前号でもお知らせしましたように、この『両生歩き』は、9月22日号を持って500号を迎えます。2005年8月の創刊以来、19年間をもって達した大きな節目です。つきましてこれを記念し、読者のみなさまからのご投稿やご感想を募集しています。 詳細記事
今回の居酒屋談は、ほとんど僕のひとりごとなのだが、これは、タイミングの遅れた、第五話「秋の日本へ」や第六話「きれい好き日本」の続編でもある。
実は先日、なんとも鬱っぽい気分にとらわれ、その午後、悶々としているよりも行動と急に思い立ち、クリスマスの買い物客でにぎわう市内へ出かけた。そして、紀伊国屋書店シドニー支店で、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』(マガジンハウス)を購入した。というのは、この10月の日本滞在の際、出発前から予定に入れていた、宮崎駿監督の同名アニメ映画を鑑賞したのだが、その事前の期待が、あえなく空を切らされてしまっていたからだ。 詳細記事
人にある男女の調和
話の居酒屋
第九話
いつもの居酒屋、今夜は静かで、お客は二人のみ。だからむしろ邪魔が入らず、落ち着いて踏み込んだ話ができている様子だ。
客の一人は常連のAさんだが、今日は、年のころは四十路に見える専門職風の女性がそのお相手である。娘さんに見えなくもないが、二人のやり取りからは、そんな親子の近しさは感じられない。むろんAさんは「子なし」なので、父娘のはずもない。
その女性は、昔なら「男まさり」とも見られそうな「おひとりさま」の実践者のようで、その風貌からは、独身でやはり子なしらしく、家庭臭さなぞまったく伺えない。むしろ、しっかり自立した医療プロフェッショナルのようである。 詳細記事
「坑夫」の「工夫」
困難を突破するもの
人生喜寿にも達すると、かつて、共に土木工学を学んだ同窓の徒たちも、もうそのほとんどが現役を退いている。
その中のひとり、トンネル一筋にその専門を貫いたN氏から、トンネル技術者としての生涯を綴った、専門誌『トンネルと地下』掲載記事の別刷り(文末に添付)をいただいた。 詳細記事
ホーリスティック・エクササイズだったベトナム旅行
どんな旅でもない旅(その3)
はじめてのベトナム
今度の6月11日から23日までのベトナム旅行の感想として、〈体にとって健康、脳にとって知性とは何〉と言うと、なにやら落語の大喜利のやり取りのようです。つまり、先にこの旅行の特徴を「偶然ゲーム」と表現したのですが、そうした興味を違った風に言ってみると、こうした大喜利まがいの「なぞかけゲーム」の味わいとなります。
大喜利は、「何々とかけて」という問いがあって、「何々と解く」との返答あり、そして「その心は」と落ちがきます。そういう三ステップの「話のゲーム」です。
ではあらためて、大喜利風に言いますと、
「ベトナム旅行とかけて」
「体にとっての健康、脳にとって知性、と解く」
さて、「その心は」、、、、、
「ノスタルジー」から「再誕生」へ
どんな旅でもない旅(その4=最終回)
はじめてのベトナム
どうもこのベトナム旅行レポートは、自分の昔と重ね合わせた、ノスタルジックな感慨が毎回の主題となっている感があります。ただそれもそのはずで、来月に喜寿を迎える者による旅とその報告ですから、それも当たり前な話と言えます。
そこでなのですが、こうした年寄りのノスタルジック傾向に対して、若い世代の夢追い志向というのも、対称的な「当たり前」な傾向と言えるでしょう。それを図示すれば、こうなります。
自分たちの〈LGBTQ+問題〉
どんな旅でもない旅(その1)
はじめてのベトナム
いま、ベトナム中部のフエのホテルでこれをつづっています。
フエと言えば、ベトナム戦争中、僧侶が抗議の焼身自殺をした町として思い出されます。
三日前、シドニーよりクアラルンプール経由のLCCでハノイに入り、二泊して、昨夜、8時間を要した夜行バスで、今朝、この町に着きました。
そのベトナム首都での二日間、行き先といえば、石灰岩地形の川を手漕ぎボートで行く観光【下写真】をしたくらいで、あとは、文字通りの行き当たりばったりの〈偶然のゲーム〉を楽しんでいます。便利なサービスに頼らぬ虚心坦懐と言えば聞こえはよいですが、ある面、ずぼらでもあり、また、年に似合わぬ無鉄砲なスタイルでもあります。
国際化ってローカル化のこと
どんな旅でもない旅(その2)
はじめてのベトナム
こんな「どんな旅でもない旅」をしていて、ふと気付かされたことがあります。
それは、昔、若かった頃、ふと思い立って行当たりばったりの汽車に乗り、たまたまに降り立った駅で案内された、たまたまの民宿のお世話になった、そんな時代やスタイルに近いものがあることです。
「人生談」と「学的分野」の間で
一匹の「ノックアウトマウス」を生きる
「日本エソテリック論」その7(追補)
前号までに、二編の連載記事「日本エソテリック論」と「人生はメタ旅に向かう」を完結し、別々に頂上をめざしてきた二つの登山のはずなのに、実際に登頂してみれば、実は一つの山であったとの感慨を述べました。本稿が述べるのは、その〈二登山同時達成〉によって得られた、その頂上からの思いがけないほどの眺望です。そしてそれは、「人生談」と「学的分野」の間において見出せる、ひとつの《実験のもたらした視界》です。つまりその同時登頂とは、人生というリアルと、実験というメタの、人間だからこそ可能な自己自身を対象とした〈実験〉を通した、その二つの〈運動=旅〉の融合であったのです。