新海域への船出

両生学講座 =第三世紀= 第1回

これまで、この「両生学講座」は、第一期第二期第三期第四期、そして 《老いへの一歩》シリーズというように、合わせて5期にわたる発展をとげてきました。

この5期の変化には、2005年9月から2013年10月までの8年間の歳月を要しました。年齢で言えば、59歳から67歳までの8年間ということとなります。言うなれば、還暦を節目とした、「二周目人生」の初の産物です。

ただこうした産物を、単にそれを時期順に羅列するだけでは、その発展の内実をあまりよくはつかめません。

そこでこうした発展を、大ぐくりに分けてみますと、第一期は地理的「両生」、第二期から《老いへの一歩》まではそれに観念や想像を加えたメタ「両生」だったと言うことができます。

つまり、そうしたホップ、ステップをへて、それがジャンプとなるかどうかは未知数ですが、これから、第3歩目へと入ってゆこうとしているわけです。そこで題して、「新海域への船出」です。

 

この三つの段階をもう少し噛み砕きますと、そのホップ段階は「両生」という概念を、主に地理的、物理空間的な重複性/両眼性において展開してきたものです。時期的には、2008年7月までです。

それが、「私共和国」の発足と、それとほぼ同時の「相互邂逅」の開始をもってステップ段階に入り、そうした物理的なものに、時間的、歴史的な次元が加えられてきました。そして、三部にわたった「相互邂逅」が終わる2009年半ばころより、さらにそれにメタフィジカル(形而上的)な広がりが加わり、2010年8月からは、連載小説「メタ・ファミリー+クロス交換/偶然」も始まりました。そして、『天皇の陰謀』の訳読の進展に伴って、その第四期は日本自身の分析を試み、2012年末からは、自分自身の身体上の”変化”に焦点を当てた「《老いへの一歩》シリーズ」がありました。

このようにして、私が「両生学」とよぶ体系は、地理的出発点から、歴史的、思想的な、そして身体エコロジー的なものへと進化してきているわけです。

そして、こうした一連の変化が、さらに進展しそうです。

つまり、地理的な発展を第一世紀、歴史的・思想的・メタフィジカルな発展を第二世紀と呼ぶとすると、その第三世紀と呼んでもよい、次の段階がありそうなのです。

それを何と定義すべきなのか、今のところ明確ではありません。そうではありますが、それが、こうした過去の発展の上にさらに加わるものであるのは確かです。

そういう次第で、この「両生学講座 =第三世紀=」では今後、その未知なる発展を連載記事として述べて行く予定です。

そこで今回はその初回として、その概要を述べてみます。

 

そのまずはじめに復習しておきたいことは、「両生」という概念そのものです。

この概念は、私の人生経験上の“知恵”とも呼んでいいものですが、それを手みじかに表現すればこうなります。

上に「両眼性」との言葉を用いたように、人間がなぜ、目や耳を二つづつ持っているのかということに関連します。つまり、人は目や耳を一対ずつ持ち、そしてそれぞれが一定の間隔をもって配置されていることにより、入ってくる情報に微妙なずれが生じます。そのずれを感覚することによって、私たちは、その周囲の世界を立体的、つまり、ステレオ効果をもって得ることができます。そしてこれを《両眼視効果》と呼ぶことにしましょう。

ただそれは、人間の感覚上の効果です。しかし私はそれを、もっと広い分野で体験してきました。たとえば、大学を卒業して就職した最初の仕事を辞めた際、それをもって一種の職歴的脱落を体験するなかで、ある社会身分的な《両眼視効果》を体験しました。またその後、労働組合の仕事に従事するようになり、明確に働く者の側に立つことの、政治的《両眼視効果》も経験しました。

そして、三十代半ばにして、オーストラリアへの中年留学を実行することで、まず、国の違いをつぶさに体験することから、地理的な《両眼視効果》も得ました。そしてそこに、これまでの物理的それとはと違って具象的ではない、歴史的な違いに根差す《両眼視効果》や、自分が残してきた数十年にわたるノートを読み返す機会がもたらした、人生ステージ上の《両眼視効果》も体験しました。

このようにして、そうした様々な切り口をもった《両眼視効果》は、私の呼ぶ「両生学」を結果的に生み出すこととなり、その効果はその過程において、その開拓のための方法的原理として働いてきたわけです。

つまり「両生」とは、いろいろな生を体験することによって得られた世界観です。換言すれば、物理的、精神的移動によるこの世界のステレオ視野です。

そして、そうした方法を体験的に積み重ね、その累積の成果として姿を現してきている新次元、それが、これから述べる「第三世紀」です。

お察しのように、こうした方法は、理屈や理論が先にあって採り上げられたものではなく、生活という現実的必要がまずあり、それに取組む中から生まれてきた、実践的成果物であるものです。

 

 このようにして始まる新航海の海域は、抽象的な言い方ですが、移動軸と固定軸が織り成す、そうした座標における「両生」ということとなります。

そこでですが、ここで言う移動軸とは、すでに述べたように、社会的、地理的移動に端を発し、それに形而上的移動が加わった、そういう多様な移動次元のことです。

これに対し、固定軸というのは、そういう移動を繰り返せばくりかえす程に意識せざるをえない、自分や世界にかかわる、ある動かしえない何ものかです。それは、ある角度からでは、「日本人性」といってもよいものですが、ただ、そう言い切ってしまうのも、少々断定的すぎるところがあります。他方、その動かしえないものの中には、この地球を母体とする自然界の基盤というものもあります。

あるいは、この二つの座標軸を、ノーマッド(遊牧的)とヒューダル(封建的)といった用語で象徴させることも可能です。言い換えれば、定着せず移り住む価値観と、土地や文化に根差し自然と特定環境に運命を託する価値観の違いです。

さらに巨視的にこの座標をとらえると、その二つの軸とは、西洋的と東洋的、あるいは欧米的対日本的といった、歴史にかかわる「両生性」も設定可能です。

またそれを、哲学的に定めれば、選択論的と決定論的、さらにひるがえれば、合理性と“反”合理性、あるいは、科学と非科学を分ける境界領域への進入という風にも言えるものです。

そして最後に、そうした座標軸にわたる様々な二元論があるのですが、それらはそもそも、二者択一すべきものであるのかどうか、という問いがあります。つまり、二者択一であるかのように見えるのは、それは見かけ上であって、本質は、その両方を選択すべきではないかというものです。

 

ともあれ、以上のように構想される「両生学講座=第三世紀=」につき、まず次回では、移動と固定というテーマのもとに、ある人々群を描いてみたいと考えています。

 

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