前号までに、二編の連載記事「日本エソテリック論」と「人生はメタ旅に向かう」を完結し、別々に頂上をめざしてきた二つの登山のはずなのに、実際に登頂してみれば、実は一つの山であったとの感慨を述べました。本稿が述べるのは、その〈二登山同時達成〉によって得られた、その頂上からの思いがけないほどの眺望です。そしてそれは、「人生談」と「学的分野」の間において見出せる、ひとつの《実験のもたらした視界》です。つまりその同時登頂とは、人生というリアルと、実験というメタの、人間だからこそ可能な自己自身を対象とした〈実験〉を通した、その二つの〈運動=旅〉の融合であったのです。
人は誰しも、自分の人生を生きています。そこで、その人生をその内側から語れば、それは「人生談」です。しかし、それをその外側から、あたかも生物学者が生き物を扱うように観察もできます。いずれにせよ、人間という生き物のその生命が、そこに対象とされています。
生物学の分野では、その研究のために、おびただしい数のマウス――日本では俗に「モルモット」と呼ばれることが多い――がその実験に使われているといいます。それも、ただの使用に終わらず、殺されてもいます。
人間の世界でも、おびただしい人々によって、その人生がいとなまれています。そしてむろん、そこでの人の生き死にというのは、日常の出来事です。
ここに、その命の真実に迫ろうとすると、人間だろうが生物だろうが、生きた生体を用いた「生体実験」という観点が生じます。さもないと、生命の真相に迫れないからです。
ところが人間相手の場合、その「生体実験」が倫理として許されないことから、こうしてマウスがその身代わりにされているというわけです。つまり人間は生物の一種でありながらこの「実験」という実証を回避し、それでいながら、この全生物界の頂点に立つ特権を欲しいままにしています。
そこでいくらかでも謙虚で公平な視点に立てば、人間ですら、自らを対象にして、その命の真相に迫る実験に関心があるはずですし、それを追究する道もあるはずです。
本稿は、そういう回避を回避して、その「生体実験」を自己の責任において試みた、その実験報告の、まずは“始”論となるものです。
そうしたマウスを使用した生体実験で、「ノックアウトマウス」と言われている実験手法があります。それは、遺伝子の操作実験の場合など、マウスを用い、その特定の遺伝子を除去してその現れを観察するものです。ノックアウトマウスとは、そのようにして人工的に作られ繁殖させた特定遺伝子の欠落マウスのことです。
そうしたマウス――どうやってそうしたマウスを作るのかの相関するテクニックは触れませんが――を必要とする理由は、生体をそのように一種の機械的構成物と考え、その働きを探るために一部のパーツを取り去ってみてどのような違いが現れるかを観察する、という方法です。私もよく、生物にではないですが、コンピュータのプログラムの指令文字を取り除いたり変えたりしてみて、その効果を試したりています。
上記のように、むろん人間が他の人間に対しそうした生体実験をするのは禁じ手〔注記〕ですが、それが自分で自分に行われる場合、一般に問題とはされず、実験とも意識されないのが普通です。むしろ逆に、鍛錬とか自己開発とかと、むしろ積極的にさえ行われていると言ってもよいでしょう。(「リスキニング」などと、ビジネス観点で強制されないよう要注意。)
〔注記〕それが大規模に行われたのが、第二次大戦下のアウシュビッツ収容所(あるいは日本軍の満州731部隊)でした。戦後、その犯罪行為を裁いたニュールンベルグ裁判の(「優生学と世界支配」参照)裁定から、「インフォームド・コンセント」(説明と同意)という患者の権利が原則化されました。
ところで私は先に、以前にとった自分の選択とその一連の結果が、この自分による自分への「生体実験」であったと気づきました。つまりそれは、個人によるその人生上のエピソードに終わらず、その意識はなかったにせよ、生物学を含む、ひとつの学的な手順に則ったものであったのではないか、との見方です。そして、それが学的手順とみなせるというのは、その核心的な部分が、「時間」という装置と「観察」の記録を通して、自らを「モルモット」同様にした、「生体実験」や「ノックアウトマウス」であったと見てもよいような、一連の「実験」とみなせる試みとして繋がり合ってきているがゆえです。
むろん、取り組んでいるその当初にそんな意識は全くなく、ただ、必死に眼前の問題と格闘しているだけのものでした。しかし、後年になって、「時間」と「観測」をへて、そうした選択がもたらした変化を俯瞰図のように見返してみる時、それが、個的選択とその結果という一断面上の因果関係に終わらず、ひとりの人間が成してきたひとつの生命行為であったとの視界がえられることです。
以下の図は、先に兄弟サイト『フィラース』に掲載の「理論人間生命学」の「1.2 「架橋」を通じた多次元の包摂」で用いられたもので、こうした新視界に達するまでの、いわば「登山」の途上でイメージされた人生プロセスです。上記の断面的な発展関係と時間を通した変化を視覚化したものとして、ここに再び挙げておきます。
そしていまここに、そうした新視界を学的なものであったと見直そうとしているのですが、その学とはもちろん、既存のどの分野にも適合するものは見当たらないものです。
そこで、そうした「人生談」と「何らかの学」の双方にまたがった、中間的あるいは両属的な新分野の存在をここに確認し、今後の考察への準備とするものです。
さてそこでですが、すでに先日(6月2日)、兄弟サイト「フィラース」において、そういう新テーマ「生命情報」の議論の場を設置しました。よって今後の考察の展開は、そこをベースにして進めてゆく計画です。