村上春樹をめぐるマイクロとマクロ

両生学講座 =第三世紀= 第6回

前回までの3回の村上春樹の世界への「移動」で、私は、三歳差という微妙な世代ギャップを通じて、彼の世代と私の世代を分ける原因に、《マイクロ・コスモス》と《マクロ・コスモス》という環境設定上の違いがあることを指摘しました。

季節の変化が通り過ぎるように、《コスモス》上の違いが、私と彼をめぐる二つの世代あたりを変わり目に通過し、そうしてどうやら、私たちをめぐる気候上のバロメーターが、《マクロ=巨視》から《マイクロ=微視》へと変化したらしいというものです。

 

私は、昭和21年(1946年)8月生まれという、絵にかいたように完璧な戦後最初の世代です。

つまり、私が誕生したのは、終戦翌年の8月20日です。と言うことは、私は、父が戦争から生きて帰還し、それを迎えた母に宿されて、終戦一周年の5日後に誕生したという、まるで、戦後世代の象徴のような巡り合せの命の誕生であったことです。

この命は、戦後が今始まったばかりという環境の中で宿されたという意味で、戦争という世界を相手にした“大企画”と、その壮絶な失敗がもたらした焼き尽くされた廃墟という、極大から極小への落差の中からの出直しが行われようとしていた環境の中に、その原点があったと言えるわけです。

もし、「人は環境による産物である」と定義付けられるとするならば、母親の胎内のそういう命に、そういう環境からの何らかの影響――母体の置かれた社会環境だの栄養状態だの親の心理だの――があったのは避けられなかったことでしょう。そして臨月となってその命は、なんとか動き始めた戦後社会に産み落とされ、100パーセント純粋に、その「戦後」の中で育つこととなりました。

それが私でした。

 

誰もがそうでしょうが、自分とは、何から何まで初体験に、自分というものを、しかもそれのみを頼りに生きており、自分が自分と意識するものが、どれほど他と違うのか、あるいは同じなのか、まったく何も分からないままに、すべてを体験します。

そして、他との違いが分ってくるのは、その後の後天的環境の中であり、さまざまな体験を通じて、試行錯誤しながらのことです。おそろしいほどに、不安定な存在です。

つまり、誕生以前では発生学的に、誕生後は発達学的に、二重に周囲の環境の作用を受けて今に至っているわけです。

自分という意識は自分にとって、確かな手ごたえとして、時に猛烈なそれとしてありながら、それがこのようにまったく空白のままに出発してきているというのも不思議なことです。

というよりも、胎児時代にすでに、いわゆる自己という意識ではないながら、その原初の種のようなものはあったはずです。

さらには、発生学的課程の文字通りの端緒で、その命がまだ卵子と精子状態であった中で、遺伝子やらDNAといった分子時代のその命に、両親からの様々な特性をも 引き継いでいたはずです。

そしてさらには、その両親の命にかかわる私と同様な課程、そしてそのまた両親の命のそれといった具合に過去へとさかのぼってゆけば、一瞬たりとて途切れることのなかった、命の連鎖の途方もない長さの世界へとつながってゆくはずです。

そうであるなら、仏教の輪廻思想のように、前世において、私の命が他の何かの命であったとの発想や、さらには、星や宇宙の誕生ともつらなっているとの考えも、さほど突飛なものではなさそうです。

ただ、今回のこの議論では、そこまでの発展には触れません。ここでは話を、もっと限定した範囲にとどめます。

 

そこでですが、そういう命の連鎖の最末端として産み落とされた命としての私が、たとえば幼児時代や小児時代に、まだそれを意識というには未熟であったにせよ、何らかな感知能力――周囲の環境とのインターフェースとして――を備えていたことはありえることです。

ことに、さまざまなものに、「快」とか「不快」とかといった、生物としての基本情報を感知していただろうことは間違いないでしょう。そして、前者には積極的に接近し、後者にはその逆の行動をとってゆくのも、自然な反応であったでしょう。

私は、この「快」と「不快」を、発達過程上の反応と見る以上に、それ以後、成長して確かな意識が備わった後も、「快」か「不快」かという感知の単位行動は、あらゆる物事の判断の基準として、その後の意識の中に、引き続いて働いていたものと考えます。

そうした「不快」について、たとえば極寒とか極暑とかといった過酷な環境には、生理的な回避行動がとられます。そしてさらに、非生理的な「不快」、ことにそれが社会的な規範に関わるものとなれば、それは、避けるべきものというより、試練としての意味をもつものとなります。そしてそれは克服の対象として取り組まれるものとなります。あるいは、ことに現代的には、ストレスとしても作用します。

読者もお気付きのように、このあたりに、個の問題が社会の問題へと変化する、つまり、マイクロとミクロが交錯する、そうした境界が発生してきているのが確認されます。

しかし、そうした試練の範疇に含められてきたものの中で、当初はその克服に努められながら、やがてそれがどうにも自分の預かり知れぬもので、克服しようにも、扱いきれないものとして認識されてくるものがあります。それが、先にも取り上げた、「日本人であることの不快感」でした。

「日本人」であることは、あらゆる知識を動員してもそれは自明であるのに、それがどうしてそのように「不快感」を伴うのか、それがどうにも解せないものでありました。

私にとっては、この疑問が、ある意味では、その後の人生をしだいに満たしてゆきました。そしてやがて、その謎の発生場所が、日本の戦前戦中期にあり、それにまつわり――ことに天皇にかかわって――、それはどうも、教育上あるいは社会通念上の《空白期間》や《タブー》と関係がありそうだとの発見にたどりつきました。

そうしたことから、その謎解きへの取組みとその解を導く作業は、この十年間ほどで構築されてきた、本サイトの主構造を成しています。

つまり、私の人生に与えられた使命というものがもし存在するとするならば、この謎解きこそがどうやらそれらしく、終戦一周年の5日後に誕生したというそのタイミングが持つ、含まれた意味であったと思われます。

つまり、私は、私の命の仕組みがもつ一種の感知能力を通じ、そうした使命をその謎として感知し、その解明と取り組んでくることとなったわけでした。

このような環境との相互作用を足場として、8年間を要したデービッド・バーガミニの『天皇の陰謀』の「訳読」を一手段としながら、その謎への私なりの照明を当て続け、ようやくにして達したのが、「ダブル・フィクション」としての天皇であり、日本の現代史が持つ、そういう謎構造の認識でありました。

私は、以上のような、私と周囲の環境との相互作用を《マクロ》な関係と見ます。

 

さて、ここで、冒頭に挙げた村上春樹にまつわる《マイクロ》と《マクロ》に立ち返ると、私と彼との間を分けているものは、前回までに判明したように、《マイクロ・コスモスの差異》、すなわち、私のその《希薄》であり、彼のその《濃厚》です。

そして、上記のような、あたかも私に与えられたかの「使命」に立って言えば、私と彼との間を分けているものに、《マクロ・コスモスの差異》があると考えられます。

ただ、彼に公平に言えば、確かに、彼の作品の内においても、たとえば、かっての戦争にまつわるエピソードは取り上げられています。それは確かです。しかし、私の目には、それは副次的であり、かつ、多角的な彼の作品構成の内の、羅列の一角をなすものに過ぎないようです。いわゆる、知識一般です。

つまり、私と彼とのわずか三年の年齢差にも拘わらず、この両世代の間には、生きる基軸をなす世界観が、《マクロ》から《マイクロ》へと変化した、おおきな時代上の変遷があったかと思われます。

ことに、それをやや唐突な切り口で採り上げれば、いわゆる「全共闘世代」とは、この《マクロ》から《マイクロ》への変化において言えば、明瞭に前者の特徴を表す世代です。

そして、私はその「全共闘世代」と同世代人であり、その多くを共有し、他方、村上春樹は、それとは自ら明瞭な一線を画する世代です。

つまり、「全共闘世代」をはじめとして、私たちの世代は、前回に書いた「戦後民主主義型」な行動様式の顕著な特徴を示していたのではないかと思います。

言い換えれば、「戦後民主主義型」の行動様式が、悲惨な戦争体験というネガが反転したポジであったように、私たちの世代は、反転構造――強い平和志向――という複雑さをもって、戦争という狂気な《マクロ》思想を継承していたといえましょう。

そして、そういう私たちの後、わずか3年間の違いでありながら、その後の社会では、そうした「戦後民主主義型」の行動様式は、まるで幻であったかのように存在を薄くし、あるいは摘み取られました。そしてそればかりか、その「全共闘世代」は高度経済成長の先兵と変貌し、いわゆる「マイホーム主義」を蔓延させた主犯かとも見られ、断罪すらされたのも、どうも、この《マクロ》から《マイクロ》への気候の変化が、日本社会を厚くかつ深くおおっていたからなのでしょう。

 

このようにして日本をおおった時代こそ、少々大ぐくりとなりますが、高度経済成長とその後の低成長時代、そしてバブル経済となって、一時は、アメリカ経済をも凌ぐかの勢いをもった日本型資本主義経済――世界第二の経済大国――の全盛期でありました。

こうした社会的背景を念頭において、上記の「《マクロ》から《マイクロ》への気候の変化」に改めて注目すれば、到来した時代が、無数の商品であふれ、人々は消費者という名で呼ばれ、個性を標ぼうされながらも、大量生産される規格品の購入者としての限りのそれであり、かろうじての自意識も、子供時代からの競争にさらされ孤立した、個人バラバラな社会のうちのそれでありました。

そしてそういう経済謳歌の時代が一巡し、20年をこえる低迷の時代をへて経済大国の名も色あせ、いまや人口規模すら収縮する「普通」の国にならんとしています。

私の世代が経てきたこうした流れを一望すれば、時代とともに変遷する時々の個人の生き方の違いも、そうした背景と無関係でなかったことが浮かび上がってきます。

そういう脈略で言うならば、村上春樹の世界への「移動」とは、こうした時代変化への「移動」でもあったことが判明してきます。

それも、わずか三歳の差だけで、それだけの違いを意味していたとの発見から類推すれば、それが十年、二十年となれば、どれほどのものとなるのか、そら恐ろしくもなってきます。

しかし、村上春樹の作品が《浮遊》と《実直》と特徴付けられたように、そのモチーフが落ち着いてゆく先は、意外に「普通」で、ある意味では伝統的とでも呼べるような世界への帰着でした。

そういう意味では、「《マクロ》から《マイクロ》への気候の変化」はありながら、終局的にその基底において求められていたのは、時代の変遷ぐらいでは揺れ動かない、人間の基本的な希望や欲求の世界でありました。

そしてそういう世界とは、《マクロ》から《マイクロ》との線引きを越えた、その先の次元で、その双方を共有するものであったかのごとくです。

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