今号の目次

 

変わっていても

    

小網代の森と小径(撮影 2019年6月1日)

あなたを案内して初めて夏の小網代に来たのは

まだカニパトという名前ができたばかりの頃

あなたが暮らすオーストラリアの大地に比べて

なんてちっぽけな森か、とあきれていたのを

私は歩きながら思い出した 

 

今は立ち入れない短い浜辺で

アカテガニの放仔よりも

波頭に光る夜光虫の方が

あなたの記憶に鮮やかなことがおかしかった

私もよく覚えている夜光虫を

いつから見なくなったのか、もう分からない

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今号の「内生物圏」とのタイトルの訳読記事では、生物、ことに私たち人間の「内部圏」という考えを中心として展開されている。そしてそれは、西洋医学の理論的主柱をなしてきた病気の「細菌原因説」に代え、生体内部環境の悪化がその原因であるとし、加えて、前者は長く医学界を歪めてきたと論じるものである。 詳細記事

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内生物圏

「もし人々が、どんな食品を食べるか、どんな薬を飲むかを政府に決めさせたら、彼らの身体はすぐに、専制政治下に生きる魂と同じく、悲惨な状態になるだろう」――トーマス・ジェファーソン(1778年)

 

細菌説は、欧米諸国では非常に強力な信念体系であり、ドアの取っ手に触れることから、国の予防接種計画や世界的な撲滅運動に至るまで、日常生活に影響を及ぼしている。しかし、これらの「病原体」が一体何であり、どのように私たちに感染するのかについて、まだその基礎研究さえも行われていないとしたらどうだろう。微生物、特にウイルスの危険性について想定され、信じられてきたことの多くが、微生物学における根本的な新発見に照らして完全に覆されているとしたらどうだろう。画期的な研究は、インフルエンザ・ウイルスやCOVID-19〔コロナウイルスの国際名称〕の致死的性質と称されるものについて、かつて信じていたほとんどすべてが、制度化された迷信や神話に基づいている可能性があることを示している。
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三年ぶりに日本を訪れ、その自然美に触れた。いろいろ語るより、一枚の写真にそれをお願しましょう。

埼玉県両神山山麓にて(2022年11月16日)

私は「私共和国」の記事の中で、繰り返し、自然の中で運動してきた後の爽快感について書いてきた。その実感に間違いないないのだが、それがなぜなのか、はっきりとした説明ができなかった。

それが今回の「至高精神(ウーバーマインド)の実現」の中で、自然の持つ振動「シューマン周波数」によるものだと述べられている。そして、私たちの現代の生活が、そうした自然界の振動との接点を、どんどん失うものへと移ってきていることを警告している。

そうした関連も含めて、その「至高精神(ウーバーマインド)の実現」にご案内いたします。

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至高精神(ウーバーマインド)の実現

「我々は全て間違っていた!  私たちが物質と呼んでいるものはエネルギーであり、その振動が低いため感覚的に知覚できるようになったものだ。…未来の宗教は宇宙的なものである。それは個人的な神を超越し、ドグマや神学を避けるべきである。」 ――アルベルト・アインシュタイン

 

ここ数十年の間に、人類は過去40億年間、生命を支配してきた自然淘汰の法則を曲げ始めている。私たちは、周囲の世界だけでなく、自分自身をもデザインする能力を手に入れたのだ。このような新しい方向は、諸刃の剣でもある。私たちは、トランスヒューマニズムの未来が私たちをどこに導くのか、私たちは誰になるのか、という哲学的な議論をおろそかにしてきた。「至高精神(ウーバーマインド)」を実現するためには、過去の有益な実践を理解し、それを急速に変化する現代の科学的ブレークスルーに適応することが必要である。 詳細記事

ヒマラヤという〈世界の屋根〉は、人類にとっての極限への挑戦場の最たるものとなってきた。突出したクライマーたちにとっては、それこそ「世界初」と冠せられる偉業を成し遂げるための壮大な舞台であった。そうした数々の偉業によって照らし出されたこの地は、いまや、すさまじい数の「人生のクライマー」たちによって、さまざまな形の挑戦がなされている。その中に、私という76歳の老年者の、そこそこの挑戦があった。

チョムロン村(標高2170m)からの遠望

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ベースキャンプに無事到着

【第7日】デウラリ(Deurali 3200m)からアンナプルナ・ベースキャンプ(ABC 4200m)

この日の行程は、いよいよ大詰めの標高差千メートルの登り。高度もあって確かにきついのだが、天気もこの上なく、思わず風景に誘われて足取りも軽くなる。

 

日も西に傾くころABCに到着。眼前にアンナプルナ南峰の山肌が迫って圧倒される。

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アンナプルナ・トレッキングは、行程を一日早め、10月21日、無事、ポカラの町に帰ってきました。そのレポートは多岐に渡りそうなのですが、それを二テーマに絞り、三回にわたって掲載します。今回はその全行程を、写真でまとめたものの前半です。運よく、全行程、好天に恵まれ、まさしく、写真撮影には絶好の機会でもありました。

これがポカラの町から見わたせる、アンナプルナ山群の遠景です。中央がフィッシュテイル(6997m)。この角度からでは槍先のように見えますが、今後山中に進むにつて、その名のごとき姿を見せてきてくれます。

 

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今回の訳読は、結晶についてですが、それがあたかも生き物のような特性をもっているとの議論です。宝石や結晶を一種の「お守り」として持つ考えはありますが、そうした働きの科学的根拠を探るものです。

ではその「結晶」へご案内いたします。

 

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結 晶

「結晶の中に、生命の形成原理が存在するという明確な証拠がある。結晶の生命は理解はできないのだが、それにもかかわらず、結晶は生きている。」――ニコラ・テスラ

 

量子力学では、物質が同時に2つの場所に存在できることが、新しい発見によって確認されている。この「量子もつれ」によって、何百万光年も離れた粒子でさえも、物理的な接触なしにつながっていることができる。これはまた、時空を操作できることを意味する。空間は他の物質と同じように、ゆがんだり形作ったりすることができることがわかったのだ。このテレポーテーションの能力は、新しい超伝導物質の利用によって現実のものとなりつつあり、異なる周波数によって操作することも可能である。重力に逆らう表面素材は、航空輸送に利用されようとしている。この共振の科学は、物質界に出現した超次元的存在の理解を深めている。
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今日は10月6日、ここカトマンズは朝からけっこう強い雨。

4日にシドニーを立ち、シンガポール、クアラルンプール(KL)をへて、昨夜遅く、当地に到着。

 

カトマンズ行きのBatika Air機。尾翼のデザインがいかにもネパール風。(クアラルンプール空港にて)

 

 

 

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今回の訳読は、物質の素である分子や原子レベルへの、従来の知見を越えた、量子論レベルの、しかもそれを、古代からの錬金術由来の知見をも圏内に取り込んだ見方の展開です。この「エソテリック・シリーズ」は、思想的なエソテリックを主眼としてきたのですが、ここでは、それを物理学のしかも物質そのものの考察についての「エソテリック」な議論です。 詳細記事

 

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異金属

「最小の粒子から最大の銀河の形成まで、電気回路の網は、自然界のすべてを結びつけ、統合している。それは、銀河を組織し、星にエネルギーを与え、惑星を誕生させ、私たちの世界では天候を制御し、生物に活力を与えている。電気宇宙には孤立した島はない。」――デービッド・タルボット

 

物質は外見を変える。古典的な科学では、物質の三相は固体、液体、気体であると教えられたが、最近ではプラズマを含む他の形態も含まれるようになった。固体物質とは、原子、分子、イオンが規則正しく配列されたもので、結晶であることもある。古典的な結晶学では、結晶は3つの主軸に沿った並進周期性を持つ原子の3次元的な周期配列と定義される。それ以外の固体物質は非結晶と呼ばれるが、その区別は必ずしも明確ではない。金属、鉱物、合金は結晶性であり、ガラス、プラスチック、セラミックス、ゲルなどは非結晶性である。結晶性物質の一片は結晶と呼ばれる。
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日本では、9月19日は「敬老の日」であったようです。しかしここオーストラリアでは、父の日や母の日はあっても、老いを趣旨とする祝祭日はありません。そうした文化や制度上の扱いの違いのある「敬老の日」ですが、その日にちなんで本記事は、ほぼ十年前に掲載したシリーズ記事「老いへの一歩」への閲読データを用いて、読者におけるそうした「老人イッシュー」への関心動向を改めて分析しました。私は、ブログ発行は、蓄積された読者反応データの分析を通じて、書かれた記事のネット社会による評価度と、逆に、特定記事を設問にみたてたある種の世論調査という、二面の働きをなしえると考えています。本稿は、そういう二方向の意味を探った分析結果です。 詳細記事

量子理論という最先端の科学中の科学が、「死後の世界の存在を証明」と聞けば、誰しも「本当か」と大いに好奇心を刺激されるに違いありません。

たとえば、これをシンクロニシティと言うのでしょうか、今回の訳読中、「脳は必要不可欠か」とのセクションにやってきた時でした。それはこう説いているのです。

輪廻転生が示唆するように、精神は決して消滅せず、死はそう見せかけられた再誕生である。

この「死はそう見せかけられた再誕生」とは、実は、私がこれまでに繰り返し述べてきた「死という再・誕生」という考えと全く同じです。 詳細記事

 

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未来の頭脳

「拡大した意識が、決して元の次元に戻ることはない。」
――アルベルト・アインシュタイン

 

地球社会が猛烈なスピードで変化していく中で、私たちの意識も変化している。特にテレパシーやサイコキネシスなどの超能力は、超心理学の領域に属する現象である。これらの能力は、シャーマニズム文化圏の人々、東洋の慣習の信奉者、そして古代の巨匠を研究する西洋の人々に観察することができます。これらの能力は、ヴェーダやヨガの経典から、イエス、モーゼ、ブッダ、ミラレパ、モハメッドなど、古代の文献にも見受けられる。 詳細記事

私見を言わせてもらえば、これまでの内燃エンジンの普及にせよ、今日のCO2問題がゆえの電気自動車の奨励にせよ、その深部に、新技術の主導権争いをめぐる、うさん臭く巨大なトリックがあるのではないかとの見方には、捨て切れないものがあります。つまり、たとえその技術が副作用を伴おうと、いったんその勝者の地位さえ獲得すれば、あとは独り勝ちを奔走し、汚染問題なぞ二の次です。どうもクリーンエネルギーの議論には、異常気象をテコに用いた技術のヘゲモニー争いの、石化エネルギー陣営を出し抜かんとする下心が見え見えです。つまり、内燃エンジン技術に遅れをとった勢力にしてみれば、地球温暖化は救いの神です。ともあれ、環境問題とはそもそも、もっと根の深い問題のはずです。 詳細記事

 

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すべての振動数は、一つの神的な意識の源から発せられている。私たちは、自身の無知によって催眠術をかけられ、見えない支配者に操られている時代に生きている。偽りのマトリックスから脱却するために、私たちはまず心を解放しなければならない。
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本章を読んで、私は改めて、量子理論に潜む、その隔世的なダイナミズムを見出しています。量子理論の可能性については、私の理解できる範囲ではこれまでにも述べてきましたが、それはどこか、突っ込み不足感は拭えないものでした。しかし、ここで改めて、その着眼については誤ってはいなかったと、自信を新たにしているところです。 詳細記事

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「私は、意識を基本的なものと考える。物質は意識から派生したものと考えている。私たちは意識の背後に回ることはできない。私たちが話すもの、存在するとみなすものはすべて、意識を前提としているのである。」――マックス・プランク (1858-1947、量子論の理論的提唱者、1918年にノーベル物理学賞を受賞)

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これまで本サイト掲載の「いちばん若い『昭和人』」や「国際看護師オープンキャンパス」の記事でおなじみのR.Y.さんこと山本瑠璃さんが、今度は、左図キャリア講座で、8月28日(日曜)午前11時(日本時間)より、国際看護師の一人としてオンライン対談します。参加希望の方は、以下で予約(無料)を。https://medistudio.com/career/20220828

 

こういうのを「キセル読書法」とでも呼ぶのでしょうか、両端だけを読んで、中間は、少なくとも今は、読まずにいる読書方です。今回の訳読は、そういう手法を用いて、前回の「イントロダクション」から、中間をはしょって、いきなり「結語」です。

というのは、読書をする場合、当たり前のことながら、ともあれまず最初に、一冊を選ばなければその先に進めません。邦書の場合なら、なんとか一定の選別眼があるようで、お目当ての本を選ぶにさほどの難しさはありません。ところが洋書の場合、その選別眼が働かず、また、“さっと読み”力にも格段の差があって、本格的な読み始めの前に、もうひとつのプロセスが避けられません。それがこの「キセル読書」です。 詳細記事

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「フィクションは民衆にとって必要なものであり、真実はその輝きのすべてを熟考できるほど強くない人々にとって致命的なものとなる。実際、下劣な大衆と崇高な知恵の間にどんな共通点があるのだろうか。真理は秘密にされなければならないし、大衆はその不完全な理性に比例した教えを必要とする。」――アルバート・パイク(1809-1891)〔弁護士、 フリーメイソン、 南北戦争 時の 南部連合 の将軍〕

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ブラッド・オルセン著

 「東西融合〈涅槃〉思想」を越えて

――牢獄惑星からの脱出――

 

も く じ

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ご賢明な読者にあられては、現在進行するアメリカの諸事態は、市民の命の紙切れ同然な扱われ方から、これが名だたる大国の決断かと思わされるに至るまで、かつてその単独覇権を誇った雄姿も、遂に、衰退の体をさらすに至っているとの認識を否定できないで居られることと拝察いたします。

むろんこれは、ただアメリカに限ったことではありませんが、そうして抱かれるその印象はむろん軽率な思いではないにしても、やはり、ことアメリカ――まして日本はその属国の位置を忍んでいる――のことがゆえ、もっと踏み込んだ具体的エビデンスをもって確認したいところです。 詳細記事

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「大衆の組織化された習慣や意見を意識的かつ知的に操作することは、民主主義社会における重要な要素である。この目に見えない社会の仕組みを操る者は、目に見えない政府を構成し、我が国の真の支配者である。…私たちは支配され、私たちの心は鋳型にはめられ、私たちの好みは形成され、私たちの考えは誘導され、その大部分が、私たちが聞いたこともないような人たちによって支配されている。」――エドワード・バーネイズ〔訳注〕『プロパガンダ』

  • 〔訳注〕(1891年11月22日-1995年3月9日) オーストリア系アメリカ人。「広報の父」として知られる広報活動とプロパガンダの専門家。ジークムント・フロイトの甥。

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先の記事「連載《豪州「昭和人」群像》 第2回でご紹介した国際看護師のR.Y.さんが、左にご案内の「国際看護師オープンキャンパス」に、ゲストスピーカーとして登場します。参加のお申込みはこちらへ

 

 

 


 

著者ブラッド・オルセン氏からの早速の快諾をいただき、今回より、別掲のように、「エソテリック・クシリーズ」第3巻『「東西融合〈涅槃〉思想」を越えて:牢獄惑星からの脱出』(原題 Beyond Esoteric : Escaping Prison Planet)の邦訳の連載を開始します。

すでに第1巻『「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性』と第2巻『現代の「東西融合〈涅槃〉思想」』は邦訳済みで、本サイトに掲載されています。

そもそもこの「エソテリック」とは、人間の真実をそのもっとも奥義にまで掘り進んで探るものです。よってこのシリーズには、その奥行きの深さはもちろん、今日社会での主導をなす見解に、深奥な疑問をも突き付けるものです。したがって、主導派からは逆に「陰謀論」といった“八つ当たり”的な反応をも起こさせています。そうした脈絡では、いわゆる「対抗言説」と呼ばれるもののひとつと見なせるものです。 詳細記事

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「アメリカの衰退は、巨大な影響力を持つテレビ局のコンテンツの実質が徐々に衰退していることに最もよく表れている。30秒のサウンドバイト〔訳注〕(現在は10秒以下)、最小公倍数的な番組、疑似科学や迷信に関する真実めいたプレゼンテーション、そして特に、無知に対する一種の賛美。この記事を書いているいま、アメリカで貸し出されているカセットビデオの第一位は、映画「Dumb and Dumber」である。「Beavis and Butthead」は依然として、若い視聴者に人気がある(そして影響力がある)。つまり は、勉強や学習は――科学だけでなく、どんなものでも――避けるべきものであり、望ましくないものであるということだ。」――カール・セーガン (1995年) 『悪魔に取り憑かれた世界:闇の中のロウソクとしての科学』

  • 〔訳注〕サウンドバイトは、長い音声から抽出された声または音楽の短い部分であり、多くの場合、全体の作品を宣伝または例示するために使用される。ジャーナリズムの文脈では、サウンドバイトは、話者が言おうとしていたことの本質を捉えた短いフレーズや文章によって特徴付けられ、情報を要約し、読者や視聴者を誘惑するために使用される。この用語は、1970年代に米国のメディアによって作られた。それ以来、政治家はますます彼らの立場を要約するためにサウンドバイトを採用している。

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【本書への書評】 詳細記事

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「今 のあなたの行動は、すべて外部に波及し、すべての人に影響を与えます。あなたの姿勢は、あなたの心を輝かせることも、不安を伝えることもできます。あなたの呼吸は愛を放つことも、部屋を鬱屈で濁すこともできます。あなたの視線は喜びを呼び起こすことができます。あなたの言葉は、自由を呼び起こすことができます。あなたの一挙手一投足が、心と意志を開くことができるのです。」 ――デービッド・ディーダ(1958―、米作家)

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前号にそのレポートを掲載しましたように、「老若共闘」への具体的歩みとして、若い世代との交流が始まっています。それは「時空トラベル」と呼ばれる世代間の隔たりを旅する行為です。ことにそこには、その隔たりをつくる人生体験の長さの違い、つまり、時間という“距離”がもたらすものを、何によって、どのように互いに交換できるのか、そういう、おそらく他の機会では絶対にありえない、「時空世界」を実際に体験できる機会があります。そのような、言わば人間としての究極の「トラベル」を通じて、そしてそれをもってしかやり取りできない、過去よりの《人生の知恵》と、未来という《新品の時間》との融合が可能となります。 詳細記事

4年前に翻訳出版を完了した「東西融合〈涅槃〉思想」二部作に、昨年その第3巻が追加出版され、本シリーズは三部作建てとなりました。

その最新巻は、Beyond Esoteric: Escaping Prison Planet と題され、これをもって完結巻となっています。邦訳すれば、『「東西融合〈涅槃〉思想」を越えて:牢獄惑星からの脱出』となるでしょう。

今、その邦訳版の本サイトでのウエブ出版を検討しており、なんとか、三部作の邦訳完結としたいと考えています。ただ、もし手掛けるとなると、500ページに近い著作でもあり、相当の労力と期間を要すこととなり、他の計画との勘案が必要となっています。

その決定しだい、著者の Brad Olsen と本サイトでの出版承諾の交渉を行う予定です。

なお、出版の完了したその二部作は、本サイト「両生図書館」より閲覧できます。

 

「私の健康観」の数バージョンを通して述べてきているように、自分の健康を、地球環境と連続している《自分環境》の産物と考えるならば、私にとっての気候変動問題との取り組みの核心は、自分の健康を“持続可能”に維持増進する――少なくともそれを起点にする――以外に、親身になりうる関わりなどありえない、と考えるものです。

健康という、誰にとってものもっとも切実な財産の保全が第一に、そして何よりも本気に取り組まれることなくして、CO2排出ゼロ政策が前面に出されてくるメリットなぞ、いったい何なのでしょう。それとも、私たちの健康と地球温暖化の問題は、まったく別個の問題とでも言いたいのでしょうか。それこそ、地球も私たちも、共に発熱しているというのに。

そういう意味で、目下の私のスローガンとして、「ヘルスファースト」を掲げたいと思っています。 詳細記事

English Version】 

「私共和国」に掲載してきた《四分の三プロジェクト》の計画作業がようやく煮詰まって、その骨格が《時空トラベル》との呼び方で形をなしてきました。それを契機に、今回よりサブタイトルを「《時空トラベル》時代  =旅立ち編=」と改称し、その進捗具合をノートし始めています。その初回は「《時空トラベラー》という過客」とのタイトルです。

そういう次第で、いよいよここに始まる《時空トラベル》なのですが、何やらSF風な響きのあるそのトラベルとは一体どういう“旅”なのでしょう。まさか、タイムトラベルのことを言っているのではないでしょう。

ところがです、私は本気で、これが、まさにSFで言うタイムトラベルにも通じるその第一歩と考えています。つまり、タイムトラベルはこうして実現するかも知れないのです。 詳細記事

本稿の目的は、二つの視点間に橋渡しをするものです。そしてその二つとは、このサイト『両生歩き』の「私共和国」で述べられている《老化に伴う「性的マイノリティ」化――「《「男の急所」の料理法》その2」――と、兄弟サイトの『フィラース Philearth』で述べられている《人生という「実験」》――「理論人間生命学」第2部――です。そしてこの橋渡しとは、言わば、私たち自身に関する微視的視野と巨視的視野、あるいは、現実的視野と理論的視野のそれぞれの二者間を関連付ける架橋との意味合いを持つものです。 詳細記事

English 英語、Русский (язык) ロシア語、Українська версія ウクライナ語】 

 

私はいま75歳で、1946年生まれです。つまり、「先の戦争」が終わった翌年生れの、直接の戦争体験はないものの「焼け野原」世代です。そしてその「先の戦争」とは、日本が世界を相手に戦うこととなった「アジア・太平洋戦争」です。

そういう私が、ほぼ十年前、〈「日本人であることの不快感」 と、その解消〉との文章を書きました。その「不快感」とは、自分がその日本人であることによって抱いてきたものです。つまり、その戦争のもたらした加害者意識と被害者意識という“不快”で“ゆえ”もない二者の同居について書いたものでした。

それに続くかたちのこの文章は、「戦時中」にある片側を、いずれであろうと、「味方もしくは敵」として選び始めることの際限のない危険を言わんとするものです。

そして結論は、私たち人間同士に、殺し合うほどに敵視しなければならない理由なんて、もともとありはしない、というものです。 詳細記事

投稿者のご都合で休載します。

最近、とある機会を得て、日本伝統医学を根本的に再認識し、その可能性に目覚めさせられる体験をしました。しかもそれがさらに発展し、この世界を認識する方法論について、それがこれまでの〈科学という方式〉に“対案”をもたらす可能性を秘めているのではないか、そんな発想へのヒントとさえなっています。 詳細記事

この記事は3月26日に繰上げ掲載した記事の再掲です】      

本《豪州「昭和人」群像》は、この第6回を持って最終回とします。その結論回というべき今回は、「豪州昭和人」としては、一見、極めて稀有な事例を取り上げます。ただし、それは一見上ではそうですが、実はその根底で、もっとも昭和の昭和たるところを体現していると考えられるケースです。というのは、これまでのストーリーは、むろんそれなりに固有ではありましたが、一程の同類の中から、特色あるケースをそれぞれ取り出したといった多様性にフォーカスしたそれぞれでした。ところが今回のケースは、間違いなく異色で独特なのですが、しかしそれは、誰にも、どこにでもある、広く共通した身の回りの要素が、ある特異な条件に置かれれば、そのようにきわめて濃縮されて結晶するかも知れないといった、通底する普遍性を示唆しているケースです。

ただその物語の冒頭でお断りしておきたいことは、本稿は、これまでの取材をベースにした実話物語というより、「語り部」がそうした作業を下地に組み立てた“フィクション風”作品であることです。

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投稿者のご都合で休載します。

 【撮影およびコメント 山本 哲朗】

名前:ユキヤナギ

撮影場所:赤塚公園

コメント:妻逝きて百日近し雪柳  松崎鉄之介

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連載《豪州「昭和人」群像》も5回目となる今回は、世代としては私「語り部」に近いながら、なかなか世間離れした“お嬢さん”に登場していただきます。といっても、お高くとまったという意味ではなく、九州の地元の有力な家柄にあって無垢奔放に育ちながら、一種庶民的雰囲気をお持ちで、それでいて普通にはちょっとできない人生体験を過ごしてこられています。むろん本記事が取り上げるように今は「豪州昭和人」のひとりなのですが、他のケースとは一味ちがう、両国関係のちょっと上層社会同士での奇遇な出会いの末に実った、日豪の国を分かたぬ新たなきずなのストーリーです。 詳細記事

 【撮影およびコメント 山本 哲朗】

名前:ウメ

撮影場所:小石川後楽園

コメント:春昼や魔法の利かぬ魔法壜   安住 敦

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これまで私は、自分の「健康観」について、三段階――「私の健康観」、同 v. 2同 v. 3――にわたり述べてきました。それらはどれも、それまでの自分を振り返って、「健康」との視点での捉え方の発展をそう記録したものです。その結果、「v. 3」では、そうした「健康観」はもはや「人間観」に至っているとの認識を述べました。そこでそれを、さらに今後へと延長しようとするなかで、あらたな視野が開けてきています。それは、視点を分化させ、タイトルのように「この生命体のオペレーター」と表わせる視野です。より正確には、「この生命体のそれ由来のオペレーター」と記すべきもので、この「生命体」と「オペレーター」との二者は、物質的に後者は前者に由来していながら、その働きは前者を越えていると観るものです。言い換えれば、「オペレーター」はその存在を「生命体」に依存しながら、その働きはそれとは異なるものにも依存している、あるいは影響されているということです。すなわちそこで、そのプラスアルファたる「異なるもの」とはいったい何かということとなります。 詳細記事

連載《豪州「昭和人」群像》4回目の今回は、これまでの三者の、それ相応に異端な事例とは趣を異にして、年齢的にも状況的にもそのあい間で体験された、良き日本と良き豪州の〈ダブル良いとこ取り〉が成し遂げられたケースを取り上げます。つまり、本連載第1回の末尾に述べた「二つの繁栄を享受」できたとみられる事例です。そこでご本人も、「ほんとうにラッキーだった」と語っておいでです。しかも、ほとんど普通な生活の中でのストーリーであり、ことさらに変わった生き方を選んだ結果とはとても言えません。失礼な言い方になるかも知れませんが、ごく平均的な生き方をされてきた、その結果の実りです。そこでもし、こうした普通で当たり前な発展が、特異なケースに見られるとするなら、それは、その当人側の問題と言うより、それほどまでの、まわりの環境の違い(あるいは一種の歪曲視)の問題です。確かに「ラッキー」なストーリーには違いありませんが、不相応な幸運を射止めたような話などでは決してないでしょう。 詳細記事

今回取り上げる《豪州「昭和人」群像》の3人目は、実はもう、豪州にはいません。すでに日本に戻って6年、「はつらつ」とした日々を送っています。ただし、その「はつらつさ」には、あたかも日本と豪州のアマルガムとも言うべき、そうとうな複雑さがこもっています。というのは、オーストラリアで得た広がった体験をもってしても、自らを「無知層民」だったと覚ることとなった自分の生まれ育った境遇がゆえに、戻った日本社会で暮らす困難さを噛み締めながらのそういう前向きさであるからです。今回は、そうしたもはや日本発のストーリーですが、豪州滞在経験が決定的な転機となった「昭和人」という意味で、このシリーズに取り上げるものです。 詳細記事

投稿者のご都合で休載しています。

 

本連載「豪州『昭和人』群像」の初回では、群像のうちの76歳の最古参を取り上げました。この第2回では、逆に、最も若い「昭和人」に登場してもらいます。昭和は64年(1989年)を平成元年として、その年号を閉じました。今回取り上げるR.Y.さんは、4月の誕生日上では、その平成元年生まれで、今年で33歳となる女性看護師さんです。いわば「昭和」と「平成」の境界上に位置する世代です。そのR.Y.さん、この新年早々、オーストラリアの永住ビザ取得の連絡を受け取り、いよいよ、長年の準備をへて、めでたく豪州生活の本格的な門出を果たしています。しかもこの永住ビザ、はじめは、そこまで行けたら最高との、ほとんど“願望”ほどのターゲットだったと言います。それが実際に取れてしまったわけで、そんなことが本当に起こったのでした。 詳細記事

今号から再開の予定でしたが、引き続き、投稿者のご都合でお休みします。

『私の健康観』 v.2」を発表したのが一カ月前でしかも13年ぶりでしたから、もうその「v.3」とは、ちょっとバージョンアップのペースが早すぎるかもしれません。それに、バージョンも3までに上がってくると、もはや「健康観」の域を越えて、一種の「人間観」と言ってもよいレベルほどに入ってきています。というのは、その「健康観」の延長上で、私は、《ふたつの意識》を発見することとなったからです。

そこでまず手始めに、そのふたつを「A意識」と「B意識」と呼ぶこととします。

A意識は、自分の意識の中でも原初的なもので、個別的あるいは没我的、刹那的、フラジャイルで、どこか依存的なところがあります。主観的で「局所的」〔後述〕と言ってもいいでしょう。

B意識は、そういう自己中心的な意識を外から一定の距離をい置いて見る意識であり、ここまでくるには相当な経験を要し、むろん自立し、客観的で「非局所的」〔後述〕な意識です。位置感覚的には山頂にでも立ったような高所からの意識で、自分の意志すらその下にかしずかせるような、「神的」と言っても大げさではない意識です。 詳細記事

日本“本国”では、いまや「昭和」が、レトロ趣味やら、あるいは逆にそれが新鮮と、「平成」越えた「令和」の話題をさらっているようです。そんな本国トレンドを知ってか知らずか、ここオーストラリアでは、当地に根を下ろした「昭和人」の特徴ある群像が見られます。それは、昭和世代にあたる人たちの見せる、この地での生きざまの《はつらつさ》で、あたかも、本国の同世代との思いもよらぬコントラストをなしているかのようです。昭和世代といえば、今年、上は96歳から下は33歳にいたる広い年齢層の人びとを指します。それに「昭和」人気は、誕生年号の「昭和」以上に、「昭和」が醸し出す特異な息吹にもよっているようです。今回より始まるこの新たな連載は、そうした昭和世代のうち、あえて豪州の地を選んで定着したさまざまな人たちを取材し、その《はつらつさ》の源泉を探ってゆきます。あえて名付ければ、「現代“ディアスポラ”日本人」の豪州版実像です。〔「ディアスポラ」の語源は、故国を後に世界に四散したユダヤ人のこと〕

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投稿者のご都合でお休みします。2月7日号から再開の予定です。

投稿者のご都合でお休みします。

下表のように昨2021年の運動記録を集計しました。

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