今回の居酒屋談では、70前後とおぼしき二人のご年配が、もはや飲みっぷりもセーブ気味で、互いにしみじみとやっています。どちらも定年退職を体験中で、けっこう深刻に、身の振り方が問われているようです。
A 俺、再就職先、決めたよ。
B おお、それはよかった。ところで、それ、どこ?
A 自分んち。俺の家。
B えぇ、自分の家なら、就職じゃなく、無職だろ? 話がよくつかめん。
A そうだろう。だが、考え方しだいなんだよ。要は、頭の切り替えの問題。
B 頭の切り替え? でも、どう切り替えたんだ。
A どうも就職って、どこかに勤め先を見つけ、そこに雇ってもらうとの発想から抜けれない。そんな常識を切り替えて、その勤め先を、自分の家庭にしたという話。
B じゃあ、だれが給料を払ってくれるんだ。
A 誰って言えばいいか、あえて言えば、天から降ってくる。
B おいおい、冗談はよせよ。天任せでいれるなら、なにも再就職する必要なんかないだろう。
A 言い換えればね、「主夫」って職業。
B そんなの、これまで、奥さんがやってきたことじゃないの?
A そう。そういう意味じゃ、妻との役目の交代。
B おう、それは大した決心だ。
A それでね、家庭ってね、やってみれば、仕事の宝庫。することは山ほどある。それに、彼女は、これまで家に閉じ込められていたから、外に出たくてうずうずしていた。そして、どっかのパートでも、ちょっとでも収入がえられれば大いにハッピーみたい。
B しかしだよ、奥さんが働きに出るってのは判らんでもないが、君が家庭に就職し、自分で給料を払うっていうのは、どういうことだ。
A その秘密はね、マイナスのマイナスはプラスってこと。出費を減らせば、その分、収入があったと同じで、チリが積もれば山となる。それに、これは人によるが、家庭内には、やって面白いことが色々あるってこと。それを、趣味程度にたしなむってのではなく、実益になるように、仕事として、しっかり取り組む。
B たとえば何かあるんだ。
A そうだな、俺の仕事は、おもに、四つ。
B ふんふん。
A 一つは、料理。食いしん坊な俺は、前々から、自分で料理を作ってみることには関心があった。そこで、ちょっと勉強と時間は要するんだが、いまでは、毎日の料理ぐらいはこなせるようになった。それに、ここが重要なんだが、自分で料理することで、余計な持ち帰り食や外食に出費しなくなるし、材料費だって、計画的に買い物をすれば、出来合い食に頼ることに比べれば結構な倹約になる。おまけに、自分らの健康に気を使った誂えのヘルシー食も追求できる。そういう一家の食の責任者に就くって仕事。
B なるほど、それはありうる。では第二は?
A 料理以外の家事一般だが、洗濯とか掃除ってのは、その主部はもう電化製品がやってくれる。むしろその合間にあるいろいろな雑事。それに、道具は別として、電化されてないのが家庭内作業。とくに俺の得意分野はいわゆる日曜大工仕事。これって、一軒、家を持っていれば、あれこれの修繕や改造する雑仕事が絶え間なくある。それをいちいち本職に頼んでいたら、今時、ビックリする請求書を受け取ることとなる。それに、一見、素人には難しそうなことも、この節、ネットを検索すれば、そのやり方の手ほどきはいくらでも見つかる。こうした代行効果もバカにならない。まあ、大げさに言えば、家全体のメンテ仕事全般。
B そうか、なら、第三は?
A それはいわゆる「運動」という仕事。これもある意味、料理に似ていて、人頼みにしないで、自分でその責任を果たすってこと。つまり、医者やクスリ頼りにせず、健康維持や病気予防を自分で学び、自分で気を配り実行するということ。それで、医療費という、ことと次第ではぼう大な出費を、大きく節減できる。それに、正直言って現今の医者に命あずけれる? おまけに、運動のメンタルな効果。いまやこれは、運動することのメリットとして広く認識され始めている。つまり、気分は晴れるし、意欲は増すし、人あたりもマイルドになる。単に運動不足対策なんて次元じゃない。毎日を気分爽快に過ごせるなんて、これほどに素晴らしいことはないよ。それに、運動って、時間の空いた時にいつでも入れれるし、しかも、自分でやりくりできる家事のスケジュールに、柔軟に組み込んでいける。
B じゃあ、最後の第四の仕事はなんだ。
A これこそ、家庭に就職する、隠れた、しかも最も重要な仕事だ。それは、自分が本当にやりたい、究極の生きがいというか、願望。俺の場合、読書を一方とした物書きの仕事。ヘボなやつだがね。これも、家事とは結構相性が良く、臨機応変に時間をやりくりし、それに没頭できる。やりようによっては、昼と夜をひっくり返して、夜中に働くのも、めちゃくちゃ集中できる。
またね、この創作意欲と運動による意欲増進ってのが不離一体でね、しかも、創作に疲れた頭をいやすのは、運動以上に効果的なものもない。
B なかなか、水準の高い話となってきた。
A いや、それほどでもないが、まあ、いずれも広い意味で道楽を越えるものではないが、それでいいんだよ。いまさら、見えも体裁も、まして野望なんかもないだろう。そうすれば、そうしたどれもがもうほとんど楽しみとなって、しかも最近では、こうした四つのどれもが結び合って、一体となってきている。それに何たって、どれも金がかからない。まあ、PCやら運動靴くらいは必要だが、あとの、住居費、電気、水道代、通信費などは、どのみち固定経費だ。
B でも、それらに楽しみを見出せるようになるってのは、そうはたやすい話ではないだろう。ちがうか?
A いや、俺も最初は、こうもうまく回るとは思っていなかったのだが、意外な発見がある。とくに、こうして役割を交換して、新たに出来上がってきた夫婦関係ってのが、実にスムーズだってこと。ことに妻にとっては、外で働いて何がしでも自分の金が稼げること、しかも、気兼ねなしに家事の心配は忘れれるというのは、ごっつい満足らしい。
B そうだよね。女って、ことに専業主婦をやってきた場合、そうやって外に出られるのは、出獄した感じかもね。
A ともあれ、この家庭への就職のお陰で、夫婦関係がやけに円満になってきた。昔のどことなくぎくしゃくしていた時が、なにやら懐かしい気分さえある。そういう、けっこうむつましい関係の芽生えかな、いまさらながら。
B おやおや、こいつは奇特だ。
A ともあれ、マイナスのマイナスによる増収効果ってのは、ただの金銭上の効果にとどまらず、精神的な満足度も大きく増した上でのそれってことだ。言ってみれば、現役時代の雇われ人根性からの決別って感じ。
B おう、これは物凄いことになってきた。