「ワームホール」体験

越界-両生学・あらまし編(その6)

現在、私はどうやら、「ワームホール」に陥ってしまっているようです。しかも、最初は、架空上の体験にすぎないと高をくくっていましたが、どうもそれは、もっとリアルなもののようです。「ワームホール」とは、なんのなんの、なかなか見かけによらぬもののようです。前回のたとえ話で言えば、近道に気付いたドッグレースの一匹のドッグの心境です。そしてこれをもう少し実情に即して言えば、三次元の世界からもっと高次元の世界へと、「越界」をこころみる未体験の通路を、勇気をふりしぼって通りぬける、その不気味さと緊迫感です。

ところで、その「ワームホール」とは、この三次元世界からより高次元世界への移動を導く“通路”のことで、その数学的形状を二次元の図面に描いたものが、以下のイラストです。

          

 

この図は、ウィキペディアの「ワームホール」の項から借用したものですが、私というドッグ、あるいは「ワーム(虫)」は、このじょうご状の上の口から吸いこまれ、あるいはかじり始めて、いま、図では赤色で表されている、そののど状の部分にいるようです。やがて下部の口から吐き出されるのでしょうが、それまで、この過渡的状態――まさに渦の真っただ中――にある間、このいかにもこわごわな精神状態が続きそうです。

と言うのは、この「ワームホール」を通過すると、その通過者は、図が示すように、「裏返された」あるいは「inside-out」された形として吐き出されてくるようだからです。

ただ私は、この「裏返し」にされるという体験は、三次元的表現ではそう表すしかなものの、ひょっとすると、私の三次元的常識をくつがえす、おそらく、“とんでもない”発想をもたらすものになるのではないかと期待しています。

一方、宇宙には「ブラックホール」があって、それはこうした「ワームホール」を形成しているといいます。むろん宇宙は、3次元どころか、もっと多次元な世界であって、その「ワームホール」の“形状”は、こんな2次元上のイラストで表現しきれるものではないでしょう。ましてその実体験がされたとしたら、それは、こんな一匹の“ドッグ”の空想なぞ、絶するものでありましょう。

ちなみに、タイムトラベルとは、そういう宇宙の多次元な「ホール」を利用した時空次元の上での「近道」を通ってなされることであるようです。

 

ところで、上の「ワームホール」図で、二つのじょうごを互いに上下に逆向けに接合した形状において、そのラッパ状に開いた二つの外縁部をたわめて上下端をくっつけてみると、それは、以下のような形状となります。

 

       「ウィキベディア」より

 

これが、「トーラス」と呼ばれる形状で、このイラストでは「のど」の部分が広すぎて、ドーナツか浮き袋のようです。

ともあれ、そうした形状の意味することについては、この先の部分で詳しく触れてゆきます。

 

ところで、昨年私は、前立腺ガンを告知され、それを機会に「命の問題」すなわち「自分の身体の消滅」を想定すべき事態に遭遇しました。

この自分の「死」の想定体験を経ることで、自分はそれにより、この地球上の3次元の世界から、どこか異次元の世界へ移動するのではないか、という「越界」の着想をえました。そして、死とはひとつの「ワームホール」の通過ではないか、との直観に達したわけでした。

そう言えば、ブラックホールとは、ひとつの星が死んでゆく時に生じるもののようです。

また、私は子供のころ、よく一人で近所を歩き回っていましたが、その小さな冒険の回を重ねる度に、それまでに行ったことのない、もっと遠くまで、こわごわに足を延ばしたものでした。その、おそるおそるの感覚は、今のこの緊張の感覚と、どこか相似的です。

たとえばその当時、家から結構離れたところに川が流れていて、そこに木の欄干の橋がかかっていました。そしてその橋の向こうには田んぼが広がっていて、住宅の並ぶこちら側とはがらっと様子が異なっていました。そこで子供心に、その橋を渡ってしまうと違う世界に入ってしまい、もう戻ってこれなくなるかも知れないと、そんな怖さを味わっていたものでした。

つまり、その橋とは、当時の私にとって、世界の境界をつなぐ、ひとつの「ワームホール」的なものであったようです。

そう考えてみますと、その後の人生で、学校に上がるとか、転校するとか、親元を出て自活生活を始めるとかと、それぞれの新体験のたびに、こうした疑似「ワームホール」を、それなりに緊張しながら通過してきたように思えます。

ただし、「黄泉の世界」へとかかった橋の通過は、それは確かに、これまでの三次元の世界内での発展的な越境経験とは異なり、その単なる延長上にあるものではなさそうです。だからこそ、「ワームホール」だの「ブラックホール」だのと、宇宙物理学の諸仮説を手掛かりとしながら、その「越界」体験をシュミレーションしてきているわけです。

 

そのように、人はその社会生活の折々で、そうした疑似「ワームホール」をそのように通過しつつ、成長してきたと言えるわけです。つまり、その通過による「近道」効果が、そうした「成長」をもたらしてきたわけです。いわば、「ブレークスルー」です。

すなわち、いま私は、そういう「ブレークスルー」として、地球的な「近道」から宇宙的な「近道」へとの、越界的移動にさしかかっているようです。そしてその通過をそう逆算的に準備させられたその遭遇を通じ、上記のように、異次元間の移動を模擬体験しているわけです。

 

ここで、一見、脇道にそれる感はあるのですが、こうした「ワームホール」に飛び込んでゆく心境についての“私論”にふれます。すなわち、その心境とは、考えよう次第では、セックスを連想させるところがあります。

というのは、以前どこかで、女性の深層心理として、自分が「管」とか「容器」である感覚がある、というのを読んだことがあります。つまり、自分がいつも、何かを体内に受け入れて、それを通過や収容させている、といったような感覚らしいのです。

逆に、男にとって、女性と交わるとは、そのとどのつまり、そうした「管」や「容器」に自分で入り込んでいって、そのいかにもの「異境体験」な効果にすべてを任せる、あるいは、もう任せるしかない、とでもいった感じがあります。そしてそこには、文字通り、肉体的交換の一方、もっと精神的かつ形而上的な、「取込まれた」といった感覚があります。そしてその結果の安堵感にひたったり、あるいは、もう動けないといった覚悟感であったりもします。

つまり、片や、女が「管」や「容器」であるなら、他方、男はその「通過物」や「内容物」であるという対比です。

そういう男女の“役どころ”の違いが、今回取り上げてきている「ワームホール」の通過に、どこか連なるものがある、といった着想です。つまり、男女という対比は、むろん人間や生物存在に不可欠な「雌雄」の二元要素ですが、それを「ワームホール」体験として照らし出せば、他の諸事象にも適用できる、一つの基本類型に収まるものがありそうだ、との見方です。

そして想像をさらに発展させれば、「死」とは、生殖を予期するセックスとそのように通底しているそうした「ワームホール」通過を、どうやら今度は、逆に通過した結果を示唆しているようにも空想させられます。つまり、以前の「タナトス・セックス」の稿で述べた「エロスからタナトスへの移動」とは、やがてやってくる「越界」へとの準備を彩り祝う、「逆・生殖行為」であるのだとの発見です。

 

そこでなのですが、私は、この稿を書く一方で、ある興味深い本を読み進めてきています。そして、その読み進みが、その本中で、「総合統一場理論」と題した新しい章に入った時でした。その冒頭部分を読んで、私は思わず、「これだ」と声をあげ、そして、体が震えるような興奮を覚えました。それはまさに、私が最大の疑問としてきた、私たちの意識の発生メカニズムの謎が解けた――少なくとも、今日の最新の仮説と遭遇した――瞬間でした。

そこで以下に、その私を興奮させた本、Future Esoteric の、その章の冒頭部分を引用しておきます。

 

すべての物体は、その中心で、ブラック・ホールあるいは無限の密度をもち、無限のエネルギー場〔energy field〕をなすフィードバック・ループ〔feedback loop〕を創り出している、二重性をもつトーラスの形に回転する創生体である。そのフィードバック・ループが、自分自身で巨大な質量や情報をもつ時、それは意識エネルギー場〔conscious energy field〕を成す。ランディー・ポーウェルは、このフィードバック・ループを意識の発生源〔definition of consciousness〕と呼ぶ。彼は、科学者がそれらの数字がなしていることに従う時、彼らは双質性〔doubling〕を理解する、と解説する。すべての科学は、この双質性をもって結びつく。私たちの細胞は多重で双質〔double〕で、コンピューターの二進法も双質、音階も双質性をなし、核反応も面積も根〔ルート〕も双質性を示す。双質性は、創造の原動力である。それは、私たちの体内の原子を回転させ、地球も、太陽系の運動も、銀河系全体も、そして宇宙そのものも、その軸のまわりにある。

 

すでに本サイトの長年の読者はお気付きのように、私の一連の「両生学」には、そのいたるところにおいて、二重性とか、二面性とか、動と静とか、二者択一か両者選びかとか、生きる真の姿と仮の姿とかと、上記の「双質性」に重なり合う考えが頻繁に取り上げられています。

若い頃は、そうした自分の“どっちつかず”な物の考え方に不満で、一重のある種の“すっきりした”姿にあこがれ、そうした二重たるものを嫌悪した時期がありました。しかし、そうしてそれを否定しようにも、それが繰り返し登場してきて、やがてそれを、むしろ事の本質ではないかと考えるように至ったわけです。

そういう長年の自己体験からして、私はこの「双質性」との見方には、賛同どころか、究極の同志に出会ったような、大いなる喜びと、それがゆえの興奮を押さえ切れないでいるのです。

しかも、そうした自分の着眼点は、その章のタイトル、「総合統一場理論」のごとく――つまり、アインシュタイン以来、世界の物理学者がそれこそ血眼となって追求してきた、「統一理論」と呼ばれる説の一環に、そう名乗りをあげるという――、壮大なチャレンジをなす見方と、一連の類同性を示していることです。

そこでですが、すでに「両生学講座」において指摘したように、私の「双質性」の視点には、東洋と西洋という「双質性」も含まれています。

また、上に引用した章の原書の著者も、そうした見解へのプロセスにおいて、東洋の哲学や宗教の研究にひとつの重きをおいています。

同書におけるそうした背景を視野に入れて、私はその原タイトルである Future Esoteric の Esoteric を――辞書上は、密教とか奥義探究とかとの意――、『東西融合〈涅槃〉思想』と訳してみました(ちょっと長ったらしいですが)。

また、上の引用箇所は、もちろん、その「総合統一場理論」とのタイトルの章のさわり部分にすぎません。したがって、その全容を紹介しないでは、この私の興奮の根拠は伝わり切れないと思われます。

そこで、別掲として、この章の全体を掲載してゆきます(今回はまだその前半となります)。また同書は、私が調べた限り、まだ邦訳されておらず、 この別掲は、私自身の翻訳によるものです。

 

 

Bookmark the permalink.