どういう「心の持ちよう」か

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(番外号)

『Modern Esoteric』の訳読をぴったり昨年末に終えて、先の『Future Esoteric』と合わせた二部作は、『「東西融合<涅槃>思想」の将来性』(2017年3月)と『現代の「東西融合<涅槃>思想」』(今回)となって訳読が完結しました。そしていま、私はある感慨と読後感を抱いています。それは、4年前にこの訳読作業に着手した際、両原題のキーワードである「Esoteric」を「東西融合<涅槃〔ねはん〕>思想」と意訳〔「「ワームホール」体験の文末参照」〕した、そのほとんど直観的な《着眼》に関わっています。つまり、「<涅槃>思想」は果たして「東西融合」の基軸概念となりうるのか、との視点です。言い換えれば、この意訳は正鵠を得ていたのかとの反省です。
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新たな生き方の一つのモデル

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その83)

今回をもって、本書『Modern Esoteric 〔現代の「東西融合〈涅槃〉思想」〕』の訳読を完結します。そして、『Future Esoteric〔「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性〕』と合わせて、これら二部作の一連の訳読についても、2015年1月の着手以来、ほぼ4年間にわたった作業を終えようとしています。 詳細記事

「心の持ちよう」の問題

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その82)

率直に言って、私は、このブッダ(仏陀)の章の「悟り」とか「ブッダは80歳で他界」の節を読みながら、昨年のクモ膜下出血による臨死体験や、今年のヒマラヤのトレッキングの際の心の動揺やその静穏化の体験などを思い出しています。

そうした一連の体験を、煮詰めて要約した言葉にすれば、《すべては心の持ちようの問題》と、この章が書いているように、言えてしまうから不思議なのです。 詳細記事

「ローカル」という共通項

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その81)

もし私が「ブッダ(仏陀)」と題する本章をもう二十年も前に読んでいたなら、私はその言わんとしていることを理解できなかったか、相当に違った思いで受け取ったことでしょう。しかし幸いにも、私はこの章を、この今になって読むめぐり合わせとなり、それゆえ、それをよく理解しながら、楽しみさえしつつ、訳読できています。それほどに、いわゆる人生経験を必要としたということなのでしょうが、ことにこの数年の経験は、それを決定的に分けてきました。
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東西融合への確かな歩み

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その80)

前回で私は、著者のブラッド・オルセンに面会したことがあると書きましたが、本章を読んで、彼の人となりに、いっそう深く親しめる思いを抱いています。

彼は、かつて、英語教師として日本にいたことがあるのですが、その時の体験をこの章に次のように表現しています。 詳細記事

著者の肉声

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その79)

私は一昨年にアメリカ西岸を訪れた際、サンフランシスコに立ち寄り、著者のブラッド・オルセンにお会いしました。ただ、その際、時間が短く、歓談も限られ、彼の人となりを理解するには余りに短時間でした。

本章は、そうした私の不満を埋め合わせて十分な記述であり、本章冒頭で、彼が「一人称で語る」ことの必要を感じていると述べているように、ご本人も、その欠いた部分の埋め合わせの重要さに気付いていたようです。 詳細記事

“宇宙植民地”たる地球

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その78)

去る6月18日、トランプ大統領が国防省に対し米国宇宙軍の創設を指示した、との報道がありました。報道の限りでは、この「宇宙軍」とは、もはや武器開発の場が地球を囲む宇宙空間におよんでおり、そこでの制空権ならぬ、“制宙権”の確保を意図した構想であるかに伝えられています。つまり、戦争の相手はまだ地球人同士で、ただその場が、近宇宙に拡大されてきているとの想定です。

だがその一方、今回の「ユートピア前夜」の章――ことに「監獄惑星からの脱出」――に含められている、地球は地球外生命(ET)の植民地との議論は、すでに地球は、ETによって、それが分からぬほどにも巧みに占拠、支配されているとの設定に立つものです。つまり、SF映画「スターウォーズ」のごとき対異星人戦争もありかねぬ現実の世界です。しかしこうした議論は、おおかたの向きには、荒唐無稽過ぎる話として唾棄される分野であるでしょう。 詳細記事

離身体験と文章表現

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その77)

結論から先に言うと、「離身体験」と「文章表現」とは、同じものとは言えないまでも、同列の行為ではないかと考えられます。むろん、この両体験は、日常行為としては大いに隔たったもので、後者に比べて前者は、極めてまれな非日常体験です。にもかかわらず、それを「同列」とするのは、いずれも、その体験者を、人生の一種のよどみの底から救い出し、まるで羽根でも生えたように、空から鳥の目で地上の自分の姿を見渡すに等しい効果があることです。 詳細記事

「おばあちゃん」を思い出せ

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その75)

今回の結末に述べられている、「おばあちゃんが食べていなかったものを食べるべきではない」とは、まさに金言です。

おばあちゃんが食べていた野菜――虫食い痕が目立っていた――、あるいは、おばあちゃんが食べていた魚――養殖物では決してなかった――は、買い物や下ごしらえに手間は要したけれど、食べて危険と警戒されるものではありませんでした。 詳細記事

身に迫る、信じ難い企み

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その74)

現在、日本では優生保護法によって断種された人たちが、国を相手とした裁判を行っています。ヒットラーも、ナチ政権下で、同様な考えを実行し、その最たるものが強制収容所と人種抹殺です。

そうした惨いことがなぜ、どのように実行されたのか、それが、食品の安全と背中合わせの問題であるとは、ちょっと関連付けては考えられないことです。 詳細記事