「対抗言説」か「偽史」か

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その63)

 いきなりですが、「偽史」という言葉があります。その意味は、事実に基づかない偽物の歴史ということですが、「歴史は嘘を言う」との認識から言えば、あらゆる歴史は偽史ということになります。また、この偽史という用語が使われる場面では、既存の主流歴史観に対する新たな、あるいはそれをくつがえす見解を、それを排する意図から、偽史という断定を与えて切り捨てる手法として使われていることが多いようです。たとえば先日、ウエブ上への転載講座で、ピラミッド建設の謎に関し、宇宙人の関わりという見方に対し、それを妄想として、偽史だと断言しているものがありました。 詳細記事

要人火星移民計画

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その62)

以前にもコメントしたように、本書の議論のいくつかは、それが本当ならそれはとんでもないことだ、と思わずうならされてしまう、自分の常識を大いに揺さぶられる話の色々です。

しかし、たとえば日本の3・11大震災の、ことに放射能汚染の実状を真剣に考えてみる時、日本政府は確かに、失態はおろか、完全に事実を隠蔽し、まして将来への責任なぞ完璧なまでに放棄している、これまた常識を大いに勘ぐさられる行為が見られます。そうしたことから判断しても、世界の隠された話は、私たちの常識なぞ意に介さないどろころか、ナイーブなものだとあざ笑っているかの状況があることを前提とせざるをえません。 詳細記事

物と意識の区別がつかない

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その61)

最近私は、ますますと確信をもって、科学界では、天地をひっくり返すかの新知見が切り開かれつつあると受け止めています。先に紹介した「科学を脱皮しつつある科学」でもその要点が述べられているように、目下、量子理論は、物体についての考えを根本的に変えつつあります。それをひとことで言えば、物と意識の区別がつかない、ということなのです。 詳細記事

どうして「神話」で始まるのか

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その60)

私たちの歴史のその起源について、たしかに、それはいかにも遠い昔のことではありますが、それを伝えるストーリーに関し、なんともあいまいで、ぼやけ過ぎていて、なにやら怪しい話だと感じないではいられません。歴史をさかのぼって行くと、とどのつまりは「神話」にゆきついて、話はいかにも現実味を欠く、文字通り「神がかった」奇想天外な展開となります。しかもそれは、世界のどこの国でも大した違いはなさそうです。神話で始まらない国と言えば、アメリカとかオーストラリアとか、近世においての移民という血生臭い起源をもつ過度に現実的な国くらいで、そのいずれでもない国を聞いたことがありません。どうしてなんでしょう。 詳細記事

いくつもの文明を経てきた地球

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その59)

本章に述べられているさまざまの滅亡文明は、数万年以上も昔の、しかも証拠に乏しい伝承も参照にされていて、歴史的事実としての確証という意味では、一種の靄につつまれている。それほどに古い話であるのだが、人類の起源についての「欠いた環」にかかわるストーリーでもある。加えて、それだけの長さの地球の歴史となれば、長周期で起こる壊滅的な天変地異も関係し、平穏な時代の常識を越える事態も現実のものであったろう。だがそういう太古でも、今日の文明の技術を越える技術が使われていたと考えるしかない謎も残されているという。エジプトのピラミッドでさえ、その建造技術の全貌が解明されているわけではない。 詳細記事

エコロジーとしての宇宙

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その58)

今回の「失われた大陸」と題された章のまず冒頭で、私たち人類、あるいはこの地球の歴史そのものに関する、おそらく、もっとも大規模かつ、それこそ「神をも恐れぬ」、大胆不敵な仮説が展開されています。それは、地球上の生物の歴史は、何者かによる実験、すなわち、意図的遺伝子操作による非自然的進化の結果であるというものです。つまりそれはあたかも、聖書にある「創世記」というこの世の創生の物語を、「神」によるものではなく、どこかの高等知性による生命の進化実験のレポートであると言い替えるに等しいものです。 詳細記事

真実ほど秘密にされる

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その57)

イルミナチとかフリーメーソンと聞くと、それは、作り話ではないにせよ、一体、どこまでが本当で、どこまでがあやしい話なのか、常識に従うなら、「触らぬ神に祟りなし」とでもしておくのが無難なテーマです。

一方、西洋世界において、それはまさにリアルの話として、金融機関がどのように始まり、どういう経路をへて今日のレベルまでに発展してきたのか、それはまさか「触らぬ神に祟りなし」扱いにできる話ではなく、油断のならないシビアな世界であるだけに、正確につかんでおきたいテーマです。 詳細記事

「神」を《宇宙生命態》と呼び代える

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その56)

私的な話題で恐縮ですが、70を越える齢になって、かつて奔走させられた稼ぎとか職業とかと、生存のためのそれこそ無数の物的詳細は、色があせるようにさほど重要には見えなくなり、しだいに関心は、そうした詳細の霧によって見えなくされていた、世界の根本の仕組みといってよいようなものに移ってきています。それを歴史という角度で言えば、千年ほどのスパンでも生き続けているものであり、想念という角度で言えば、広く「神」と呼ばれる最も普遍的な意志めいたものの存在です。 詳細記事

嘘つきな「歴史」

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その55)

本章の冒頭で述べられている歴史全体への疑念は、私見ながら、私が自分の人生でも体得してきた強く指摘したい見解のひとつです。もちろん、「史実は支配者にとってのもの」とは、頻繁に耳にしてきた言い回しですが、それを誰かによるそういう説として受け止めるということと、身をもって学んだということとの間には、千里の開きがあります。平たく言えば、教科書を信用してはいけない。それは、支配者に都合のよい記述です。そしてそもそも、教育自体が国民総体を包摂し尽くすためのものです(たとえば日本で、このサイトが検閲され強制消去されるということはありませんが、それも、そういう方法では、その徹底を図ろうとしていないだけです)。 詳細記事

「AI」後の世界を予見

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その54)

私はこのオーストラリアに住んで、もう30年以上にもなります。そうした経緯から、不可避的に、この大陸の先住民、アボロジニのことを知り、しだいに関心を深めることとなりました。

この国に到着後まだ間もないころは、彼らとの隔たりはあまりにも大きすぎ――当時は何より、白人のオージーとコミニケートするだけでも大変で――、正直言って、違和感の方が大きく、理解などとはほど遠いものでした。

そうした私の態度を大きく変えるきっかけを与えてくれたのが、日本人若手研究家、保苅実の著書『ラディカル・オーラル・ヒストリー:オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』でした。その詳細コメントは別掲記事に任せるとして、その著書より、アボリジニの人たちの拠って立つところが、実に、今日の私たちの輪郭を遙かに超えるものであることに目覚めさせられたのでした。 詳細記事