに、自らの持つ資源を活用して、その不慣れな地での生きる手段を確保してゆくこととなります。

ある者は、留学生としてその地での課程を修了して学位を得、その地で新たなバージョンの歯車となって、その新味さに魅了されてゆきます。

また別の者は、外国進出を始めた日本企業の先兵として外地に渡り、そうした組織人にとっては新種の樹木として、その地へ移植されます。その多くは、一定の忍耐期間の後、本国に逆移植されるのが一般的です。

しかし、そうした移植で外地に根付き、逆移植を望まぬケースも出始めます。あるいは、もともと外国への脱出を目的に、そうした海外進出企業にあえて関わり、その職業的立場や経験を利用して、やがて本来の目的を実行に移すケースも発生します。むろん、企業側もそういう潜在欲求を逆用し、ワーキングホリデーや語学留学などで、ともかく脱国を先行させて外国になんとか短期滞在する者たちを、彼らの生計の必要をたてに、さまざまな形式で「現地採用」してコスト削減をはかります。

今日、その方法は多様であれ、若い世代に限らず、脱国そのものに、自由という名の「動物化」、あるいは「根なし草化」への強い欲求が託されていることは確かです。いろいろな形の旅行も、その欲求の手軽なバージョンと言ってよいでしょう。

ただ、そこで不可避に遭遇する問題は、脱国そのものはさほど困難ではないとしても、上にも触れたように、その到着先で、いかにして生計を維持してゆくかの課題があります。

そうした脱国者たちは、発展途上国からの政治難民でないことは明らかですし、またそうでないとしても、先進国の物的裕福さにあこがれる経済難民と言い切れるほどのハングリーさもないでしょう。

つまり、いわゆるライフスタイル=生き方の選択において外国生活を希求する、「社会難民」であるわけです。

 こうした脱国者あるいは社会難民にとって、この生計維持手段の確保こそ、実は、その憧れを実現し続けうるかどうかの核心問題であるわけです。

逆に言えば、脱国者や社会難民を迎い入れる国にとって、さまざまなビザを発行して、そうした入国者を引き付け、格付けます。それは、純粋なお客さんである観光ビザから、教育輸出の顧客である学生ビザ、そして、持ち込まれる資金の規模を基盤にした各種事業ビザ、そしてその国で安定した職業を得、確実かつ長期に納税することが見込まれるものに発行される永住ビザ等々まで、あたかも、移民動物の獲得が、必要な労働力や資金の確保手段として、その国自体の生計ビジネスであるかのごとくです。

そうした移動先での生計確保の困難性から、伝統的に取られてきた方式が、長短いろいろの旅行のように、母国での蓄積資金を原資とする、期間を限った消費型の移動行動でした。

しかし昨今、こうした脱国という目的をもっと永続化しようと、その目的と生計維持の必要を両立するために、新手の方法をとる脱国者が現れはじめています。それは、「ワーキング・モナド」とも呼んでよい人達です。

彼ら彼女らは、近年のインターネット技術の発達をフルに活用し、事実上、その居場所を問わない機能を用いて、何らかのネットビジネスを展開して収入を得つつ、地理的移動を持続しています。(ただ、100パーセントそうした収入で賄えるのはまれで――村上春樹はこの例かも――、利用可能な内外の収入源を総動員しているようです)。

10月初め、この『両生歩き』のサイトのデザインを新調しましたが、そのデザイン作業――将来計画を考慮した技術的検討も含めた総合的デザイン――を引き受けてもらったのも、そうした「ワーキング・モナド」のデザイナーです。その人たちは、もはや「旅するスペシャリスト」と言ってもよい、移動と生計の両立者です。そうした彼ら彼女らは、自らの移動の経験と移動へのパッションを、請け負った仕事にも具現して、ネット環境をフルに生かした顕著に特異な仕事を提供してくれました。

 

そもそもネットとは、物理的距離をバーチャルにゼロとする世界であり、ここに取り上げた「ワーキング・モナド」といった人たちは、本稿がテーマとする「動か不動か」という問いを、一見、不問にしうるかの、近代的自由の高度な実践者かとも言えるでしょう。

しかし、その高い移動性と根なし性を追及すればするほど、人類がまだ地球以外では生存不可能のように、その高度移動性の反面の、落-固定性が浮かび上がってきます。

私個人の体験をもとに、本稿のテーマである「動と不動」に立ち返って言うならば、こうしたもはやいずれの純粋種も存在不可能な時代にあって、自己の中にかすかにくすぶる淡い覚醒こそ、そういう自由な時代が取り残す固定の声を感じとる聴覚であるかのように思われます。

 

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