「シティーハンター」

話の居酒屋

第二十六話

昨夜、馴染みの居酒屋で一人飲みをしていたんだが、面白いおっさんと隣り合わせた。まあ、おっさんというより、年のころは爺さんと言ったほうが正確なようだが、なかなかはつらつとしていて、元気な御仁だった。

そういう彼は、自分を「シティーハンター」などと気取っていて、確かに、田舎育ちではないらしく、都会的な雰囲気は漂わせている。

ただ、どこが「ハンター」なのか、それを匂わせるワイルドさもスマートさも、そんな気配はどこにもないのにだ。

そこで、どこが狩猟者であるのか、聞かせてもらうこととなったのだが、彼が言うには、現代の社会は、一種のジャングルだという。それも、悪い意味でのジャングルもないではないが、むしろ、豊富な実のりを隠した人工のジャングルなのだという。

もちろん、そこの住民たちは、それがジャングルだとは考えておらず、秩序を重んじた近代的な法治社会だとは、一応、思っている。むろん、不満も少なくないのだが、それは例外的か不運な巡り合わせのためで、大概は、得られた役割に真面目に取り組むことが本筋と受け止めている。

そういう彼が、自分のハンターたるところを発見したのは、若い時分、勤め始めたばかりの仕事があまりに理不尽でかつ退屈で、それを辞めた時だという。

むろん、今のご時世、仕事なしでは食ってゆけず、やむなく、食い扶持稼ぎの仕事と、本来の面白味のある仕事との、二刀流、あるいは二重心理の暮らし方をするようになった。

そこで、その食い扶持稼ぎといういわゆるシゴトについては、要するに、生活の糧を得るのが目的であるわけだから、割り切ってそれを行えばいいだけなのだが、彼はそうしなかったという。というのは、自分が動かないでそこにじっとしている場合、我慢強く与えられたシゴトを黙々とこなしたのだろうが、彼は自分の性分もあって、じっとしていられなかった。

そこで、あちこちと移動を続けているうちに、それこそ、「所変われば品変わる」で、居場所しだいで、いろいろな違いに巡り合えるという発見をすることとなった。つまり、お金のために働くと言う定点型の「サラリーマン」と、糧を得るために働くと言う移動型の「ハンター」との違いがあることに気付いたのだった。

そういうことなら、その「所変われば品変わる」に従い、その「変わった品」のなかに、自分の欲しい糧のあるところに移動すればく、居心地のよりよいところで生活するという方法を取り始める。

当然に、その移動もまずは近場から始まるのだが、より大きな違いを得るには、もっと大きな距離の移動が必要である。そこで、その移動も、国内のそれから、やがて、国境を越えて行くこととなる。

そうして、はじめはおっかなびっくりの外国旅行に出かけるのだが、やがて、国を違えた移動を経験をするうちに、所によっては、まるで天地が逆さまとなっているかの違いにも遭遇する。

それはたとえば、日本にいた時に携わっていた人から毛嫌いされるような仕事が、国によっては、立派な仕事であることだった。それどころか、そんな仕事のことを学ぼうとすると、なんと、国からの奨学金まで支給されたという。

そんな行き掛かりもあって、同じ食い扶持稼ぎであるとしても、大いに割のいい稼ぎの出来る所があるという、いわば、習慣や制度からして違っている国のあることを体験的に知ってゆくこととなる。その意味で、近年の日本の転落具合を担わされている日本人は可哀そうだと彼は言う。

そのようにして、食い扶持稼ぎのロードは軽減され、その分、興味のわく仕事が増やせるといった生活を続けてゆくのだが、その先で見出したのが、年金制度だったと言う。その国のその制度は二本立てとなっていて、老後の豊富な年金を欲する人向けの一部免税の個人積み立て年金と、いわゆるセーフティーネットとしての公的年金である。そしてその公的年金なのだが、それはむろん最低額に抑えられているのだが、贅沢はできないとしても、それでなんとか食ってはゆけるものとなっている。彼にしてみれば、自分の老後生活には、それはまずまずの保障で、それが死ぬまで続くわけだから、もう、食い扶持の心配は無きも同然となるに至ったという。

こんな話が、彼にまつわる「シティーハンター」の「シティーハンター」たるところだ。多分に結果的とはいえ、国々間の違いは、ハンティングするに足るものがあると言う。

私は、彼のそんな人生談を聞いて、その「シティーハンター」は、都会に住んでいると言う意味では確かに「シティーハンター」だが、それはもはや「シティーハンター」というより、むしろ「ステートハンター」、つまり「国狩人」とも称すべきだとの思いでその話を聞いていたのだった。

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