日本的伝統とは何であったのか

混迷極める今の世界での意義

「日本エソテリック論」その5

前回のテーマ「カミングアウトする日本」といういわば総論に続いて、今回は、東洋や日本の伝統を見直すとの観点をさらに掘り下げるため、いくつかの既存文献をひも解いてその各論としてゆきます。

また、本稿と平行して進めてきた、兄弟サイトの「フィラース Philearth」の「人生はメタ旅へ向かう」の議論とが、それぞれ結論部に近づくにつれて、論点が収れんしてくるような流れとなってきています。つまり、この「日本エソテリック論」という広く世界から日本へと絞り込んでゆく視点と、他方の「人生はメタ旅へ向かう」という個人の視点が日本から世界へと広がってゆく視点とが、いよいよ出会い、融合する発展となってきています。

なにやら、お互いが別々の山を登っていたつもりだったのに、その頂上で出会うこととなるような、結局、目指しているのは同じ山だったのかと、驚きとともに納得させられるような話です。

 

先達の足跡 

私はこの数年、日本伝統医学についてことさらの関心を深めてきています。むろんそれまでにも、時の必要に応じた注目はありました。それが、そうした体験を下地に、新たに広がる昨今の諸問題に遭遇する中で、この伝統医学に凝縮されている諸要素の持つ今日的意義を、ある意味で必然的に、新たにしてきているからです。

そしてことに近年の関心とは、すでにこれまでの本論考で重ねて述べてきたように、東洋、ことに日本の伝統に潜むひとつの可能性、つまり、西洋的発想中心の現代の世界モデルが行き着いている袋小路と見られる事態から脱却するための、重要なヒントが見出されてきているからです。

たとえば、なかば偶然に、あえて申せばセレンディピティの一例かのように、カナダのバンクーバーで鍼灸師を実践している古い友人と数十年ぶりに連絡がついて友誼が再開、その世界で発行されている右の専門誌『北米東洋医学誌(NAJOM)〔英日バイリンガルで発行〕の購読ができるようになりました。そしてそれを手がかりに、その一見古式ふんぷんたる分野ながら、いまや最も先端的と目されるべき実績を切り開いている様子を、遅まきながら、発見してきています。

そしてそれは、前回に述べた「カミングアウト」といった少々委縮した表出どころか、中国から日本へと浸透した2千年を越える東洋医学の伝統を土台に、いまや西洋医学の欠点をも克服しうる実績を重ねているものです。くわえてそれは、最も自然で人間的な視点に基づき、しかも学問的な論議に耐える緻密さも備えている、正々堂々たる有用性を――その“敵陣”の真っただ中でも――表出しているものです。

そのような観点で、私は、この東洋の伝統医学の将来が、いっそう輝かしいものとなることを確信しつつ、あらためてその核心に迫りたいと望んでいるところです。

 

貴重な先例との出会い

そのようにして、この専門雑誌の30年にわたるバックナンバーに目を通していて、一人のアメリカ人鍼灸師による、一種の俯瞰風論文に目が留まりました。

それは、日本人による自家薬籠ものの論文ではなく、米国医師資格をもつ米国人が東洋医学に出会い、さらにそれを修得し、現在では鍼灸師としてマサチューセッツ州ボストンで実践している人物による、専門外の読者を想定さえされている見解です。そうした意味で、私には、二重の壁を通り抜けた実に稀有な論証であると受け止められる文献です(スティーブン・バーチ、NAJOM, No. 1, 3, & 4)

さらに、その論文中、著者がそうした二重の壁の克服を導いたとして力説していることが、日本鍼灸界の先師、間中喜雄博士の業績です。そして私は、この論文に概説されている同博士の打ち立てた実践と理論の骨子に触れることで、自分が模索してきている伝統と現代科学との橋渡しをめぐる、重要かつ奥深い先例に出会っていることを覚ったのでした。

そこで、さらに詳しい内容を知ろうと同博士の著作に当ったところ、オンライン出版されている同博士の本(共著)『体の中の原始信号 中国医学とX-信号系』――これも専門外読者を想定――を発見、さっそく購入してダウンロードし、その見解の詳細に分け入ることとなりました。

この著書は、その帯に「生命体情報体系の原理解明にいどむ」とあるように、私が「〈情報〉」と表示して――IT系の「情報」と区別して――扱ってきている人間にとっての情報系を考えることに関し、まさしく同じ着想の探索の貴重な先例に接することとなったのでした。

それは私にとって、上記「袋小路脱出のヒント」をつかむ重要な手がかりとなるばかりか、時代や傾向にぶれない、しかも傾倒された焦点をもって、すでに二次大戦中の頃より見通されていた、多意義な見解の蓄積であることです。

むろん私はその道の専門家ではありませんので、NAJOM誌にしろ、本書にしろ、そのコンテンツの大半を占める治療技法等についてはまさに宝の持ち腐れです。しかし、分量としては比較的少ないながら、その理論面あるいは全体的特徴を述べた部分は、まさに私の重要引用対象で、以下のようにそれを取り上げるものです。

 

実用という原理

こうした経緯で、私が同書『体の中…』から学んだ理論や特徴面での知見には、以下の3つの要点が挙げられます。

第一は、論証を確立させてゆく方法論についてで、西洋式の根源要素を絞り込んで分析する還元論式の論証法への、思想上でも技法上でもの根幹的な代替手法です。

私はこれまで、自分の生きる実用面に反映したいもろもろな考えに関し、ことにいまだ検証の余地を残している最先端な科学的知見について、「待ったなし」の姿勢で参考にしてきました。つまり、生きることはまさに現在進行形で、その科学的論証の結論が出るまではとても待っていられません。そこで、生活の実際問題上にはそれほどの厳密さは必要なく、自分や周囲の体験を基にした確からしさを頼りに、たとえ仮説段階でもそれで充分役立つとする「実用優先の理論」に立ってやってきました。

そしてそれを妥当とする理由も、ただ持てる時間がないないだけではなく、科学論証の鉄則――分析による還元要素の特定やそれの実験を通じての反復される確認――を経ないものでも、経験的実績の積み重ねによる結果的な体系形成という方法も有効である、との直観的な自説を作ってきていたからでした。

それは特に、研究室での実験が可能な事象については、そうした科学鉄則も実行可能で有益です。しかし、そうした実験の不可能な事象――その典型的が私たちの人生で、それの集合である社会的な諸事象についてもこれに当たる――といった事ごとの立証の新たなツールとして、近年、「自然実験」という考え方に脚光が当てられ始めています。その意味で、私たちの人生も「自然実験」の一種なのです。

そこでですが、上の同書写真の帯の下端に「[経験則]主導型にみえる東洋医学は、実はみごとな[自然則]の上に立っていたのだ」とのキャッチフレーズが読めます。これもこの「自然実験」の考えの先駆的事例と言ってよい要所です。

つまり、同書に述べられている東洋医学の発展の経路には、過去2千年を越える経験事例の蓄積があって、それが今日でいうこの「自然実験」の先導的なしかも十分過ぎるほどの長さを要した実践をも意味して、その体系が古式ふんぷんどころか、むしろ最新的でもあるとの見直しがあって当然とも言える状況となっています。

すなわち、西洋還元主義の立場が厳密に維持してきた立証のための方法論について、この体験的実用尊重主義は、歴史的にも十分な手順と実績を踏み、かつ、一種の先取りさえ意味していたと解釈される、確かな対案を提示していることです。

第二は、IT世界ではない、生物の情報論です。

この本のタイトルにも表わされている「原始信号」という考えにあるように、自然界にはごく微弱な信号系があってこれが生物の働きに使われ、これが古代中国よりいわゆる「氣」と「経絡」のシステムとして説明されてきたものをそう現代用語に置き換えたものです。つまりこの「原始信号」とか「X-信号系」というのは、上記のように、私のいう「〈情報〉」に当たるものです。

東洋医学にあって西洋医学にないものが、身体を個々の要素の集合体とは見ず、一体のものと見るホーリスティックという概念です。そして、それを東洋医学に可能としてきているものが、この「原始信号」であり「〈情報〉」との概念です。もちろん今日では情報生命科学といった分野が登場してきていますが、それは最近のことで、東洋医学が持つ二千年の歴史といったレベルの話ではありません。

第三に、同博士は、このような考えに基づき、医療の実践のための手法として「陰陽バランス療法」というものを打ち立てています。それは病んだ患者を目の前にして、身体に起こっている病的状態をホーリスティックにどう理解してゆくかの方法論の体系です。

ちなみに、その手法を私自身の身体にも使ってみたいとは希望しますが、それには専門知識や技法の熟練が必要で、私のような門外漢にはちょっと立ち入れそうにもない精妙な世界です。

しかし、その専門家による医療実践においては、日本だけでなく、アメリカにおいても、現代医学に救われず、あるいはそれが「医源」となってさらに病み、東洋伝統医学によって危機を脱出できる事例も増えているようです。だからこそ、アメリカ社会という西洋医学の本拠地――いわば敵陣の真っただ中――のようなところで、NAJOMといった専門誌がバイリンガルで発行され続けており、また、多くの西洋人の鍼灸師が生まれているわけです。

つまり、上に見たような東洋伝統医学がそれに拠って立つ、非西洋的な方法――体験的実用主義――の有効性がゆえにであり、それが時代の要請にも応えていると考えられるわけです。

最後に、上記の「陰陽」というのは、我田引水に述べれば、今日でいう「二進法」の一種として見れると考えます。むろん「陰陽」は、デジタル理論のonとoffほどに機械的なものではないのですが、そこに何らかの二進法への変換関係が発見されてゆけば、東洋文明の知恵の近代的利用法も飛躍的に広がってゆくはずです。この点について、上記書では、易学と結びつける観点での言及はされています。

 

エソテリック空海論

冒頭で、本サイトの兄弟サイト「フィラース Philearth」での議論との収れんとの話をしました。

それは、以上に述べたような日本伝統医学にまつわる東洋の伝統に関連して、まず片やでは、人間にとってそのホーリスティックな医学的有用性という観点があります。そして他方では、科学と宗教の間に横たわる大きなギャップに橋を架けるという観点があります。この二者の収れんということです。

そこで、前者の医学的観点については上述の通りです。他方、後者のギャップの架橋という視点において、この「フィラース Philearth」では、それをすでに「空海論」として論じています。それは、その「理論人間生命学」中の「5.3 空海と量子理論」です。そしてその結論として述べた「想像力と因果律の対立」とその「宥和」というテーマにおいて、この今でいう「科学と宗教の間に横たわる大きなギャップの架橋作業」が実質的に、しかも1200年も昔に、行われていたというものです。

そこで、こうした二つのサイトで進展してきた二つのテーマ、すなわち、本連載のテーマである「エソテリック」と、その「空海論」を結合させて、「エソテリック空海論」という主題をここに提示します。

それは言うなれば、冒頭に述べた「結局、登山していたのは同じ山だった」と驚かされるその山とは、この「エソテリック空海論」であったと言うことです。そしてそれが、意味されるところの大きな方向としての、私たち人間が向かうべき方向ということとなりそうなことでです。

というのは、以前でも触れたように、エソテリックという言葉の意味には、「深淵な探索」という意味以外に、「密教」というものがあります。そしてその密教として、空海は真言宗を開き、その教えが今日まで1200年を越えて脈々と生き続けてきています。

そこでなのですが、それこそ「弘法さん」として日本人に親しまれてきているその伝統と、上述の日本伝統医学が今日まで地味ながら定着し、日本ばかりでなく西洋社会の人々の深刻な必要にすら応えてきているという、この日本にまつわって起こり、伝統として定着し、人々に共通して受け入れられてきていることの意味です。

私はそこにひそむ二つの要素――(1)西洋由来の還元論がもつ弱点の克服、(2)体験蓄積による“新科学的”な方法論の有効性――の存在に注目します。そして、すでに日本では、それを人々がかくも身近に実用化し、かつ、その有用性を世界に輸出してきているという実績が積み上げられていることです。

ここに私は、医学と科学をめぐる、日本人が地味ながら主体となって切り開いてきている、世界の誰にとっても不可欠な世界共通の文明的ツールを実務的に提供し始めていると考えます。

こうして冒頭で述べた二つのサイトの議論の収れんとは、どうやら、こうして地道かつ静かに築かれている相当に広い世界的な意味であることに行き着きます。そういう山の頂上です。

それは、前回の「「包摂と排除」を越えて」で結論した、日本の個々人がそれぞれに打ち立て始めている成果に加わる、長い時間をかけて、それこそ人々とその歴史が全体としてホーリスティックに打ち立ててきた、共通の成果に違いありません。

日本についてのネガティブな面ばかりが目に付く昨今ですが、こうした確かな流れと達成を見落としてはならないと思います。

 

【まとめ読み】

(その1)あり得るか「日本エソテリック論」

(その2)貴方の中にひそむ異星人痕跡

(その3)原爆はなぜ日本だけに落されたか

(その4)「包摂と排除」を越えて

(その6)「局地」的で「非局地」的な日本

Bookmark the permalink.