こういうのを「キセル読書法」とでも呼ぶのでしょうか、両端だけを読んで、中間は、少なくとも今は、読まずにいる読書方です。今回の訳読は、そういう手法を用いて、前回の「イントロダクション」から、中間をはしょって、いきなり「結語」です。
というのは、読書をする場合、当たり前のことながら、ともあれまず最初に、一冊を選ばなければその先に進めません。邦書の場合なら、なんとか一定の選別眼があるようで、お目当ての本を選ぶにさほどの難しさはありません。ところが洋書の場合、その選別眼が働かず、また、“さっと読み”力にも格段の差があって、本格的な読み始めの前に、もうひとつのプロセスが避けられません。それがこの「キセル読書」です。
つまり、急きょの策とでも言うべきこの読書法は、まず手始めに、イントロと結論という、キセルの「吸い口側」と「火付け口側」を先に訳読――いったん日本語に訳して精読――し、その本の議論の「起」と「結」を正確につかんでおくというものです。言わば、そこまでが本の選択過程で、全面的な読書なり訳読の開始は、その正確な把握の結果次第というわけです。
ただ本書の場合、ご案内のように、すでに既刊の2冊を訳読済みで、シリーズ完結巻の本書には、その選択準備は必要ありません。つまり今回の「キセル読書」は、私自身の必要と言うより、この本に初めて出合う読者への案内情報としてです。
そういう前回の「起」と、今回の「結」を持つ、本書というわけです。ご関心のほどはいかに。
そこで少々コメントをしておきますと、この「結語」部では、「訳読コメント(その1)」で触れたように、〈ある種の「神の視点的な断定観」と、それに関連する「愛」という概念についての特異な言及〉に目がとまります。
これは私見ですが、本書あるいは本シリーズがメインテーマとしている人類の究極の課題という視点に至っては、おそらく、日本人がそれを述べれば、西洋人の目には、仏教臭く受け止められるだろう表現に傾くだろうと同じく、一種のキリスト教臭い言い回しに目がとまります。つまり、洋の東西のいずれだろうと、その歴史がもたらす表層的色彩は避けられない、その最終の結論です。
そのような東西の表現手法に違いはあるとしても、その表層の背後には共通性が存在するのかどうか。その深淵なテーマをめぐって、日常次元からは最も遠いことながら、分断のない世界観が追究されているものと読み取れます。
私も、『フィラース Philearth』の「理論人間生命学」において、そうした視点――「究極の合流」の章の〈「東西の融合」への到達〉参照――を主題としており、ここに、方向としての《収れん》を見ることができると捉えているところです。
ではその、「結語」部へご案内いたします。