前号までに、二編の連載記事「日本エソテリック論」と「人生はメタ旅に向かう」を完結し、別々に頂上をめざしてきた二つの登山のはずなのに、実際に登頂してみれば、実は一つの山であったとの感慨を述べました。本稿が述べるのは、その〈二登山同時達成〉によって得られた、その頂上からの思いがけないほどの眺望です。そしてそれは、「人生談」と「学的分野」の間において見出せる、ひとつの《実験のもたらした視界》です。つまりその同時登頂とは、人生というリアルと、実験というメタの、人間だからこそ可能な自己自身を対象とした〈実験〉を通した、その二つの〈運動=旅〉の融合であったのです。
「人生談」と「学的分野」の間で
一匹の「ノックアウトマウス」を生きる
「日本エソテリック論」その7(追補)
「局地」的で「非局地」的な日本
その「絶対矛盾的自己同一」を
「日本エソテリック論」その6(最終回)
この「日本エソテリック論」では過去5回にわたり、外国、ことに西洋と日本との間にある、独特な対立軸の存在を見てきました。今回はその最終回で、その結論へのキータームは〈収れん〉です。
というのは、こうした西洋と日本のせめぎ合いに関し、たとえば、〈最近の日本〉と〈一世紀半前の幕末の日本〉との二つの時代間でそれを見た場合、どちらの時代においても、一種同質の選択、〈西洋的栄華か日本独自の栄華か〉が問われている/いたことに気付かされます。ただ、それが問う内容については、この150年の時の経過はそれを大きく変えてきており、あたかも二時代間で逆向きにさえなっているかのごときです。すなわち、今、ここで問われていることは、もはや一辺倒の西洋化ではないのは明白としても、だからと言って、代わって日本独自性の選択といった逆選択をすればよいということでもないでしょう。つまり、本当に問われていることとは、そうした〈AかBか〉といった二者択一の問題ではないようであることです。 詳細記事
日本的伝統とは何であったのか
混迷極める今の世界での意義
「日本エソテリック論」その5
前回のテーマ「カミングアウトする日本」といういわば総論に続いて、今回は、東洋や日本の伝統を見直すとの観点をさらに掘り下げるため、いくつかの既存文献をひも解いてその各論としてゆきます。
また、本稿と平行して進めてきた、兄弟サイトの「フィラース Philearth」の「人生はメタ旅へ向かう」の議論とが、それぞれ結論部に近づくにつれて、論点が収れんしてくるような流れとなってきています。つまり、この「日本エソテリック論」という広く世界から日本へと絞り込んでゆく視点と、他方の「人生はメタ旅へ向かう」という個人の視点が日本から世界へと広がってゆく視点とが、いよいよ出会い、融合する発展となってきています。
なにやら、お互いが別々の山を登っていたつもりだったのに、その頂上で出会うこととなるような、結局、目指しているのは同じ山だったのかと、驚きとともに納得させられるような話です。 詳細記事
「包摂と排除」を越えて
カミングアウトする日本そしてアジア
「日本エソテリック論」その4
前回の「日本エソテリック論」;「原爆はなぜ日本だけに落されたか」の結論は、「
しかし、本稿が述べたいのは、そういう「西洋か東洋か」との二者択一な、これまた還元論的発想の結論としての東洋ということではありません。そういう話なら、それは還元先が西洋から東洋に置き換わっただけのことで、(「中国世界モデル論」のように)いずれ同様なあい路に入り込む、もとの木阿弥となるのでしょう。 詳細記事
原爆はなぜ日本だけに落されたか
“米独の結託” が示唆するもの
「日本エソテリック論」その3
エソテリック論という西洋由来の考察手法を、「日本エソテリック論」として日本へ拡大適用しようとするにあたり、それを機械的に行うとの試みには慎重にならざるをえない、一つのチェックポイントがあります。それは、世界を巻き込んだその大戦の終結に向けて、原爆が日本に対してのみ使用されたという事実です。
その「原爆がなぜ日本だけに」とのデリケートな問いは、これまでに幾度かは耳にしたことがあります。そしてその問いに応えた「米兵死者の最小化」との米軍首脳による公的見解には、日本人が黄色人種であるとの、どこか当然視を言外に含んだかの、人種的偏見の動機の気配が漂っている話でした。 詳細記事
貴方の中にひそむ異星人痕跡
日本のローカルさの役立て法
「日本エソテリック論」その2
地球上の生命の発生をめぐって、その宇宙起源説(パンスペルミア説)が、宇宙探査機「はやぶさ」の二回のサンプルリターンの成功も貢献して、しだいに現実味を帯びつつあります。そこで同説を敷延して宇宙を生命の母体と考えれば、宇宙の遥かどこかに生息しているだろう別の生命や人種も存在しているはずで、その意味では、人類の“親類”が宇宙のどこかで繁栄している可能性があります。そうした地球人と宇宙の誰かとの“親類”関係をめぐって、「エソテリック論」が開拓する独自分野の筆頭に挙げられるのが、人類文明の起こりへのこの親類関係そしてそれの拡大した “星” 際関係的探索、すなわち、〈宇宙からの影響や介入〉という観点です。
あり得るか「日本エソテリック論」
2 レべルでの検討
イントロダクションとして
本サイトでは、すでに8年間にわたって、「エソテリック・シリーズ」三部作を訳読してきました。そしてそれは、別掲記事の案内のように、その訳読作業は今なお続いています。そこでなのですが、この「エソテリック」という、〈定着した通説をくつがえし深奥な探究を行う〉という中心テーマ――翻訳書名上では「東西融合〈涅槃〉思想」と意訳――について、本稿では、その対象を日本に絞ることで、二つのレベルからのさらなる探究を試みます。というのは、その米国人著者による西洋由来の視点をグローバルつまり東洋にまで適用した場合、どこまで妥当性を持っているのか。そしてそれをことに日本に適用することで、西洋視野と日本視野の両方を相互に照射し合って考察し、その有効性を吟味――今回はそのイントロダクションに――しようとするものです。